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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2008年亡羊弥生詩歌集

2008-03-31 08:52:08 | Weblog


♪ある晴れた日に その24
 
ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で身くねらすなり ―夢の中にて

懇々とわれは少女を諭したり何故に鴨に石を投ずるは不可なるかと

なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

市当局の整備工事より守りたる泥沼に生まれしオタマジャクシよ

当局の暴挙を防ぎし小池なり春遅き地にオタマ生まれる

新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか

今日もまた朝から路線図描いているその子の胸に高鳴る車輪よ

同一のガソリン成分排出し飛行機雲の出る日出ない日

長大なアリアを見事歌いきりほっと息つく谷戸の鶯

いざ行かん鯨の家にまたがりてあの青空の彼方まで

悪党の背にはらはらと梅の花

弥生三月春の力をわれに与えよ

啓蟄の虫仰ぎ見る空の青

啓蟄の虫が見ている空の雲

ふきのとう揚げる人あり描く人あり

ふきのとう描く人あり喰らう人あり

アオジもコジュケイも飛ぶのが苦手なんだ 

始終ツチェツチェと鳴くからシジュウカラ

ここもまた大寺ありけり冬の谷戸

鳶一羽空に舞いたり廃寺跡

春風や幻の寺日輪月輪ここにあり

梅が香やいにしえの大寺ここにあり

春浅し一味神水の村を過ぐ
悪党共一味神水の村を過ぐ
椿落ち自由狼藉の世界かな
百花落ち自由狼藉春の朝
春浅し落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花狼藉朝比奈峠
悪党共落花流水朝比奈峠
悪党共落花流水の村を過ぐ

地に落ちて憾みはなきや冬柏
 
女房の茶碗を割りし悲しさよ
 
男は女に女は男になりたがり

人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃

もう十年寝たきりなのよと通りすがりの人がいう

昔の男の顔は立派だったといってから己の顔を見る

この頃の男は貧相な顔になったと言ってから己の顔を見る

生きている人のことはすぐ忘れるが 死んだ人のことはしょっちゅう思い出す
 
この強欲な商業主義世界に 一度に開く梅の花 欲に眼がくらむ亡者たちよ

にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕えしはうちの健ちゃん
 
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桜咲く今朝の女の薄化粧

2008-03-30 10:31:57 | Weblog


ふあっちょん幻論第17回 20世紀の10大トレンドその9「化粧/ファッションドボディ」

「全身化粧」の時代
 20世紀は「服を脱ぐ」時代→身体自体への直接装飾加工
 その端緒は1916年 英ヴォーグ誌 21年 仏ヴォーグ誌に見られる。ここでは
 服をおいてけぼりにして 肌、ヒフそのものを「服」としている。
1964年ルディ・ガーンライヒ「モノキニ」 トップレス水着

ヒフ芸術の全面展開 
三宅一生1989年の入れ墨ボディタイツ、ゴルチエ1996年の入れ墨ドレス
 00年代アンダーカバー高橋盾のアンサンブル(ジャケット+セーター+スカート+パンツ+スカーフ+ベルト+バック+手袋+タイツ+ウィッグ)赤青白チェック 生身肌にもペイント

タトウ、ピアス、茶パツ……身体の境界を消し去るFashioned Body

耳に平気でピアスできる人と、親にもらった大切な体をピアスやタトウで傷つけたくない人とのモラル&美意識の葛藤を乗り越え、なんでもありの全身化粧の新世紀へ!

♪にょろにょろとたたみのうえをはう蛇を座布団かぶせて捕らえしうちの健ちゃん

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ブラは春風に乗って

2008-03-29 10:02:19 | Weblog

ふあっちょん幻論第16回 20世紀の10大トレンドその8「ブラジャー/下着革命」

18世紀末 テルミドールの反乱の後「ギリシャ風」がテーマとなり薄絹、モスリンの肌着が流行。
19世紀末トレンドとしての薄着、下着ファッシヨン。
20世紀初頭の1906年にポール・ポワレが女性をコルセットから解放。コルセットなしのハイウェストドレスが登場し、反拘束による肉体の軽装化、薄着化、露出化突出。
自由の20世紀へ!

