あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2008年茫洋霜月歌日記

2008-11-30 10:33:46 | Weblog


♪ある晴れた日に 第46回


ありがたやムラサキシジミの深き青

残し柿ひとつ残さず喰いにけり

亡き人の胸に塞がる菊の花

朝比奈の峠に斃れし土竜かな

生温し地震来るやうな風が吹く

きゃわゆいきゃわゆいとあほばか腐女子絶叫す

われかつて龍宝という名の上司に仕えたり

世を呪い人を恨みて満福寺

城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 

七曲り曲輪より射るおおかぶら

大船や大きな船がいま沈む

残金は3万円と息子いう

人生はうれしやかなしやどですかで

人の世はさはさりながら愛ありて



さわに生りし
蒼き柚子の実
もぎ取れば
強かにわが指刺せり
その処女の実

屋根の上
アンテナ立て終えたる
2人連れ
風に吹かれて
煙草のみおる

降る雨の中
五人の職人が
家を
直している

夢の中で
眠りながら
星のやうに美しい歌を
うたっていた

窓を開ければ
くわんのんさまが見える
そんな部屋にて死にたい
と願いし老人

玉縄の
河の畔に巨樹茂り
猛き武将の
勲しとどめむ

今日TBSは死にました
と言いながら
TBSに出続けし人
死す

新橋の
ヘラルド映画の試写室で
よく顔合わせし人
昨日死にけり

熊野神社の参道で
ひたひたひたと
私をつけてくる
者がおる

労働に
捧げられたる献身を
さも尊しと
見做しおる我

いい歳したあほばか腐女子が
大口開けて
きゃわゆいきゃわゆい
と叫ぶなり

さあ働け、
働けば天国の門は開かれる

誰かがささやいている

いま聴きし
グラン・フィナーレが高鳴るよ 
鎌響定期
マーラー5番

マーラーの
アダージェエット聞けば
われは蝶 
海の彼方に
一人旅立つ

黄色い顔に白き嘴
ピラカンサ啄ばみて
ピーと鳴きし
細身の鳥の名をば知りたし

ジャンプ一番
ようやく掴みし烏瓜
ひとつはつまに
ひとつは吾子に

授業せねばならん
本読まねばならん
あほ原稿書かにゃならん
病院いかにゃならん
いったいどうせえちゅうんじゃ

我が庵に
いつしか住みける
矢守ありて
雨戸を閉めれば
キュウと泣きけり

井守と家守を
間違えし
五歳の吾子が
なつかしきかな

だって
いつだってあえるじゃない
といいながら
死んじまった

市ヶ谷の
タヌキ屋敷を訪ぬれば
帝国軍人
健在なりき

枚方の
厚物咲きの菊人形
曽我兄弟が祐経討てり
 
丹波なる
綾部の街の由良川の
ほとりに咲きし
大輪の菊

ト短調
モーツアルトが
泣きながら
歌っている

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大船フラワーセンターを訪ねる

2008-11-29 16:03:45 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第158回

大船には神奈川県立の大きな植物園、大船フラワーセンターがある。ここは観賞植物の生産振興と花卉園芸の普及を目的として、昭和37年に神奈川県農業試験場の跡地に開設されたが、大正時代からこの地で改良・育成された170種の芍薬、200の花菖蒲や360の薔薇、50の石楠花や躑躅、100の牡丹、300の洋蘭、200の椿、40の桜などを中心として四季折々におよそ5千余種の植物が公開されている。
この節はやたらと背が高くて大きな青い花が咲くテイオウダリアが人気だそうだ。

私が訪れた11月の下旬は恒例の菊花の展示会が開かれていたが、一口に菊というても、これほど多種多彩な菊の仲間があるとは夢にも思わなかった。多年にわたる品種改良の賜物なのであろう。

私はロティのお菊さんやベネディクトの「菊と刀」、漱石の三四郎の団子坂の菊人形見物の浪漫的なくだりを思い出しながら、コンテストに当選した華麗なchrysanthemumの数々を眺めていると、いつのまにかその強烈な芳香に頭が次第にのぼせていくのを覚えた。

