あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2010年神無月茫洋花鳥風月人情紙風船

2010-10-31 07:32:16 | Weblog


♪ある晴れた日に 第81回


渓谷の小道をゆくは人か魔かげに美は恐るべきもののはじまり

グーグルで検索すればわが家の玄関口に靴の並べる

10月の16日に蝉が鳴く誰かさんの誕生日を祝うがごとく

人格が毀損汚染されているからあらゆる制度が劣化する

とっくに括弧に入れられた純粋理性をゴキブリどもが喰い散らかしている

おシャモジは奇麗に洗ってくださいね何回言ってもあなたは聞かないけれど

台所の流しの隅の物入れに髪の毛が入った風呂水を捨てるのは止めてください

邯鄲鳴く桜ケ丘の駅前で旅行帰りの息子待ちおる

読んよし眺めてよし一粒で二度おいしいイソップ物語はいかが

読めども読めども滓ばかりこれがほんとの一巻の終わり

難しいことをもっと難しくその難しいことを浅はかにその浅はかなことを面白おかしくさわぐ世間よ

○○ちゃんほどいい子はいないと言ってみる

モーツアルトは何故殺されたのかとひと晩じゅう考えていた

胃にバリウムを満載しわれは真っ逆さまに墜落せんとする老戦闘機

バリウムを呑まされた蝙蝠の如く必死で鉄棒にしがみついている
あと何年こんな芸当に堪えられるのだろう

右からって言うとるのになして左から回るあんた日本語分かっとるんかね

胃検診上杉謙信遺賢臣意見親

白い庇に降る雪は過ぎし昔の思い出か

死に急ぐカマキリを道端に放つ

人間が2人居ればそれが演劇のはじまり

ああ人の世は魑魅魍魎の百鬼夜行

雲去領寂もう鳴かぬか蝉

一粒の栗の実の比類なき充実

小夜更けてここだも集く虫の音かな




仕事来い来れば困るでも来ないよりいい仕事来い 茫洋


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ジャン=リュック・ゴダール監督の「ゴダール・ソシアリスム」を見る

2010-10-30 11:10:18 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.40


今年12月に米寿を迎えるゴダールの最新作の試写を見ました。その原題が「FILM JLG SOCIALISME」というのだからちょっとした驚きです。

しかしゴダールに社会主義なぞというなまぬるいレッテルは似合わない。もしかするとはじめは資本主義に気押されて不人気な社会主義を応援しようとして企画されたフィルムかもしれませんが、この映画は、世界中で狂奔する金融資本主義の危機をアトランダムに摘出しながら、あらゆるイデオロギーを超越したゴダール哲学の詩的アフォリズムがさく裂します。

全体が3つの映像楽章にわかたれ、アレグロの第1楽章では、混迷する現代世界の住人たちをノアの箱舟のように満載したゴダールの「酔いどれ船」が、嵐の海に船出するという波乱の幕開けですが、その冒頭の海のシーンのなんという美しさでしょう!
今年のカンヌ映画祭の観衆の目をいきなりくぎ付けにしたというのもむべなるかな、です。

第2楽章は仏スイス国境近くのガソリンスタンドの周辺で生きる家族を主人公にして「EUの危機」がアダージオで歌われます。資本と労働、親子の世代対決はこんな寒村のすみずみにまで浸透し、私たちが慣れ親しんだ旧秩序を日々解体し続けているのです。

そして最後のアンダンテ楽章では、人類の始原を尋ねてエジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシア、ナポリ、バルセロナを放浪したゴダールの「酔いどれ船」が、さまよえるオランダ人船長になり変わって旧世界の死滅を宣言し、滅亡寸前の人類へのかすかな希望を表明しているような気がします。

「太陽を襲ってやる。太陽が襲ってくるなら」(本作品の箴言から引用)

頻出する美しい映像と世界を激しく定義する箴言は、あるときは異様なコラージュとして衝突し、またあるときは乱舞する音声と三位一体となって私たちの心身を直撃します。全篇これ箴言と映像のシュールなモンタージュ! これこそモラリストゴダールが、1988年から20年を費やした「映画史」で完成させた世界認識の弁証法なのです。

