あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

鎌倉の鯨が泳ぐ梶原屋敷

2006-11-30 20:29:58 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語14回


この小さな谷戸に、鎌倉時代の有名な武将梶原景時が住んでいました。(この物語の「第1回太刀洗篇」で平広常を斬ったあの景時です)

しかし正治元年1199年、梶原景時が小山朝光を将軍の頼家に讒言したことに怒った60名の諸将が連署して景時を弾劾しました。

仕方なく景時は逃亡しましたが、結局駿河の国で吉幡小治郎に殺されてしまいました。

この梶原屋敷は同年の12月に破却され、その跡は長らくの間畑でしたが、いまは工務店の汚らしい道具置き場になっています。

屋敷の入り口の右側には梶原井戸が奇跡的に現存しています。

この井戸の底に近所の明王院の鐘が入っていたそうですが、後に引き上げられたと「十二所地誌新稿」には書いてあります。

 梶原屋敷も驚きですが、もっとびっくりするのはこの屋敷跡入り口に置いてある巨大な2頭の鯨です。きっと梶原景時の霊を慰めながら谷間を遊弋しているのでしょう。

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公孫樹に寄す

2006-11-29 21:28:01 | Weblog


いざともに青空称えん公孫樹

花も実も投げ捨てて後の栄華かな

ひゃくせんの黄金鳥の乱舞かな

つまとつま離れて生きて公孫樹

風立ちぬいざ生きめやも公孫樹

公孫樹黄金の手を振る別れかな
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「不都合な真実」の試写を見た。

2006-11-28 23:06:30 | Weblog


史上最悪の大統領ブッシュに敗れた「一瞬だけの大統領」、アル・ゴアのスライド講演をほぼそのまま映画化したのがこの作品である。

過去60億年にわたって2酸化炭素の排出と気温の上昇がシンクロしてきたこと、最近その度合いが急速にエスカレートしてきたこと、その結果南極の棚氷をはじめ世界中の氷河が猛烈な勢いで溶け出していること、これを放置しておくと南極やグリーンランド島の氷の消失によってマンハッタン島のツインタワー跡地が水没する危険があること、海水温度の上昇によって地球全体の気候が異常を来たし、集中豪雨や台風や日照りや飢饉が頻発し、これらに起因する生態系の混乱によって各種の疾病が大流行し、人類滅亡の危機が目前に迫っていることを厖大な科学調査やデータ解析の結果を踏まえてゴア自身が熱弁を振るう。

はじめのうちは再度大統領選に打って出るためのゴアの政治的プロパガンダ映画かと思っていたが、けっしてそうではなく、彼が月並みだが決死の覚悟でこの地球環境問題と格闘していることがだんだん理解されてくる。

ゴアはすでに60年代の後半からロジャー・レヴェル教授の環境問題への警告に耳を傾け、70年代後半に初の議会公聴会を手がけるようになっていたが、ゴアの息子が交通事故で死にかけたこと、タバコ栽培に従事していたゴア一家の最愛の姉が喫煙が原因でガンで亡くなったことが、この問題に全身全霊で立ち向かう大きなバネになったようだ。

それだけに世界最大の温暖化ガス排出国である自国アメリカが、依然として京都議定書に署名せずこの「不都合な事実」から目をそむけようとしている不誠実さを怒りを込めて弾劾するのである。

しかしゴアはたんにこの否定的な現実を政治的に糾弾して、「わがこと終われり」とするのではない。環境問題は小手先の政治問題ではなく、地球上に生きるすべての人間のモラルの問題だと断じるのである。

皆さん、このまま人類は滅びてもいいのですか? 
この素晴らしい地球をなんとか無事に子孫に手渡そうではありませんか。
子どもたちは「地球を壊さないで」と両親にいいましょう。
人はとかく否定から絶望に走ってしまうがそれはよくない。
「祈るときには必ず行動しよう」というアフリカのことわざに学びましょう。
われわれの一人ひとりが3つのRをはじめ省エネやエコドライブや植樹をすれば必ず危機は救われます。
アメリカの独立戦争にも、ブルジョワ打倒のフランス革命にも、第2次大戦の反ファシズムの戦いにも、私たちは勝利してきたではありませんか。
さあ、すべての地球人よ地球救済運動にいますぐ立ち上がりましょう。
この映画を見て地球の危機について知り、お友達にも勧めましょう!