第一次大戦後 人類は完全にコルセットを捨てた。視点がウエストから「肩」へと変わり、
時代とともに身体の合理性、機能性、日常性を強調、重視するようになった。
続いてブラ、スリップ、スリップ、テディが続々登場し、体の自然な美しさを強調するようになる。

*女性の美意識の変遷
初期 1922年ヴィクトール・マルグリットの小説。胸のふくらみを抑える「少年のような娘」=ギャルソンヌへのあこがれ→これが川久保玲のコムデギャルソンに影響。

中期 50年代 ディオール/ニュールック 豊かな胸を演出
60年代 ノーブラ byルディ・ガーンライヒ
65年にボライ・コンシャス登場。
後期 80年代 フィットネスとパワーウーマン 鍛え上げられた肉体美(リサ・ライオン)
JPゴルチエ、ヴィヴィアン・ウェストウッドなどが下着→表着へ

21世紀に入って「下着の外着化」が進行しすぎて「皮膚が下着化」→エロスゾーンの後退。

♪長大なアリアを見事歌い切りほっと息つく谷戸の鶯 亡羊

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♪平成東京革命音頭

2008-03-28 09:32:48 | Weblog


♪バガテルop53

輝かしいフランス文化を侮辱し、女性や老人やアジアの隣国を軽蔑し、中共もとえ中国に餓鬼大将のように張り合って五輪誘致に狂奔し、あまつさえ既存マラソン大会をつぶして己の大会に塗り替えて悦に入り、唯一の取り柄といえばかつてその身内にナイスガイ俳優がいたことに過ぎない現東京都知事の石原慎太郎氏が、昨日の都議会委で新銀行東京への400億円追加出資を勝ち取られた。誠に慶賀に耐えない。

斬った張った誰でもいいから殺したかった、という世も末暗黒事件が連日相次ぐなかで、近来これほどの朗報があるだろうか。私はかつてあれほど軽蔑し、蛇蝎のごとく忌み嫌い弊履のごとく投げ捨てて顧みなかったこの右顧左眄しょぼしょぼ目つきの三流文学者を、はじめて見直し、尊崇の眼で帝都の西北に仰ぎ見たのであった。

かくも長きにわたってこの満州王朝功労者の末裔であらせられるこの高貴なお方を保守反動、極右排外主義者の老旗手と想定し続けたことは、わが想定外の生涯の禍根、大いなる錯誤であった。

見よ、神もご照覧あれ! げにこの人こそは誤謬なきレーニン、毛沢東、チェ・ゲバラの衣鉢を継ぐ古今東西稀に見る真の社会主義者であった。ただし1周遅れ、否300周遅れの憾みはあるとしても…。

とにもかくにも、このせちがらい平成の御世にあって、いかなる困難、誹謗と中傷にもめげず、これからも倒産寸前の中小企業の経営者に対して、未審査、無担保、無制限でじやんじゃん貸付を青天井で続行してくれるというのだ。ウラア! これを前代未聞の貧民救済宮廷革命、格差社会粉砕の暴挙的快挙と呼ばずになんと言うのだ!

すでに投下された1000億円に加えた今回の400億円投入は、すべて石原氏を圧倒的に支持した教養と知性漲る都民士人各位からかすめとったほんのはした金であり、累計では都民一世当たり23000円の負担になるそうだが、ちいさい、ちいさい。こんな小銭の寄せ集めで、かの博愛の人、石原慎太郎の遠大な社会革命、人民正義の偉業、はたまた東京都民の見果てぬ夢が実現されるはずがない。

このうえは、もっと大胆に、より大胆に、さらに大胆に、前進あるのみ。
かの超富裕なる東京プレミアムスノッブウルトラスーパーブルジョワジーからもっともっとテッテ的に搾取して、中小プチブル企業経営者のみならず、小泉流グラバル新自由主義者の陰謀の犠牲者となってこのたび最底辺下層階級に転落した汝人民ルンペンプロレタリアート、西口人民広場に屯する社会的弱者たちや国の重税にあえぐわれら障碍者や老人にも救済の寛大なる網目を幾何級数的にどんどん広げてほしいものである。

万国の貧民労働者は平成革命的東京知事石原慎太郎の紅の翼の元に団結せよ!
我らが太陽帝国の首領石原慎太郎の天地に咆える社会革命を断固支持せよ!
新銀行東京を一点突破しイスラム銀行と連帯して全世界金融革命の狂った果実を手中に収めよ!