老いてますます意気盛んなJLG。次回作「Adieu au langage」に期待しましょう。


権力が法を蹂躙するなら、こっちが権力を蹂躙するまでだ ゴダール&茫洋

*「ゴダール・ソシアリスム」は、12月18日より東京有楽町TOHOシネマズシャンテで公開。11月27日からは「ゴダール映画祭」も開催されるそうです。
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ジョエル・オリアンスキー監督の「コンペティション」を見て

2010-10-29 08:42:08 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.39

昔この映画を見たときは、音楽コンクールの内幕暴露が新鮮でけっこう夢中になって観賞したものでした。あれは1980年だからもう20年も昔になるのですね。

30歳になんなんとする主人公リチャード・ドレイファス君が、サンスランシスコで開催される権威あるピアノ・コンクールに挑戦、年齢制限のラストチャンスに賭けるのですが、恋敵(エイミー・アーヴィング)にあえなく敗れ、「勝っても負けても仲良く生きよう」と誓った2人はさあこれからどうなるのか、と思わせつつ、キャメラはパーテー会場から遠ざかるのですが、今回はそのキャメラの粗雑さに目を見張りました。ほとんど素人の技術ですねこれは。いまどき大学の映画愛好会だってもちょっとましな撮り方をします。

お話の中身もかなり粗雑です。コンペ前夜にライバルのはずだった2人が、どういう風の吹きまわしか一夜を共にしてしまうという信じられない破廉恥カンカン。たしか避妊をしていなかったようですが、その後大丈夫だったのかなあ、と下らないことが気になりました。

最終予選に残った国籍も人種も様々な6人が、ブラームスやらサンサーンスやらいろんなコンチエルトを競奏するのですが、これがみないい演奏。それもそのはずでロスフィルがちゃんと演奏しているのです。(会場はサンフランシスコなのに!)

優勝候補の2人は男が「皇帝」を、女がモーツアルトの「26番」を弾くのですが、26番の出だしでピアノの調律が悪いと言って指揮者にクレームをつけた女は、突然モーツアルトを止めてプロコフィエフの3番を弾く!のですが、これが代打逆転サヨナラ満塁ホームランで、皇帝を凌ぐ名演奏。なんと私の大嫌いなプロコフィエフが、私の大好きなベートーヴェンをやっつける!という奇跡が起こってグランプリを射止めます。

しかし私がひそかに考えたところでは、実はこれには裏があって、リハーサルの際に伴奏のベートーヴェン解釈に異議を唱え、楽員の喝采を博したドレイファス選手を恨んだ老練指揮者(サム・ワナメーカー)が、本番の第3楽章の頭の入りをわざと妨害し、全体としては素晴らしい5番の演奏に卑劣な意趣返しをします。そしてその瑕瑾がプロコフィエフに名をなさしめる結果を生んだのでした。

それだけではありません。モーツアルトからプロコフィエフへの突然の曲目変更を指揮者に呑ませたのは、他ならぬエイミー・アーヴィングちゃんの女教師でした。今から10年目、この美貌の女教師が教え子のエイミー選手と同じようにコンペに挑戦したとき、「おいらが何とか賞を取らせてやるからな。その代わりに……」というおいしい話で処女を奪ったのが他ならぬこの指揮者だったのです。

江戸の敵を長崎で討った女教師は、夜のシスコで女一人凱歌をあげたのでした。



グーグルで検索すればわが家の玄関口に靴の並べる 茫洋

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182人のイラストレーターが描く「新訳イソップ物語」を読んで

2010-10-28 08:54:09 | Weblog


照る日曇る日 第384回

イソップ物語を手にするのはラ・フォンテーヌの「寓話」を読んで以来ひさかた振りのことです。しかもこの本には一話一話に東京イラストレーターズ・ソサエティに所属する有名な挿画家たちのイラストが添えられているので、それこそ一話一絵、読んでから見るか、見てから読むか、あるいは読みながら見るかという3通りの楽しみ方ができるというわけです。

