あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2006年最後のメッセージ

2006-12-31 12:16:36 | Weblog


ふあっちょん幻論 第4回


これからブランド・デザインやアパレル・ビジネスの世界に挑戦しようとする人にとって重要なのは「じぶんの志を持つ」ということではないでしょうか。

というのは、世の中に存在する数多くのブランドが、定見にない数多くの人々が少しずつ参加することによって当初は存在した志=主張=存在理由=ブランドコンセプトを雲散霧消させたわけのわからない異様な代物だからです。

私はこれからじぶんの志を持った大小無数の個性的なインデーズ・ブランドがどんどん登場することによって、現在のファッション界の「見せ掛けの飽和状態」と世界の中の「ジャパンブランドの沈滞現象」を打破できるのではないかと心から期待しております。

以前、ムラカミタカシを引き合いに出して成功のお手本にせよといいましたが、すべての若者がムラカミタカシになれるわけではありません。

一人のムラカミタカシの足元には100人、1000人、10000人のムラカミタカシになれなかった人々が累々と横たわっているのです。

しかし最大の勝者になれなかった創造者にも十分に存在価値はあります。また長期にわたるマッチレースにおいてかつての勝者が一瞬にして1敗地にまみれる光景を私たちは何度も見てきました。

「いかにしてファッションでお金儲けするか」とか「いかにして売れる商品を企画し、生産し、販売するのか」

というところからこのブランド作りにアプローチするのではなく、

「自分はどんなファッションを創造したいのか」「自分にはファッションなんて必要なのか」「自分は何のために、誰のためにファッションを企画し、生産し、販売するのか」

という風に、最初の問題を立ち上げてほしいのです。


「絶対売れる商品を開発するんだ」などと称して外国直伝の科学的なマーケティング調査だの超現代的なマーケティング理論を振りかざして登場したブランドの大半が三年以内に絶滅しています。

「じぶんの考えや理想をぜんぶ犠牲にしても、ともかく売れればいいんだ」という悲壮な決意の元で立ち上げたブランドが、売れるどころか在庫の山を築きあげている現状をみれば、むしろその自分独自の考えや理想を鋭く磨き上げる道を、たとえ困難ではあっても選ぶべきではないでしょうか。


毎日のように生まれ、そして死んでいく数多くのブランドたちの中で、この問題意識を本気で内部に抱え込んだファションはほんとうに数少ないのです。


そして世の中に増殖する腐敗し堕落した“あほばかブランド”を、皆さんの手で完膚なきまでに打倒してください。“ふぁっちょんもびじねす”もいまさらながら革命を必要としています。

そういえば中国の悪名高い、しかし偉大な革命家である毛沢東が、「若いこと、貧乏なこと、無名であること、の3つがなければ革命はできない」と名言を吐いていますが、これは時代と国境を超えて正しい。私はさらにもうひとつ「頑強な体力」を付け加えたいと思います。

 (ここから絶叫!)
 若者は、午前10時の太陽です。(これも毛沢東の言葉)。
若い皆さんにはいまだけジコチュウなのではなく、死ぬまでジコチュウを貫いてほしいのです。

不肖私はこの業界で長らく悪あがきしながらほとんど何も寄与できず、間もなくくたばりますが、君たちはどうか「全世界を獲得するために」ぐあんばってくれたまえ。
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Hの終わり

2006-12-30 14:18:20 | Weblog


ふあっちょん幻論 第3回


時代はHからWに向かってゆるやかに推移し、歴史は大きな結節点を迎えようとしています。

HOWを主題とする産業の代表選手は、たとえば電通や博報堂などの広告代理店です。彼らは政府・政党・自治体などに依頼されて、「絶対に負けない、絶対に効果のあるキャンペーン」なるものを展開しますが、賢い消費者に対してかつてそんなものが1度でも成功したことがあるのでしょうか?

