あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その8

2024-06-30 09:05:10 | Weblog

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3678~82

 

1)アン・リー監督の「グリーン・デスティニー」

翠の運命なる名剣を巡ってチョウ・ユンファ、ミシェル・ヨー、チャン・ツィイーなどが繰り広げる2000年の阿呆莫迦武闘劇。タンドンが作曲しヨーヨーマが弾く主題歌も阿呆くさい。

 

2)ガース・デイヴィス監督の「LION/ライオン」

5歳の時に離れ離れになってオーストラリアの養父母に育てられた印度人の少年が、25年後に老いた母親と再会するまでの2016年の苦労話。

 

3)ヨルゴス・ランティモス監督の「聖なる鹿殺し」

父親を手術で死なせてしまった心臓外科医家族に対する少年の復讐を描く訳の分からぬ2017年の怪奇ドラマ。

 

4)ドン・シーゲル監督の「抜き撃ち二丁拳銃」

美女が悪女のオーディ・マーフィー主演の1952年の西部劇。

 

5)ウォルター・ヒル監督の「ジェロニモ」

騎兵隊に追い詰められて最後はフロリダの狭い居留地に護送されていく偉大なアッパチノの首領に身を寄せながら哀感を以て描きつくすそれなりに「良心的な」1993年の西部劇。

 

極右ともファシストとも知らないで緑のタヌキに靡く民草 蝶人

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現代詩手帖5月号「パレスチナ詩アンソロジー」を読んで

2024-06-29 08:53:45 | Weblog

現代詩手帖5月号「パレスチナ詩アンソロジー」を読んで

 

照る日曇る日 第2069回

 

英語で書かれたものだけの抄訳らしいが、いつもと違う世界史の詩集抄の特集を読むと、私の棲息している世界が、いかに疑似平和と疑似安息にみちみちた楽園であるかに気づかされて、愕然とする。

 

ここではアンソロジーの中から、昨年12月6日にイスラエル軍の爆撃の標的にされて!暗殺された詩人・作家・活動家のリファト・アルアライール氏の遺書となった作品の冒頭と末尾だけを、松下新土氏の翻訳で引用させてもらいたいと思う。

 

「わたしが死ななければならないのなら」

 

わたしが、死ななければならないのなら

あなたは、生きなくてはならない

わたしの物語を語り

わたしのもちものを売り

ひと切れの布と

糸をすこし買って、

(中略)

もし、わたしが死ななければならないのなら

希望となれ

尾の長い 物語となれ

 

このような衝撃的な詩を読んで、私は愕然とはするが、だからというて、どうする訳でもない。またどうしようもない。

 

戦争で殺されることのない日常を、葛西薫氏の表現を勝手にお借りして表現すれば、「一日一日が、大切で宝石のよう」に感じるのみなのだ。

 

        御一新の頃からの悪しき血流れ吾輩は訪日外人みな嫌いなり 蝶人

 

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西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その7

2024-06-28 11:16:21 | Weblog

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3671~77

1)エイブラハム・ポロンスキー監督の「夕陽に向かって走れ」

1909年に起きた先住民の哀しい実話を69年にレッドフォード主演で映画化した哀しいお噺。

 

2)ピーター・モーティマー監督の「アルピニスト」

25歳で散った不世出の単独行登山家、マーク・アンドレ・ルクレールの軌跡をたどる2020年の哀しい悲しいドキュメンタリー映画。

 

3)ケヴィン・マクドナルド監督の「モーリタニアン」

9.11の容疑者として悪名高きグアンタナモ基地に14年間の長きに亙って収容された無実のモーリタニア人の2020年の災難記録。懐かしやジョディ・フォスターが主演している。

 

4)タランティーノ監督・脚本・出演の「レザボア・ドッグス」

1992年の裏切り者探しのギャング映画。

 

5)ガス・ヴァン・サント監督の「小説家を見つけたら」

ショーン・コネリーとマーリー・エイブラハムが健在ぶりを見せつける2000年の文芸青春物語。

 

6)内藤誠監督の「スタア」

スタア夫妻のホームパーティ自を舞台にした1986年のドタバタ喜劇。

原作者の筒井康隆をはじめ原田大二郎、水沢アキ、山下洋輔、坂田明、タモリ、和田アキ子など多彩なスタア総出演のスラップスティックだが、てんで面白くもおかしくもないのはなぜ。

