あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

村上春樹著「東京奇譚集」を読んで

2020-03-31 11:07:47 | Weblog


照る日曇る日 第1379回

久しぶりに村上春樹選手の昔の作品に目を晒してみました。

「偶然の旅人」「ハナレイ・ベイ」「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」の5つの奇譚、というより奇談を並べてみせたが、こういう映画的なタイトルを5つ並べることが出来るのも、他の作家にはなかなか出来ない芸当なのだろう。

それで順番に読んでみると、みな喰らいつきやすく、若干語り口に食傷気味の個所はあるものの、なんたって客あしらいがこの国の作家中随一なものだから、くいくいと最後まで読ませてしまう。これも彼の貴重な得意技のひとつである。

どの短編もそれなりに面白く読めるが、一番の力作は、最後に置かれた書き下ろしの「品川猿」で、これだけは題目にふさわしい「東京奇譚」ずら。映画にうってつけのプロットだと思ったが、もうなっているかも知れない。

 「パンデミック」などと呼ばれて喜んで新型コロナは世界を駆ける 蝶人
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大島建彦校注・新潮日本古典集成新装版「宇治拾遺物語」を読んで

2020-03-30 13:22:09 | Weblog


照る日曇る日 第1378回

鎌倉時代に編纂された説話文学というより諸国面白読み物アラカルトで、今昔物語と同じ内容の噺もたくさんあってコロナ騒動で引き籠っている間の暇潰しにはもってこいの書物である。

平安時代の英雄豪傑譚から貴族、僧侶、武家、庶民の生態、悲喜劇、珍談伝奇、妖怪怪異の類まで無いもの無いというレパートリーの広さ、猥雑さであるが、これらの逸話をを民俗学的な視点で観察してみるのも一興だろう。

私の好きな陰陽師、安倍晴明が大活躍する条もいくつかありましたな。


 他ならぬ志村けんが死んだので本気で向き合うコロナウイルス 蝶人
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岩波文庫版「源氏物語七」を読んで

2020-03-29 10:34:04 | Weblog
照る日曇る日 第1378回

本巻には「匂宮部卿」から「総角」までが収録され、「椎本」からはいよいよ最後の花火の「宇治十帖」が美しくも悲しう打ち上げられていくのである。

光源氏が退場したあとでは、もはや誰も光輝あふれる登場人物はいない、と作者紫式部自身が断言しながら、それでも10連発で展開させていく物語の主人公は、もちろん薫と匂宮である。

さりながら、いくら薫が体内ヘロモンをまき散らして女房どもを悩殺しようが、負けじと匂宮が総身にペリーエリスの香水を塗りたくって対抗しようが、2人が束になってかかっても、所詮源氏の色気と紳士道にの敵ではなかった。

2人のダンディのターゲットとなる八宮の娘大君と中宮も、いちおう魅力的に描いてはあるけれど、既出の藤壺や玉鬘、朧月夜など源氏の女たちの存在感と比べると月とスッポン、邦画でいうと松竹、東宝の時代劇と東映、大映くらいの格差を感じないわけにはいかない。

それにもかかわらず、なんで紫式部が「宇治十帖」に筆を染めたかというと、本編が余りにも好評を博したので、しぶる作者をスポンサーの藤原道長が、「どうでも続篇を書け。嫌なら他の女房に書かせるぞ」というて脅迫したからだろう。

じっさい「宇治十帖」に生気がなく、文体に異変が見られるのは、紫式部が、中宮彰子の筆の立つ女房を抜擢した編集プロダクションを、適宜「助っ人」に使ったからではないだろうか。

   雪が降りコロナに怯える春の朝皆川達夫の「音楽の泉」終わる 蝶人








































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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「雅歌」を読んで

2020-03-28 10:38:38 | Weblog
照る日曇る日 第1377回

若者  「恋人よ、あなたは美しい。
    あなたは美しい。あなたの目は鳩。」
おとめ 「愛する人よ、あなたは美しく、麗わしい。私たちの寝床は緑の茂み。
    私はシャロンのばら。谷間の百合。」

ソロモンの雅歌は、旧約聖書の中の小さな泉。頑な教説と教説のしばしの間奏曲ずら。

ユダヤ教の経典の一齣ではあるが、宗教とは無縁な、若者と乙女の永遠の恋の歌が、抒情的で青春爆発的な歌垣を形成していて、いささか眩しい。

   我こそは地球の主と自惚れし人類今こそコロナにひれ伏す 蝶人



















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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「コヘレトの言葉」を読んで