菊は見た目も典雅であるが、その匂いがまた格別香ばしい。少年時代にたった一度だけ見た枚方の大規模な菊人形の圧倒的な展示を前にして、生まれて初めて花に酔った記憶が突如よみがえったことだった。

枚方の厚物咲きの菊人形曽我兄弟が祐経討てり 茫洋

丹波なる綾部の街の由良川のほとりに咲きし大輪の菊 茫洋



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特報! 横浜アート&ホームコレクションを見る

2008-11-28 18:04:12 | Weblog


照る日曇る日第192回

今日と明日の2日間限定で横浜桜木町・みなとみらいの住宅展示場で面白い展覧会が開かれている。積水、住友林業、三菱地所、ダイワハウスなど全部で17の展示棟のなかで、小山登美夫ギャラリー、児玉画廊、東京画廊、南天子画廊など東京の代表的なギャラリーがそれぞれの傘下の作家の作品を展示・即売しているのである。

伝統的なタイプからスエーデンハウスなどの2×4などモデルハウスの内装やしつらえも種々様々なのだが、それらのインテリアにうまく調和させた個性的な油彩、アクリル、水彩、オブジェ、ビデオ・インスタレーションなどの作品群が、リビングやキッチンやバスルームなどの思いがけないコーナーに展示してあるので、家つくりを研究しているひとも、ビジネスマンや学生の現代美術ファンも思い思いに楽しめる新機軸のイベントである。

私も半日かけてすべてのハウスと作品をじっくり眺めて、今帰宅したところだ。奈良美智や東芋など著名作家の作品も出品されていたが、私のお眼鏡に叶ったのは、三菱地所ホームに展示されていた佐々木健のランプやアンプやブルドッグのアクリル画で、それらがたった5万から15万で買えるとはいくら絵画バブルがはじけた直後とはいえあまりにも安すぎるのではないかと思ったことだった。

明日29日土曜日の午後2時と4時からは2つのトークセッションも予定されているようだ。


→横浜アート&ホームコレクションhttp://www.yaf.or.jp/yahc/#wrapper


玉縄城に登る

鎌倉ちょっと不思議な物語第157回

玉縄城は天然の要害の地である丘陵に空堀や土塁、曲輪などの防衛施設を備えた山城であった。

本丸址は現在の清泉女学院の校舎、校庭の位置にあたるが、昔日の面影はない。ただ清らかな婦女子の嬌声が秋空にこだましているばかり。かろうじて中世鎌倉の雰囲気を漂わせているのは広大な「七曲り」の谷戸、樹木に覆われた「ふわん坂」、高地にある陣地の「諏訪壇」のみである。

「七曲り」は、急坂でいくつにも折れ曲がっているのでこの名がある。玉縄城に上り詰めた両側は土塁となり、土塁の内側の平場(曲輪)で下から攻め上がる敵を攻撃し、城を防御できるようにしていたが、これは同時期の朝比奈峠でも同様である。

「ふわん坂」は急斜面の坂で、かつてはその両側に曲輪があり、登ってくる敵を弓で迎え撃った。

「諏訪壇」はかつて本丸の東側にあった長方形の土塁で、玉縄城の最高地にあって見張りの役を果たしてゐた。ここは城主の最後の避難場所でもあり、現在市役所のちかくに移転した諏訪神社が守護神として祭られていた。

♪七曲り曲輪より射るおおかぶら 茫洋

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玉縄城址

2008-11-27 11:48:02 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第156回

玉縄城は戦国時代の典型的な山城で、「当国無双の名城」として知られていたが、現在は学校や住宅の造成で昔日の面影はほとんど失われている。

 この城の築城と戦歴は以下のごとし。

1512年永正9年 北条早雲(伊勢新九郎)が三浦道寸攻略のために築城。

1526年大永6年 安房の里見氏が鎌倉に乱入し、初代城主氏時が戸部川(現柏尾川)のほとりで防戦。(前前回の玉縄首塚周辺参照)

1561年永禄4年 上杉景虎(謙信)が小田原を攻めあぐみ鶴岡八幡宮へ参拝し、管領になった報告をしようと鎌倉に引き返したとき、2代城主綱成の玉縄城を攻略しようとしてまたも果たせず越後へ引き返した。

