あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

♪07年10月の歌

2007-10-31 10:40:18 | Weblog


♪ある晴れた日に その15

われもまた風狂の人になりたし
クワガタは樹液の近くに逃がしてやりぬ
私はとうてい大工にはなれない
鳥羽殿へ我勝ちに急ぐ参騎かな
夕闇に縄張り広げむ女郎蜘蛛
落石に注意といわれても具体的にどうすればよいのか
我君を食らふとも可なるか可也哉茸笑ふのみ
食らふとも可なるか茸笑ふのみ
男なら健女なら優と名づけむと語る甥に明るい未来を
君にもそして君にも安けき未来豊けき明日来たれ
露草を雑草とみなして焼く人をわたしは激しく憎んでいる
釣船草を船と知らずに雑草とガスバーナーで焼くな男よ
またしても君は雑草と口走る草それぞれに名はあるものを
鎌倉の横須賀線の踏み切りの傍に棲むとうかのウシガエル
踏み切りの主は幻のウシガエル心して過ぎよ横須賀線
自らの生の希薄に耐えかねてコッカコッカと鳴く自虐鳥
東京の出版社より来たりける月12万の仕事によろこぶ
キンモクセイ炎と燃ゆる秋深し
心中の業火燃やすか金木犀
わが魂を焼き尽くすや金木犀
人類は悔い改めよと金木犀日本全国激しく燃えたり
中原の中也展果てたあと大輪の薔薇静かの舞咲けり
カラス咲き、ジャクリーン咲くや薔薇の苑
油蝉10月20日に鳴いており
鳩さぶれー鳩の首から食べました
いい俳句をつくったのに忘れてしまった
人生は省略できないバイパスできない
次々に事件が起こるまず杉並一家惨殺事件から解決せよ
過ぎた昔が帰って来る日もあるだろう
なぜ1ドル117円が急に114円になったのかわからない
このキノコを喰わんとする男あり
いくたびも息子の名前をググりけり
首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
首塚や人を呪わば穴ふたつ
ムクは死んだけどタロウはまだ生きている
十三夜愛する者より便りなし
十三夜希望の如く月は湧き
十三夜希望の如き月が出る
十三夜希望のやうな月が出て
カモはいいな真昼間から眠っている
おぼつかぬ右手でつかむケーキかな
障碍者たちがはたらくカフェで海を見ながらランチを食べた
一呼吸また一呼吸するうれしさよ
おろぬいたミズナを二人で食べにけり
俳句では言いたいことを詠むなかれ
我も人もすべての言説は生臭し
みそひとをむかえしむすこのたよりなし
人はなぜここまで自然を求むのか
偽りの自然を自然と読み直す姑息の智恵は愚かなるかな
偽りの自然も第二の自然なるかプラスティックの葉よ樹脂の樹木よ 
裏側の波の模様が美しい蝶なればこそウラナミシジミ
私はウラナミシジミのウラガワの紋が好きだ 
ユニクロで購いきたるカシミヤを身につけしきみはどうと訊ねる
ノバうさぎのCMをつくったやつは前に出よ
秋深し衆寡敵せず滅びゆく
秋深し友の寡なき男あり
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ある丹波の女性の物語 第7回

2007-10-30 06:17:22 | Weblog


 父は、女道楽の祖父を心から憎み、反面この上ない母思いであった。祖母がそこひの手術の為、京の眼科病院へ入院した時は、学校を休んで付き添いに行き、自分の眼片方と引き換えに母の目をよくしてくれと、病院内の神社に願かけをしている事が患者の中で評判になり、みんなで大きな数珠を廻して拝む念仏講を開いてくれたという。
院長も感動して精一杯の治療をしてくれ、目がみえるようになったと聞く。

 父と同い年の母菊枝は、福知山鍛冶町に雀部家の長女として生まれた。代々綿繰り機を商う家で祖父は九代伊右ェ門、幼名は庄之助、代々同じ名をついでいたようで、祖母みねも同じ福知山の彫り物師の娘で、生涯祖父を幼名の「庄さん」と呼び、色白で針仕事の上手な、まことに可愛らしい「おばあちゃん」であった。