また彼らは民間企業に対して莫大な金額を使った市場調査や最新の学説に依拠した超現代的なマーケティング手法を提案してくれますが、果たしてそんな代物がファッションをはじめとする企業の売り上げに少しでも貢献したことがあるのでしょうか。
非常に疑問です。

ファッション業界においても、過去20年間にわたってHOWを主題とするマーケティング手法や学識者やひょーろん家がえらそうなりろんを唱えてきましたが、結局それらは経済ひょーろん家や文芸ひょーろん家とまったく同じ運命をたどることになってしまいました。(いくら評論・批評しようとまったく肝心の経済や文学や演劇や音楽そのものの動向に影響を与えることができない大多数の言論商売の人々を指す)

これに付随するのが、まず主部や主語を明確に語ろうとせず、それらを巧みに隠蔽して述語や修辞をもてあそぼうとする隠微でHな服飾文化の行き詰まりです。

主張も思想もなく、隣人や先行者や外国人の生産物をただ模写したり、文脈への配慮や注釈もなしに盗用的に引用するような手法の破産です。

半世紀近くも前の時代に、発展途上国の異邦人という立場からこのクラシックな業界に参入した諸先輩は、いかにして売れる服を作ろうかと考えたのではなく、既存の世界には絶対に存在しない服を作ろうと考えたのではないでしょうか?

不定形のHOWからではなく、WHATという始原の星雲状態から暴力的に出発したのではなかったのでしょうか?

アパレル・ビジネス業界の全域に及んできたHの終焉を見つめながら、私たちは古くて新しいWの創造の波を形成しなければならないのではないでしょうか?

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朝比奈峠往還

2006-12-29 16:43:53 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語26回



今日も朝比奈峠を登る。

心臓破りの丘では冠雪した富士山が、熊野神社の向うには東京湾が見えた。

はるか彼方の風景は、過去の時間と接続していて、いつも遠い昔の記憶を呼び覚ます。

20億光年の彼方にまたたく遠い星を眺めた夜のように。

そうしてそれらの映像の奥底には、かつて訪れた土地とそこに住む懐かしい人々の思い出がはかなげに漂っている。

素早く逃れる耕君に追いつこうと朝比奈峠の頂上を過ぎたとき、

またしても私はこの世からあの世への境界を跨いだのであった。

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ここに中世国立墓地があった

2006-12-28 17:33:44 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語25回


昔シロツメクサ咲くこの野原で、耕君、健君、ムクたちと遊んだり、四つ葉のクローバーを探したものです。

ところが数年前にくそったれ土建屋の手であほばかマンションが建つというので、例によって市の発掘調査が行われた結果、なんとここが鎌倉時代の最大の葬儀センターであったという事実が判明しました。

つまり前回紹介した鎌倉時代のエリートたちを矢倉(やぐら)に埋葬する前に、この焼き場で僧侶が盛大に慰霊してから骨を焼いたのです。

ですからわが太刀洗周辺は、地区全体が死者をこの世からあの世に送る聖なる場所であり、鎌倉幕府いや中世最大の死者慰霊センターであったのです。

近い将来には市、県、国が資金を出し合って中世国立墓地を記念する遺跡公園にするという計画が発表されましたが、いまはこのように閉鎖され雑草が生い茂っています。

この世でもっとも貴重なものは、汚れなき魂と人に見捨てられたくさっぱら。

なので、できたら頑張って世界遺産などに登録もしないで、間もなく人類が滅びるまでこのままにしておいてほしいのですが…。

ダメ?
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隠し砦の埋蔵金

2006-12-27 19:09:58 | Weblog



鎌倉ちょっと不思議な物語24回

鎌倉時代の貴族や武将などのエリートが死ぬと、火葬されたあとで山麓の鎌倉石を切り開いた直方体の空間に葬られました。それが「矢倉(やぐら)」です。

エリート以外の一般大衆はというと、たとえ死んでも狭い鎌倉でそんな贅沢は許されないのでそのまま山野に遺棄されるか、海岸の砂の下に埋められました。

鎌倉には無数の矢倉がありますが、昔から我が家の近所の矢倉の中のどこかに大量の埋蔵金が隠されているという噂があります。

そこで、何を隠そうこの私も、雨が降っても、槍が降っても、また昨日のように大風が吹いても、およそ30年以上にわたってこの辺で毎日のように黄金探しを続けているのですが、どっこいそう簡単に見つかるものではありません。

