照る日曇る日 第2021回
もう半世紀以上昔のある期間、この人が出していた「試行」という雑誌を購読していたが、その内容の大胆不敵な独自性はともかく、同時代の論客に対する敬意と謙虚さを欠いた唯我独尊で獰猛な物言いに閉口して、すたこらさっさと遠ざかったことがある。
全共闘世代の多くの人が、彼を「本邦最大の独創的な思想家!」なぞと絶賛し、宣揚する気持ちはよく分かるが、いま冷静に彼の主著を読み返せば、ホンマカイナ、ソオカイナ、と眉に唾したくなるような命題や断定におめにかかることがあるのである。
またカール・マルクスその人と無数のマルクス主義者が全く違うように、吉本隆明とあまたの吉本主義者とは何の関係もない、と心得ておくべきだろう。
さて1999年から2001年にかけて書かれた、「詩人・評論家・作家のための言語論」、「僕なら言うぞ」、「老いの幸福論」、「今に生きる親鸞」の4冊を合本したのが本巻であるが、いずれも講演会での語り下ろしのように平易に書かれているので、わりあいスラスラ読める。
でも、晩年になってのその平易さが、若書きよりかえって曲者なのかもしれない。とも思うのである。
まず「「詩人・評論家・作家のための言語論」では「言語にとって美とは何か」に登場する「自己表出」と「指示表出」を、三木茂夫の方法論に絡ませているのが興味深い。
吉本は、人間の身体は植物部分と動物部分と人間固有の部分で成り立っているという。
そしてこの内臓と直結した植物部分は、人間の言葉の「自己表出」に係わり、動物部分は目や耳などの感覚器官を通じて、言葉の「指示表出」と繋がっているというのであるが、これはいささか我田引水、牽強付会に過ぎる概念れんらくといえよう。
「僕なら言うぞ」の中には吉本流の戦争論があって、シモーニュ・ヴェイユの「戦争は労働者、民衆同士の人殺しだから駄目だ」という絶対平和論を宣揚している。
また「歎異抄」の親鸞の唯円への教えを念頭に、「「何故殺人はいけないか?」と問われたら、彼にナイフを持たせて「やってみろ」といえばいい。絶対にやれないから」と答えているが、今では植松聖のように本当にやってしまう連中が出てきたので、吉本流ではダメだということが分かる。
国が戦争を始めたら「逃げろ、逃げろ」などと説くが、いったい狭いこの国のどこへ、どこまで逃げられると思っているのだろう?
「今に生きる親鸞」では、悪人正機、非僧非俗、一念義、生死不定、本願他力、自然法璽の偉大な宗教家を論じているが、私には「おのずから」を本質とする自然法璽の実体が、脳内視界茫洋として理解できない。
また、よし一念義、本願他力で浄土に行けたとしても、往相、つまり現世の諸問題(「戦争、貧困、慈善等の小慈悲」には一切係るな、浄土から此岸に「還相」した段階で大慈悲を以て万事解決するから、と説く親鸞=吉本選手には、てんで共感することができない。
かの梅原猛と同様、この人が何度の何度も繰り返し執拗に語っている個所ほど、その中身が怪しいといえそうである。
じゃったじゃったじゃったわいらあそんな人世じゃった 蝶人