 文明開化で紡績工場が出来てから家運は急速に衰えていったが、昔は丹波、丹後、北陸地方にかけて手広く商っていたらしく、母は庭にはまわりを子供が六人位手をつなげるような木があり、夜、燐がもえた事、米騒動の時の鍬の跡がいくつも柱に残っていた事など話してくれた事がある。

 母は20歳で遠縁に当たる佐々木家へ嫁いだ。郡立女学校の前身、香蘭女学校を出、神戸県立病院看護婦養成所を卒業、産婆の免状も持っていたが、幼い時から美人の評判が高かった。

福知山は芸事の盛んな土地で、雀部家代々のあるじも浄瑠璃が好きで、大阪の文楽から義太夫を招いて稽古をしたそうである。母も小さい時から舞や三味線を習わせられた。盆踊りも盛んな土地で、町々に連があり、母はその先頭に立って三味線をひいて町中を練り歩いた事、嫁のもらい手がふるほどあったとは、雀部の祖父のいつもの自慢話であった。

福知山音頭の優雅な調べに合わせて家々の娘は、きそうように美しく着飾って歩いたのであろう。

♪くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に  愛子
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ある丹波の女性の物語 第6回

2007-10-29 07:38:15 | Weblog


 両親・祖父母のこと

 佐々木家は代々男の子に恵まれず、何代も養子を迎える家系であったようで、曽祖父には女の子もなく、祖父祖母共の両養子であった。

祖父春助は天田郡大原村の生まれ、安産の神大原神社近くの西村家に生まれた。父のいとこ達は村長や郵便局長であった。

私は一度秋の遠足で大原神社へ行った事がある。何廻りもして峠を超えて行った事がある。道々にりんどうが色濃く咲いていたのが忘れられない。とても山深くきたという思いがした。
祖母、婦美は隣村の山家の米屋から来ていたが、49歳でなくなっている。

 明治18年2月22日、父小太郎が綾部町の佐々木家に生まれた時は、何代目かの男子誕生でとても喜ばれた。しかし栄養不良のしわくちゃな赤ん坊だったそうである。

 家は屋号が示すように昔は寺子屋であったそうで、古びた槍も鴨居にあがっていた。桑園もあって養蚕もしていたが、祖父の代に職人をおいて桐下駄の製造をはじめた。

祖父は素人芝居の女形を演ずるのが得意で、女遊びの好きな道楽物であった。それでも父は当時尋常小学校、郡立高等小学校を経て、城丹蚕業学校創立初回の卒業生であるし、父の妹つるは郡立女学校を出ているから、金もうけにも長じていたのであろうか。
どういうわけかヤン茶坊主の次男金三郎叔父だけは、小学校をおえると京の呉服問屋へ奉公に出ている。

♪突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

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ある丹波の女性の物語 第5回

2007-10-28 10:01:30 | Weblog


絢ちゃんの事

 絢ちゃんとは一卵性双生児の片われの姉の事である。

先に生まれたからか、後なのか、どういう訳か姉と言う事である。現在では妊娠中から男女の別も分かり、勿論双生児など初めから分かるらしいが、当時は異常にお腹が大きくなるまで分からなかったのではあるまいか。母は、後期にはふすまや柱を持たないと、立ち上がれなかったそうである。

何かにつけて絢ちゃんの方が秀れているので、私が妹でほんとによかったと思っているが、姉の絢ちゃんは、とてもひ弱で息もたえだえに生まれてきたそうで、遠くにやるなら元気な方をと私の丹波行きは決まったらしい。

ところがこの姉も、ひょっとすると立場が逆になっていたかもと、私の綾部行きには責任を感じているらしいのである。

私の名前は「神は愛なり」の聖句から決まったそうで、絢子は雀部では「あいこ」と呼ばれて育ったそうである。女学校4年の時、祖父の葬式で生まれて初めて、京桃山の雀部家を訪れ、その事を知った。生家でも私の事をいつも覚えようとしていてくれた事を複雑な思いで感謝した。