2020-03-27 16:15:14 | Weblog


照る日曇る日 第1376回

コヘレトはダビデの子でこの世の富と権力を一身に握って物理的には不可能のない世界を生きたエルサレムの王であったが、その人物が

「空の空
空の空
一切は空である。」

と断言する。

「すべてのことが人を疲れさせる。
語りつくすことはできず
目は見ても飽き足らず
耳は聞いても満たされない。
すでにあったことはこれからもあり
すでに行われたことはこれからも行われる。
太陽の下、新しいことは何ひとつない。」

なんてまるでマラルメを読んでいるような気がする。

非常に思索的な人物でいささかニヒルではあるが、コヘレトは殆ど我々現代人の隣に立っている哲学者の友人のようである。

その友達から「太陽の下では食べ、飲み、楽しむことより他に人に幸せはない」
などと言われたら、うんと頷いて、ぎぎゅゆと抱き締めるしかないではないか。

  石川の啄木この世に生きて在りとせばいかなる歌を詠み給うらむ 蝶人
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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「ヨブ記」を読んで

2020-03-26 10:56:21 | Weblog


照る日曇る日 第1375回

エステルに続いて登場するこのヨブも、とても人間臭い身近な存在と感じられるのは、例えば森友事件の赤木氏のような、絶対権力者によって不条理な絶望と苦難に突き落とされ、最後には血祭りに上げられる不幸な人間が、古代から現代まで跡を絶たないからだろう。

自殺した赤木氏は、権力者からの命令とはいえ、己の弱さから公文書偽造に加担してしまった訳だが、ヨブなんかは、身も心も非の打ちどころも無い神様の優等生で、悪いことなんか何一つしていない。

それなのに、気の毒にも試みの地獄に突き落とされてしまうのは、すべては神のくせに猪口才な悪魔如きの挑発にやすやす乗ってしまった神自身の責任ではないだろうか?

孤立無援でのたうちまわっているヨブを捉まえて、よってたかって偉そうに上から誹謗中傷する4人の友達の発言や態度も不愉快そのものである。

神の最優等生なら、どんな試練や悪魔の誘惑にも抗して、最終的には勝てると分かっていたはずなのだから、はなからこんな悲惨な試みにあわせる必要はなかった。

死ぬより苦しい生き地獄から奇跡的に生還した我らが主人公に対して、とってつけたように子供を返し、(産み直させ?)、旧来の10倍の羊、ラクダ、牛、雌ロバを呉れたって、おらっちならてんで割が合わないと思うずら。

       咳をしても一億人 蝶人
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亡き母を偲ぶ歌

2020-03-25 14:31:14 | Weblog


ある晴れた日に 第602回


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり  

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 

なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 

土手下に真昼の星は輝きぬ小さく青きイヌフグリ咲きたり 

人の齢春夏秋冬空の雲過ぎにぞ過ぎてまた春となる 

春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか

おかあちゃんはたった一人で逝きはったわいらあなんもしてやれんかった 

とめどなく流れる水を見つめつついたく泣かれし日曜の朝

ただ一度われの頬を打たれしことありき祖父の死を悲しまぬわれを

まなかいに浮かびし母の面影に丹波言葉で語りかける今朝 

たらちねの母が逝きたる故郷の我が家を守るガンの妹 

 テレ朝のモーニングショーに出る狸官邸からの検非違使なるや 蝶人
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家族の肖像~親子の対話 その54

