あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2010年弥生茫洋花鳥風月人情紙風船

2010-03-31 06:58:11 | Weblog


ある晴れた日に 第73回


梅の花花との間に萼ありて

春日遅遅日光写真待つ心

面白うてやがて悲しき水の歌

3月や歯科皮膚科整形外科に日参す

椿落ち鴨泳ぎタテハ飛び鶯が鳴く弥生廿日

辛夷咲き野鴨繕い黄蝶舞い鶯鳴くなり弥生の廿日

桜咲き瑠璃シジミ飛びおたま泳ぐ谷戸にも春は巡りきたれり

なのでなのでを連発すれどなのでの前がてんで分からん

青空から忽然と消えし大銀杏甦れわれら一人一人の胸の裡に

神を恐れおののく孤独な少年を待ち構えていた酒と薔薇の日々

東京の明るい廃墟をよろばいつわが胸に浮かぶ江戸の俤

あの小澤のあとにメスト!ウイーンオペラの歴史と伝統ここにパッタリ尽きたり
 
おたまじやくしの表層を水澄ましのごとく滑走する小澤メスト輩

百聞は一聴に如かずロバの耳に響く王様の音楽

3流のオペラハウスのカルメンを涙を流して聴いているビゼー

カラヤンの最悪の録音はショパンのピアノ曲を管弦楽に編曲した演奏。そこではお涙頂戴のやすっぽい叙情が大安売りされている

普通の女性が光り輝く美女となるげに化粧とは恐ろしき道具よ

人は死に 詩と音楽が 永遠に残る

もう二度と帰ることなきいまのいまをわが生の証とて歌にとどめむ

坂の上の風呂屋の下の道端に今年も咲きたりミモザの花が

今日も元気だ桃山パンク黒墨捲れば紅蓮の炎

私をリストラした人をリストラした人がリストラされました

人よりも物の命は長ければ物に過ぎぬと驕るなかれ人

待ち兼ねた春が蝶よ花よとやってくる

金メダルが2つあったら良かったのにねと語る焼肉屋の柔らかな心

欠陥車作りし咎を身に負いて謝り続けるトヨタ社長

古き良きアメリカの黄金時代二度と帰らず

美しきヴァイオリニストをたぶらかす希代の色事師とく本業に戻れ

あのアパートのあの部屋で男女3人自殺したのか

わが息子指差し「あんな児には近づかないのよ」と教える母親


♪くだらなきいまのみの感懐をとどめおきたくけふもまたくだらぬうたをよむのです 茫洋

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「演劇集団 円」を応援しませう

2010-03-30 07:21:04 | Weblog


バガテルop124

円は1975年に芥川比呂志を中心に劇団雲から独立した演劇団で、岸田今日子、南美江などが活躍、現在はテレビに出ずっぱりの橋爪功を柱に、松本留美、有川博、立石涼子、朴璐美などを擁しています。

そんなことはどうでもよいのですが、じつは私の知人がこの劇団で翻訳家として活動しているので、今年1年間は円を支援しようと心に決めました。

2010年のプログラムは4月にハロルド・ピンター原作、大橋也寸演出の「HOMECOMING」、8月は鶴屋南北原作、森新太郎演出による「四谷怪談」、10月はオーエン・マカファーティ原作、演出平出琢也による「シーンズ・フロム・ザ・ビッグピキュチャー」、12月は岸田今日子を記念して谷川俊太郎現代語訳による「むかしむかしのわっはっは」というレパートリー。正統派の新劇あり伝統派の歌舞伎風あり、アヴァンギャルドあり、日本昔話ファミリーものありと実に豊かなラインアップです。

特報です!

ただいま円の会の会員に無料登録すると、この4公演を15000円でいい席で見られます。申し込みは03-5828-0654、〒111-0035台東区西浅草1-2-3田原町センタービル5階の「円の会」まで。以上、私としたことが非常に珍しくあまりにも露骨なPRでした。

♪3月や歯科皮膚科整形外科に日参す 茫洋

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コーリン・デービス指揮コベントガーデン「螺旋の回転」を視聴する

2010-03-29 10:19:27 | Weblog


♪音楽千夜一夜第124回

古いレーザーディスクを引っ張り出して、DVDに焼きながら珍しい演奏を聴きました。
コーリン・デービス指揮コベントガーデンのロイヤル・オペラが少人数で演奏するベンジャミン・ブリテン作曲のオペラ「螺旋の回転」に、ペートル・ウエイグルという人が屋外ロケの映像をつけたものです。