♪なんでもかんでもとにかく慎太郎ちゃん万歳!


人間を辞めたしと思うこと多し今日この頃 亡羊
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イヴ・サンローランの「シティパンツ」あるいは越境するジェンダー

2008-03-27 10:06:47 | Weblog


ふあっちょん幻論第15回 20世紀の10大トレンドその7「シティパンツ」


1851年 米女性解放運動家、ブルーマー夫人のブルーマー登場、19世紀末のサイクリングウェアに。その頃サンローランはディオール店に入り、その後独立し反体制クリエーターとなる。
1966年 サンオーラン・リヴ・ゴーシュの「マリンルック」発表
      官能的な夜のパンツ「スモーキング」発表
1967年 街で着られるパンツスーツ「シティパンツ」(チュニック丈ジャケット&パンツ、ウールジャージー)「サファリスーツ」もデザイン。
      彼の“働く女のスーツ”を見たシャネルが、「私の後継者」と呼ぶ.
         
1968年 5月革命勃発、ウーマンリブ、ユニセックス、ストリート・ファッション。「シースルー」も発表、あらゆる既成概念を打ち砕く。アルマーニ、カルバン・クラインが80年代に踏襲する。

 70年代は“若さ”がキーワード。70年発刊の雑誌ananと若者をターゲットにした既製服の時代。すでに「9号神話の時代」が始まっている。

80年代はティエリー・ミュグレー、ゴルチエ、アライアなどのボディコンの時代。男勝りのこびないパワースーツ。いわゆるひとつのキャリアウーマンの時代。

80年代後半は肩肘はらない自然でソフトなシルエット。身体を露出する「ミニマリズム」と呼ばれるセクシーな服も誕生。ナオミ・キャンベルのような黒人トップモデルへの関心。88年パリコレデビューのマルジェラが切り裂き服など大胆な提案。

90年代はグローバル&多様化の時代。スポーツ意識の服、ゴルチエの倒錯的ホモセクシャル服。新たなる混迷。

00年からは戦争と平和の時代。万人が万人に対して武装し、疲労困憊し、その反面ではつかの間の癒しとやらを求めて己が繭の中に入り込むコクーンニングの時代。

♪ももんがあ高きより降下して我の目の前で前で踊るなり 亡羊

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「世界服」としてのジーンズ

2008-03-26 10:16:00 | Weblog


ふあっちょん幻論第14回 20世紀の10大トレンドその6「ジーンズ」

ジーンズは19世紀の半ば アメリカの田舎で金鉱採掘用作業服として誕生した。

1853年 ババリアからの移民リーバイ・ストラウスが、作業用パンツを丈夫な帆布用の綾織布で作った。当時イタリアのジェノバからアメリカへ輸出されていたインディゴで染めた安くて丈夫な帆布を使用した。仏語のLe Jean→英語のJeanとなる。
同じジーンズでも、厚地綾織り綿のフランスのニーム産もあった。この「ニームのサージ」Serge de Nimes )がデニムの語源となった。

黒船の到来がわが国の明治維新をうながしたが、ペルリ提督が切実に求めていたのは、ほかでもない米国の捕鯨船の寄港と石炭、薪の補給だった。当時の米国は1851年メルヴィル著「モビーディック」のエイハブ船長みたいな輩が世界中の鯨をとりまくっていた。しかも肉は捨てていた。もったいない!

