あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

家族の肖像~その12~これでも詩かよ第186番

2016-11-26 09:59:11 | Weblog


ある晴れた日に 第417回


「オレの生徒にクズはいねえんだよお!」
耕君、それなあに?
ドラマの「GTO」ですお。

「お父さん、体が悪くなったら病院でしょ?」
「そうだよ。耕君どこか悪いの?」
「悪くないお」
「悪くなったらお父さんにいうんだよ」
「はい、分かりました」

「お母さん、ぼく常磐線好きですお」
「そう、じゃあ今度乗ろうか?」
「嫌ですお」

「アイラブユーって好きなこと?」
「そうよ」
「アイラブユー、アイラブユー」

「バージンロードって結婚するとき?」
「そうよ」
「バージンロード、バージンロード」

「ビッチョビチョ、ビッチョビチョ、ビッチョビチョって、汚いことでしょ?」
「そうだよ」
「ビッチョビチョ、ビッチョビチョ、ビッチョビチョ、ビッチョビチョ」

「めちゃすきやねん、めちゃすきやねん」
「なにそれ?」

「お母さん、呑んだくれってなに?」
「お酒を飲みすぎて迷惑をかけることよ」
「呑んだくれ、嫌ですねえ」

YMCA GO GO GO!
YMCA GO GO GO!
お母さん、ぼくYMCAのリーダーですよ!

「お母さん、たしなめるってなに?」
「そんなことしちゃだめよっていうことよ」
「お母さん、たしなめる、たしなめよう、たしなめておくれようってなに?」

「君をなくしたら悲しいでしょ?」
「悲しいですよ」
「君、君、君」

「営業ってやることでしょう?」
「そうだよ」
「営業なんて、営業なんて、営業運転されることになりました」

「ついては」ってなに?
「それについては」ということよ。

「車体構造ってなに?」
「車体の構造だよ」
「車体構造は、ほぼこうなっています。6扉車登場ね」

なんで緒形 拳「しゃべるな」っていったの?
苦しいからでしょ。
しゃべると気持ち悪くなるからでしょ。

「お母さん、ぼくはしあわせになります」
「耕君、しあわせなの?」
(無言で2階に消える)

「お母さん、お金は買い物するときでしょう?」
「そうよ」
「買い物するのはぶたぶた君だお」

「気象情報って、天気予報のことでしょ?」
「そうだよ」

「お父さん、仮面ライダー好き?」
「好きだよ」
「ぼく、仮面ライダー好きですお。こうたろうさん、好きですお」

「お母さん、おもてなしってなに?」
「気持ちよくすごしていただくことよ」
「そ、そうですよ。そうですよ。おもてなし、おもてなし」

「お母さん、気まぐれってなに?」
「自分の好きなことばかりしていることよ」
「気まぐれ、気まぐれ、気まぐれですお」

ふきのとう舎へ行く時は、桜ヶ丘駅で、降ります。
藤沢から各停に乗るか、急行で乗り換えることができます。
長後から出発して、急行に乗ったら、大和まで行ってしまいます。
ふきのとう舎に行くに時は、大和まで行かないようにしましょうね。

「お父さん、6のさかさまは9?」
「そうだよ」

「お父さん、ごきげんようの英語は?」
「グッドバイ、シーユーアゲイン」

「お母さん、黙祷ってなに?」
「目をつぶって祈ることよ」

「ぼくキシモト歯科いきませんお、いきませんお」
「分かったよ」

タクちゃん「しあわせになろうよ」みた?
きっとみたと思うよ。
「しあわせになろうよ」は黒木メイサでしょ?