グラードボーンに良く似た緑の草原の中に古い洋館と教会が建っていて、その建物の内部や何エーカーという広大な敷地のあちこちを贅沢に使い、ヘンリー・ジェイムズ原作のこのSF的小説を一篇の映像詩に仕立て上げています。

物語のあらすじは、家庭教師として古い洋館にやって来たヒロインが、その館に住む少年少女に宿る死者の霊と対決し、勝利を収めたものの最後の最後に少年が息絶えてしまうという西洋によくある怪奇譚です。

美しい女優とハンサムな男優が演じ、彼らの口パクの歌を、実力派のヘレン・ドナート、ロバート・ティアーズ、ヘザー・ハーパーなどが歌っていますが、ラストではそれなりに盛り上がるものの、原作におけるネジがギリギリと回転して、恐怖に慄く登場人物たちを抜き差しならぬところまでギリギリ追い詰めていくような臨場感はありません。むしろ、のどかな野外劇といった趣が強く出ています。

ブリテンの作曲の腕の冴えは、第2幕の第13のバリエーション、第6シーンにおけるピアノ連打の劇伴において最大限に発揮されており、ここぞとばかりにたたみかけるコーリン・デービスの指揮も見事です。


♪春日遅遅日光写真待つ心 茫洋

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ブーレーズ指揮ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を視聴して

2010-03-28 09:24:48 | Weblog

♪音楽千夜一夜第123回

数々の印象深い銘品をつくってくれたドビュッシーですが、やはりこれがいちばんの代表作でせう。あれほど傾倒したワーグナーから足を洗い、独立独歩で創造した新しい楽の音がここには香り高く鳴り響いています。

指揮者ブーレーズの評価は年経るごとに高まり、いまやアーノンクールと並んで斯界の一大権威と化した感がありますが、冷静に振り返ってみれば昔のクリーブランド時代やウイーンコンチエルトムジークス創成時代の方が双方ともにはるかにマシな演奏をしていたと言えそうです。どう考えても面白くもおかしくもない、それでいてもったいぶったこけおどしの、似ても焼いても食えないタヌキおやじの指揮ぶりに熱狂する人の気持ちが私のようなド素人にはいくら聞いてもてんわからないのでしゅが…。

そんな御大ではありますが、1992年3月になぜだか英国に飛んで、ウエールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団と演奏した「ペレアスとメリザンド」ではそれなりに楽しめる劇伴をつとめて破綻はありませぬ。メリザンドはアリスン・ハーグレイ、ペレアスはニール・アーチャー、ゴローはドナルド・マックスウエル、老王アルケルはケニス・コックスという欧米人の歌手ばかりが出演していますが、フランス語の発音に欠ける点はなさそうです。

演出はベルリン生まれのペーター・シュタインという人ですが、第3幕第一場でアリスン・ハーグレイのブロンドの長く美しい自毛を使って非常に官能的な愛の戯れを演じさせています。城塞の窓辺のペレアスがあおむけざまに垂らした髪を庭に立つメリザンドがつかんで愛撫し接吻の嵐を降らせる情景こそこのオペラの白眉でしょう。

地上では許されない無垢の愛の交歓を目撃したペレアスの義兄ゴローは嫉妬に駆られてついに弟を殺してしまい、衝撃を受けたメリザンドもあとを追うようにして死んでしまいます。ある点まではワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」に似ていますが、聴いてみると全然違う音楽になっています。どちらかといえばドビュッシーの方が陰影に富む複雑で高級な音楽といえるでしょうか。

「ペレアスとメリザンド」は数あるオペラのなかでヤナーチエックの「利口な女狐の物語」と並んで私がいっとう好きなオペラ(いっとう嫌いなのはプロコフィエフの「三つのオレンジへの恋」)なのですが、これまであまり演奏の機会に恵まれず、個人的には七〇年代の終わりにパリのシャンゼリゼ劇場で見たマゼール指揮パリ管の公演がもっとも感動的なものでした。(あの頃のマゼールは良かった!)