リーバイ・ストラウス社第1号ジーンズは1873年製。同社製の1880~1885年世界最古のジーンズがネバダ州の元鉱山街で発見され、リーバイ・ストラウス社が560万円で落札。腰ポケットが右側だけ。ウオッチバンドもなく、ウエストバンドつきのバックヨークもついていない。01年11月、その復刻版がヴィンテージラインとしてたった500本だけ$400で世界主要都市で発売された。

「リーバイス501」は布の重なり部分にリベットを打つというジェイコブ・ディヴァイスのアイデアを生かし、これがヒットした。
1929年の世界恐慌後、豊かになったアメリカ東部人が西部の牧場で休暇をすごしたおみやげがジーンズだった。これが「都会の街着」になり、30年代の衣服のカジュアル化を後押しした。 
二つの大戦を通じて、アメリカのGIがジーンズを「世界服」にした。しかしそのイニシアチブをGIとプレスリーから奪って「反逆する青春」のイメージを作ったのはジェームス・ディーンだった。

1968年 仏5月革命.69年安田講堂.学生反乱氾濫、反戦フォーク、ヒッピー反体制運動の高揚はつねにジーンズとともにあった。「権力と戦わぬ者は、けっしてジーンズをはいてはならない」とは、当時のあまでうす氏の言葉。   
 
ケンゾー、マリテ&フランソワ・ジルボーらがジーンズをフアッションアイテム化した段階で、ジーンズは反体制のシンボルであることをやめた。

1969年から国産ジーンズの普及と大衆化、その後20年にわたる成熟と陳腐化。
00年から海外製高級ジーンズブーム始まる。

ジーンズこそ、ストリートフアッション、トランスジェンダー、コスモポリタン、カジュアルなど、20世紀のファッション・キーワードの要件をほぼ満たす代表的なアイテムであった。

♪新しき浴槽に初めて身を沈めつつ思うかの古き浴槽はいずこへ行きしか 亡羊

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五味文彦・本郷和人編「吾妻鏡2」平氏滅亡を読んで

2008-03-25 09:08:42 | Weblog


照る日曇る日第107回

「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。

例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。

文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。

後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。

当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。

彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。

しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。

頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。

義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。

このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。

そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。


わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊

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春風とミニ 20世紀の10大トレンドその5「ミニ/ボディコンシャス」

2008-03-24 10:08:32 | Weblog

ふあっちょん幻論第13回

1950年代 サントロペのリゾートでカジュアルウエアブーム。戦後のベビーブーマー時代が主導する大量生産・大衆消費時代がはじまる。

1960年代 ロンドンのマリー・クワント、パリのアンドレ・クレージュが全世界にBODY CONCIOUSという意識を植えつけた。64年ミニ・パンツも。
          
1980年代 アズディン・アライア、クリスティアン・ラクロワ再浮上

その後00年代も、基本底流にミニが流れている。それはマーシャル・マクルーハンの「衣服はヒフの拡張である」という考え方の実践である。

その頂点は1994年製作のロバート・アルトマンの映画「プレタポルテ」における全裸モデルのパリコレシーンであった。

あらゆる「衣装という意匠」を突き抜けて、「裸自体が最高の衣装」であるとするアルトマンの衣装哲学が高らかに闡明されたのである。

タトウ、ピアス、整形手術、などによってこの「究極の衣装、至高の衣装」そのものをさらに先鋭的に構造変革し、人格のアバター化、複合化、重層化、無人格化、間化を図ろうとする私たちの潜在的な欲望が、今日もふぁっちょんの最先端を揺るがせている。

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶 
犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花 
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

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母六回忌

2008-03-23 09:27:44 | Weblog



天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊(つげ)の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う
 
母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母 

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春風スタディ 20世紀の10大トレンドその4「化学繊維/テクノロジー」

2008-03-22 09:28:30 | Weblog


ふあっちょん幻論第12回

 1935年 ナイロン  
人類初の化学繊維 米デュポン社のW・カロザース発明。石炭、水、空気で作る合成繊維
「くもの糸より細く優美で鉄鋼より強い」→パラシュート用を民生に転用
 1940年 ストッキング大流行 
60年代 宇宙開発と宇宙服と化学繊維
1964年 アンドレ・クレージュ ミニスカート発表→パンスト
66年 金属板や鎖やプラスチック片という硬質の無機質素材を用いた甲冑風ドレスで一世風靡したパコ・ラバンヌが、プラスチックドレス発表 布と糸で作られる服という概念を破る 

身頃を円形にくり貫いた宇宙服風ドレスとヘルメットで「スペースエイジ」を表現したカルダン、ビニール素材と幾何学的なラインで宇宙時代のイメージを提案したアンドレ・クレージュ 宇宙、未来イメージ、不織布→懐かしく温かなレトロ・フーチャーが03春夏のルイ・ヴィトン、フセイン・チャラヤン、ドルチェ&ガッパーナ、プラダ、フェンディで再現された。