イソップはキリストが生まれる600年くらい前の古代ギリシアのフリギアで奴隷として暮らしていた人ですが、彼が書き残したこの寓話を読むと、非常に教養があり人と世の中を見る目があったことがよく分かります。

中でも「「北風と太陽」(絵・水口理恵子)や「カメとウサギ」(絵・伊藤彰剛)、「セミとアリ」(絵・100%ORANGE)などは世界中であまねく知られていますし、マルクスが「資本論」の中で引用した「ここがロドス島だ。ここで跳べ」という名台詞が出てくる「ほらふき男」(絵・佐藤直行)や、毛利元就の3本の矢の教訓を盛り込んだ「兄弟仲が悪い息子を持つ農夫」(絵・成富小百合)、“パンドラの箱”の逸話の嚆矢となった「良いことが入った壺とゼウス」(絵・羽山恵)などは、文学史的にも意義ある記録といえましょう。

しかし著名な寓話といっても、要するに人間界に起こる悲喜劇を動物界に置き換えた「教訓話」なので、少し強引な例え話や意味不明な話も混じっています。
オオカミやヒツジやキツネやロバやカラスやイヌやウシやヤギやカエルたちが主人公のたとえ話を続けざまに読んでいくと、だんだん嫌になってくる。
そこで読み手を助けてくれるのがわが国を代表するイラストレーターのあの手この手のビジュアルである、ということもできるでしょう。

例えば、旅人が最初軍艦かと思っていたらなんと1本の流木だったという「旅人と流木」のイラストを担当した安西水丸さんは、「何ともつまらない話でしたが、少しでも面白くなればとおもいこんな絵にしてみました」と語っています。

 このように本書は、イソップ選手の調子が最悪のときでも、あんじょうエンターテインメントしてくれる素晴らしい絵本でもあるのです。


読んよし眺めてよし一粒で二度おいしいイソップ物語はいかが 茫洋


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世界文学全集「短編コレクション1」を読んで

2010-10-27 08:40:48 | Weblog

照る日曇る日 第383回

河出書房新社から出ている池澤夏樹個人編集にかかる文学全集の短編集を読んでみましたが、その大半が私にはつまらないものばかりなので、池澤という人はこれらの作品のどこがどのように面白くてピックアップされたのか尋ねてみたいと思ったほどでした。

 しかし、全部駄目なぞという乱暴を言おうとしているのではありませぬ。

ノーベル賞作家、高行健の「母」は、功成り名をあげた作家が、海よりも深く、山よりも高い母親の恩義にいささかも報いることのなかったおのれの非道振りを鋭くえぐります。

作家はみずからの親不孝を、血涙を流しながら物語ります。

母親は遠い田舎で身罷り、息子はとうとうその死に目にも会えませんでした。しかしその冷酷で自己中な息子の態度は、私のそれの生き写しであり、他人事とは思えず読みながら亡き母を懐いて滂沱たりでした。

あとの19編から採るとすれば、金達寿の「朴達の裁判」、リチャード・ブローティガンの「サン・フランシスコYMCA讃歌」とお馴染みレイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」くらいのものでしょうか。

まことに期待はずれの情けない一巻でありました。


読めども読めども滓ばかりこれがほんとの一巻の終わり 茫洋

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神奈川県立近代美術館鎌倉で「岡崎和郎展」を見て

2010-10-26 08:24:13 | Weblog


茫洋物見遊山記第43回&鎌倉ちょっと不思議な物語第230回


雨の日に無人の美術館で現代美術を眺めるのも乙なものだ。岡崎という人の経歴も作品歴も何も知らないままにしおだれる軒をくぐって古い建物に入ると、そこには純白の精神世界が沈然と繰り広げられていた。

壁面の至るところに真っ白な庇が築かれている。庇といっても家の庇ではなく、庇に似たような出っ張りである。そのあるものは人の眉のように見え、またあるものは鳥のように、またおできのように、部屋のフックのように、盲腸のように、しまいには不吉な生物のように思えてくる。白くシンプルな形状をした様々な庇が、多様で複雑な表情を湛えて看る人の心をあらぬところへいざなっている。