この「ペレアスとメリザンド」の演奏は、それに次ぐものとして、長く手元に置きたいと思っています。

♪私をリストラした人をリストラした人がリストラされました 茫洋



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森健著「就活って何だ」を読んで

2010-03-27 10:24:50 | Weblog
照る日曇る日第335回

企業の公共性&社会正義感の欠如と悪徳人材派遣会社の終わりなき強欲陰謀が主因となって、そこに大学と学生の思惑が入り乱れ、史上最悪最凶の末期的症状を呈している現在の就職戦線ですが、この本はそのいっぽうの当事者である企業の人事担当責任者へのインタビューを敢行し、彼らが行っている求人活動の内幕を聞き出しています。やれやれご苦労なこった。

そして著者はこれらの企業が求めている理想の人材の基軸とは、1)グローバル2)多様性3)ストレスに対する耐性4)ビジネス感性5)自分と向き合う能力であると総括し、「これらの要件に着目しながら就活しなさい」、ともっともらしくアドバイスしているようですが、多くのあほばか学生は、「そんなごたくを並べたって、じゃあおらっちはいますぐにどうしたらいいんだ」と喚くのが関の山でしょう。

で、この本のタイトルである「就活って何だ?」という大仰な自問については、最後の最後にあっさり自答されていて「就職とは本来自分の一生を左右する一大事だ。そこでつきつけられるのは自分の人生をどう考えるかという真摯な問いだ。細かなテクニックや瑣末な情報に溺れていては、その一番重要な部分を深く考察しないまま就職活動に臨んでしまう危険性がある」と格調高い警句?を吐いて一巻の終わりなのですが、そんな当たり前田のクラッカーが、もしかしてなにか「答えのようなもの」になってでもいるのでしょうか!?

思うに、これこそは羊頭狗肉の類です。本来ならば、著者はこの結語からああ堂々の「著者独自のシュウカツ哲学ないし人世論」を一点突破全面展開すべきなのに、その本体内容なぞ影も形もなく、あるのは人事担当者の華麗な独白ととっておきの苦労話ばかり。

しかも登場するのは電通、フジテレビ、バンダイ、資生堂、サントリー、全日空、NTTドコモなどの大企業ばかり。彼らこそは就職協定を顧みず積極的に青田買いに狂奔し、前代未聞の就活地獄を招来している元凶なのに、そういう事実とそれが惹起する悲劇を直視し、それを克服しようとか、少しでも解決しようとする視点などほんのこれっぽっちもないのです。

それにそもそも日本の企業の98%以上は中小企業であり、大企業なぞは超少数派の異端児に過ぎません。こんな企業にはいずれも1万から5万人のエントリーが殺到し、それを4次、5次の面接でふるいにかけて、よりどり好みの最適人材?を採用するだけの話ですから、ここで披露されている「耳寄りな情報」なんて日本全国の学友諸君にとってはまるで縁もゆかりもない唐人の寝言でありましょう。

今回、大企業の人事部がこのインタビューに応じて「就活秘話」を特別に漏らしてくれたのは、別に著者のお手柄などではなく、これ自体が大企業の新手のパブリシティ活動であるということに、著者はどこまで気づいているのでしょうか。「森健って何だ?」と言わずにはおれません。

♪待ち兼ねた春が蝶よ花よとやってくるというのに 茫洋

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カラヤン指揮ウイーン国立歌劇場の「薔薇の騎士」を視聴する

2010-03-26 07:58:07 | Weblog


♪音楽千夜一夜第122回

これは1960年8月のザルツブルク音楽祭にかけられたシュトラウスの名作オペラの歴史的公演の記録です。出演は元帥夫人にシュヴァルツコップだけでなく、ゾフィーがローテンベルガー、オクタヴィアンのユリナッチの女性陣に加えてオックス男爵にオットー・エーデルマン、ファーニナルにはなんとエーリッヒ・クンツという豪華キャスティングで、この映像はランクオーガニゼーションという映画会社が製作してビデオ時代から世界中でベストセラーになっていましたが、いまではDVDでも鑑賞できるというわけです。

カラヤンはのちに1984年の同じザルツブルク音楽祭でも同じオーケストラとこの演目を上演し、映像化しました。これも同じタイプの見事な演奏ですが元帥夫人にアンナ・トモワ・シントウ、オクタビアンにアグネス・パルツア、ソフィーにジャネット・ペリー、男爵にクルト・モル、ファーニナルにゴドフリート・ホルニクというキャステイングはクルト・モルを除いてどうみても前者に勝ち目はないでしょう。
アンナ・トモワ・シントウはカラヤンやベーム好みのソプラノですが、フィガロの結婚の伯爵夫人ならともかく元帥夫人でシュヴァルツコップと対抗しようというのはちょっと虫が良すぎます。