 

7)クリストファー・ノーラン監督の「フォロウィング」

趣味で他人の後を尾けていた男が陥った陥穽を描く1999年のミステリー映画の佳作。

 

いずれにせよ滅びの道を辿るらん水と油の老人に従い 蝶人

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吉田日出子著「私の記憶が消えないうちに」を読んで

2024-06-27 14:17:58 | Weblog

 

照る日曇る日 第2068回

 

きのうの黒柳徹子に続いて、今年傘寿を迎える個性豊かな俳優の半生記を読む。

 

吉田日出子は、あの「上海バンスキング」のヒロインだが、高次脳機能障害を患ってげんざい療養中である。

 

高次脳機能障害とは、交通事故などによって脳がダメッジを被り、失語、失行、失認のほか記憶、注意、遂行機能、社会的行動に障害があらわれる症状を指し、このために彼女は舞台や映画、テレビの現場から遠ざかって久しい。

 

だからこそこの本は、「私の記憶が消えないうちに」に書き残されたわけだが、その生い立ちから始まって、自由劇場をともに立ち上げた仲間たちの思い出、60年代のシュトルムウントドランクの狂乱と自由のなごりを生々しく伝えて、図らずもおらっちの興奮を呼ぶ。

 

どういう風の吹き回しか、途中では彼女の母親の問わず語りまで飛び出すのだが、これがまた抜群に面白く、「この母にしてこの子あり」と痛感する。

 

困難な重度の障害にめげず、背筋をピンと伸ばして人生の荒波に立ち向かう著者に向かって、難病回復祈願の超念力を発散放射するとともに、彼女を全力で支援する姉妹に深甚なる敬意を表したい。

 

施設では飽食の自由許されず一膳飯で痩せていく息子 蝶人

 

 

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黒柳徹子著「続窓際のトットちゃん」を読んで

2024-06-26 14:02:37 | Weblog

 

照る日曇る日 第2067回

 

42年間も待たされていた続編を、ようやく読むことが出来た。

 

この人、かなりの老齢だと思うが、記憶は鮮明、頭脳は明晰、表現は的確で、それはそれは見事な自叙伝である。

 

戦争の大混乱の中、父親が招集され、残された母親が転んでもただでは起きない牝鶏のように主人公と2人の弟妹をしっかりと抱きかかえ、疎開先の青森八戸で賢く、逞しく生き延びていく母親の姿を、著者は育ちゆく己の姿と共に活写していて、まっこと感動的である。

 

戦後トットちゃんが通うようになったカトリック系の香蘭女学校が、親戚が眠る九品仏の浄真寺にあったとは知らなかった。その女学校の校歌がなかなかいい歌で採録しておこう。

 

 深山にかおる あららぎも

 うつせば庭に におうなり

 時とところは 世のさがぞ

 咲くはわが身の つとめなり

 

この「咲くはわが身の つとめなり、は生徒たちのある種のスローガンのようになっていた」と作者は述べているが、おそらくこのフレーズが、その後のトットちゃんのドラスティクな生き方をしっかりと律したのだろう。

 

前半部で大活躍した母親や、シバリアに抑留されて出征5年後のようやく復員できたバイオリニストの父親のその後、とりわけ彼女の運命の人、偉大なるピアニスト、アレクシス・ワイセンベルクとの世紀の大恋愛についても、なにかコメントしてほしかったが、続続編を期して待つことにしたい。

 

馬場下の電話ボックスでソウちゃんが凝視していたアカマツ嬢の立派な太腿 蝶人

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西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その6

2024-06-25 09:20:45 | Weblog

西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その6

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3666~70

 

1)バルナバシュ・トート監督の「この世界に残されて」

ホロコーストに生き残った孤児と孤独なユダヤ人医師が親子のような「絆に結ばれていく2020年のハンガリー映画。

 

2)スピルバーグ監督の「オールウェイズ」

死んだはずのドレファスが、ヘプバーンの導きで恋人のホリーハンターの危機を救うという1989年の霊界物語。

 

3)スピルバーグ監督の「ミュンヘン」

ミュンヘン五輪で11人のイスラエル人選手を殺されたモサドの選抜隊長が、うち6人を殺すうちに陥っていった苦悩を描く2006年の代表作。

 

4)アキ・カウリスマキ監督の「愛しのタチアナ」

偶然知り合った男女4人。お互いに完全に無視しているようだったが、二つの魂は次第次第に相寄ていく1994年の作品。

 

5)アキ・カウリスマキ監督の「コントラクト・キラー」

世をはかなんだ男が殺し屋に殺人を依頼するが、花売娘に恋して窮するジャン・ピエール・レオ主演の1900年の人世コメデイ。映像と映像を相亙る沈黙を聞け!