無意味の意味といえばダダイズムだが、実際にこれは一種の無意味な挑戦であり、らちもない夢魔であり、時流に無関係なアナーキズムでもある。よってそれらをじっと見ていると、次第に理性がかく乱され、気が狂いそうになるのが分かるが、その手に乗ってはいけない。平地に静かなる大乱を起こそうとするのが、つまりはそれが作者の狙いなのだろう。

そのくせ白い庇から眼を放せば、すかさず作者は見る者を突き放すからたちが悪い。庇コレクションに混じって、白いキューピーちゃんや怪獣ガメラが現れてホッとしたが、
「補遺の庭」と題された今回の展示会の意図など、私のような無知蒙昧の徒には七度死んでも分かるはずはないが、「庇シリーズに飽きたら、周りの美しい樹木と水をホイホイ見てね」というような意味でもあるのだろうか。

作者よりも、こんなチンプンカンプンの作品を私蔵する人物に興味を懐いた不思議な展覧会であった。


白い庇に降る雪は過ぎし昔の思い出か 茫洋


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神奈川県立近代美術館鎌倉別館で「保田春彦展」を見て

2010-10-25 08:29:15 | Weblog


茫洋物見遊山記第41回&鎌倉ちょっと不思議な物語第229回


こないだ横浜で見たドガのデッサンは予想外につまらなかったが、鎌倉の別館で見た保田のそれはつまらないどころではなかった。

この違いはどこから来るのかと考えると、前者が制作の途次そのものの残骸としての未完成品であるのに対して、後者がまったき作品として見事に完成されている点にあるだろう。ドガは眼の修練ないし油彩への一課程、あるいは趣味の手習いとして踊子を凝視しているのに対して、保田の視線は女体を貫徹し、妻やモデルの頭や手足や胴体をバラバラに解体しながら、同時並行的にオブジェに再構築し、それらの部品を批評し、観賞し、スケッチし直しながら、ふたたび生身の女体に勢いよく回帰してくる。

かつてセザンヌやピカソが、このプロセスの往路に精力を注いだのに対して、保田は同じエネルギーを還路にも注いだ。だから彼の裸婦のデッサンは私たちをかくも惑わし、撹乱し、限りなく惹きつけるのだろう。その激烈な眼と精神の往還そのものが、保田芸術の真髄である。

最近の大病で死にかけた作者は、患者となった自分や医師や看護師などを同じやり口で荒々しくスケッチしている。これぞ恐るべき百鬼夜行のライブ・ペインテング。生と死と魑魅魍魎が手術室で乱舞している。


ああ人の世は魑魅魍魎の百鬼夜行 茫洋

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「井上ひさし全芝居 その六」を読んで

2010-10-24 15:18:22 | Weblog


照る日曇る日 第382回


昔昔貧乏な学生時代の私は、主にNHKの舞台大工のアルバイトやビル建築の真夜中の肉体労働でかろうじて生活していました。NHKにおける泊まり込みの主な仕事は「歌のグランドショー」と「ひょこりひょうたん島」のスタジオのセッティングでしが、後者の人形劇の作家の一人が井上ひさしという人物であることを知ったのは私が見事リーマンになりおおせた後のことじゃった。

彼の本業である演劇はテレビでしか見たことがなかったが、宮沢賢治の父親を佐藤慶が演じた「イーハトーボの劇列車」や樋口一葉の薄幸の生涯を描いた「頭痛肩こり樋口一葉」にはいたく感動し、いずれは彼の劇作品をのこらず見物してみたいという希望を抱いていた矢先にこの春に急逝してしまった。

それでという訳でもないが先日は小説の遺作「一週間」を読み、続いてこの本をひもといてみたという次第です。

本巻に収められたのは「父と暮らせば」「黙阿弥オペラ」「紙屋町さくらホテル」「貧乏物語」「化粧二題」「連鎖街のひとびと」「太鼓たたいて笛吹いて」「兄おとうと」の八編であるが、どの作品も心血を注いで書きあげられた傑作ぞろいでありました。