2020-03-24 14:44:05 | Weblog


ある晴れた日に第601回

お父さん、後ろの反対は前?
そうだね。

お母さん、役に立つって、なに?
人のお手伝いができるってことよ。

お母さん、息がつまるって、なに?
息ができなくなることよ。コウ君つまったの?
つまりませんよ。

お父さん、高校って3年まででしょう?
そうだね。

ちなみには?
ついでに、だよ。

タケナカさん、いなくなってしまいましたよ。
タケナカさんって誰?
「盤上の向日葵」の。

○はゼロに似てるね?
そうね。

アオイケさん、南浦和でしょう?
そうだよ。

お母さん、ぼくチャーハン食べてから、セイユー行きますお。
わかりました。

お母さん、ぼくは「転校生」好きですお。
そう。お母さんも。

落語って、なに?
面白いお話をすることよ。

図書館行ってえ、藤沢で定期買ってえ、回数券買ってえ、トウキューでお弁当買ってえ、ケーキ買いますお。
分かりました。

洗濯物、乾いた?
乾きましたよ。

205系は、車両が古くなったんですお。
そうなんだ。

こんど相鉄線、埼京線に乗り入れるよ。
そうなんだ。

出ますか?
出ますよ。

ボク、落花生好きですよ。
そう。
落花生、落花生、落花生。

いとしいって、なに?
かわいいことよ。

ウエダさんが「汚れ取りましたよ」といったお。
そうなんだ。

トダエリカ、大人になってからですよ。
なに?
トダエリカ、大人になってからのお話ですよ。
そうか、「スカーレット」の話ね。

コバヤシカオルとタカハシアツコ、なんで離婚したの?
なんでかなあ? それなんのドラマの話?
「幸せになろうよ」だお。

謝るは感謝の謝だよね?
うん、確かに。

よし、血圧測るぞ!
測ってね。

お父さん、正直にいいますお。
そうだよ、正直にね。

ぼく北海道新幹線、好きだよ。
そうなんだ。

お父さん、メイサ、武子とかでしょ?
それってなんの話?
「八重の桜」ですお。

お母さん、「至金沢八景」ってなに?
この道をずーっと行くと、金沢八景へ行きますよということよ。

お父さん、お巡りさんの英語は?
ポリスだよ。
なに?
ポリス、ポリス、ポリス。

いけねえ、駄目よ、のことでしょ?
そうだね

どこで冠水したの、道路?
千葉だよ。コウ君、冠水なんてよく知ってるね?

「コードブルー」、どんなお仕事する人?
ヘリコプターに乗って、怪我とか病気の人を助けるのよ。

  テレ朝のモーニングショーは玉川がいないと全然面白くない 蝶人
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本日母18回忌につき故人の歌を再掲載致します。

2020-03-23 15:55:09 | Weblog
本日母18回忌につき故人の歌を再掲載致します。

ある晴れた日に 第600回

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

平成四年五月

五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に ささやきの
こみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

平成四年七月

くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり

十五、六年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて
 
色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける


谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむる

平成四年八月

美和達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

兼さん(昔の「てらこ」の番頭さん)の遺骨還りたる日近づく
かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

平成四年十一月

もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る
 
おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

平成四年十二月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば


師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ 
「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

平成五年一月 病院にて

陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃
              
平成五年二月

大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえづり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。

十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            
平成五年九月

―弘安さんに 九月七日
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

弘安さん納骨の日
なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

―リエちゃんと山新さんへ行く
病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして     
雅子さんご成婚か、不詳

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

(深き朝霧の中)十一月二十七日 眞立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
平成六年四月

散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

平成六年五月

浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        
「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ


登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      
「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       
「水無月祭」は綾部の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

平成七年四月

いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく


  春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか 蝶人
  なにゆえに桜を見ずに母去りき丹波の春はあまりに遅し 
  今年また白く寂しく咲きにけり庭の端なる大島桜 

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蝶人弥生映画劇場その3

2020-03-22 10:56:37 | Weblog


闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.2035~44

1)レベッカ・ミラー監督の「ジャックとローズのバラード」
ダニエル・デイ=ルイスが奥さんが監督する映画で60年代のヒッピイの生き残りの時代錯誤と悲劇を演じるが、あんまり面白くない。バラードには成り得ていないずら。

2)ロマン・ポランスキー監督の「ナインスゲート」
大山鳴動して鼠一匹。こんな見かけ倒しのSFなんかみたくなかったな。

3)マックス・オフュルス監督の「忘れじの面影」
いくら調子のいい色男でも、自分にのぼせて身を投げ出した女を記憶の片隅にすら留めていないなんてあり得ない。誰でもそこに躓いてしまうだろうて。

4)ケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」
貧すれど貪せぬ男、それがダニエル・ブレイク。しかし本邦と同様社会保障費を削るまくっている英国では、そんなささやかな抵抗も許さないらしい。
いずれも我が国でもこれとまたく同様、あるいはもっと非情な仕打ちが我々のうえに圧し掛かってくることだろう。

5)フェデェリコ・フェリーニ「ボイス・オブ・ムーン」
フェリーニ晩年の作品。月をとらまえる男などの逸話はさすがだが、全体的に印象が散漫で時々退屈する。それにしてもこういう映画に登場する日本人の醜いことよ!