写真はすでにうちの健ちゃんとムクが捜索済みの矢倉ですが、残念ながらこの立派な矢倉には埋蔵金はありませんでした。

しかしこの矢倉は幕府から六浦港に至る交通の要所に位置しているうえに、小高い丘の上にあったために、おそらく幕府の兵隊が常駐して警戒に当たっていた隠し砦であったと思われます。

ちなみに当時の兵士は刀と弓で武装していましたが、彼らは長弓の名人ぞろいでおよそ100メートルの距離からの命中率は9割以上であったそうです。


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「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

2006-12-26 20:45:20 | Weblog


これは江戸時代の仮名手本忠臣蔵ではない。

真山青果(尾崎紅葉の高弟、小栗風葉の弟子)が昭和に入ってから書いた近現代版の忠臣蔵である。(岩波文庫で全3冊です)

歌舞伎の楽しさは、踊りと音楽とセリフの入ったお芝居(演劇)の三要素のアマルガムにあるのに、この元禄忠臣蔵には最後のものしか用意されていないからつまらない。

歌舞伎の本質である「慰霊」はあっても、「カブく」や「ケレン」や夢幻性がないから、物足りない。歌舞伎18番などの古典とは違って、新派歌舞伎、いや新劇歌舞伎なのである。


しかし坪内逍遥、築地小劇場以来のリアリズムの表現が脚本の底流にあって、そのコンテキストでいわば歌舞伎を本歌取りしているから、大石内蔵助や堀部安兵衛や磯貝十郎左衛門など個人の思想や苦悩がイプセン劇のように浮き彫りになる。
内蔵助にいたっては、討ち入りの理由は幕府への反抗ではなく浅野内匠頭のうらみをはらすことだけだ、まるでブルータスのように演説したりする。

だから役者のセリフが生命である。そこが青果の苦心であった。

そして国立劇場創立40周年記念3ヶ月連続公演「元禄忠臣蔵」は、松本幸四郎の内蔵助の、「これで初一念が届きました」の胸をえぐるような一言で、全編の大団円を告げるのであった。
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野にWHATを叫ぶ者

2006-12-25 19:40:16 | Weblog


ふあっちょん幻論 第2回

 
今年90歳になる文化服装学院元学長の小池千枝さんが六本木ヒルズでファッションショーを開催されたそうです。小池さんは、今も昔もファッションとは世のため、人のために服を作ることであると考えておられます。

小池さんなどの薫陶を受けた60年代から70年代までのクリエーターたちの多くが、心の奥底で、WHATやWHYを抱え込んでいました。何のために、なぜファッションをやるのか、という内的な衝動です。

例えばオーダーメイドを卒業して誰にも着られる安価な既製服を作ろうとか、日本人ならではの感性を生かしたプレタポルテを作って世界のブルジョワをびっくりさせてやろうとか、フォーマルウエアが全盛なので思いっきりカラフルなカジュアルを提案しよう、というおのれを起動させる動機のことです。
彼らはこのような非常に単純明快な旗印を掲げて当時の欧米市場に殴り込みをかけ、見事に成功しました。

これはかつて大崎の町工場で誕生した東通工(現ソニー)が世界一小さなトランジスターラジオを作ってやろうと野望を抱いて、そのあとで懸命に無謀なその夢を実現していった軌跡(奇跡)に少し似ているような気もします。

けれども現在ファッションに携わるクリエーターの多くが、いかに大量の商品をいかに効率よく消費者に売り込むか、という巨大なグローバルメカニズムの1つの小さな歯車や部品の役割に甘んじています。

つまりHOWの世界です。

アレキサンダーマックイーンや川久保玲はともかく、トムフォードやカール・ラガーフェルドなどは完璧にHOWの世界で生きています。

これはソニーやトヨタなどの大企業において消費者起点の企画、生産、販売、広告宣伝の円環をいかに無駄や無理なく回転させるかが最大のテーマとなり、その課題に最適の解を出すために、ヒト、モノ、カネを惜しみなく投入している状況に対応しています。

このように時代はWHATやWHYから完全にHOWのモードに切り替わって久しいのですが、いっけん最高に進化し、時代の先端を走っているように見える、このHOWを主題とするハイテクグローバルマーチャンダイジングに問題はないのでしょうか?