さて「薔薇の騎士」においてははじめと終わりがいちばん大事。なんせ公衆の面前で、成熟した貴夫人とやる気まんまんの若い騎士(しかも女性によって演じられる!)によって愛の戯れならぬずばり性交が行われるのですから、それにふさわしいコンビを登場させなければあとが続きません。ここでは冒頭のクラリネットが鋭い男根と化して元帥夫人をいっきに貫き、その直後に痙攣的に果てるときのお相手が問題です。セーナ・ユリナッチの演技も相当はがゆいものがありますが、まあまあ許せるとして、アグネス・パルツアというのでは見ている方だってしらけます。

大人の女の哀しい愛の終わりを告げる3重唱が見事なアンサンブルで歌いおさめられたあとは、若いバカップルがその恋の末路も知らずにいまだけに許される野放図な愛の賛歌を歌いあげるのですが、、さてその終幕間際には、黒人の子供の召使が元帥夫人が忘れた絹のハンカチーフを拾って退場する演出でおわらないと、このオペラはどうしても終わらないのです。


♪カラヤンの最悪の録音はショパンのレ・シルフィールド そこではお涙頂戴のやすっぽい叙情が大安売りされている 茫洋

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ブレゲンツ音楽祭の「トロヴァトーレ」を視聴して

2010-03-25 08:04:37 | Weblog


♪音楽千夜一夜第121回

独スイス国境のオーストリアのボーデン湖上で二〇〇六年の真夏に開催されたブレゲンツ音楽祭の実況録画です。

演出はロバート・カーセンという人ですが、湖上に巨大な船のような石油コンビナートのような構造物を設置して、演技はその広大な空間を舞台に行われます。なにかあると空高く伸びた煙突から紅蓮の炎が衝撃音と同時に舞いあがり、ビジュアル効果満点の派手な見世物です。

指揮はトーマス・ロスナーでウィーン交響楽団が出張っての演奏。なかなか快調なテンポでヴェルデイ節を奏でていました。歌手はヒロインのレオノーラにイアノ・タマール、マンリーコにカール・タナー、ルーナ伯爵がジェリコ・ルチッチ、アズティエーナにマリアンネ・コルネッティという布陣でそれぞれ歌唱力にある実力派と見受けられましたが、なにせ全員がマイクを通して歌っているために、その真価は知るべくもありません。

あくまでも真夏の夜のスペクタクル、世界中からやってきた観光客向けのはかない一場の夢と評すべき公演なのでしょう。

♪面白うてやがて悲しき水の歌 茫洋


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スコット・フィッツジエラルド著・村上春樹訳「冬の夢」を読んで

2010-03-24 08:09:22 | Weblog



照る日曇る日第335回

フィッツジエラルドが彼の代表作を書く前に、いわば練習問題のようにすらすら書いた短編小説が5本並んでいます。

村上春樹によれば、彼はみじかいものならだいたい1日で書き飛ばしたというのですが、その切れ味の鋭さといったら芥川も及ばない天才的なもの。とりわけ最後から2番目の「リッツくらい大きなダイアモンド」という作品なぞ、太宰治のストーリーテリングをはるかにしのぐ物語の行方知らずの恐るべき面白さです。

その大半がアメリカの通俗文芸誌向けのよくできた高級娯楽小説ですが、「罪の赦し」だけは一種異様な性格の物語。主人公の少年の「原罪」にまつわる宗教意識や苦悩について、張りつめた緊張感のもとで、重苦しい独白が積み重ねられてゆきます。

この古風なピューリタニズムこそが、後年の酒と女と薔薇の日々の放蕩と自己破壊を早くから準備したフィッツジエラルドの内面の知られざる核だったのです。



♪神を恐れおののく孤独な少年を待ち構えていた酒と薔薇の日々 茫洋

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藤原歌劇団の「ジョコンダ」を視聴して

2010-03-23 07:26:58 | Weblog


♪音楽千夜一夜第120回


昨二〇〇九年の一月三一日に東京文化会館で行われたポンキエルリのオペラ「ジョコンダ」のあら珍しや四幕版の公演をビデオで見ました。

まず特筆すべきは指揮者菊池彦展と東フィルの好演です。この指揮者がどのようなキャリアの人か私は全然知りませんが、彼は大きな手振り身振りでこの不感症のオーケストラを力ずくで眠りから叩き起こし、波乱万丈の物語が進行するにつれて、オペラに不可欠な熱いコンブリオの力動をもたらし、ついに観衆の興奮と感動をもたらします。