6)パク・チャヌク監督の「オールド・ボーイ」
近親相姦の秘密を知られたために15年も監禁されていた男の復讐譚ずら。プロットには無理があるが、そんなことには委細構わず強引にラストまで突っ走る剛腕は素晴らしい。

7)パク・チャヌク監督の「JSA」
板門店の南北朝鮮軍人たちがどういう風の吹き回しか仲良くなってしまったために起こる悲劇を活写する。こういうことになればこういう結果になるんだろうなあ。と日本人の私は高見の見物できるが、監督も出演者も観客も当事者の国ではの凄くリアルに感じられRdろうなあ。

8)パク・チャヌク監督の「親切なクムジャさん」
息子を惨殺された親たちは犯人に対して現代法に拠らず、「目には目を、歯には歯を」の古代法に従って直接手を血で汚す。そういう点でもクニュジャさんは本質的に人に親切なのである。

9)フランコ・ゼフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」
かの有名な沙翁の原作を、かの有名なゼフィレッリが1968年に製作した英伊合作映画。
オリヴィア・ハッセーがとても愛らしいが、弱冠14歳で性交するんだね。
それにしてもポール・マッカットニーはなんでロミオ役を断ったんだろう。
それよりハッセーと布施明との間に生まれた子供はどうなったんだろう?

10)マーティン・リット監督の「ハッド」
正義漢の父親と次男に対抗する「悪人」ポール・ニューマン。いいモノクロ映画だな。
パトリシア・二ールに主演女優賞、メルヴィン・ダグラスに助演男優賞がいくならニューマンが無冠というのはおかしいだろう。

ウインドウズが10になっても捉音がてんで打てない「ウっ」「ウっ」「ウっ」 蝶人

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マコとマコト

2020-03-21 13:53:21 | Weblog


これでも詩かよ 第281回

一人は男、一人は女
一字違いの名前だが、その他もろもろが随分違う。

男には姓も名もあるが、女にはなぜか姓がない。

男の名前は普段呼び捨てにされ、偶には「さん」が付くが、女には常に「様」とか「さま」が付く。

男はパンと家族のために額に汗して働いてきたが、女には、その必要はまるでなさそうだ。

男の稼ぎの一部(極ごく一部だが)は、女とその一族の暮らしのために提供されているが、
女からの見返りは全くない。

男はひどい猫背で、外に出ると蝶や地面の石ころなんかを見ているのに、女はピンと背筋を伸ばし、所謂「上から目線」で闊歩している。

この広い世の中で、男に頭を下げる人は誰一人いないが、女の前では、誰もが(あの慇懃無礼な独裁者でさえも)丁重に下げる。

これらの違いはずいぶん大きいのだが、何の因果でこのような差がついたのかについて縷々説明してくれる長屋のご隠居はいなくなり、今では学校の先生に訊ねても、ちゃんと答えてくれないようだ。

しかしながら、男と女の共通点もある。

男も女も現生人類=ホモ・サピエンスの対等な一員であり、万世一系か複雑系かはいざ知らず、どんどこ時代をさかのぼれば、先祖は縄文人か弥生人の山頭火のような風来坊に辿り着くはずである。

さて、ここで問題です。
もし男がパッタリ女に道端で出くわしたとしたら、男は女にどういう態度を取るでしょうか?
次の4つから選んでください。

1) シカトして、黙って通り過ぎる。
2) 恭しく低頭して、上目遣いにチラっと顔を見る。
3)「こんにちはマコさん、僕はマコトです。同じ漢字の名前なので、お見知りおきを! どうぞ宜しく!」
と元気よく挨拶して、さっと右手を差し出す。
4)その他。

 地球上を同じ風が吹いていて良きも悪しきもぐるぐる廻る 蝶人
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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「エステル記」を読んで

2020-03-20 14:02:34 | Weblog


照る日曇る日 第1374回

この「エステル記」というのは何回読んでもよく出来たお伽噺のようにけざやかな読後感を残してくれるのは、このユダヤの美人の名前自体が美しいからだろう。

なんせゴーマンな美妃ワシュティを追放したペルシアのクセルクセス大王が、何千何百という美女の中から毎日毎晩1次、2次と味見しながら吟味した美女コンテストを経て選び抜かれた美女中の美女なんだから、それは物凄い美女だったんだろう。