よく観察してみると、HOWに生きる人は狭い蛸壺に生きる人です。

口ではグローバルを叫びながらも古い経験と規範に固執し、流動する生命現象を直観する原始的な能力を失い、死体を解剖してその断片を顕微鏡で観察し、データをパッチワークすることが創造だと勘違いしていることが多いのです。

そういうミクロの決死圏に生きる人が世界中のあらゆる業界で大繁盛していますが、彼らが主導する経営はいたるところでその推進力を失って根幹部分で破綻し、市場における売り上げ目標の達成はおろか、その創造の担い手たちにわずかな労働のよろこびを提供することにすら失敗し続けているような気がします。

他の産業はいざしらず、HOWの専門家たちの重要性と価値観は、少なくともこれからのクリエイティブデザイン、アパレル業界では急速に減退していくのではないでしょうか?

そして再び大声でWHATやWHYを問う人や骨太に考える人、の登場が待たれているのではないでしょうか?



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銀座通りには峠の茶屋があった

2006-12-24 19:36:38 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語23回

やっと今月最後の、そして今年最後の仕事が終ったぞお!

メリークリスマス! そして、さよならディープインパクト!

さて今日も耕君と登った朝比奈峠の頂上には、山腹の鎌倉石を切り取って作られた空間があります。

鎌倉ちょっと不思議な物語第21回で紹介した「まがい物の磨崖仏」のちょうど対角線の位置ですが、ここに明治時代の末頃まで峠の茶屋がありました。

茶屋にはとてもきれいな若い女性がいたので、彼女をお目当てにして峠を上り下りする旅人が跡をたたなかったそうです。

三代将軍の実朝も、追放された日蓮も、この鎌倉時代の銀座通りを通って、麓の六浦の港まで降りていったのでした。


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あなたと私のアホリズム その3

2006-12-23 20:36:09 | Weblog


♪ 眼には眼を、歌には歌を

「バカの壁」の養老先生が、
「音楽家は言葉にできないことだけを音楽で語った。だから我々はその音楽について言葉で語っても仕方がない」
と、語っていた。
なるほど、それもそうだな、と思った私は、
モーツアルトの「レクイエム」を聴いたあとで、K618の「アヴェ・ベルム・コルプス」を小さな声で歌った。


♪ カフカのアフォリズムより(池内紀訳)


1)誰一人として自分の精神的な人生の可能性以上のものをつくり出せない。食べること、着るもの、その他もろもろのために働いているように見えるが、それは二の次のことであって、目に見える1着の衣類ごとに目に見えない1着を身につけている。これが人であることのしるしというものだ。あと追い式に存在を築いているかのようだが、それは心理的な鏡(かがみ)文字のようなもの、人はまさに自分の存在の上に人生を建てている。いずれにせよ誰もが自分の人生を(あるいは同じことだが死を)正当化できなくてはならず、この課題から逃れられない。

2)お前とこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。(この世の側に立て。)


私のアホリズムでは、とうてい過負荷のアフォリズムには勝てませんて。

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九本桜土俵入り

2006-12-22 17:48:03 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語22回


太刀洗には、なぜか枝分かれした樹木が多い。

これは根元から九つの枝に分岐した山桜で、春には白い小さな花弁をはらはらと散らせてくれる。

この桜の下を2002年に死んだムクとよく散歩したものだ。
 
だんだん寒くなってくるけれど、らいねんの春もどうか無事に君の花を眺めたいものだ。

九本刀で土俵入りする横綱には到底かなわないけれど、近くには八本、七本大関も両腕を広げて立っている。
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まがいの磨崖仏

