照る日曇る日第1612回
東の『源氏物語』と並ぶ西の大著『失われた時を求めて』の本質に肉薄するプルースト研究の第一人者に拠る剛速球の論考である。
作中の一人称の主語である「私」が、表層の「終始情けない私」と、それに寄り添う「知的な語り手の私」、さらにその背後に見え隠れする「プルースト自身」の3重構造、或いは三位一体で活動しているという指摘はとても説得力がある。
母親がユダヤ人であったプルーストが、なぜ主人公をユダヤ人とせず、執筆当時には夢中になって支援擁護したユダヤ人ドレフェス大尉、或いはユダヤ人全体に対して中立、時には反ユダヤ的人物や韜晦的言辞をあえて導入したのか?
著者はいう。作家は、おのが血脈の内部のユダヤ人にたいする愛憎相半ばするアンビヴァレンツを、作者の胎内のサドマゾヒズムに対するそれと同列に置き、それが自分にとって大事なものであるがゆえに冷酷に罰したり、あえて酷薄に取り扱った、と。
確かに少年時代からプルーストは作曲家レーナルド・アーンやリュシアン・ドーデ(作家ドーデの息子)などと肉体関係があり、そのことをジッドに告白してもいる。
彼は愛する者の怒張した陰茎が、おのが直腸を貫いて精液に満ち溢れる被虐の快感に我を忘れながらも、その時、同時に、おのれを加虐する他者の快感と同一化するサドマゾヒズムの極意を熟知していたからこそ、シャルリュス男爵の性向をあれほど見事に描写できたのだろう。
さうして作者は、このサドマゾヒズムこそが作家プルーストの創作の原動力であり、ユダヤ問題に対するキーワードであり、さらには芸術の本質も、「苦痛をあえて甘露と錯覚するサドマゾヒズムである」と喝破するのだが、私にはその仮説の大胆不敵さは高く評価できるものの、そのような概念の拡大解釈と、他の領域への一般化が許されるのか否か、軽々に結論を出せないでいるのである。
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天敵のジョコビッチ相手じゃ仕方ない慌てず騒がず負けゆく錦織 蝶人