1569年永禄12年 小田原攻めのとき、甲州勢は玉縄城北方を素通りし、藤沢の大谷氏の砦を落とす。

1590年天正18年 豊臣秀吉の小田原攻めのとき、4代城主氏勝は山中城に援軍したが落城したことを恥じ玉縄城に籠城。このとき秀吉の命で徳川家康は氏勝の叔父にあたる大応寺(前回登場の龍宝寺)の住職良達を通して降伏を説得し、開城となった。玉縄城はその後水野正忠に預けられたが1619年元和5年廃城。


♪城破れ敗れ咲き遅れたる山椿 茫洋

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龍宝寺にて

2008-11-26 14:07:08 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第155回

鎌倉氏の資料によれば、この曹洞宗のお寺は玉縄城第2代の城主北条綱成が建てた瑞光院がはじまりであったが、1575年天正3年に4代城主氏勝が3代城主の氏繁を弔うためにこの地に移し、氏繁の戒名によって龍宝寺として建立したそうである。

創建以来玉縄北条氏の菩提寺で、綱成、氏繁、氏勝の位牌もここに祀られている。境内には江戸時代の典型的な建築物である旧石井家住宅が移築されており、さらにこの近所に住んでいた新井白石の碑もあった。

古拙の趣がある典雅なお寺で、境内には多くの花や樹木が植えられていた。山門の後ろにはかつての玉縄城の諏訪壇を望むことができる。

♪われかつて龍宝という名の上司に仕えたり 茫洋
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玉縄首塚周辺

2008-11-25 13:03:26 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第154回


さて大船観音の高台を降りた私は、これからこの地域を支配した武将たちの拠点である玉縄城をめざすのだが、その途中の路地に昭和初期の瀟洒な建物を発見した。日本で初めて駅弁をつくった「大船軒」の社員寮である。その入口には、アールデコ風の飾りがあった。

この「大船軒」のオーナーは有名な鎌倉ハムの製造者富岡氏で、その立派な邸宅もその近所にあった。ちなみに我が国のハム製造技術は、明治7年に英国人ウイリアム・カーチスがもたらしたという。

大船軒と鎌倉ハムゆかりの地のすぐそばにあるのが、玉縄首塚である。

鎌倉市の資料によれば、一五二六年に安房の武将里見氏が鎌倉に攻め込んだとき、玉縄城主であった北条氏時は、渡内の福原氏やここ大船の甘粕氏とともに防戦したという。激しい戦闘が数度行われ、彼らは里見の軍勢をようやく追い払ったのだが、甘粕氏などおよそ三五名がここで斃れ、彼らの首を祀ったのがこの場所だった。

毎年八月一九日の玉縄史跡まつりには、塚の供養やこの傍らを流れる柏尾川で慰霊の灯篭流しが行われるという。

    ♪玉縄の河の畔に巨樹茂り猛き武将の勲しとどめむ 茫洋


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「大船」考

2008-11-24 15:47:30 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第153回

ところで「おおふな」という地名は、どこから来ているのだろうか?

縄文時代の大船はもちろんその大半が海没していたが、ほんのわずかな高地だけが現在の相模湾の岬を形成しており、そこには縄文人が棲んで魚介を収集して生活していた。

彼らは我々の想像を超えた偉大な航海者でもあり、当時としては非常に進んだ造船技術を駆使して縄文船を製造し、列島各地を海上交通していたが、ある日のこと現在の大船観音あたりに立って南の海上を遠望していた縄文人たちが一艘の丸木舟を発見し、「嗚呼船!」(oo fune!)と叫んだのだが、この感嘆符がなまって現在の「大船」という地名になったと言われている。

しかし私自身は、それよりも鎌倉の三代将軍実朝が宋に渡ろうとして由比ガ浜の海に造らせた巨大な渡宋船からその名が来ていると考えたくて仕方がないのである。


♪大船や大きな船がいま沈む 茫洋

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大船観音詣

2008-11-23 11:49:37 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第152回

大船駅の上に聳えている白亜の巨像がこの“くわんのんさま”です。

市の資料によれば、1929年昭和4年に永遠平和のために地元有志がその建立に着手し、1934年昭和9年に像の輪郭ができあがたそうです。私のおぼろな記憶では、その基本デッサン作業には彫刻家の朝倉文夫さんも加わっておられたようです。