2006-12-21 20:21:33 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語21回


この磨崖仏のようなものは、朝比奈峠の頂上、鎌倉市と横浜市の境界線のすぐ傍にあります。

磨崖仏ではなく磨崖仏のようなもの、と書いたのは、これは昭和30年代に横須賀市のあるおじいさんが、自分で勝手にここで刻んだものだからです。

ところが驚いたことに、そんなことも知らないでこれが鎌倉時代や室町時代に作られた、などと、もっともらしく記述するガイドブックが最近登場したようです。

でも、よく見ると、いかにも仏様らしい、もっともらしい表情をしていますね。
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クリスマスとジェーン・バーキン

2006-12-20 19:57:01 | Weblog
クリスマスとジェーン・バーキン


クリスマスが近づいてくると、私の家ではちょっと贅沢な飾りものを玄関につるす長年の習慣がある。

これは1986年の初冬にフランスのジェーン・バーキンという女優さんが私の家族にプレゼントしてくれた。帝国ホテルに泊まっていた彼女が、お向かいの日比谷花壇で買い求めてくれたものである。

当時の彼女のご主人は映画監督のジャック・ドワイヨンで、バーキンはなぜだかドワイヨンと一緒に来日した。

彼女は肌身離さずからし色をしてちょっと汚れた大きなバッグを持ち歩いていたが、あとから考えてみると、これが有名な例のエルメスのバーキンの第1号なのだった。

その年、ジェーン・バーキンはテレビCMの制作でやってきたのだけれど、私はバーキンよりもまずドワイヨンの人柄に惹かれ、この人がいったい何者であるか(実際はかなり有名で実力のある映画監督でした)なんて全然知らないままに仲良くなった。

私が住んでいる鎌倉までやってきた2人を、十二所のおばあちゃんの家に案内すると、「これが日本人の普通の生活なんだ」と、とても喜んでいた。


それから大仏と長谷観音を見物したっけ…。家内がカローラを駐車場から回してくるのを光則寺で待っていたら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながらなにか歌を歌っていたので、「ああ、この人はこういう人か」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろか」とか、「どうして火葬にするの」などと矢継ぎ早に聞かれてうろたえたことを、いま思い出した。

それから以前田中絹代が住んでいた鎌倉山の日本料理屋に行って4人で昼ごはんを食べた。ところが最近この広大な庭と素晴らしい眺望を誇る和風建築が取り壊されて、あの、みのもんた氏の豪邸に変身するという。

CMの撮影は京都の大沢の池などで行われたが、そのロケの弁当のおかずにどういうわけか巨大なザリガニが出た。私はこんな不気味なものが食えるもんかとあきれ果てて食べなかったが、バーキンがミック・ジャガーのような大きな口でバリバリと食らいつくのをみてたまげた。

無事に撮影が終了して最後に有楽町のいまはなくなったツタの茂るフランス料理のレストランに行った。入り口で彼女のお得意のジーンズ姿を一瞥した店の主人が、「うちはちゃんとした服装のお客様でないとお断りしています」とぬかして来店を拒否したのも懐かしい思い出。どうして断られたのか全然分からないジェーンを引っ張って隣の普通の料理屋に入りてんぷらとウナギとすき焼きを腹いっぱい食べて別れたのだった。

それからもジェーンは毎年のように来日しているようだが、あれ以来会わない。あんなに素敵なカップルだったのにドワイヨンとはとっくに別れたそうだ。


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ふあっちょん幻論 第1回

2006-12-19 19:13:25 | Weblog


ファッションビジネスの混迷と停滞

私はながらく日本のアパレルメーカーに勤務していましたが、残念ながら視野が狭くて、世界の中の日本ブランドという意識が欠落していました。

社内でトップの売り上げを達成しようとか、国内でナンバーワンになろうとかは考えていましたが、本気で欧米のトップブランドに勝とうなどと思ってはいませんでした。

 70年代までにわが国では(若者はいざしらず)大人が満足できるそれなりの国産衣料品や雑貨は都会の百貨店へいけばおおかた入手できました。

 ところが80年代になると、国内企業が国内の消費者のウオンツを的確に把握することができなくなり、その間に海外勢力が怒涛のように侵入してきたのです。

 それからさらに20年。気がつけば高級品は外資系のラグジュアリーブランドに、実用品は中国からの輸入ブランドに席巻されています。

そしてこのことは識者によって60年代から予見されていたにもかかわらず、結局現在もきちんと対抗対策の手が打たれているとはいえません。

 かろうじて2年前から東京コレクションの強化とかクールビズの立ち上げなど政府主導型のアパレル振興政策が打ち出されてきましたが、ほんとに必要なのは、そういう「上からの改革」ではなく、アパレル産業関係者自身による民間主導型の「下からの改革」ではないでしょうか?