力の限り歌いまくる歌手と、それに対抗して負けじと昂揚していく管弦の高鳴りこそはオペラの醍醐味。最近私が聞いたウエルザーメストの青白いインテリ貧血症のコンコンチキ音楽とは180度ベクトルの異なる正則音楽を耳にして、これなら欧州より日本のオペラの方がよっぽど優れていると痛感しました。

表題役のエリザーベト・マトスとその恋人エンツオ役のチョン・イグン、ジョコンダに横恋慕する密偵バルナバ役の堀内康雄も好演。2幕の冒頭では有名な間奏曲「時の踊り」が奏でられ、そのあとは一気に海上船の火災や3幕の黄金の館へとなだれ込みますが、終幕第4幕のジョコンダの自害まで快い緊張を保ちながら音楽は疾走し続けます。

オペラや作曲家の精神にいっさい肉薄することなくおたまじやくしの表層をまるで水澄ましのようにすいすい滑走する凡庸なフランツ・ウエルザー・メストや小澤征爾とは鋭く一線を画する充実した公演記録でした。

♪おたまじやくしの表層を水澄ましのごとく滑走する小澤メスト輩 茫洋

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神奈川県立近代美術館で「松谷武判展」を見る

2010-03-22 09:26:44 | Weblog


茫洋物見遊山記第20回&鎌倉ちょっと不思議な物語第212回

松谷武判は1937年大阪生まれのアーチスト。1954年より日本画を学び、戦後はあの伝説的な具体美術協会の前衛美術運動に参加し、1966年以降は「人の真似をするな。誰もやらないことをやれ」をモットーにパリで制作を続けているそうです。

そういう経歴の人とも知らずにのこのこ入っていきましたら、やたら暗くて黒いものばかりで面喰いました。大半の作品が、白と黒を基調に鉛筆で描き重ねて黒の線と黒の面を強調しています。とりわけビニール系接着材の黒いボンドを、キャンバスに円く堆く浮き彫り(レリーフ)したものが多いのですが、しかし女性の乳房や禅坊主の立体的な墨書を思わせるそれらのマッス(塊)はけっして無秩序な立方体ではなく、きわめて稠密に計画された美意識によって厳しく貫かれています。

会場狭しと押し寄せる黒、黒、黒のインパクト…。そのモノトーンとはおそらく人間と世界と宇宙の根源にひそんでいる暗黒物質の重力を象徴しているのではないでしょうか。会場のあちこちで渦巻き流動し続けている黒い球体から発せられる未知のエネルギーが感じられ、私たちの存在を背後から支えるとともに、私たちの未来と運命を領導している不可知な物質の力を感じさせる不思議なコレクションです。

なおこの「松谷武判展」は、来る3月28日まで神奈川県立近代美術館鎌倉で開催されています。

♪辛夷咲き野鴨繕い黄蝶舞い鶯鳴くなり弥生の廿日 茫洋

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平成の隠者、東京をさすらう 川本三郎著「きのふの東京、けふの東京」を読んで

2010-03-21 06:01:32 | Weblog


照る日曇る日第335回


川本三郎という人は、嫌なことは、しない、書かない。ただ好きな人とだけ付き合い、好きなことだけをして、好きなことだけを記事にして生活している、と聞いたことがあります。まことにうらやましい平成の隠者、聖賢のような存在ですね。

そんな川本氏がもっとも好むのは東京の東西あちこちの気ままな町歩き。それも高層ビルやキンキラキンの商業施設が建ち並ぶ「街」ではなく、銭湯と居酒屋と古本屋がある昔ながらの庶民的な「町」を選んで歩くのです。

だから本書で主に取り上げられているのは永井荷風が好んだ隅田川を越えた深川や洲崎、三ノ輪浄閑寺、荒川の放水路などですが、川本氏の町歩きのフィールドは東京の全域にまたがっており、両国や神保町、神田、東京、新橋、阿佐谷、新宿なども忘れられてはいません。