 

都知事選はいますぐ降りてタヌキにはカイロで単位を取り直してほしい 蝶人

 

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晶文社版「吉本隆明全集34」を読んで

2024-06-24 09:38:24 | Weblog

「吉本隆明全集34」を読んで

 

照る日曇る日 第2066回

 

第1部はとても丁寧に書かれた興味深く正統的!?な漱石論だが、私としてはそれ以上に刺激的だったのは、第2部のメディア論、第3部&第4部の雑文短文集、そして第5部のいろんな書物の「まえがき」「あとがき」アラカルトだった。

 

しかしながらもはや小生には、それらをうまく引用しながら、ちゃんとした感想文を認める余裕も実力もてんでないので、「だいたいでええじゃないか」とばかりに、すべてを端折りながら短くコメントしてみようか。

 

近代詩にとって詩を詩たらしめるための最後の言語技術は、詩の<意味>にできるかぎり変更を加えないで散文に比較して<価値>を増殖させて、散文からの分離と飛躍を実現させることであった。「詩学叙説」

 

埴谷雄高さんが何度か与えてくれた訓戒は、いつもたった一つだった。他人をバカ呼ばわりした文章を書いたり、喋った対談など止めた方がいい、ということだった。何の意味もないじゃないかという理由からだ。「埴谷さんの訓戒」

 

天台宗の最澄が根本教典として固守し、古典主義者である日蓮が評価したのは、法華経の中にある2人の母(天上の母と地上の母)という観念だった。これは宮沢賢治も固執するところで、「銀河鉄道の夜」のカムパネラとジョバンニの母とは、それぞれ天上の母と地上の母を象徴するものとなっている。「入沢康夫と天沢退二郎」

 

マルクスは資本家個人を批判したのではなく、労働者を搾取する制度そのものを批判しただけなのは「資本論」をよめば分かる。ところがロシア共産主義がそれを労働者対資本家の乱暴な二分法へと捻じ曲げ、不毛な階級対立を煽り立てた。共産主義が崩壊したといっても「資本論」の価値は衰えていないと思います。「ファーブル昆虫記」

 

新約聖書では、「永遠」は神の属性なのだが、親鸞では、父母と子の世代的な歴史の連鎖が無限にさかのぼることと見なしうるものとして、「永遠」が考えられる。「永遠と現在」

 

吉本隆明が「西行の色」で「うぐいすの古巣より立つほととぎすあゐよりも濃き声の色かな」という歌を挙げ、「たぶん「声の色」や「風の色」を最初に感受し、感受したところを詩歌表現にしたのは、西行が最初だったにちがいない」と述べたのは慧眼だと思った。

 

また吉本は「大原富枝 碑文」で彼女を戦後最大の女流作家と位置づけ、「「この作家こそ「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。その一人は」わたしです、と言える人ではないか」と、親鸞の箴言を引いて激賞している。「婉という女」を読んでみなくちゃ。

 

高橋源一郎を最初に認めたのは吉本だった、と源一郎自身が言明しているが、その高橋源一郎論では、彼はあえてマイナスの札を出し続けて、最後の最後の突然変異で、そのすべてのマイナスがプラスに転じる「完黙の詩人」と定義しているのが面白かった。源一郎は、後ずさりしながら大きくなっていく文学者だというのである。

 

けれども吉本隆明の最も大事な発言はこれだろう。

「日本の非戦憲法だけが、唯一、現在と未来の人類の歴史のあるべき方向指していることは疑問の余地がない。それなのになぜ日本の政治家や政党は、日本国憲法の主意に沿ってそのことを国際的に提起しようとせず、最悪の歴史、最悪の未来を齎す傾向に追従しようとするのだろうか?」「超戦争論下まえがき」