この人の脚本は単に内容がすこぶるつきに面白いのみならず、舞台や人物の設定やセリフやら音楽の吟味が徹底的に具体的な上演に即して書かれていることで、これは普通の戯曲家が普通にやるレベルをはるかに超えている。小澤征爾が振る「白鳥の湖」ではプリマドンナがずッこけるが、これがモントーやゲルギエフならみんな安心して踊れるというようなことである。

「父と暮らせば」「紙屋町さくらホテル」は広島鎮魂劇であるが、いずれも丸山定夫や園井恵子のサクラ隊の全滅などを直接描かず、幕が静かに、あるいは急速に降りた直後に惨劇の実態がくっきりと像を結ぶ手腕は並みのものではない。

河上肇と吉野作造兄弟、林芙美子をそれぞれ題材とした「貧乏物語」、「兄おとうと」「太鼓たたいて笛吹いて」も内容豊かな力作であるが、私は敗戦直後の旧満州を舞台にした喜劇的な音楽劇「連鎖街のひとびと」がいたく心に沁みた。そこでは演劇が過酷な現実を無化しようとする途方もない夢が丸裸で転がっている。

思えばこの戯曲家は、むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに、という彼の願いどおりの作品を、後の世代のために書き遺したのであった。



難しいことをもっと難しくその難しいことを浅はかにその浅はかなことを面白おかしくさわぐ世間よ 茫洋
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ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の「イヴの総て」を見て

2010-10-23 09:15:30 | Weblog
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.38

ベティ・デイビスとアン・バクスター火花が散るような競演に引きずられてあっという間の140分ですが、アメリカ演劇界の裏表と女の戦いをかくもスリリングに描きつくしたジョセフ・L・マンキーウィッツの脚本と演出が素晴らしい。

しかし恐らく背後でもっと大きな切った張ったの大芝居を演じているのが、20世紀フォックスに君臨した独裁的プロデューサーダリル・F・ザナックであることは、最初のクレジットの巨大さと、映画の中の「ザナックにやっつけられないように」というセリフひとつとっても明らかでしょう。当時のザナックは、マンキーウィッツの脚本を書き直したり、ジョン・フォードがせっせとつないだ映像をみずから切り刻んで平気で大幅に改編したりしていたのですから。

それにしても「8月の鯨」でリリアン・ギッシュと枯淡の演技を見せたベティ・デイビスの女に嫉妬丸出しの鬼気迫る怪演と、大女優役のベティ・デイビスを喰い物にしてのし上がっていくアン・バクスターの初めは処女の如く、終わりは脱兎の如き変身ぶりは見ごたえ十分です。

映画はそれだけでとどまらず、最後にかつてのアン・バクスターそっくりの女優の卵が出現して、はやくもその地位をうかがうというきわめて印象的なシーンで終わるのですが、このときミルトン・クラスナーのキャメラは異常なほどの冴えを見せ、このワンショットだけでもこの映画は一見の価値があるでしょう。

もちろん私の御贔屓のマルリンモンローちゃんも、とぼけた味わいで友情出演していますが、しかしなんといっても「イヴの総て」は、「ザナックの総て」というべき映画だと私は思います。


胃検診上杉謙信遺賢臣意見親 茫洋

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バーンスタイン指揮NYフィルの「ベートーヴェン交響曲全集」を聴いて

2010-10-22 10:20:59 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第167夜


60年代にバーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してCBSソニーに入れたベト旧録音です。

しかしどの曲をとっても、60年代のとれたての地生りのトマトのように新鮮で、滋味豊かな味わいがする。これならなにもやたらと重厚長大にもったいぶった後年のウイーン・フィルハーモニカーとの再録音をやたら尊ぶひつようはないのではないか、と、ついつい思わされました。

私がベト全でいちばん好きな8番と4番がいまいちなのは残念ですが、1番、2番、3番、5番、7番、9番などは何回聞いても心がジャン・クリストフになります。若くて元気が良い音楽なら誰でもやりますが、これは生きている喜びが感じられる音楽、未来を信じている人の音楽、そして聴く者にもそのように訴えかけてくるではないでしょうか。
晩年のバ氏には、もうそんな生命の躍動も未来の希望への幽かな架橋もありませんでした。