 絢ちゃんは大沢家に嫁ぎ、大学教授夫人、学長夫人となった。女としてはエリートコースにあるこの姉を羨む気持ちは少しもない。もう一人の私が受けている幸いを喜ぶ気持ちだけである。

私は一商人の妻として過ごして来たが、それなりの、幸せを感謝している。人には分からぬかも知れないが、普通の姉妹では感じられぬ特別の感情が、私達にはあるらしい。
こんな姉妹であって、こんな姉があってほんとに良かったといつも思っている。

♪ 直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く
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ある丹波の女性の物語 第4回

2007-10-27 12:43:25 | Weblog


裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子

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大庭みな子の「風紋」を読む

2007-10-26 10:56:57 | Weblog


降っても照っても第69回

先日この作家の遺著「七里湖」を読んだばかりだが、今度は別の版元から別の遺作(短編3本と6つの小さなエッセイ)が出版されたのでついつい手にとってしまった。

短編は「あなめあなめ」、「それは遺伝子よ」、そして表題作の「風紋」であるがいずれもこの世とあの世の中間部、あるいは仏教の用語で中有(生有から死有までの)といわれる父母未生以前の混沌とした時空において天人一体となって無意識裡において創造された玄妙にして摩詞不思議な作品である。

音楽で喩えると例えば往年のSPレコードでスクリャービンの「法悦の詩」をワインガルトナー指揮のヴィーン・フィルハーモニーで聴いたような、典雅で深沈とした陶酔的境地に浸ることができる。

「あなめ」は小野小町の髑髏の眼底から生えてきた薄を引き抜こうとすると小町が「あなめ、あなめ(痛い痛い)」と叫んだという故事を本歌取った夢幻譚だが、その最後は、主人公のナコ(みな子さん)が、

「両目を左右のこぶしで押さえて目から生え出ている薄を抜こうとしたが果たせなかった。「まあ、そのうち薄の方が枯れるよ」とトシ(著者の夫)は言った。

 というところで唐突に終る。この婦唱夫随の二人の魂はすでにして中有を彷徨っていることがわかる。

「それは遺伝子よ」では、著者に先立って死んだ米国の友人ヘレンの思い出が語られるが、「すべての善悪を呑み込んだ上でアラスカの原野にすっくと立った女神」を思わせる神話的な存在は、自由で放胆な生を生き切った著者自身を思わせる。

例えば次のような文章を見よ。

著者の目の前で全裸になってシャワーを浴び始めたヘレンは、

「もちろん立派な二つの乳房と高い腰を持っていた。私が息もつかずにレモネードを飲み干している間に、ヘレンはベッドルームに行き、大きなキングサイズのベッドにバタンと倒れるように横たわって、「ああフランクがいてよかったわ。一人で暮らせるのは女じゃないわね」と言うともう高いびきをかいていた。そして、眼を開けて、「フランクは暖かくて素敵だった」――次の瞬間また高いびきをかいていた。」

最後の「風紋」はこれも最近亡くなった偉大なる小説家小島信夫と著者との交情を赤裸々に、しかし、夢のような淡彩画のタッチで描く。

「信さんはもう意識もなくて植物人間のような状態だそうである。それでもナコは走って行って信さんに抱きついてキスしたかった。信さんがまだ元気な頃にナコは何回も信さんと抱きつけるほど近くに立って、キスできるほどの近さだったのに一度もそんなことをしなかったことが心残りに思われて、今は無意識の中で走ってゆき抱きついてキスしたかった。」

この文章が書かれたとき、まだ確かに生存していた信さん(小島信夫)も、ナコと自称する著者も、いまはこの世には存在しない。しかしこの夢のような話のなかに悪女と言われた著者のあどけない少女のような本当の思慕が真率に刻まれていることだけは疑えない。

しかし私がこれらの短編にも増して感動したのは、まるでささやかな香典返しのように巻末におかれた「逝ってしまった先達たち」での川端康成や佐多稲子、野間宏、藤枝静男の思い出話であった。