 

伯父さんのフェラーリの助手席で我もセレブの一員となる 蝶人

 

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島田修三歌集「帰去来の声」を読んで

2024-06-23 10:00:39 | Weblog

 

照る日曇る日 第2065回

 

作者は日本古典文学研究者で、短歌結社の「まひる野」に入会し、長く窪田章一郎に師事した歌人である。

 

なんで「辞」じゃなくて「声」なのかと訝しみつつ読んだが、なかなか腹に一物、2物、3持つ、の豪の者で、興味深い人物による、面白いくて為になる歌集だった。

 

 起き出でて「人生いろいろ」を歌ひをる妻のこころは分からぬがよし

 

 お返しと仕返し同義と思ひこむカナダ娘を正さむか否か

 

 誰もたれも損したる思ひに収まるを落着とせむ

 

 ★ひとつあはれ五十円なりしころの岩波文庫や希望のごとしも

 

 俺ほどの不憫はなしと嘆く日もありき歎きて貪婪に喰ひき

 

 島田君、飲んでいくかい、章一郎先生のこゑ忘れせぬかも

 

 朝は起きぬ細君なりき時に狂るる人に添ひつつその二十年

 

お父さまは不意に怒りだす人にして筆子も恒子も明治も幽けし

 

『三四郎』初版あはれ全額「筆子のピヤノ」に充てられしとぞ

 

『宇治拾遺物語』なぞ莫迦らしく漱石おもひき死にかけながら

 

璽今以後貴下の尽力待たざりといふ書簡などもあはれは深き

 

『新明解国語辞書』のもの深さ「魔羅」引きたまへ感じ入るべし

 

ニキニキニキ、二木の菓子 三平のこゑよみがへりもの狂ほしも

 

そののちの平山周吉たえも知らずむろん在らざり「おばけ煙突」

 

もういいだろう。引用はこれくらいにしておこう。

 

「お父さん、ボク自閉症?」と聞かれたがすぐには答えが出てこない 蝶人

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西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その5

2024-06-22 12:42:35 | Weblog

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3661~65

 

1)フレッド・ジンネマン監督の「地上より永遠に」

真珠湾攻撃の舞台で米軍の兵士たちが思い思いの恋に没頭している姿を、当時の帝国軍人の生活と対比しながら見物するのも一興。1953年の佳作。

 

2)ピーター・イエィツ監督の「ホット・ロック」

レッドフォード、ジョージ・シーガルなどが出る1972年の面白くもない強盗喜劇映画ずら。

 

3)ディーン・パリソット監督の「REDリターンズ RED2」

ブルース・ウィルス、マルケヴィッチ、アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミレンなどによる2010年のドタバタアクション映画。みな年を取ったずら。

 

4)グレゴリー・マーニュ監督の「パリの調香師」

気難しい調香師エマニュエル・ドゥヴォスと平凡な運転手グレゴリー・モンテルが織りなす奇跡と感動の2019年の物語。

 

5)アナトール・リトバグ監督の「暁前の決断」

1951年製作の戦争実話。オスカー・ウェルナーが独軍を裏切って連合国のスパイに殉ずる壮絶な悲劇なり。

 

いったんはヒグチさんチに入った蛇が思い直して我が家に入る 蝶人

 

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鏑木清方記念美術館で企画展「子どものまなざし」をみたんだが、すっかり忘れていたよ

2024-06-21 09:57:05 | Weblog

鏑木清方記念美術館で企画展「子どものまなざし」をみたんだが、すっかり忘れていたよ

 

蝶人物見遊山記第383回&鎌倉ちょっと不思議な物語第463回

 

この春、小町通りの片隅でひそりと開催されていたこの展覧会へ行ったことを、鶯に混じってときたま不如帰が鳴く今頃になって思い出した。

 

清方は明治、大正、昭和の着物姿の婦人像もよろしいが、それにもまして舞妓や市井の子供たちのあどけない姿が最高だ。

 

本展の白眉は彼の愛娘清子の四歳像で、この世に、これ以上愛らしい日本画があるとは思えない。

 

 