「お父さん、お母さん治ってほしいですねえ」
「そうだねえ、治ってほしいね」
「お母さん、早く良くなってね」

「お母さん僕は協力しますよ」
「なにに協力するの?」
「キョウリョク、キョウリョク」

ぼく、たまもりゆうたですお。「幸せになろうよ」、の。

「お父さん、今年も旅行でお土産買いますお」
「ああそう。よろしくね」
「分かりました」

ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ
お相撲ですよ。

「ヒロタカ君、クミコさんと結婚したんでしょう?」
「そうだよ」

「お父さん、セイザブロウさん綾部の下駄屋でしょう?」
「そうだよ」
「ぼく、下駄好きですお」

「ぼく、のぞみ幼稚園好きですよ」
「のぞみ幼稚園、誰が通ってたの?」
「タクちゃんとリョウちゃんですお」

お父さん、ぼく「どんと晴れ」のナツミさん、好きですお。

「お父さん、ぼくアジサイ好きですお」
「何色が好き? 青? 赤?」
「両方ですお」

「お父さん、5はいつつですお」
「そうだね」

「お父さん、横浜線の205系はどこ行きましたか?」
「どこへ行ったの?」
「インドネシアだお」
「へええ、インドネシアかあ」

「お父さん、ぼくクワイ好きだお」
「そうかあ」
「ぼく、サトイモ好きだお」
「そうなんだ」

「お母さん、ぼく今日ハス見に行きますお」
「はい、行きましょうね」

「お父さん、そんなことないの英語は?」
「ノットアットオールかな」
「お母さん、そんなことないって、どういうこと?」

「ぼく、がっかりしなかったよ」
「なにをがっかりしなかったの?」
「お母さん、がっかりってなに?」

「お父さん、遅くなったらだめでしょう?」
「遅くなってもいいよ」

「お母さん、ごきげんようってさようならのこと?」
「そうよ」
「ごきげんよう、ごきげんよう」

「お母さん、誘拐ってなに?」
「ひとをつかまえることよ」
「誘拐いやですねえ」

「お母さん、心臓飛び出したら?」
「びっくりですよ」

お母さん、スギウラさん「トイレットペーパーそんなに使わないでください」て言ったよ。
そうなの。

「お母さん、簡保は簡易保険でしょ?」
「そうよ」

ぼく「ぶたぶた君のお買いもの」好きですお。
お母さんも好きですよ。

タカハシさん、「またあした」っていったお。
そうなの。

お父さん、ワタナベチヒロ君ね。ぼくジュンコさん。
「チヒロ、ダメダメ」
「お母さんごめんなさい」

「先生」と呼んだらダメですよ。「さん」と呼ぶんだよ。

「お母さん、これオオバギボウシの葉っぱでしょ?」
「そ、そうよ。驚いた! 耕君よく知っているのね」
「このオオバギボウシ、どうしたの?」
「昨日小田原のオオバさんから頂いたのよ」
「オオバギボウシオオバギボウシオオバギボウシ」

「耕君、人生楽しいですか?」
「楽しいよ」

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斉藤斎藤歌集「渡辺のわたし」を読んで

2016-11-25 10:14:44 | Weblog


照る日曇る日 第911回



お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする

という冒頭の1首から始まって

ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります

で終わる作者の第1歌集です。

この方の斉藤斎藤ですが、斉藤が名字で斎藤が名前だという説明を聞いたときにちょっとつまずいたのですが、作品を読んでもまたつまずく。すべてにおいて一筋縄で通りすぎることが出来ないのがこの作者と作品であります。

エレベーターの3つのランプが点いて消え2が点く手前わたくしが匂う

 などというのは、先だって私が横須賀の岸本歯科へ行った時に同じように体験した現象でしたが、まさかそんなことがこんな短歌に出来るなんて夢にも思いませんでした。

 ところがそんな想定外の事柄を、こんな意表をつく短歌にしてしまうのが、斉藤斎藤選手の得意技なのです。

 そんな私を変えたくなくて屋上のきかんしゃトーマスに乗ってみました

などという不敵な居直りめいたユーモアも彼独特の世界でして、

 町中でやまびこ隊は町中で君がヤッホー叫ぶまで待つ

という素敵な歌が私にも詠めたら、どんなに楽しいことでしょう。超ウラヤマ。

 ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる

 公園通りをあなたと歩くこの夢がいつかあなたに覚めますように

というような切ない相聞歌もお得意ですが、

「みんな結局さびしいんだよ」この場合、腰を振るのは男の仕事
 
という下品なオチも躊躇わないのが斉藤斎藤選手という人なんです。

でも時折こんな奇妙な歌も飛び込んでくる。

 羊が匹敵、羊が匹敵、羊が匹敵、羊が匹敵、

 「七割ですか?」「はい七割です、ありがとう。あなたも」「七割です、ありがとう」

 こりゃいったいなんじゃらほいと考え込んでいると、駄目押しの1首が突き刺さるんです。


 このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい

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東京都美術館で「ゴッホとゴーギャン展」をみて

2016-11-24 10:16:49 | Weblog


蝶人物見遊山記第222回


もう印象派なんかさんざんみたからどうでもいいけど、せっかく上野に来たんだからちょっと覗いてみるか、というようなノリで乗り込んだ都美術館でしたが、これが想定外に面白かった。何が? ゴッホ対ゴーギャンという2人の男の構図が。