*ハイテク新素材開発史
ナイロン→ポリエステル→スパンテックス→フッソ繊維へと新展開。それ以降ハイテク日本繊維「新合繊」の時代
80年代 シンセレート素材、ポリエステル合せん中空糸→湿度を熱に変える
      三宅一生、ヘルムート・ラング 
90年代 ミニマル服→体温と光に色が変化する素材
2000年 渡辺淳弥 撥水性のマイクロファイバー
01春夏高橋盾スーパーフラット(9種マテリアル混合)などなど。

 21世紀に入ってからは米デュポンがトウモロコシ原料のポリマー3GTやプラスチック原料のバイオ糸を生産、2010年までに同社は商品の25%をバイオ化する。
わが国では東レ、東洋紡のバイオテクノロジーをはじめ最新IT技術を援用したハイテク素材の開発が急速に進み、水着、スポーツウエアのみならずスーツやカジュアルウエアなどの新製品にもシーズンごとに取り入れられてあたらしい需要を喚起している。          
 新規マテリアル技術こそ、わが国の未来派ファッションの原動力であろう。

ただしNASAの宇宙服や08年に米陸軍が配備した「近未来型戦闘服」のように手放しで賛美できないハイテク技術もある。
例えば後者ではヘルメットには現在地を司令部へ伝達するGPS、夜間の戦場を透視できる赤外線カメラ、敵味方識別の発信機、生物化学兵器の探知機、ガスマスクなどを装着。血圧、体温測定器付きでそのデータは司令部や部隊の衛生兵に送られ全体的にロボコップのデザインに似ている。ハイテク戦争ウエアもファションメーカーの重要なビジネスなのである。

♪なにゆえに鴨への投石は不可なるか情理を尽くして少女に説きたり 亡羊
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ふあっちょん幻論第10回

2008-03-21 08:27:21 | Weblog


春のにわか勉強 20世紀の10大トレンドその3

第3トレンド 
クリスチャン・ディオールの「ニュールック」/エレガンスの再構築

 19世紀頃からファッション界には身体快適機能性への大反動が起こった。せっかくそれまで人間の身体の機能性に優しく対応してきたナチュラリズム志向を、当時ファッション界の盟主であったディオールが自己否定したのである。

1947年2月11日、「心が軽やかなら、布地の重さなど苦痛にならない」という有名な格言とともに、パリのモンテーニュ街のアトリエで誕生したのは、細いウエスト、美しくシェイプした豊かな胸、たっぷりしたロングスカートのドレスであった。

これこそは19世紀の古典的エレガンスの20世紀における復活であった。当時の「ハーパース・バザー」の編集長キャメル・スノウ、ディオールのこの新作を「本当に新しいルック」と評したのでこの名前が一世を風靡したのである。

ディオールの功績 
   軍服ルックを駆逐   エビータ、マーガレット王女、ヘプバーンの衣装etc
    54年 Hライン 55年 Yラインを発表   
   「平和時代のぜいたく」の象徴    リヨンの高級絹
シャネル以降アメリカに移動したファッションのヨーロッパへの復権

  50年代はディオールに続きピエール・バルマン、バレンシアガなどがパリ・オートクチュールの黄金期を作った。しかしこれは一時的現象で、57年秋には紡錘型のフュゾーラインのルーズフィットのシュミーズドレスが発表され、着やすい服の時代が再来する。

このフォーマルとカジュアルの2極への重心の移動と動・反動こそは世界のファッション史の大きな機制のひとつである。我々は、一定の周期で移動する惑星の軌道を想像することもできよう。

60年代はTシャツ&ジーンズに象徴されるカジュアルなユニセックスが登場した。
マリー・クワント、ピエール・カルダン、アンドレ・クレージュ、サンローランなどのミニ旋風が巻き起こり、体を美しく露出する美意識・価値観が登場する。

米国では50年代半ばのビートニック世代が史上初めてストリートファッションを提示し、この流れが66年のヒッピー文化に継承される。
64年ガーンライヒのトップレス水着、パリコレでは66年サンローランのシティパンツが登場。エレガントで機能的なスタイルは67年に日本のイエイエで最後の花を咲かせた。