親しみを覚える唯一無二の候補者は96歳ドクター中松 蝶人

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池田澄子句集「月と書く」を読んで

2024-06-20 11:28:48 | Weblog

 

照る日曇る日 第2065回

 

たまには俳句の本でもと思って、パラパラめくってみる。

 

私が好きなのは、映画だと、映画を超えた映画、小説だと、小説を超えた小説、音楽だと、音楽を超えた音楽、詩だと、詩を超えた詩が好きなのだが、この人には「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」のように時々俳句を超えた、あるいは超えかけた純乎たる時空があるので、注目に値するのである。

 

或者曰く。超えてからどこへ行く? んなこと分かるわけないじゃん。でも、もしかするとあの世かも。しかし超えないより超えた方がいいに決まってる。

 

それでは慣例に従っていくつか作品をあげておこう。

 

明けましてあぁ唇が荒れている

 

ひめむかしよもぎと言ってみてしあわせ

 

花ふぶき知らぬ同士のわーっと言う

 

心よりと書いてしまって春深し

 

春寒き街を焼くとは人を焼く

 

8.15.正午PCシャットダウン

 

アイライン入れたら泣くな敗戦日

 

伸べし手をウフッとよけたでしょ揚羽

 

カラスただしくアーッアーッと夕桜

 

神様は何処にどうして梅は蘂

 

藤圭子の歌なら大好きなんだけど娘の歌は珍紛漢紛 蝶人

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西暦2024年水無月蝶人映画劇場 その4

2024-06-19 11:23:05 | Weblog

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3657~60

 

1)トム・フォード監督の「ノクターナル・アニマルズ」

ヒロインの孤愁と元夫の過激で暴力的な幻想という2つの世界をジェイク・ジレンフォールという男優の共通項で強引に結び合わせようと苦闘しているが、水と油のように融合しないままで終わってしまう。取柄は冒頭のグロテスクな超肥満女と恐ろしいまでに美しい夜の大都会の俯瞰ショットくらいか。ともあれ監督が服飾業界の令名をかなぐり捨ててあえて別乾坤を立ち上げた猛勇は称賛に価しよう。

 

2)ジョン・フランケンハイマー監督の「終身犯」

2人を殺害し54年間刑務所で生活しながら世界的な鳥博士として令名を馳せた実在の「鳥男」ロバート・ストラウドを、バート・ランカスターが演じた1962年の牢獄映画なり。

 

3)スティーヴン・ベルバー監督の「コンフェッション」

あるバレエダンスの振付師を巡る思いがけない2014年の人世人情夜話。

 

4)ルネ・クレール監督の「自由を我等に」

2人のバガボンドが再び自由を取り戻すまでを描くが、完全オートメ化された労働者経営の工場が果たして労働者のパラダイスになるだろうか。1938年のチャップリンの「モダンタイムス」の強制労働、1962年、ギャバンとドロンが共演した「地下室のメロディ」のラストで札束がカバンから流れ出るシーンは完全に1931年の本作のパクリなり。

 

5)べルナルド・ベルトリッチ監督の「暗殺の森」

ファシストのトランティニアンがリベラルな教授を殺せず、愛してしまったその妻ドミニク・サンダも救えないという無様さを露呈する1970年の奇妙なスタイリッシュ映画。

 

大谷が20号を打ち込めばバックスクリーンから鳥が飛び立つ 蝶人

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佐藤幹夫著「「責任能力」をめぐる新・事件論」を読んで

2024-06-18 10:02:57 | Weblog

 

照る日曇る日 第2064回

 

本書は、著者がこれまでに追及してきた、障害者の「責任能力」をめぐる論考の、いわば中間総括の1冊とでもいえばよいのだろうか。

 

1997年2001年の浅草のレッサーパンダ帽男による短大生殺人事件、17歳の少年による2005年の大阪寝屋川の小学校教師殺人事件など、健常ならざる人物による不条理な殺傷事件をめぐる裁判を次々に俎上に載せて、「かれら」がどのように裁かれてきたか、を考えていこうとしている。

 

そして警察と検察、弁護士と裁判所の間で、「かれら」に対する「刑罰」と「治療」、「保護」と「厳罰」の相反する方針が、時代と政治と社会の変遷の中で、激しく揺れ動いてきた軌跡がくっきりと浮かび上がってくるのである。