その後戦争などにより未完のままになっていたのを、戦後曹洞宗永平寺管長の高階禅師らが中心となり大船観音協会が設立され、1960年昭和35年に完成し、1981年昭和56年からは曹洞宗の大船観音寺になった、そうです。

それはどうでもいのですが、ここ大船周辺には曹洞宗、北鎌倉から鎌倉には建長寺、円覚寺など臨済宗のお寺が多く、同じ禅宗とはいえ鎌倉時代からお互いの教線がするどく対峙していたことがうかがえます。

大船観音に実際に上って見ると、かなりの急坂で、少し息が上がりましたが、すぐに頂上に達し、そこからは駅や電車やビルや山々をのぞむことができます。
改めて“くわんのんさま”のお顔を拝しますと、さすがに慈愛に満ちたかんばせです。けれど、なにやらいまひとつ物足りない。できたら今は亡き岡本太郎先生に登場していただきたかったと思わないでもありませんでした。

晴れ上がった秋の空に伏し目がちに慈愛の眼差しを注いでいる“くわんのんさま”を眺めているうちに、こんなことを思い出しました。
私は25年ほど前に、鎌倉で住まいを捜していましたが、ある時地元の不動産屋さんが「どこでもいい。“くわんのんさま”のお姿が拝める部屋に住みたいと願っているお年寄りがいるんです。変わった人ですな」と嘲笑っていたのです。そのときこの私までもが破廉恥にもえへらえへらと憫笑してしまったことが今になって悔やまれます。

あれほど親切に、あれほど多くの物件を一緒に探してくれたのに、私は結局その不動産屋さんの世話にはならずに別の業者の紹介で現在の家を手に入れたのですが、彼の自慢の美人の奥さんも数年前に亡くなり、近所にある彼の家は障子の紙は破れ放題になって秋風に震えています。歳月を経て老人の心のありようについていささか思い知らされた私たちですから、いまなら彼も黙ってそのような条件の部屋を熱心に捜してやったことでしょうに。

あのとき話題になった老人は、どこかこの近くのアパートでも見つけることができたのだろうか。そしていまなお健在なのだろうか、と私はトンビが“くわんのんさま”の頭上をくるりくるりと飛び回る高台で考えたことでした。


♪窓を開ければくわんのんさまが見えるそんな部屋にてわれも死にたし 茫洋


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黒澤明の「どですかでん」を見る

2008-11-22 12:03:53 | Weblog


照る日曇る日第191回

黒澤の「どですかでん」は昔一度見たきりで、あまり良い印象を受けなかったが、今回は随所に映画を見る楽しみが転がっていた。

この映画では、冒頭で頭師選手演ずる障碍少年が登場してドデスカデン、ドデスカデンと架空の電車を走らせるのだが、実際はその前に法華経の熱烈な信者である母親の菅井きんとの奇妙なやりとりがある。

母親は息子の知的障碍を苦に病んで、彼がこの障碍から回復してくれることだけを日蓮上人に祈願して♪南無妙法蓮華経を絶叫しているのだが、そんな訳があるとは露思わない六ちゃんは、訳もわからずに♪南無妙法蓮華経を絶叫するクレージーな母親の病の治癒を心から願っており、結局は親子二人で♪南無妙法蓮華経を絶叫するというナンセンスに着地するのだが、最初見た時、私にはそのナンセンスが下手くそでただのつまらぬナンセンスであるとしか思えなかった。

実際にはこの映画は、キャメラがそこからパンしていくと私の好きな武満徹による私の嫌いなギターが奏でる哀愁に満ちた主題歌が流れてこの映画のプロローグを形作り、およそ二時間後の同じ趣向によるエピローグと対をなしてこの山本周五郎原作の長屋物語の幕を閉じる。

その間に伴淳三郎による涙なしでは見られない夫婦愛の異常な発露、芥川比呂志と奈良岡朋子による新派風ホラー悲劇であるとか、幻想の建築ゲームに酔いしれて子を犠牲にしてしまう乞食とか、暴れん坊ジェリー藤尾の乱暴を見事におさめる長屋の長老渡辺篤などの怪演技が次々に我々を楽しませてくれるのだが、当時の私はもはやそのような本編の多彩なエピソードに魅入られることはなかった。