 では各人が各自の立場でどうしたらいいのか? それが問題です。

 私は若い世代の人々が自分流に満足できる個性的なブランドを立ち上げ、国内のみならず世界市場にどんどん進出することを心から希望し、期待するものですが、そのためには我々が30年間にわたって失敗しつづけてきた旧世代の既存のやり方をよく研究し、その批判的な検討のうえに立って再度国際競争の最前線に出ていってほしいと思うのです。

 具体的にここでその方法論を述べるつもりも余地もありませんが、最近アーチストの村上隆氏が書いた「芸術起業論」がこの問題を考える上で参考になると思われます。

 村上隆氏は、「芸術家は世界の本場で勝負しなければならない」と説き、そのための道のりを、1)まずは本場の欧米で認められる。2)次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みにあわせた作品を逆輸入する、3)そしてもういちど芸術の本場に自分の持ち味を理解してもらえるように伝える。
の3段階を想定しました。

 そして「スーパーフラット展」でアメリカに認められ日本で作品を展開し、05年の「リトルボーイ展」でほんらいの自分の思うリアリティを表現できた、と3段階戦略の成功を総括しています。(同書113p)

 しかしそこに至るまでは食うや食わずの悲惨な貧困と努力の生活が何年も続いたわけですが、やはり今日の村上隆を作り上げた最大の要因は、こういう戦略を自分に課し、それを懸命に実行したことにあるのではないか、と思わざるをえません。

 ファッション界でクリエーターを目指すのも、まったく同じことだと思います。
村上氏は37歳のときにコンビニの裏口で弁当の残り物を貰うために立っているのはつらかった、と書いていますが、そういう忍耐と辛抱強さも必要なのでしょうね。

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♪魔弾の射手よ今いずこ

2006-12-18 19:21:22 | Weblog


音楽千夜一夜 第4回


最近ウエバーWeber, Carl Maria von (1786-1826)の歌劇「魔弾の射手」をクライバー親子とマタチッチが指揮したCDで立て続けに聴きました。

3人の中ではやはりエーリッヒ・クライバー&バイエルンオペラのものがもっとも優れた演奏だと私には思えたのですが、それはこの際どうでもいいことで。

この「魔弾の射手」はドイツ人による最初の国民オペラらしいのですが、確かにそれだけのことはあってドイツ帝国成立(1871年)をめざしてひたすら前へ前へと突き進んでいくドイツ人のロマンチシズムと強烈なエネルギーはまぶしいほどです。

全編どこでも斬ればゲルマンの血がほとばしり出るような生々しい音楽と言えるかもしれません。いうなれば新興帝国の精神の応援歌でげす。


よくWagnerの音楽とナチズムの親近性を指摘する人もいますが、その源泉はすでにウエバーの目もくらむようなドイツ魂の熱血音楽の内部から湧出していたのではないでやんしょうか。

メンデルスゾーン(1809-1847)とゲーテ(1749-1832)もほぼ同時代の人ですが、このウエバーほどの手放しの若さと過激さは持ち合わせていなかったような気がします。

アジアの片隅でゆっくりと黄昏てゆく少し疲れた老大国で、このウエバー選手のような元気で単細胞な音楽を聴くと、なぜか「やれやれ」というため息が出てきます。

ドイツ音楽のいちおうの完成者はやはりベートーベン(1770-1827)ということになるのでしょうが、昨日聴いた彼の感動的な第9交響曲にしても、ほんとうはその限りなき前向きさ加減にちょっと辟易させられるところがあります。