選ばれたエステルは、み目麗しいだけの女ではなく、とても賢かった。後ろ盾のモルデカイと共謀してその特権を巧みに使い、政敵ハマンを血祭りに上げたばかりか、モルデカイを出世させて、占領国のただなかで打ちひしがれていたユダ&イスラエル民族の復権を勝ちとるのであるが、この辺2人に王の印章まで渡してしまうなんて、クセルクセス王はちょっと脇が甘すぎる気がしないでもない。

なお聖書協会共同訳旧約聖書2018年版では「エステル記」本編の他に、続編の「エステル記」も読めるが、こちらはヘブライ語ではなくギリシア語版ではあるが、内容的にはほとんど同じである。

お前さんに寄り添われるくらいなら死んだ方がましだ安倍蚤糞 蝶人
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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「ネヘミヤ記」を読んで

2020-03-19 14:21:57 | Weblog


照る日曇る日 第1373回

ネヘミヤは、ペルシアのアルタクセルクセス王の治世第20年委に献酌官、つまり王の毒見役をしていた人で、恐らく捕囚としてバビロンに拉致されてきたユダヤかイスラエルの人なのだろう。彼は捕囚とならずにエルサレムで困窮し、屈辱的な暮らしを強いられている同胞に思いを致し、王に自分をエルサレムに派遣して城壁の再建を請願して許される。

イスラエルに着いたネヘミヤは、当地の長官となって大いに指導力を発揮し、大勢の現地人を持ち場持ち場に手分けし、敵対勢力への武装を怠らず、艱難辛苦を乗り越えて大事業を完成させる。そして四分五裂していた4万2千3百60人の民衆をば、城壁の内側に町を作って住まわせた!というから大したものだ。

また彼は前回のエズラと同様、民族純血主義を採用し、外国人妻を断固として認めず、神への大罪として追放したが、これをずーーとやっていたらユダもイスラエルも自滅していただろうな。

 呪われし副総理兼財務相が東京五輪を偉そうに呪う 蝶人
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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「エズラ記」を読んで

2020-03-18 15:01:42 | Weblog


照る日曇る日 第1372回

アッシリアを制したペルシアの王キュロスは、どういう風の吹き回しかバビロンに捕囚となっているイスラエルとユダの民、というか旧約の神に味方して?、彼らが帰国してエルサレムに神殿を再建するよう、ヒトモノカネ&違反者への罰則付きでおふれを出すのである。

キュロスにはペルシアの神さんがおったはずだから、これは敵の神さんに塩を送ることになる。それとも当時のペルシアもユダヤ教徒だった、というのか? 浅学の身、先学の教えを請いたいところである。

キュロスの命令は直ちに実行されたものの、後継者のアルタクセルクセス王の時代に反対と巻き返しにあって頓挫するが、そのまた後継のダレイオス王の時代になって、先々君の行政文書が再確認され、本書の主人公がエズラが、多くの友人知己共々、バビロンからエルサレムに帰還して、神殿再興に取り組むのである。

しかし、ここで大問題が持ち上がる。帰還者の中に、異民族と結婚した連中がいることを知ったエズラは、土砂降りの雨の中、全員を神殿の広場に集めて、外国人の妻を追い出すように命じ、実行したのであるが、こういう民族純血主義って、あらゆる宗教を貫通する悪業だよね。

 狂乱の銀髪コロナに挑むとも米中玉砕日帝畢んぬ 蝶人
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聖書協会共同訳2018年版で旧約聖書「歴代誌下」を読んで

2020-03-17 11:45:26 | Weblog


照る日曇る日 第1371回

「歴代誌下」も先行する「列王記」などの通史の焼き直しにすぎないが、本巻ではダビデ王の跡継となったソロモン王の事績を再確認しながら記述が進められていく。

ソロモンの子、レハブアムの時代から始まった王国の分裂は、アビヤ、アサ、シャファト、アハブ、ヨシャファト、ヨラム、アハズヤ、アタルヤ、ヨアシュ、アマツヤ、ウジャ、ヨタム、アハズ、ヒゼキア、マナセ、アモン、ヨシヤ、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキンと続き、その中では一たびはアッシリア軍を撃退したヒゼキアや預言者エレミアが有名な哀歌を寄せたヨシヤなど主に忠実な王もいたことはいた。

さいながら衆寡敵せず、ゼデキアの代になって、国と国民もろともバビロンの捕囚となり、ここで突然ペルシアの王キュロスが登場することになるのだが、いかにも唐突だなあ。

    障害者19人を殺めたる男を国が殺すというが 蝶人
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