アルルにやってきたゴッホは海でも山でも野原でも家の中でもでもじゃんじゃん書きまくる。此処を先途と命懸けで書きまくってる。それは出口なおの御筆先からほとばしる生気をまの当たりにしているようだ。出口王仁三郎のめくるめく色彩世界の陶器をみているようだ。

例えば1888年に描かれた「耕された畑(畝)」を見よ。これでもか、これでもかとキャンバスに荒々しく部厚く部厚く塗りたくられた油絵の具のうねりの中にゴッホのいまこの瞬間を生きるんだという赤裸の叫びを我われは見る。聞く。打たれる。

それはほとんど狂気にすれすれの異常な叫びで、実際に彼はこの直後に狂うのだが、それでも絵は異様なまでに純粋で美しい。

アルルのゴッホが、命懸けの生の極限を生きる、その姿がそのまま藝術に転化していたとすれば、すぐ傍にいたゴーギャンは迫りくる死に向かって日々衰弱していく己の絶望そのものが藝術だった。

ゴッホの「恋する人」は生の祭壇への生贄であり、ゴーギャンの「アルルの洗濯女」の背中には、すでに死霊が取り憑いている。この2人の天才の心身の奥深く喰い入った生と死は、背中合わせで共同生活しながら、陰陽2つの見事な花をアルルで咲かせていたのである。


    南仏のアルルの真昼に咲き誇る2本の向日葵生と死の花  蝶人

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奥村晃作歌集「ビビッと動く」を読んで

2016-11-22 09:51:54 | Weblog


照る日曇る日 第909回



わが敬愛する歌人の15冊目の最新の歌集です。

まずはこの題名、「ビビッと動く」に驚かされますね。誰でも作者は若者かと思うでしょうが、著者の奥村氏はじつは1936年生まれのちょうど八〇歳なんですね。その年齢を超えた軽やかさは、この超ベテラン歌人の精神を支える大きな特性だと思われます。

そこで「ビビッと動く」という小題のついた歌を探しましたら、179ページから181ページにかけて4首ありました。

 宮 柊二先生に逢い学生の佐藤慶子と間なくして逢う

 俊敏の佐藤慶子の鳥のごとビビッと動く脳を思えり

 敢然と敵に向かって突き進む吾妻に従う病身われは

 メダカ愛強き吾妻は餌をやり過ぎ水が濁って次々死んだ

 ビビッと動くというから、作者お得意の運動や囲碁のことかと思っていたら、なんと愛妻への相聞歌でした。宮柊二に師事した奥村氏は、大学在学中に「コスモス」に入会されたとウィキペデイアに出ていましたから、この会で同じ学生の未来の奥様に出会われたんですね。「逢い」と「逢い」が弾むように繰り返されています。

 そして、その佐藤慶子選手の頭の回転が超速かった。ここで「賢い」とか「機敏」とかいわずに「鳥のごとビビッと動く脳」を思うところがいかにも奥村流。まるで医者がレントゲン写真を撮るようなデジタルな視線で、愛する人の脳内を客観的に透視しています。

 私のカメラはふつうのバカチョン(←差別用語にあらず)ですが、氏の脳内カメラはエイト・バイ・テンの大型ですから、余人には見えない、見ない光景が、くっきりはっきり目に映じ、氏はそれを五七五七七に焼き付けるのです。

 一本の茎から分かれし五百余の茎の先端に黄菊を咲かす

 火の上のフライパンの卵、液体がたちまち白き固体に変わる

というように。

すると、あら不思議。その超精密とはいえ単なる写実であるはずの映像が、「ただごと」であることを止めて、ある種の抽象、「ただならぬ象徴」へと転化するのです。ちょうどホッパーの夜の街角の絵が都会の孤独を、アンディ・ウオーホルのモンローの絵が、美女の儚い生を象徴するように。