この映画が製作されたのは一九七〇年であるが、ここに登場する六ちゃんやら乞食の三谷昇によって死に至らしめられる少年の悲しみをほんとうに理解するためには、この映画を見てから何年も経って私と家族が六ちゃんのお仲間となってそういう身の上の切実さを身をもって知ることができてからのことだった。

♪人生はうれしやかなしやどですかでん 茫洋
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小動神社と太宰治

2008-11-21 19:39:41 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語第151回


私は、まだ腰越界隈を漂流しているのだった。

気がつけば、ここは源氏の武将佐々木盛綱ゆかりの小動神社である。私の実家と同じ御紋が甍の上に燦然と輝いている。「鎌倉志」によれば、古来この神社の山の端には海辺へ突き出た松の木があり、風もないのに常に幽かに動いているので「こゆるぎの松」と称したという。

私は本殿のたもとに今もそびえている松の木の葉をじっと見つめた。確かに松の木は枝は枝として、葉は葉としても小刻みに揺れ動いているやに見える。しかし神社の周囲は幸か不幸か秋風が立っているために、この微動が物理の現象なのかそれとも神事であるのかはついに見定めることができなかったのである。

神社の境内が尽きるとそこはもう腰越の海だった。思いっきり首を伸ばして切り立った断崖の真下を覗き込むと岩礁が荒波に打たれている。小動岬だ。
昭和5年1930年、帝大生太宰治が銀座のカフェーの女給田部シメ子とカルモチン自殺を図ったのがちょうどこの黒く光る岩の上だった。
その体験が「道化の華」を生んだが、事実は小説とは違って2人は荒れ狂う波間に飛び込んだのではない。大量のブロバリン(カルモチン)を服用し、若い男は生き残ったが、女は死んだ。

幾度も自殺を試みたこの作家は、昭和23年1948年山崎富枝に縛せられて玉川上水の露と消えたが、惜しみても惜しみてもなお余りある非業の死であった。当時の太宰が作家として絶好調にあり、みじんも自殺する意思がなかったことは、彼の遺作「グッド・バイ」の最終回を読めば歴然としている。彼は彼の弱さによって馬鹿な女に殺されたのである。

太宰がどれほどの天才であったかは、死の前年に締め切りに迫られて、新小動潮社の野原一雄の目の前でビールを飲みながら口述筆記させた短編「フオスフオレセンス」を読めば2002年の2月に死んだ我が家の愛犬ムクにだって分かるだろう。この荒技ができるのは、太宰のほかにはスチーブンソンだけだろう。生れながらの小説家とはこういう人のことを言うのだ。

では諸君、読んで見給え。短いから2分で読めます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/310_20192.html


「なんて花でしょう。」 と彼にたずねられて、私はすらすらと答えた。
「Phosphorescence」

ところがこの花が永遠の謎の花であるところがまた素晴らしい!



♪さわに生りし蒼き柚子の実もぎ取れば強かにわが指刺せりその処女の実 茫洋


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雑賀恵子著「エコ・ロゴス」を読む

2008-11-20 17:28:21 | Weblog


照る日曇る日第190回


「存在」と「食」をめぐる著者の思考は、時空を超えて軽やかに飛翔しながら私たちを未踏の領域に導いていく。

「最初の食欲」では食べるということの本質が解き明かされ、「遥か故郷を離れて」ではカインとアベル以来私たちが殺してきたものを見つめ、「草の上の昼食」、「パニス・アンジェリクス」では大戦中の兵士や船長が直面した殺人と食人の現場における「倫理」のありかについて光を与え、「ふるさとに似た場所」では、私たちの生の本質は「骰子一擲」であり、その不断の歩みに回帰すべき場所はないこと、「嘔吐」では私たちが他者、他の存在とかかわる劇場の中で生きていること、「舌の戦き」では舌が他者との交通の歓びを味わい、その快楽の記憶を呼び起こす器官であること、「骸骨たちの食卓」では、私たちがたとえ檻の中に捕われたカフカの「断食芸人」であろうとも観客の眼差しとは無関係に愚鈍に生きるべきこと、「ざわめきの静寂」では私たちは瞬間毎に新たに立ち現れる存在であること、が叙事詩のように力強く、抒情詩のように美しく語られる。