凝縮された見事な文章の中に、物故した作家たちの姿が、いまそこにあるかのように生々しく立ち上がってくる、それこそ文学の力には思わずギョッとさせられる。
著者によって一撃の元に拉致された彼らの些細な所作は、彼らの生の本質を的確に射抜かれ、永遠の相というタブローに磔にされたまま、浄土から差し込む微かな西陽を浴びている。

さうして最後にそっと置かれた僅か数枚のエッセイ、「あの夏――ヒロシマの記憶」こそは、あらゆる“広島文学”中の最高傑作であろう。

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五木寛之著「21世紀仏教への旅日本・アメリカ編」を読む

2007-10-25 10:54:58 | Weblog


降っても照っても第68回

「21世紀仏教への旅」シリーズの最終巻を読んだ。

「わがはからいにあらず、他力のしからしむるところ」と親鸞は悟り済ませた。悪者も善人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける、という悪人正機説は、考えれば考えるほど、物凄い思想である。

しかし著者によれば、この有名な革命的宗教思想は、すでに法然以前の奈良仏教時代からその萌芽が生まれていて、平安末期に後白河法皇が集成した『梁塵秘抄』には
「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称うれば 来迎引接疑わず」
というワンコーラスもすでにあらわれているという。

奈良仏教を経て鎌倉新仏教にいたる時代の変転が、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、そしてブッダの仏教自体をも驚倒させるに足る悪人正機説を誕生させたのである。

そして著者は、奈良から鎌倉までの悪人正機説の変遷を、

源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」、
法然は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、
そして親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」

であると、巧みに評している。

世間ではゼニゲバ流行作家としてあまり評判がよくない五木寛之であるが、「以前から私は自分の個性などというものはないほうがいい、と思っている」と語り、「できるだけ近代的な自我というものを消去する生き方をしてきた」と自負するこのデラシネ男を、私はけっして嫌いではない。


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ある丹波の女性の物語 第3回

2007-10-24 12:25:55 | Weblog


 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子
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ある丹波の女性の物語第2回

2007-10-23 10:46:04 | Weblog


 私は大正10年年6月26日、綾部市新町、丹陽基督教会に於いて、内田牧師より幼児洗礼を受けている。その何年か前に、両親は基督教に入信していたのである。

 現在になっては珍しい事ではないが、70年前、私には寝台が用意され温度計が付いていたそうである。部屋にも商品がいっぱい。若い店員が寝起きしていたので、当時は蚤にはずいぶん悩まされていたらしく、寝台の両ワキにはマッ白な寝巻きを着た両親が寝たそうである。蚤をたやすく発見出来る為である。

 粉ミルクは私の身体に合わなくて下痢が続き、牛乳にかえてからよく太るようになったそうで、最高1日八合の牛乳を飲んだそうである。私が大きくなっても配達してくれていた農園からは、毎年お歳暮に牛乳風呂にと、バターを取った後の脱脂乳が届けられた。
 余程大きくなるまで、毎年私の誕生日にはもらい乳をした二軒の家には、赤飯が配られたのを覚えているから今で言う混合栄養にしていたのであろう。

 そんなに細心の注意を払っていても、冬は寒い丹波のこと、とうとう肺炎になり、看護婦、産婆の免状を持っていた母ではあるが、他に二人の看護婦を雇い昼夜部屋をあたため、湿布、吸入などあらゆる看護をしてくれて、一命を取り止めたのである。

大きくなってもレントゲン写真に肺炎の後が残っているといわれたが、そんな昔に、しかも乳飲み子を肺炎から救ってくれた事は両親の献身的な努力と愛という他はない。

 そんな事もあって、両親の他は誰にも私を抱く事を許さず、只一人、一番番頭の藤吉さんだけが厚司のふところ深くに抱く事を許されたそうである。後年、もらい乳に行くのも、この藤吉さんの役目だった事を知った。

♪七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

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ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