それにつけても、荷風の幼馴染井上唖々ゆかりの森下町「山利喜」、小名木川六間掘、大久保湯灌場に杖を引いた荷風散人、その荷風の足跡をたどった野口富士男氏、さらにそれらの先達を慕う川本氏が、今は無き江戸の風景のよすがを求めてさすらう姿を見ていると、現代の読者である私(たち)もまた彼らの驥尾に付して懐古掃苔の旅に出かけたいと願わずにはおられません。

私は「断腸亭日乗」を読んで以来、かつて荷風が通い詰めた新橋の「金兵衛」という一膳飯屋の所在を尋ねていたのですが、本書でそれが汐留交差点角にある天明時代創業の佃煮屋「玉木屋」の近所にあったと初めて知らされ、久しぶりに新橋を訪ねてみたくなりました。

近年大規模な開発が行われたにもかかわらず、あの辺にはまだ江戸時代から続く老舗が残っているようです。


♪東京の明るい廃墟をよろばいつわが胸に浮かぶ江戸の俤 茫洋


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アラン・J・パクラ監督「大統領の陰謀」を見て

2010-03-20 10:01:44 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.28

この映画では、70年代前半の合衆国を驚倒させたウオーターゲート事件の顛末を事実に則して描いています。なんとワシントンポスト紙の2人の新米記者の執拗な取材とスクープが、ニクソン大統領を失脚させるに至るのです。原題は「みんなニクソンの一味」ってか。

ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン扮する新聞記者は、通称「ディープスロート」、実は当時のFBI副長官の内部情報を得ながら、ニクソン再選のために資金と情報を非合法に集め、民主党候補を倒そうとする勢力(結局それはニクソンと彼の7人の腹心に直結していたわけですが)の追及を開始します。

最初はほんの断片的な情報に基づいて突撃取材を敢行し、また別の断片をまるでパッチワークのようにつなぎ合わせて事件の核心に迫ろうとする2人の悪戦苦闘ぶりがこの映画の見どころです。例えば大統領再選委員会の名簿をポスト紙の女性記者の「肉体的協力」で手に入れ、そのメンバーの自宅をアルファベット順に、しかも2度も!訪問して不正資金提供の証言を得ようとするくだりなど彼らの猛烈な記者根性には脱帽せざるを得ません。

証言を引き出す手口も斬新で、例えば「小澤幹事長、あなたは地元の企業からの不正献金をもらったでしょう?」と尋ねて「私はお金についてはつねに秘書に適正に処理させてきました」という答えが返ってきたら、この態度を、質問に対して正面から回答しない「否定の否定」とみなして疑惑ありという主旨の記事にするのです。あるいはまた自分からは積極的に証言しようとしない人物に対して、「容疑者はMですね・」とイニシャルで聞いて証言者にうなずかせたり首を振って否定させたりして確認する手法、また「もし私の推察が事実に反していたら、いまから10数える間にこの電話を切ってください」と追い詰めて確認をとるなど、あれやこれやの取材のテクニックは非常に興味深いものでした。

アラン・J・パクラ監督は、冒頭の民主党本部へのスパイの侵入事件以外さしたるアクションもないこの映画の眼目を、監督は事件記者の取材活動そのものに絞って描写していますが(もっともそうせざるを得ないという事情もあるわけですが)、テレビがニクソン再選を伝えるなかデスクで懸命にタイプを叩く2人というシーンで全編を終わらせるラストはいささか物足らない。もう少し劇的なパフォーマンスを見せてほしかったと思わずにはいられませんでした。

主演の2人はかっこいいスターぶりでしたが、彼らを激励叱咤し、社運を賭けて真実の追求と報道の自由を死守しようとする彼らの上司役のジェーソン・ロバーズがこの年のアカデミー賞をもらったのは当然と思わせる名演技でした。


1976年 アメリカ ワイルドウッド・エンタープライズ制作
【製作】ウォルター・コブレンツ               
【原作】カール・バーンステイン               
    ボブ・ウッドワード                 
【脚本】ウィリアム・ゴールドマン              
【撮影】ゴードン・ウィリス                 
【音楽】デビッド・シャイア                 
【原題】All the President’s Men


♪やっと待ち遠しい春が蝶よ花よとやってくる 茫洋
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木村大作監督の「剱岳」を見て