 

けれども私が本書を読んでもっとも共感したのは、養護学校勤務20年のキャリアを持つ著者が「あとがき」の最後にゴチック体で印された次の一文であった。

 

「最後にもう一度、お断りしておきたい。発達障害と総称される「かれら」は犯罪の予備軍ではない。「障害」が犯罪に直結するわけではないし、社会的に危険な存在でもない。どうか危険視しないでいただきたい。むしろ人をだましたり、策を弄して貶めようとしたり、進んで暴力に訴えたり、そのようなことの大変不得手な人たちである。事件の加害者となることは、きわめてレアなケースである。そのことをどうか理解していただきたいと思う。」

 

そうなのだ。その通りなのだ。

「かれら」は、自閉症なるレッテルを張られた私の息子や、同じ施設やホームにいる仲間と、まったくおなじ存在なのだ。

 

それなのに、そのきわめてレアなケースだけを、マスコミが興味本位にフレームアップすると、何の知識も節操もないキャスターとか芸能人とかなんでもコメンターたちが、針小棒大に大騒ぎするので、世間一般もなだれを打って追随してしまい、「責任能力」があるのかないのか、本人も、関係者も、専門家すら分からない障害者を、山から下りてきたヒグマのように凶暴で恐ろしい動物のようにみなして、遠まきにするのである。

 

そんな「かれら」の生きる苦しみと悲しみに、それこそ1ミリでもいいから積極的に近づこうとする努力を払わない限り、「かれら」をまっとうに裁く資格はないだろう。

 

    ジャンケンに負けたホタルに負けたので生まれてきたのが我が家の長男 蝶人

 

 

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夢は第2の人世である 第137回

2024-06-17 11:18:56 | Weblog

 

西暦2024年弥生蝶人酔生夢死夢百夜

 

那智の滝の滝壺に棒立ちになって「グ、ググッ、ギャガアアアオ!」と叫んでいる裸男がいるので、「お前さんは誰だ?」と尋ねると、「ワシはヨシマツゴウゾウだあ」と答えた。3/1

 

クラス担当のトミタが、高2のオレが到底実現不可能な使命を次々に下すので、頭にきたオレは、ベランダから校庭を見下ろしている彼奴の両足を担ぎ上げて、コンクリの地面に突き落としてやった。3/2 

 

人気巻き返しの一世一代、乾坤一擲の最新作「ヨオキヒ」の製作に際しては、当代一流のプロデューサー、役者、演出、スタッフを取り揃え、それこそ万全を期したのだが、「これがもしこけたら」と思うと、身の毛がよだつ。3/3

 

「じゃあ今度は、ランスの大聖堂で会おう」というて、竹馬の友と別れたのだが、ついにそれきりになってしまった。あの時握手して、手を、ギュッと握っておかなかったことが、じつに悔やまれる。3/4

 

本番に備えて、脚本に添付した香盤表を作り、物語の流れと、各シーケンス毎の登場人物、科白、ト書き、5W1Hまで書き加えたのだが、その甲斐もなく、初演は大コケにコケた。3/5

 

吾等3人組は、海と山に囲まれた半島の先端の村に住んでいた。やがて戦争になり、2人の友人は戦場へ行ったが、私は徴兵を忌避して、裏山に身を隠し、草木を食べ、露を飲んで生き長らえて、終戦を迎えたのだが、友はついに還ってこなかった。3/6

 

誰よりも優れたと思う歌を詠んでも、だれ一人認めてくれないので、俊成のおいらは、「やはりもうちょい身分が高くないから、こうなっちまうのか」と、僻んだのよ。3/7

 

この避難所では、一食380円の定食が出されるので、とてもうれぴい。毎日ここでこれを食べて、そこにある黒い椅子に座っていると、心も落ち着くのだ。3/8

 

予の大詩集を読んだ会社の先輩たちが、予の後輩のサカイ君の詩集を出そうと画策していると、そのまた後輩のアオキさんが教えてくれたので、予は激しく嫉妬してしまったのだが、考えてみると、サカイ君はとっくの昔に泉下の人になっているので、どこか変だ。3/9

 

飛行場の荷物場を、ぐるぐる回転寿司のように、いつまでも回っていた、赤白青の3つの荷物が、とうとう競売に付されたようだ。3/10

 