そのことは彼の最後の録音となった1990年7月のボストン交響楽団との7番(グラモフォン)を聴くとよくわかります。重病患者がぜいぜいと喘ぐような鈍重なリズムは、まるで指揮者があげる断末魔の悲鳴のようです。その音楽は、ゴルゴタの丘を重い十字架を背負ってよろめきながら登っていくイエスの姿と重なり、耳を覆いたくなるような痛ましさです。

1964年に高らかに奏でられたまぶしいほどの青春の輝きと、瀕死の音楽家がタングルウッドで歌った白鳥の歌の間に、一代の鬼才バーンスタインの生涯が凝縮されているのでした。


 
死に急ぐカマキリを道端に放つ 茫洋
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ビリー・ワイルダー監督の「お熱いのがお好き」を見て

2010-10-21 13:06:25 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.37


ビリー・ワイルダーの脚本と監督による快速調の喜劇です。貧乏ミュジシャンのジャックレモンとトニー・カーチスを女装姿にしたところが素晴らしい。芸達者なレモンとつい最近亡くなったばかりのカーチスの歯切れのよいやり取りが壺にはまって、われらただ口を開けて眺めているだけで面白いのです。

禁酒法時代のシカゴから、陽光まぶしいフロリダまでの女楽員同士の珍道中も楽しいが、そこへ到着してからの男女入り乱れての恋愛騒動とシカゴから追っかけてきたギャング一味とのすったもんだも見ごたえがあります。

いちばんの見せどころ聞かせどころは、女楽団のウクレレ奏者マリリンモンローがSome Like It Hotという唄をうたうシーンでしょう。今までのコミカルな流れが突然転調されて、なにやらしんみりした雰囲気に変わっていくのは、音楽のアドルフ・ドイッチの力というよりはモンローの不思議な存在感のゆえでしょう。

なんでも題名の由来となったSome Like It Hotというのはマザーグースの「エンドウ豆のかゆ」の一節,Some like it hot、Some like it coldから来ているそうです。エンドウ豆の熱いの冷たいのは人によって好き好きさ、という「たで喰う虫も好き好き節」ですが、これがラストのジョーE・ブラウン扮する大富豪がトニー・カーチスが男であってもわしゃ構わんよ、男でも女でもいいじゃんか、という当時としては革命的にアナーキーなオチにつながっていくわけです。

そんな次第なので、「お熱いのがお好き」は面白いは面白いが、脚本のタッチがいつもと違ってかなり強引かつヘビーで、正直見ていてちょっとゲンナリしてくる部分もありますなあ。


右からって言うとるのになして左から回るあんた日本語分かっとるんかね 茫洋


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ポール・オースター著「オラクル・ナイト」を読んで

2010-10-20 09:13:05 | Weblog


照る日曇る日 第382回

1990年の「偶然の音楽」、2002年の「幻影の書」と、作者の力量はますます上昇し成熟の度を強めてきたようです。ともかくどんな作品でもいっときも巻を措く能わざるプロットの面白さと思いがけない展開、そしてきわめて知的で上品で抑制された語り口、幅広い芸術と文化全般にわたる教養、ニューヨーカー風のユーモアとウイット、そして「いま、ここを」常に感じさせるコンテンポラリーな共生感覚こそ、この1947年生まれのアメリカ人らしからぬアメリカ人作家の特徴といえましょう。

オラクル・ナイトとは「神のお告げの夜」というような意味で、この小説はあちこちでただならぬ神託や神意の降臨の予感がうまく降って湧いてくるように仕掛けられています。

例によって内容に深く立ち入ることはしませんが、本作の主人公は、作者本人を思わせる作家です。そして第1の物語は当然この主人公の愛と仕事と生活をめぐって展開されていくわけですが、ここに主人公がポルトガル製の青いノートに書こうとする第2の物語が入れ子になって交錯し、読者は2つの物語をどうじに並行して享楽することができます。
 第2の物語の主人公は、ニューヨークの一流編集者に設定されていて、彼の元に届いた「オラクル・ナイト」という知られざる作家の作品が、第3の物語として他の2つの物語の基底に大きな影響を与えるとともに、本書の題名にもなっているのです。