2010-03-19 09:01:19 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.27

新田次郎原作の山岳小説を、ベテラン映像キャメラマンが初めて監督しました。噂ではかなり過酷なロケだったそうで、特に雪山の登攀の際の滑落や猛烈な吹雪のシーンなどはほとんど命懸けの撮影だったのではないでしょうか。
かつて彼が森谷司郎監督・高倉健主演の「八甲田山」で手掛けた過酷な大自然と人間との闘争をここでもまたぞろ描こうとしているようです。

キャメラは剱岳とその周辺の春夏秋冬を美しくとらえ、大雲海の彼方にそびえる霊峰富士の姿など感嘆に値する映像を刻み、物語の最後では相争った陸軍測量部に属する主人公たちとそのライバルであった登山家たちの友愛に満ちたうるわしいエールの交換で映画のラストを盛り上げることに成功してはいますが、細部を子細に眺めるといくつもの欠点が目につき、この二時間を優に超える大作氏の大作の鑑賞をおおいに妨げています。

そのひとつが映像のセピア色の濁りを秘めたトーンです。物語が明治四〇年前後の設定なので、こういう懐かし風にまとめたのでしょうが、どうも被写体が曖昧模糊として醜くなり、見にくいことこのうえありません。この自称「撮影者」は、かつて黒沢が激賞しただけあってどんな映画でもピンだけはドオンピシャリ合っていますが、それと同時につねに画面を陰鬱かつ大仰なものに変質させてしまいます。要するに、彼の眼は濁り、彼の感性の根っこには図太くどんくさい体育会的なものが盤居していて、これが木村大作という撮影者の長所でもあれば短所でもあります。

例えば彼のキャメラは、黒沢の「用心棒」や深作の「極道の妻」たちなどでは、物語に内在する不穏な空気を醸成することに貢献して一定程度の成功を収めているのですが、高倉健が主演する「居酒屋兆次」、「駅」、「海峡」などではいうにいわれぬエグさをもたらし、溝口や成瀬や小津を好む、より映像の質に敏感な都会人たちが、劇場に足を運ぶことを視覚暴力的に阻止しているのです。

 では彼の映画監督としての初仕事はどうだったのでしょうか?
まず演出の手腕に関して大きなクエスチョンマークがつきます。あれほど苦労したはずの剱岳初登頂があんなにあっけなく描かれるとは! 前に触れた感動的なラストがそのあとで出てくるとはいえ、難攻不落の孤峰がこんなに簡単に登れるのなら誰も苦労はしないでしょう。

そのほかのシークエンスでも説明抜きで救難隊が登場したり、突然ベースキャンプに到着していたりと手前勝手な演出が目立ちます。どのカットを刻み、どのカットを残し、どの長さにするかという基本的な技術とセンスがないから、こういうみっともない仕儀になるのです。また普通のプロの監督や編集者なら、この題材をもっと効果的に二時間以内の長さで収めるに違いありません。

不慣れな監督を助けるべき池辺晋一郎の音楽も最悪です。映像がいくら剱岳の四季を描いているからといってヴィヴァルディの「四季」などのヴァイオリン協奏曲の連発はないでしょう。そして感動的なシーンにはバッハ。あまりにも安易な劇伴のやり方には憤りさえ覚えます。これでは音楽家の仕事ではなくBGM屋さんの仕事ではないでしょうか。あなたはわが国を代表する作曲家らしく、この驚異の映像に拮抗するだけのオリジナル音楽を創造して仙台フィルに演奏させるべきでした。

 最後にこの映画にかかわった全員のクレジットが「仲間に」というタイトルのもとで延々と流されますが、つねに出演者名を登場順やアルファベット順に並べているウディ・アレンならともかく、映画製作にかかわった人物やら出資者やもろもろの協力会社などを、監督・俳優・音楽・美術等の専門性や職能をいっさい明示せずに、いわば亜細亜的な一視同仁視してしまう古い体質の郷党意識には、さすがに超保守反動主義者の私といえども反発せざるをえません。

♪坂の上の風呂屋の下の道端に今年も咲きたりミモザの花が 茫洋

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フランツ・ウエルザー・メスト指揮チュウリヒ劇場管「ドン・ジョヴァンニ」を視聴する

2010-03-18 07:49:07 | Weblog


♪音楽千夜一夜第119回

止せばいいのに、昨日メタメタに悪口を言った同じ指揮者と団体によるモーツアルトを聴いてみました。これも序曲が軽薄そのもので、テンポだけはいっちょまえにフルトヴェングラーと同じくらいの遅さですが、コクもタメもないまるで蒸留水のような演奏。お前ワルトトイフェルでもやるのかよ。