そして著者が終章において、まるでサッフォーのように、あるいはまた「星の海に魂の帆をかけた女」のように次のように語るとき、私たちはこの誠実で真摯な探究のひとまずの結論を、大いなる共感とともに受け止めないわけにはいかないだろう。

「言語を持ったわれわれは、歴史を持つ―すなわち過去を振り返り、傷みを感じつつ検証することが出来るということでもある。わたしたちは死すべきものであるのだから、生は他者の死との連関の中で繋がれるものだから、だからなのだ、根源的な殺害の禁止は、絶対的なものであり、つまり他者の殺害ばかりではなく、自己の殺害の禁止をも含むものなのだ。」

「生きるとは、ともに在ることであり、倫理とは、生きようとする意志のことだ。…言葉でもって、生きる場所の論理を語ること。確かに、それは、どれほどの試みを積み重ねても、失敗し続けるだろう。だが、言語によって、われわれは歴史をもったとともに、未来というものをわれわれの思考の中に導き入れたのだ、未来、希望というものを。」

この本は、著者の存在を賭した精神の大旅行記というべきだろう。


♪屋根の上アンテナ立て終えたる2人連れ風に吹かれて煙草のみおる 茫洋

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満福寺徘徊

2008-11-19 20:16:53 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第150回

江ノ電の線路をまたいで松の茂った急な階段を見上げると、そこは義経の腰越状で名高い満福寺であった

元暦2年1185年、平家を壇ノ浦に滅ぼし鎌倉へ凱旋してきた義経は、この寺に滞在して兄の怒りを解くべく一通の書状をしたため、これを大江広元に託した。しかし梶原景時の讒言によってついに兄頼朝との再会がかなわず、ここ腰越から泣く泣く京へ引き返したのである。

義経はそれからご存じのように奥州藤原氏に匿われたが、文治5年1189年6月の中旬、藤原泰衡によって衣川で討たれ、その首は百三十里をゆるゆると四十三日かけて鎌倉に送り届けられ、その首実験はところも同じここ満福寺において梶原景時と和田義盛によって行われた。

この両名はいずれも数年後には北条氏の陰謀によって撃滅窮死せられる御家人であったが、おりしも八月初旬の暑い盛りの節だったから、いくら義経の首が酒にとっぷり浸されていたとはいえ、その形状は原形をとどめず、その発する腐臭は耐え難いものだったろう。

ゆえに後世ここから偽首ではないかという嫌疑が生じ、さらに大きく逸脱して義経ジンギスカン説などの浪漫伝説を生むことにもなったいわくつきの寺であるが、いまなお境内も本堂もどことなく怪しくいかがわしい空気がみなぎっている。

本堂の甍にはなんと源家の文様の瓦が載せてあるし、弁慶が書いたと伝えられる腰越状の下書きにしても醜い褐色にたらしこまれ、真贋いずれとも判別できない。しかし念の入ったことには弁慶の筆をうるおした硯の水を汲んだ池まで現存しており、数匹の緋鯉まで泳いでいるとあっては、もはや何をかいわんや、であった。

池の突き当りは広大な墓地になっており、墓地の上の小高いところには義経旅館と料亭まで兼備されているのでお暇の方はぜひ訪れられよ。


♪世を呪い人を恨みて満福寺 茫洋
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腰越界隈

2008-11-18 17:47:45 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語149


腰越は鎌倉の空虚なにぎわいからきっぱりと遠ざかり、山と川と海のすぐそばにへばりついた漁村であるが、時折潮風に吹かれて江ノ電が通りの真ん中を勢いよく走るとき、なにやら嬉しそうな表情を浮かべるのである。

ここには昭和の初期に昔肺浸潤を患った山本周五郎が療養を兼ねて住んでいて、商店街のまんなかへんにある「いずみや」という西洋料理屋でハムエッグやらハンバーグだのを生まれてはじめて口にしたそうだ。