宇宙工学の専門家が不足している、というので、引退したはずの私とカド君が呼び戻され、毎日横須賀線で通っているのだが、毎晩終電ギリギリなので、東京駅まで全力疾走を強いられるのだが、ふと脇を見ると、カド君は屋台の中華ソバを食っているのだが、さてどうしたものか。3/11

 

地図には「取り付く島」と書いてあったので、「万難を排して取り付こう!」と、懸命に試みたのだが、結局取り付く島などなかった。3/12

 

懐かしい蒸気機関車が停まっていたので、即乗り込んだが、新橋品川間で脱線、転覆し、火の玉になって炎上し始めたので、気分転換に、ブルックナーの4番をかけたのよ。3/13

 

どたまがいかれているそいつのセガーチーニ論というタイトルの卒論は、一読するだけでも大変だったのだが、なんべん読んでも意味不明なので、こいつを卒業させるかどうかで、教授会はおおもめにもめている。3/14

 

突然、微細物測定器が作動して、「極小物を破壊せよ!」という指令が下されたので、ニシダは、タイワンリスの卵を、こっぱみじんにした。3/15

 

一袋100gの表示で販売されていたカッパエビセンを、微細物測定器で軽量してみると、98gから102gまでバラツキがあったので、「もっと正確に配給し、足らないよりは増量するように」という上層部からの指示があった。3/16

 

東海道線に乗った時、東京駅から新橋、品川を過ぎて、大船から藤沢を経て小田原の辺で、黄色いバナナがふさふさ生っているのを見つけた。黄色いバナナは、ひとふさ、ふたふさ、みーふさ、ヨーふさ、全部でなな房ありまして、それらがだんだん色づいてくる。3/17

 

バナナは、白っぽい黄色から、次第に熟して濃い黄色になって来る。そして、黄色みが増すに連れて、だんだんウマソーになってくる。3/18

 

忘れもしない10月16日のボクの80歳の誕生日、今日こそバナナを収穫しよう、と東京駅から新橋、品川過ぎて、大船から藤沢、小田原を経て、熱海駅で降りて、白い砂浜をサクサク踏んで歩き、ドンドコドンドコ黄色いバナナを探して歩いたが、黄色いバナナは影も形もなかったのよ。3/19

 

「あなたの部屋の、あのごちゃごちゃのビデオとか、CDとか、オーデオセット一式を、全部捨てて、すっきりさせませう」と彼女がいうので、一時はその気になったのだが、結局は、元の木阿弥になっちまったよ。3/20

 

池田ノブオがジャンプ一番、教育勅語を破り捨てた。3/21

 

またしても、革命的ポップスを唄って、一躍超人気者になった若者。これまでは超ウザイ奴らとしか思っていなかったのに、まぢかにみると、やはり人物も実力も相当なものがあったので、おらっちは衝撃を受け、始発電車の中で突然糞したくなったのだが、必死で我慢しているとこ。3/22

 

われは、いつものようにある意図を以て、ベルクの全作品を聞き始めたのだが、そのうちに、最初の意図などどこかに忘却してしまい、ばらばらに分断された脳細胞毎に、ベルクの音楽を、ひたすら聴き始めたのだった。ひたすら分散的に。3/23

 

ともかくこの音楽祭の雰囲気は、独特だったので、プログラムの中身とは関係なく、毎年夏になると、人々は避暑を兼ねて、三々五々やって来るのだ。会場の真ん中には、いつものように、横長の巨大な伝言板が据え付けられていて、そこには「俺は食堂にいる」と大書し、隣に愛称やケータイ番号を書き添えたりしてあった。3/24

 

ふと見ると、左にA嬢、右にB嬢が立っていた。2人共とも若くて美しいので、私は思わず2人を抱きしめて、接吻したりすると、とても懐かしい良い匂いがしたのでありましたっ。3/25

 

世界一決定戦の後楽園ホールを飛び出して、帰宅しようとしたが、その途中文京区の古い家並をみて、「ここらへんで残りの人世を過ごそう」という意思を固めたが、半ズボンのチャックが開いて、我の陰毛が丸見えになっているのに今頃気付いて、素知らぬ顔で閉じたところです。3/26