女房の茶碗を割りし悲しさよ 亡羊

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歌人たちの鎌倉

2008-03-20 10:01:14 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語107回

春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。

万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。

実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。

 家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。

鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ

どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。

さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。

しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。

鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。

地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊

与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。

晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。

鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし

この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ

死者のこともう忘れよとダリア咲く

という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。


♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
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網野善彦著作集第1巻「中世荘園の様相」を読む

2008-03-19 07:09:14 | Weblog


照る日曇る日第106回

岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。

いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さなにスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。

長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
 
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。

すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。

当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。

もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。

広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。

しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。

おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!

出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊

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春の復習 20世紀の10大トレンドその2

2008-03-18 08:33:17 | Weblog


ふあっちょん幻論第10回

第2トレンド マドレーヌ・ヴィオネのバイアス・カット=服の再構成とその日本における後継者

     1917-39年まで活躍したマドレーヌ・ヴィオネは、立体裁断(ドレーピング)によるバイアス・カットやサーキュラーカットなどの革新的なアイデアを連発した。
 「カットは身体とのフイット性や運動性と結びつかねばならぬ」という彼女の考えは、クリストバル・バレンシアガ、三宅一生にも共通する姿勢である。
 彼女はモスリンを使い60cm大の木製マネキン人形上でドレーピングし、シームの位置も自由にきめ、あとでそのパターンを実物大に拡大したのである。(紙上の平面パターンを否定)
ヴィオネの功績
   1929年代前半 チューブドレス~アナトミカル(解剖学的)カットの発明
   30年代 サーキュラーカット→これは50年代のクリストバル・バレンシアガによって継承され、バレンシアガは、驚異の裁断と最高級技術で「オートクチュールの巨匠」と呼ばれた。
   またヴィオネによるチュニックドレス、オフ・ネック、サックドレスは、のちの既製服の基本となった。

  ヴィオネの後継者としての三宅一生
70年代の「一枚の布」、80年代からの「プリーツ」、99年にはコンピューターで着る人の好みでデザインを変えられる「A-POC」を発表。
A-POCとはa peace of clothの略で、蚕が繭を紡ぐように糸から繊維がチューブ状に織り出されていく。98年春夏のジャスト・ビフォーという筒状のニットが出発点。藤原大氏コンピューター製作のジャージー編機から出てきた、ひとつながりのニットをカットするだけで、縫製もせずに着る事ができる。

高校時代にイサムノグチ設計の平和大橋に感銘を受けてデザイナーを志した彼は、つねに身体と服の原点を見つめてきた。過去の類型にない独自の新しいフオルムと素材が有機的に融合している。一枚の布に無数のフォルムが内臓されているのである。
     2000年4月都現代美術館展におけるISSEY・MIYAKE MAKING THINGSはその集大成であった。そこでは以下の作品が提示された。

「バケット」~どこでカットしてもほつれるニット
     「モビール」~人間の格好をしたクッション.どこでも寝られ生分解性でリサイクル。
     「A-POCクイーン」~CP制御でチューブ状ニットが編み出される。ロール1人分で帽子、ドレス、手袋、靴下、財布、大小バック、ブラトップ、ショーツ、ベルトなど一式が内蔵されている。半そで、長そで、ロング、ショートの選択可能

    A-POCの今後の応用としては、衣服以外、医療用品、建築などが考えられる。
   A-POCからA-POS  a peace of strings  糸や繊維をもっと自由にあやつる
   A-POM      オリジナル機械に向かって好みの色やデザインを入力するとポンと衣服が出る
A-POE      社会的教育  

 三宅一生の本質は、ポエジーである。彼はハイテクノロジーを制御できるイマジネーション+ポエジーが21世紀のデザインをつくると考え、六本木ミッドタウンに21_21 DESIGN SIGHTを設立した。
      
♪春浅し落花狼藉朝比奈峠 亡羊
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春の復習 20世紀の10大トレンドその1

2008-03-17 09:23:00 | Weblog


ふあっちょん幻論第9回

18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。

第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。


第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)

 彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。

仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
  シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。

 シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。


♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
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