そしてこの都合3つの物語の中に登場するのは、アメリカの有名作家や魔法の青いノートを売っている文房具屋ペーパーパレスの不思議な中国人、美しく知的なキャリアガール、薬にまみれた明日なきジャンキー、どんなインポも5秒でいかせてくれるハイチ生まれの絶世の美女等々。さらに頭上からなだれ落ちるコンクリート片、突然の愛、セックス、失踪、逃走、暴行、死そして詩等々。

この小説世界では、ないものがない、のです。


バリウムを呑まされた蝙蝠の如く必死で鉄棒にしがみついている
あと何年こんな芸当に堪えられるのだろう 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第37回

2010-10-19 19:37:45 | Weblog



bowyow megalomania theater vol.1


のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、「よしきた、がってん」と軽いノリで山道をすたこら走りだしました。

僕たちは朝から昼までかかって不思議なお家の周りを倒木でびっしり覆い、頑丈な柵を作り、警官隊が踏み込んできても、かんたんには侵入できないようなバリケードを汗水たらして組みあげました。

不思議なお家は、もはや強力な砦になってしまいました。

すでに陽は高く上り、背筋をぴんと伸ばしたケヤキの葉を透かして、午後3時の太陽と青空が僕たちを無言で見守っていました。灌木の茂みのあちこちでオオルリやカケスが不安そうに小刻みに位置を変え、そのたびにカサコソと乾いた物音をたてています。

そのとき突然僕は、JRの山手線で渋谷駅を通ったときの音楽で頭の中がいっぱいになって、もうなにがなんだか分からなくなってしまいました。渋谷駅で山手線が発車する時の音楽と目黒駅の音楽とは同じだったかしれとも違うやつだったか、そればかりが気になって気になって、頭の中がかっこに入れられたみたいになって、いま眼の前で繰り広げられている嵐の前の静けさのような風景が現実のものとは思えませんでした。

しかしそれは、確かに現実なのでした。

見渡す限りのススキが原に、およそ400から500名くらいの機動隊員たちが、完全武装して少しずつこちらに向かってくる様子が、まるでいつか見た映画のシーンのようでした。


胃にバリウムを満載しわれは真っ逆さまに墜落せんとする老戦闘機 茫洋


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横浜美術館で「ドガ展」を見る

2010-10-18 20:29:25 | Weblog


茫洋物見遊山記第41回&勝手に建築観光第40回


ポール・ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」で知って以来、エドガー・ドガのデッサンをこの目でみることはわが年来の夢でしたが、ようやくその夢が横浜で叶えれらました。

1988年に丹下健三の手によってデザインされたこの美術館は、さながら巨大な石材置き場のように空虚で鈍重な建築物で、どこかオリエントの権力者の遺構を思わせるポストモダン風モダニスム様式は、当時の建築家と時代のあてどなさを雄弁に物語っています。

さてドガです。ドガはプロとしてはデッサンが下手なのです。下手と言って悪ければ苦手なのです。そして下手で苦手なくせにデッサンが大好きなのです。そのことは彼が好んで描いたバレリーナや浴婦の習作を見ると分かります。私に言わせれば、こんな悪戯描きは彼の手で廃棄すればよかった。少なくとも公衆の面前で公開する価値はありません。

むげに否定せずに拾い上げると踊子よりも裸婦の素描でしょうか。豊満な熟女が奇妙な姿勢で身体を捻じ曲げて背中を拭くポーズを背後からとらえた3つの連作スケッチは、彼の女性に対する異常な、あえていえば変態的な感受性を示すとともに、裸婦の具象が魔性を帯びた抽象に変異してゆくさまを期せずして記録していて鬼気迫るものがありますが、そういう恐るべきデッサンは他にはひとつとしてありません。

他の油彩、パステルはどうかと眼を転じてもほとんど観賞に耐えるような作品はなく、やはりあの有名な「エトワール」にとどめをさすということになるでしょうか。
この作品は他の踊子関連の作品と違って、登場人物の輪郭は完全に無視され、セピアを基調とするこの世のものとも思われない幻想的で美しい色彩の雲が、私たちをつかの間の夢想の彼方へと連れ去ります。
これはドガが固執するフォルムの正確さの追及を放棄した瞬間に誕生した奇跡的な抒情詩のようなもので、彼はその後「エトワール」を超える作品をついにキャンバスに定着することはできませんでした。

ではドガの最高傑作はどこにあるのでしょう?