それはともかく、本題に戻りましょう。
昔の恋人は三首目、四首目で、押しもされぬ堂々たる妻となります。
二人だけが知る喜びも悲しみも幾歳月が流れると、愛妻はますますその本領を発揮して、か弱き夫を力強く領導したり、身の回りの細部へのこだわりが激しくなってくる。
しかしそんな妻の姿を、夫は寛容と忍耐の精神で優しく見守っているのでしょう。

このように「ビビッと動く」というたった四首の中には、ことし傘寿を迎えた歌人の生涯の愛のエッセンスがものの見事に籠められているのです。

はい、もうお時間参りました。美術詠、紀行詠、原発詠、死刑囚詠についても触れたかったのですが、またの機会にということで。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。


   フクシマの悪夢また甦り天災は忘れた頃にやって来る 蝶人


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国立西洋美術館で「クラーナハ展」をみて

2016-11-21 09:55:23 | Weblog


蝶人物見遊山記第221回



クラーナハ。はてな?
名前は聞いたような気がするけれど、作品をみるのははじめての絵描きさんです。

1472年に生まれて1553年に81歳で死んだルネサンス期のドイツ人だそうですが、なんと宗教改革のリーダーとして知られるルターとほぼ同時期に生きた、と知ればなんとなく親しみもわいてきます。

藝術の前では名前も経歴もどうでもいいけれど、実際に作品の前に立つとそのリアルな写実にあっと息を呑んでしまう。

あの宗教改革のルター夫妻なんて、500年前の人物が目の前に実際に佇んでいるようで、思わず「やあルターさん!」と呼びかけてしまいます。
神聖ローマ帝国カール5世なんて厳めしい肩書だけど、こんな浅ましい顔つきの男だったのか、これではどこかの国の宰相といい勝負じゃないかあ、と言いたくなってしまう。

しかし美女の裸体のプロポーションなんかは上半身がちと寸詰りだし、目の表情もちと偏執の気味があるから、この節流行の微細カメラ的描法とは異なるけれども、もしかすると鎌倉期に頼朝や重盛の肖像を描いたという藤原隆信や江戸時代の渡辺崋山、現代の舟越保武を先取りする超絶的リアリズムかもしれません。

ところが被写体が同時代の人物ではなくて、歴史上あるいは神話的人物像、例えばヴィーナスやサロメ、とりわけ「ホロフェルネスの首を持つユディト」なんかを描くとなると、その女体に独特の奇妙なエロスの味付けが加わって、見る者を限りなく蠱惑するんですね。

ホロフェルネスを誘惑して酔わせてその首を斬った寡婦ユディトの絵は古来多くの画家によって描かれているけれど、クラーナハのユディトの冷たいニル・アドミラリなまなざしは嗜虐主義者の谷崎潤一郎ならずとも、世の男どもの愚かな劣情を揺り動かす。

うすらと目を開いたホロフェルネスだって、こう呟いているようです。


  こんな美女なら、首なんかちょん斬られても、余は満足じゃ。 蝶人

 
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国立劇場で歌舞伎「仮名手本忠臣蔵第2部」をみて

2016-11-20 09:52:35 | Weblog


蝶人物見遊山記第220回

先月に続く忠臣蔵の第2部は、お軽勘平の浄瑠璃「道行旅路の花婿」を40分の前座に5段目「山崎街道鉄砲渡しの場&二つ玉の場」、六段目「与市兵衛内勘平腹切の場」七段目「祇園一力茶屋の場」を朝から夕方近くまでやる。見る方だって疲れるのだから、遣るほうはもっと疲れるだろう。

冒頭のいかにも能天気な舞踏は、第1部の終わりで塩冶判官が切腹させられたちょうどその時に、勘平とお軽は物陰で白昼公然とファックしていた快楽の余波であるとともに、その後に訪れる悲劇を対照的に暗示しているのである。