レポレロの「カタログの歌」など、私がこれまで耳にした中でも最低に近い演奏で、やれやれどうなるのかと思っていたのですが、そこはほれさすがは器の広いモーツアルト、幕が進むにつれて次第に様になってきて、村娘ツエルリーナとドン・ジョバンニの2重唱などはそれなりに聴かせてくれました。

しかし「魔笛」のパパゲーノ役ならともかく、サイモン・キーリンサイドの表題役などは、明らかなミスキャストというべきでしょう。マリン・ハルテリウスのドンナ・エルヴィラ、エヴァ・メイのドンナ・アンナ、アントン・シャリンガーのレポレロ、ラインハルト・マイヤーのマゼットもすべて2、3流の歌うたい。いや別に3流でも4流でもいいのですが、モーツアルトならでは、オペラならではの劇的感興がかけらもない演奏です。

スヴェン・エリック・ベヒトルフという人の演出は間口が狭いこの劇場の奥行きを深くしてうまく幕で仕切って何層かの構造をつくり場面転換に創意工夫を見せていましたが、所詮はそこまで。天啓と霊感はついに最後の最後まで訪れない典型的な凡演でした。

それなのに馬鹿っ面下げて「ブラボー!ブラボー!」を連発しているチュウリヒ劇場の観客は、まるでどこかの国のそれに似ているようで覚えずぞっとしました。にもかかわらずこのフランツ・ウエルザー・メストという若い指揮者の評判は欧州では上々のようで、悪評嘖々だった小澤征爾の後任としてウイーン国立劇場の音楽監督に就任するとか。

こんな吹けば飛ぶよなお兄ちゃんなら、ティーレマンやガティやパッパーノの方が百層倍もマシだと思うのは私だけでしょうか。

♪あの小澤のあとにメスト!ウイーンオペラの歴史と伝統ここにパッタリ尽きたり 茫洋

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フランツ・ウエルザー・メスト指揮チュウリヒ劇場管「カルメン」を視聴する

2010-03-17 07:17:37 | Weblog


♪音楽千夜一夜第118回

2008年6月下旬から7月1日までかけてスイスのチュウリヒ歌劇場で行われた公演を収録・編集したビデオを見ました。

指揮者のメストはこのビゼーの名作オペラを♪すいすいすいったららったすらすらすいのすい、とまるで楽譜の内部を植木ツバメが通り抜けるような軽快さで演奏いたします。
山崎浩太郎氏によれば、こういう手口がいわゆるひとつのなうい(←老人語)現代的な劇伴方法で、これこそが今後の指揮の主流になるのだ、などと偉そうに抜かしております。
 しかし馬鹿たり、こんな音楽的真実から限りなく逸脱してあらぬ方向に逃走するような卑劣な演奏の、どこがオペラであり、どこがビゼーなのでしょう。お前たちはさだめしかのフルトヴェングラーのモーツアルトのダポンテオペラの劇伴など一度も耳にしたことがないのだろうよ。耳をほじってよーく聞いてみろ、愚か者よ。

また山崎氏のこのような言説は、彼が10年前に新進ひょおろんかとしてデビューしたばらいのころ、ナクソスから発売された30年代のメットのヴェルディのピコなどが指揮したCDを口をきわめて褒め称えて、かうした血沸き肉躍る狂熱的な音楽ダンスこそが、オペラ本来の醍醐味であるというお前さんの正論とてんで矛盾しておるではないか。

そういう非オペラ的な指揮者が奏でる非オペラ的な演奏にふさわしく、マチアスなんとかという人の演出も、スペインの抜けるような青空の下、わが家の愛犬ムクが兵士どもに頭を撫でられて舞台の端でシッポを振ったり!するという奇妙なものであり、カルメン役のヴェッセリーナ・ペルトゥージもフェッム・ファタールとしての妖艶さと磁力に決定的に欠け、ドンホセも、エスカミリヨも、ちょうどそれに匹敵する程度の歌うたいであり、考えてみれば、そもそもここチュウリヒ歌劇場は、かのカルロス・クラーバーが在籍した時代から、楽員の指揮と技術が落ち込んでどうしようもない3流オペラハウスであったのであり、しょせんはこの程度のカルメンしか俺たちに提供できないザマなのさ。

♪3流のオペラハウスのカルメンを涙を流して聴いているビゼー 茫洋


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