それは会場の隅にグリコのおまけのように展示された躍り子と馬の彫刻のなかにあるのです。被写体に対して隔靴掻痒の状態でついに肉薄できなかったこの作家は、視覚が薄れゆく最晩年に至って、実物よりもはるかに美しく、生命力に満ち満ちた驚異的なブロンズ像を完成していたのです。

会場に並んだ15点の彫刻を目の当たりにして、私は、私のドガにとうとう出会ったのでした。

追記
ドガのアトリエに遺された彼の冬の帽子とスカーフとメガネのおしゃれなこと。これこそ古き良きパリの粋というものでしょう。彼の愛した踊子の小さなバレエシューズを見つめているとなんだかドガという男のことがはじめて分かったような気がしました。


ドガダンスデッサン ドガの愛したバレエシューズよ 茫洋


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カプシチンスキ著「黒檀」を読んで

2010-10-17 10:12:46 | Weblog


照る日曇る日 第381回


アフリカと聞けば人類誕生の地と思う。エイズを思う。西欧の奴隷制と植民地主義の圧政を脱して60年代に活躍したガーナのエンクルマやコンゴのルムンバの雄姿を思う。パン・アフリカ主義とアフリカ合衆国構想、アジア・アフリカ会議を思う。

雄大な自然と野生の動植物たちを思う。キリマンジャロの雪に横たわる1匹のヒョウや百獣の王ライオンの恫喝にもひるまぬ真の密林の帝王ゾウの突進を思う。「アウト・オブ・アフリカ」で流れたモーツアルトのイ長調ピアノ協奏曲のアダージオを思う。

ランボーやニザンやカミュや、強烈な色彩と骨太の線で80年代のアフリカを象徴したムパタの絵を思う。そのムパタにあこがれてケニアに「窓を開ければジラフが見える」ホテルを建てた編集者を思う。彼は「君の息子もあそこへ行けばきっと良くなるよ」と言ってくれた。

アフリカはアルファでありオメガである。希望の端緒であり絶望の果ての地でもある。

そのアフリカを40年間にわたって駆け巡ったポーランドのジャーナリストがいた。
こよなく愛するアフリカについて、豊富な現地体験に基づいてルポルタージュしつくした本書には、そんな懐かしく、貧しく、残酷なアフリカの面影が、強烈な色彩のコントラストとともにくっきりと描き出されている。

ガーナ、タンガニイカ、ウガンダ、ナイジェリア、エチオピア、ルワンダ、スーダン、ソマリア、カメルーン、リベリア、セネガル、エリトリアを旅した大旅行家は、植民地支配にもとづく全体主義、人種差別主義、異質者への嫌悪、軽蔑、排除欲求は、西欧世界に登場する100年前にすでにアフリカで実行されていた、という。

そしてまた、「アフリカはなんて存在しない。国や地域によって全部違う」という。すぐれたリアリストの言葉だ。だから全体より細部が大切なのだ。
しかしにもかかわらず、アフリカという全体は存在し胎動している。
かつてのカダフィ大佐のよる「アフリカは一つ」も、岡倉天心による「アジアは一つ」も一つの大いなる虚妄であったが、では今日のEUやFTAやEPAはどうなのか。それは新たな戦いの始まりではないのだろうか?

世界は再び巨大な共同体へと再編され、過去のいずれの時代よりももっと巨大な相克が始まろうとしているような気がする。



10月の16日に蝉が鳴く誰かさんの誕生日を祝うがごとく 茫洋


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