役者の中で優れていたのは五段目、六段目に登場した尾上菊之助の早野勘平である。この人、歴代の名優に比べればなにかが足らないのだが、いつ見ても演技も発声も水準を大きく越えていて期待を裏切らない。菊之助のお軽、中村東蔵のおかやも熱演でしたね。

これに対して七段目でトリの大任を担うべき中村吉衛門が冴えない。この人は演技はともかく、加齢によるものか年々声量が乏しくなり、ますます声が聴き取りにくくなってきた。

とりわけクライマックスの決め台詞のところでは、もともとの細みの声を懸命に振り絞っはいるものの、その声が舞台から大向こうに向かわず、おのれの胸元から内臓に向かって吸いとられていくために、3階席の最上階ではまったく聴き取れない。他の端役の声が全部聴き取れるにもかかわらず、である。

とはいうても藤十郎ほど酷くはないし、日によって調子が変るのかもしれないが、なんとなく病気をする前のホセ・カレーラスに似てきたので心配である。

それから演出上のことでいうと、七段目で由良之助が盗み聴きしていた斧九太夫を刀で刺し殺すのは、縁の下から水平にではなく、畳の上から垂直、でなければいけないはずである。
やれやれ、んなこたあなーにも言わずに、黙って時々寝ながら見物しておればいいのだが。つい小言幸兵衛になっちまったずら。


   いそいそと太平洋を渡ったポチ公が親玉ブル公のケツの穴を舐める 蝶人

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自由律詩歌その11

2016-11-19 10:03:14 | Weblog


ある晴れた日に 第416回




天才は天災である

君の笑顔だけが私の仕合わせ

談論風発

がまだせ熊本

まくんな熊本

人間いつ死ぬか分からない

ゆえに人間は生かされてある

間違いだらけだ

なんとかしてやれよ

ひどいやつもいるもんだ

虚が虚を喰らう

空は晴れても心は昏い

下衆の極み

「なんちゃらかんちゃら」と前を向いた

薄情そうな渡り鳥

オタマジャクシのようにうじゃうじゃ蠢く

名利を求めず

冥利に尽きる

這ふ這ふの體

歯が痛いよむモモちゃん治して

よよと泣き崩れる

しょうがいがあるからしょうがいがわかる

クラブサンは五月蠅い

生き恥を晒せ

消えて無くなれ

ビビンバア
 
   11時から4時半まで歌舞伎みてダリ展見れば疲労困憊 蝶人


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たんたんタヌキの三太郎~これでも詩かよ第194番

2016-11-17 09:48:28 | Weblog


ある晴れた日に 第415回


今朝、アクザワ先生が歩きながら投げ入れたハイライトを、滑川*は黙って呑みこんだ。

午後、カナイさんのお爺さんが投げ入れたポチの糞を、滑川は黙って呑みこんだ。

夕方、お隣のヒグチさんが投げ入れた垣根のサツキの枝を、滑川は黙って呑みこんだ。

真夜中、県道246号ではねられたタヌキを、滑川は黙って呑みこんだ。

そのタヌキは、時々私の庭にやって来て、サンダルを散らかして遊んだりしていた。

三本足なので、私が三太郎という名前をつけたタヌキだった。

三太郎のふさふさした毛皮は、カラスやセキレイの鋭い嘴によって綺麗にはがされ、秋の冷たい水は、無惨に露出した赤身の上をさらさらと流れてゆく。

たんたんタヌキの三太郎の白い骨も、ハイライトも、ポチの糞も、サツキの枝も、滑川は黙って呑みこみ、今度の大水で、相模湾に流し込むだろう。

*滑川は鎌倉市と横浜市に跨る朝夷奈峠の湧水に発して太刀洗川となり、鎌倉市十二所にてその名を滑川と改めて由比ヶ浜に注ぐ。なお呼称は「なめ」川に非ずして「なめり」川なり。


   
  煙草にもPeaceという名がついていたかつて我らが求めし平和よ 蝶人


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よ、大統領~これでも詩かよ第195番

2016-11-16 12:01:31 | Weblog


ある晴れた日に 第414回




チチンプイプイ ブギウギブギ
トランプはんときたら、
ぬあーんと、大統領になりはったんやて。

嘘から出た真、
瓢箪から駒、
驚き桃の木山椒の木

あ、大統領、 や、大統領! よ、大統領!
メリケンはんの、オマンコと金玉を、ムギューーと摑まはったんやね。
何百何千万のオマンコと金玉を、一個づつ、ムギューー、ムギューー、とな。