やれやれ、おらっちもジャパンもいつの間にか年取ってしもうたなあ。


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鎌響の「第9」を聴く

2006-12-17 21:14:44 | Weblog


音楽千夜一夜 第3回

 ことしも年末恒例のベートーヴェンの第9番の交響曲を聴いてきました。演奏はもちろん贔屓の鎌倉交響楽団です。

この演奏会場は10年ほど前に中西という自動車屋の市長が大船の旧松竹撮影所の傍に巨費を投じて作った気色悪い緑色に着色された鎌倉芸術館です。

この建物が完成したとき、当時の中西市長は自分の親戚の同じ姓の有名シャンソン作詞家をプロデユーサーにお手盛りで任命しました。ここらへんはちょっと石原知事とその息子の関係に似ているかもしれませんが、中西氏はその身内の作詞家に対してなんと年間2億だか3億円だかの法外なプロデユーサー料を(市のそれでなくても全国で有数の高額の税金から)気前よく支払ったのです。

その作詞家がやった仕事といえば、年間のコンサート計画なるものを企画立案し、東京の自分の知り合いのゲージュツカたちをこの湘南の田舎町にどんどん連れてきて好き勝手なプログラムを組んで自分勝手に「運営」したことくらいなのですが、こうした野放図な税金泥棒的行為?は心ある市民から指弾を受け、くだんの作詞家はいつのまにかこの地からいなくなってしまいました。

 ああうらやましい。じゃなくてけったくそ悪い。

そういういわくつきの会場ですが、唯一のめっけものは音響の良さです。1階は相当音が飛びますが、2階、特に3階の最前部の聴感は抜群で、どこに座っていても音響が怪しく飛散するサントリーホールよりも快適な響きで、これだけはダブルナカニシチームに心から感謝したいところです。

さて下らない前置きはともかく、今日の演奏はなかなか楽しめました。
私は前にも書いたように、プロの枯渇し疲弊しきった冷たい演奏よりも、たとえ技術的には劣ってはいても音楽への純粋な愛情と情熱では前者をはるかにしのぐアマチュアの演奏を好んでいますが、今日の鎌響もそのとおりの好演でした。

私はこれまで第9は第三楽章がいちばん気に入っていたのですが、今日はむしろ第二楽章の方が楽しく聞き応えがありました。ここでは弦と管とが華麗な舞踏を繰り広げ、踊りの輪郭が拡散しそうになると、途端にティンパニーが出てきて要所要所で音楽の形式をぴりりと引き締めます。

それがまことにカッコいい。今年亡くなった岩城さんがこの楽器の奏者であったことを思い出しましたが、ティンパニーって音を出せない指揮者に代わってああいう声を出しているのですね。

夢見るような第三楽章が終ると切れ目なく最終楽章に入ります。

しばらくとろとろ眠るがごとき音楽をまだ続けていますが、まず最初にあの有名な歓喜のテーマを深々と歌うのはチエロ、そしてコントラバスなんですね。

それから同じテーマをビオラが歌い、最後に第1と第2のヴァイオリンが高音部で高らかにうたい始める。すると木管と金管がそのシンプルなメロディーをあわてて追いかけるようにして唱和します。

やがてすべての楽器が私たちの心臓とおなじリズム、おなじメロディーでどんどん加速を強めていって、ベートーヴェンの心の音楽が堂に満ちる。そして最初の絶頂の峠の上で、ソプラノでもなくテナーでもなく、なんとバスが「おお、フロイデ」と歌いだすのです。この構成はほんとうに素晴らしく、こうなるとベートーヴェンはもはやゲーテにもナポレオンにも絶対に文句を言わせません。

じつは私はこのところ第4楽章がちょっと鼻につくようになって、リストが編曲したピアノ版第9の演奏をツアハリスの見事な演奏で楽しんでいたのですが、これを実演で聴かされるとやはり声楽入りも捨てがたい。いやそれどころではなく主にシニアの方々のものすごい咆哮は管弦楽の強奏を圧倒しました。

人間の声が最高最大の楽器とはよく言ったものですね。


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