私たちは「いずみや」の旧跡あたりで生イワシを15匹500円で買い、その近くの一〇銭飯屋でとれたての生シラスの丼を頂いてその日の午餐としたのであった。

♪ありがたやムラサキシジミの深き青 茫洋
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川上弘美著「風花」を読む

2008-11-17 19:13:09 | Weblog


照る日曇る日第189回

そんじょそこいらのどこにでもいそうな主婦が亭主に浮気されて、それをしおに彼女は自分自身を、夫を、そして世界というものを見つめなおし、自分と自分を含めた全部の世界を取り返そうとする。そういういわば世間でも小説世界でもありふれたテーマを、作者はこの人ならではの文章できちんと刻みあげていき、最後の最後でどこかお決まりの小説とはかけ離れた非常な世界へと読者を連れ込んでそのまま放置する。これこそ当代一流の文学者の凄腕だろう。

その平成恋愛小説史上最高といえばいえるような、壮絶にして超クールなめくるめくラストシーンを引用するかわりに、ここでは小説のプロットとはあまり関係のないこまかな描写をいくつか書いておこう。

―「なに見てるの」卓哉が突然聞いた。
え、とのゆりは聞き返す。
「魚みたいな目をしてる」
さかな。のゆりはよく訳が分からないまま、卓哉の言葉を繰り返す。(中略)
さかなは、かわいいよ。夜中のしんとした部屋の中で、のゆりは声に出して言う。それから、頭をぶるっと振る。

―のゆりが取ったキスの天ぷらは、天つゆにつけたとたんに、しなりとのびひろがった。


―のゆりはその無言電話がかかる一瞬前に、電話がかかってくることを予見できる。音はまだ鳴っていないのに、空気が揺れたりするわけでもないのに、なんとなく電話全体がふくらむような感じに、なるのだ。

―「おいしそうだね」
のゆりが声をかけると、男の子は恥ずかしそうにうつむいた。それからすっと顔を上げ、「おいしいねん」と、はきはき答えた。

―ホテルに着いたのは午後遅くだった。(中略)部屋はシングルで、メネラルウオーターの瓶が一本、テレビの横に置いてあった。

―わん、という音がして、向かいのホームの前を下りの新幹線が通り過ぎた。一瞬、空気が大きくたわむ。


神は細部に宿り、作家はその細部を、神の降臨を待ち望みつつ永遠に紡ぎ続けるのである。


♪夢の中で眠りながら星のやうに美しい歌をうたっていた 茫洋
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マーク・ストランド著・村上春樹訳「犬の人生」を読んで

2008-11-16 19:12:48 | Weblog


照る日曇る日第188回

著者は一九三四年、カナダのプリンス・エドワード島生まれ。アメリカ現代詩界の代表的存在だそうであるが、彼の初の短編小説集が本書である。

当たり前のことであるが、短編はともかく短いから長編と違ってすぐに読めてしまうのがよい。この本に集められた作品の多くは短編というよりは掌編というべき短さなのですらすらと読めてしまうのだが、プロットも文体も普通の小説家のものとは相当違っているので大いに面喰う。

例えば表題作では「ヴラヴァー・バーレットと妻のトレイシーは、キングサイズ・ベッドに横になっていた」という素敵な書き出しから始まり、「彼がそのとき口にしたことは、もう二度とふたりのあいだで持ち出されることはないだろう。それは慎み深さ故でなく、あるいはまた相手を思いやってのことでもない。そのような弱さの露呈は、そのような抒情的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいことであるからだ」というところで終わるのだが、その間わずか新書版サイズの本で五ページにも満たない短さである。

しかし、この最短距離で慌てず騒がずゆったりと語られる西洋版「父母未生以前」の物語のなんと神秘的でなんと喚起的で、なんとシリアスなことよ。目が眩むような幻想と氷のような冷鉄の相反する世界を男女の背中越しに魔術的に貼り合わせている。

もちろんそのほかの作品もとても興味深いものがあるのだが、ここまで書いてきて分かったことがある。それは彼の作品が他の短編作家と違うのは、最後の一行、最後の一句で完結しない、ということだ。いかにも詩人が書いた小説である。


♪残金は3万円と息子いう 茫洋

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