あ、大統領、 や、大統領! よ、大統領!
Ohまんこ Ohちんぽこ
ムギューー、ムギューーと鷲摑み

そやさかいメリケンはん、女も男も、みなギュンと感じてしもうて、もう大喜びや。
ヒラリーはん、ちょいと可哀想やったけど、
ちょいババが、えらいババ引かされてしもうたね。

あ、大統領、 や、大統領! よ、大統領!
ムギュー ムギュー ムギュー
チチンプイプイ ブギウギブギ


 ロースかつを一気呵成にたいらげて息子は大仕事を成し遂げたような 蝶人

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加藤典洋著「世界をわからないものに育てること」を読んで

2016-11-15 13:12:26 | Weblog


照る日曇る日 第908回






著者による最近の文学・思想論集で、1の「災後と文学」では「永遠の0」「東京プリズン」、2の「文学の20世紀以後」では「巨匠とマルガリータ」「私を離さないで」、3の「時代の変り目の指標」では山田太一や沢木耕太郎、村上春樹、大江健三郎などの近著や映画感想文などを読むことが出来る。

「東京プリズン」や「巨匠とマルガリータ」は、私も読んで感想文などを書いたりしたが、著者の精緻で鋭利な解釈と鑑賞には完全に脱帽し、なるほど本はこのように読むものなのにかという内心忸怩たる思いを新たにしたことだった。

大学時代に著者が教室で実践した文学演習も眼が醒めるように新鮮で、私はこういう我が身を外部に晒して骨を切るような授業をやることなんて思いつきもしないし、思いついても絶対にやらないだろう。教師は生徒の一段高みに立って、永久に批判されない高論卓説を剛速球で投げおろしているほうが、安全かつらくちんなのである。

本巻で著者が強調していることのひとつは「作者があえて語らないことを見抜く」ことの大切さで、その具体的な例を著者は百田尚樹の「永遠の0」や芝崎友香の「わたしがいなかった街で」、ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」の批評をやり遂げる中で、具体的に示しています。

文章を読むときにほんのちょっとしたことに気づいて「そんなことってあるだろうか」と思って「わからなくなる」。そしてその生まれたばかりの驚きに立ち止まり、「世界をわからないものに育てる。そういう時間が大事だ」と、著者は力説するのです。


   うな重を一気呵成に平らげて懸案事項を終えたるごとし 蝶人

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ジョージ・ノルフィ監督の「アジャストメント」をみて

2016-11-14 11:18:19 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1104

フィリップ・K・ディックの「調整局」が原作。神様ではないけれどなんかうさんくさい運命を司る連中がいて、ヒーロー(モト・デイモン)とヒロイン(エミリー・ブラント)を操ろうとするんだが、操りきれなくて2人を自由にしてやる噺ずら。そんなことなら最初から自由にしておけばいいのに。脚本の最初の最初からうさんくさいからこういううさんくさい映画ができるんだぞ。

  もう一枚妻が掛けてくれたるタオルケット忝しとあたたかく寝る 蝶人
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池澤夏樹編河出版「日本文学全集29巻近現代詩歌」を読んで

2016-11-13 10:27:07 | Weblog


照る日曇る日 第907回


詩を編者が、短歌を穂村弘が、俳句を小澤實がそれぞれ50の作品を選び、解説を加えながら明治から平成の前半までの詩歌を総括するという気宇壮大なアンソロジーである。

現代というても基本的には池澤の生まれた1945年以前に誕生した作家という年齢制限がついているので、最近の若手と超若手の口語短歌などは取られていないが、そんなものまで取りこんだら膨大になるうえに収拾がつかなくなるだろうから、まずはこのあたりでよろしいのではないでしょうか。

しかし詩篇については、島崎藤村から谷川俊太郎、高橋睦郎、入沢康夫までを入れておきながら「怪物君」の吉増剛造選手およびわが敬愛する鈴木志郎康氏を入れないのはどういう了見だか訳か分からない。おそらく池澤は、自分も含めてすでにこの世では死んでいる「化石詩人」を標本にするのが好きなのだろう。