2007-10-22 07:39:46 | Weblog


降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

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ある丹波の女性の物語

2007-10-21 09:20:14 | Weblog


第1回 誕生の頃
戸籍によれば私は大正10年2月22日、京都府綾部市西本町25番地に、父佐々木小太郎、母菊枝の一人娘として生まれている。両親共に36歳の時の初めての子供であるから、身分不相応に大事にされ、可愛がられていたようである。
その当時の家業は履物製造販売。祖父も含めて家族4人、職人、店員、お手伝い、合わせて20人近い人員構成であった。
店舗兼住宅と、一寸と離れて倉庫と職場があり、倉庫には北陸地方から貨車で仕入れた桐下駄の材料が、乾燥のためうず高く積み上げられてあった。
 

 私が母菊枝の弟、雀部儀三郎の三女として横浜市桐畑に生まれ、生後100日を経た日に佐々木の両親に守られて、東海道線を乗り継ぎ山陰線の綾部に貰われてきた事を知ったのは、ずいぶん後の事である。
長い間子供に恵まれなかった両親は、雀部家の二男一女のうち、次男をかねてから欲しいと希望していたが、なかなか思うようにならずにいたところ、下に女児の双生児が生まれたので、これ幸いとその一人を貰い受ける事にしたらしい。

それにしても、その頃の東海道線を、生まれて間もない赤ん坊づれ、母乳なしの長旅は夫婦づれとはいえ大変だったろうと思う。そして父は、自分の誕生日と同じ日付で、佐々木小太郎・菊枝の長女として出生届を出しているのだから、後々のためにも、すべてに万全を期していたのに相違ない。
この事に関しては両親は勿論、私も決して口に出した事はない。公然の秘密となった時も、両親のなくなるまで私達の間で話し合う事はなかった。

♪つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子
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鎌倉大町の常栄寺に詣でる

2007-10-20 09:32:58 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語86回

日蓮は、文永8年1271年9月12日に鎌倉幕府の命によりとらわれ、龍の口刑場で処刑されることになった。

ところがその前夜、刑場で突然異変が起こったために刑の執行は不可能になり、上人は一命をながらえた。

その日、桟敷尼という老婆が捕縛された日蓮に牡丹餅を差し入れたので、上人はたいそう感激したという。

この桟敷尼の夫は京都から下ってきた将軍宗尊親王の近臣で夫婦とも法華経の信者であった。桟敷尼は龍の口の法難から三年経った文永11年1274年に88歳で亡くなったが、その法名を妙常日栄といいこれがこの寺の名前「常栄寺」になったという。

この頃から世間の人々は、老婆の牡丹餅の御利益をありがたがり、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺や瀧口寺などの日蓮上人像に牡丹餅を供える慣しになっている。ちなみにこの夫婦の墓は現在も尚この常栄寺、別名「ぼたもち寺」にある。

 余談ながら大町近辺には日蓮宗の寺院が非常に多く、いかに鎌倉時代に日蓮が活躍したかを雄弁に物語っている。

もひとつおまけに、私は長らくこの常栄寺に行けばいつでもおいしい牡丹餅が手に入ると思っていたのだが、それが見物人に供されるのは年にたったの一度なのであった。
狭くて小さなお寺だが、可憐な庭に四季折々の花が咲く。

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アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

2007-10-19 08:22:13 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語86回&勝手に建築観光25回

今日も仕事の運びがいまいちなので、久しぶりに県立近代美術館で開かれているアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の「建築と暮らしの手作りモダン」展(21日迄開催)に出かけた。

うららかな小春日和である。修学旅行の生徒たちが八幡宮の参道に並んだ露天に群がっていた。

展覧会ではレーモンド夫妻がわが国に遺した数々の建築やインテリアがたくさんならべられていて、見応えがあった。というより、こんな家なら住んでみたい、こんな家具なら欲しいと思わせる作品が、次から次に現れるのである。
私が思わず「この人がまだ生きているならぜひ家の設計をお願いしたい」とつぶやくと、美術館の隅に座っている職員が笑っていた。

これまで安藤選手だの、磯崎選手だの、亡くなったばかりの黒川選手だの数多くの有名建築家の作品を鑑賞してきたが、そんな気持ちになったのはこれが生まれて初めてだ。もっとも1888年生まれのアントニン・レーモンドは、すでに1976年に亡くなっているので、それは望むべくもない空しい夢なのであるが。