 

そこに東京駅行きのバスがやって来たので、飛び乗ったら、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが座っていたので、「ひさしぶり、今日は後楽園で世界戦を見物していたんだよ」というたが、なぜかおらっちの話が、てんで分かっていないようだった。3/27

 

そうこうしていると、広島で抗争している生きのいいヤクザが、いきなりおらっちの腹の上を、2カ所もドスで刺しやがったんだが、幸いかすり傷で、なんとかかんとか事なきを得たんだ。3/28

 

でも、駅での集会が終わってからが大変。西口の改札前で迷彩服を着た屈強な兵士にいきなり抱きすくめられたので、必死に藻掻いていると、彼奴がなにかもっと大切な用事を思い出したように手を緩めたので、なんとか振りほどいて東口方面に逃げることが出来たんだ。3/29

 

喫茶店の2階から交差点を見下ろしていたら、煙草を吸いながら自転車に乗っていたケンちゃんが、ヤクザにぶん殴られている。すぐにも助けに行きたいと思ったが、お客さんと話しているので、そうもいかない。3/30

 

浅いが綺麗な海の中で、小さな魚や海藻がゆらゆら揺れるのを見ていると、時が経つのも忘れてしまう。ふと気が付くと、私は水の中でも呼吸が出来るようになっていた。3/31

 

       その昔葉山から来た台湾リスはたちまち鎌倉を征服したり 蝶人

 

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復本一郎編「正岡子規スケッチ帖」を読んで

2024-06-16 11:31:30 | Weblog

復本一郎編「正岡子規スケッチ帖」を読んで

 

照る日曇る日 第2063回

 

正岡子規が彼の短い生涯の最晩年の3ケ月に、毎日出てくる高熱をモルヒネで沈静しながら、しかも万年床で仰向けに仰臥しつつ、まるで遺書のように描き残したスケッチが岩波文庫に入りました。

 

明治39年6月から8月まで描かれた「果物帖」に加えて、明治35年8月の「草花帖」と「玩具帖」の3冊ですが、いずれも中村不折からもらった水彩絵の具で描かれた彩色画です。

 

文庫本の後半にはこのスケッチ帖を巡る寒川鼠骨、下村為山、夏目漱石の感想文が収録されていますが、晩年になってから神経衰弱的に奇妙に疲弊した南画を描くようになった漱石は、子規から貰った1点の東菊の絵を「拙くて真面目である」と評しています。

 

同じ「拙くて真面目な」素人の絵でありながら、子規の明るく澄み切った清明さに比べて、漱石の南画の世界の病的なまでに暗鬱なこと。余技として描かれた2枚の絵が、2人の天才の相反する個性を雄弁に物語っているような気がします。

 

それはさておき、子規のスケッチ帖に戻ると、確かに本業の詩歌や散文と違って素人の絵なので、「拙くて真面目」は仕方ないのですが、その素人の絵を、専門家の下村為山や中村不折が「プロにも描けない驚嘆すべき出来栄えである」と手放しで絶賛しているのはどうしてでしょう?

 

ここで私は、はしなくもクラシック音楽の演奏会での実体験を思い出しました。

むかし2年間ほど東京の全部のオーケストラと時々来日する外国の有名な交響楽団の演奏を全部聞きまくっていた時のこと、初めは物珍しかった彼らの演奏が、日が経ち回を重ねるにしたがって、次第につまらなくなってきました。

 

ちょうど手持ちの資金も無くなってきたので、もうそろそろ外来オケや定期通いもよそうかと思っていた時、たまたま耳にした大学のアマチュア交響楽団の演奏会は、そんな耳糞だらけの耳を一気に洗い流すような衝撃でした。

 

彼らは多少の瑕瑾はありつつも、屈指の専門家集団のどこにも求めることが出来ない、音楽に奉仕することの純一無雑な喜びと感動、そして若々しい情熱に満ち溢れていたのでした。

 

それ以来、「マンネリのプロより一期一会のアマ」というのが、私のささやかな確信になりましたが、それはもしかすると音楽だけではなく、絵画や芸術活動全般にまで拡大することが出来る、知られざる格率なのかもしれませんね。

 

来年のG7では各国の首脳の首がみなすげ変わるかも 蝶人

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