私は俳句は苦手なのでパスさせてもらうが、やはり高濱虚子門より河東碧梧桐の流れを汲む人々の作品が好きだということが分かった。

さはさりながら、短歌編を担当した穂村選手の解説が素晴らしい。
ここでは正岡子規から三枝昂之までやはり50名の作品を5つづつ挙げているが、その中にわが敬愛する奥村晃作氏の以下の作品があったのでうれしかった。

 不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす

 撮影の少女は胸をきつく締め布から乳の一部はみ出る

 中年のハゲの男が立ち上がり大太鼓打つ体力で打つ

 転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる

 運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり

氏の作品は、眼前の事物や物事をあるがままに対象化すると見えて、それがこの世の道理の新たな認識を促したり、この世ならぬ未知の世界への裂け目を示唆する哲学的象徴詩に転化する瞬間があって稀有な値打を持っているが、それが最後の歌などになると、あたかもエドワード・ホッパーの深沈な現代絵画を思わせて素晴らしい。


   我ながら拙しと思う歌なれど出来れば誰かに聞かせたいと思う 蝶人


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第1回富士山大賞授賞式

2016-11-12 10:29:49 | Weblog


蝶人物見遊山記第219回


秋晴れの好日、今年から始まった富士山にちなんだ短歌を募る大会があり、佳作の末席を汚したわたくしめもその表彰式に行ってきました。
というより、選考委員長は岡井隆、選考委員は三枝昂之。穂村弘、東直子という一度は御尊顔を拝し奉りたい方々でしたので、帝国ホテルの「富士の間」に滑り込んだ次第です。

全国から寄せられた千首ほどの応募の中から大賞1、準大賞2、優秀賞13、佳作132が選ばれ、優秀賞以上の方々が演壇に上がって審査員の先生方の講評を受けるという光栄に浴されたのですが、残念ながら佳作の我われは大広間のテーブルに陣取って、ただただ壇上に拍手を送るという仕儀でありました。

彼方から遠望する岡井大人は矍鑠としてお元気そうで、マイクを通しての声も力がありました。

私はかつて日経歌壇に投稿していた頃に、敬愛するこの岡井さんと穂村さん、そして岡井さんの後任の三枝さんに何度か拙歌を選んでもらったことがあったので重い腰を上げたのですが、もう二度とお目にかかる機会もないと思うので、間にあって良かったと思ったことでした。

大賞  見えぬ富士を車窓はるかに感じつつ身延線青き山あいを行く 小西美根子
準大賞 かじかみし指にて君へメール打つ富士山頂にゆるぎなく立ち 岡田貴美子
 同  ともに見し富士の写真を貼りたれば雲海となる母の病室   西村愛美


    富士山に歓声あげる僕ら乗せ修学旅行車激しく傾く  蝶人
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ジョナサン・デミ監督の「羊たちの沈黙」をみて

2016-11-11 11:12:52 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1103


終始緊迫した時間を維持しながらラストまでひっぱっていく演出力は立派。アンソニー・ホプキンスのレスター博士とFBI捜査官のジョデイ・フォスターの間で次第に友愛のようなものが形成されていくプロセスが興味深い。結局今までのところこれがジョデイ・フォスターの代表作ではないだろうか。

しかし真っ暗闇の銃撃戦でどうして彼女が犯人を斃すことが出来たのかは謎。なんせ相手は赤外線眼鏡を使っていたんだぜ。

  穂村氏の「近現代短歌」解説面白すぎてちびちびと読む 蝶人
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バズ・ラーマン監督の「華麗なるギャツビー」をみて

2016-11-10 10:36:40 | Weblog


闇にまぎれて cyojin cine-archives vol.1102

レオナルド・ディカプリオのギャツビーはそれなりに健闘しているが、キャリー・マリガンのデイジーは完全にミスキャスト。トビー・マグワイアのニックも不満が残る。2013年製作のこれよりもやはり1974年のレッドフォードとミア・ファロー組の方に軍配は上がる。


  らあらあと騒いだ後は速やかにトランプ大統領にも慣れていく我ら 蝶人
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