1919年に帝国ホテルの建設のためにフランク・ロイド・ライトとともに来日、大戦をはさんで戦前戦後40年以上の滞日生活の中で、アントニンは欧米と日本独自の和の伝統をきわめてデリケートに調和させた、優しく、美しく、しかもシンプルで機能的な建築とインテリアを創造し続けた。

和洋折衷というととかく曖昧で芒洋としたイメージで捉えられるかもしれないが、彼が各地で手がけた数々のカトリック教会の構成に顕著に見られるように、彼の作風は両者の特性を鋭くきわだたせながら、しかも相反する2つの要素をきわめて合理的、理知的にまとめているのである。

とりわけ軽井沢の夏の家や新スタジオ、笄町にあった自邸、一ツ橋にあったリーダーズダイジェスト東京支社、横浜にできるはずだった超モダンなフォード社の工場、現存する南山大学や群馬音楽センターなどの、まったくけれんみのない、生きた人間の肌のぬくもりを感じさせる建築たちは、あの東京クソミソタウンや、かの六本木あほばかヒルズなどの金満ガジェット高層仇花建築が跋扈する当節にあって、まさに一陣の清風が吹きすぎるような爽やかさと安らぎを感じた。

 現代の売れっこ建築家に欠如していて、レーモンドにあるもの。それは秘められた輝かしい知性と人間と世界に対する慎み深さ、一言で言うと上品なたしなみのこころであろう。

特筆すべきは妻ノエミ・レーモンドの家具・インテリアの出来栄えで、昨今流行のイタリアもの、北欧ものとは一線を画する、そのモデストでいぶし銀のような意匠は、夫の同様のデザイン思潮と内なるアンサンブルを奏で、彼らが琴瑟相和してつくりあげた1軒の住居からは、さながらカレル・アンチェルがチェコフィルを指揮する舞曲のような精妙な中欧音楽が流れ出る。

私は、建築とは「凍れる音楽」ではなく、春の小川のように絶えず流れ込み、私たちの頑ななこころを溶かす音楽であると、はじめて悟ったのだった。

追記
昨日の中原中也の最後の詩の4行目が欠けていました。お詫びして再掲載させていただきます。

四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。
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鎌倉文学館の「中原中也展」を見る

2007-10-18 08:02:48 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語85回

仕事が行き詰ってしまったので、気分転換のために、鎌倉文学館で開催されている中原中也展(「詩に生きて」12月16日まで)に行った。

前回ここで中也の特別展「鎌倉の軌跡」が開催されたのは1998年だからあれからもう9年も経ったことになる。ああ、歳月の流れのなんと迅速無常なることよ!

 中也についてはこの日記でさんざん書いてしまったので、もう付け加えることなどないが、今回もまた彼が27歳の折に山口であつらえた黒いコートとお釜帽子が出品されたのでとても懐かしかった。

あの黒ずくめのダダ・ファッションで、すぐに死んでしまう富永太郎や平成の御世まで長生きした長谷川泰子と連れ立って京都の河原町をランボウとヴェルレーヌ気取りでまるで風来坊のように遊び歩いたのだ。

ところがこのコート、実はもともと他の色だったのを中也が黒に染め直したらしい。また袖の長さが異様に短く、中也はこんなに小男だったのかと改めて思った。

中也は昭和12年1937年10月に30歳の若さで、私が贔屓にしている清川病院(旧鎌倉養生院)で亡くなったが、その直前彼が郷里の母親フクに書いた手紙は、すでに死を予感していたにも関わらず、愛する母親を悲しませないために、「これからの私はの運勢はとても良いそうです」などと空元気を装って綴られており、読むものの涙を誘うが、もしかすると、彼は最後まで自己の再生と復活を基督のやうに信じていたのかもしれない。

 会場には同年9月30日に寿福寺のいまは失われた小さな借家で書かれた中也の絶筆がそっと展示されていた。

      四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。


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八雲神社に詣でる

2007-10-17 11:59:56 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

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