と、矢継ぎ早に語りつつ、ゴア流現状分析→問題点指摘→超具体的行動方針提起、にいたる怒涛のような1時間半が終る。

正義の熱血漢、環境宣教師、男1匹ゴアが行く―
いまどき世にも珍しい正攻法の環境問題直接行動宣伝映画である。

まるで古き良き時代のアメリカが突然帰ってきたような懐かしさを覚えた私だが、こういう強速球もブッシュ政権のアメリカには必要であろう。

けれどもアメリカは、ゴアの言うように一日も早く中国、インド、豪州などとともに京都議定書を批准し、地球市民共同戦線の輪に入って欲しいものである。

きくところによるとわが国の環境省が、ことしの冬はオフィスの暖房を全部止めるそうだが、じつに見上げた環境運動ではないか。
色々な意味で内部腐敗・溶解・崩壊が近づいてきたわが帝国であるが、こと環境問題にかんしてはまだまだブッシュ帝国なんかには負けていないと思う。そしてこのゴア氏の熱い要請を真摯に受け止めて、私たちに可能な新たな取り組みを始めようではありませんか。

それにしても私の謎は残る。

あのブッシュなんかより人間的にも政治的にも百層倍も立派なゴアを、どうしてアメリカ国民は大統領に選ばなかったのだろうか? 

あ、日本もそうか、トホホ。
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夢は第2の人生である。

2006-11-27 21:19:13 | Weblog



*1997/3/25の2週間前の夢

若い米国の青年である私は海で漁をしていた。

えいっとばかりに銛を突き立てると、網の中から金粉で覆われた半魚のアフロディーテが血を流しながら姿を現した。


*2005/3/25の夢

俺は集英社か小学館の広告の人(たぶん梅沢さん )と銀座、新橋、御茶ノ水辺をうろついていた。
あるビルの中で柱によりかかる山本大介に会うが、その顔はのっぺらぼうだ。

そしてやっとパーティが終わって部屋に帰って寝た。

眠ったはずなのに猛烈なカラスの声に目が覚めかけた。

そっと確かめるとそこはどうやら郷里の裏の2階の部屋なのだ。気のせいかさっき
まで俺の側に座っていた女性は大島の紬を着ていた確かに母だった。

しかし天井、部屋、窓の外を見回しても母はいない。

気がつけば俺は鎌倉の自宅の2階で寝ていた。

左手には母ならぬ妻の櫛をしっかり握り締めながら。


*2006年2月某日

それほど大きくないイノシシにまたがって山を下ってくると突然急停止した。

よくみるとその先には道がなく、道の下には川が流れていた。
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勝手に東京建築観光・第2回

2006-11-26 19:36:17 | Weblog


双頭のメデューサ
あるいはゴッダムシティのツインタワー



世界のタンゲが、1986年に日本に帰還し、あの新都庁舎コンペに劇的に勝利したとき、当時72歳の孤高の建築家には、すでに分かっていたのだ。

自分がゴッダムシティにつくった新都庁ビルが、その後史上最低の知事によって占拠され、醜悪な政治の伏魔殿と化すだろうことが。

そこでわれらがタンゲは、当初の計画どおり94年に新宿パークタワーという社交界の秘密交際と性の巣窟をつくったのだった。

すると案の定、全世界の有名タレントや芸能人などがワンサカ、ワンサカやって来た。

自分のヒルトンに泊まればただなのに、あのヒルトン姉妹までやって来た。

かくして、いわゆるセレブの隠れ家となったこの最高級ホテルは、右翼方向から流れ込む政治的なパワーに、左翼から性的に対抗することによって、憎悪と愛の定立と止揚(アウフヘーヴェン)を図ろうとした。

といってもなんのことだかわからないだろうから、

要するに「毒をもって毒を制する」ことにしたわけ。

この2つのビルジングは、それぞれが独立した建物ではない。両々あいまってはじめて建築的価値が生まれてくる内面的なツインタワー、なのである。

それゆえに、新宿駅南口から副都心方向に向かって、かつての武蔵野を国木田独歩のように歩むひとは、政と性との世界最高峰における同時多発的バトルを眺望することができるだろう。

そして、これこそが晩年の丹下健三が企んだ秘かなランドスケープ・デザインの「きも」だったのだ。

ダンケ、タンゲ。

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勝手に東京建築観光・第1回

2006-11-24 21:00:55 | Weblog

沈黙の弔鐘



まず私が大好きな高層ビルから始めよう。

東京タワーの賞味期限が切れたいま、00年代の東京のランドマークといえばなんといってもこのNTTドコモ代々木ビルであろう。

このビルにはオフィスがなく、携帯電話の巨大な乾電池プールのような役割を果たしているらしいが、なんでも毎日40,50名の見学者が訪れ、しかも日本人より外国人が多いと聞く。

ドコモ代々木ビルは、2000年にNTTの不動産部門のNTTファシリティーズによって旧国鉄操車場跡に建てられた。

その端正なシルエット、ほとんど醜悪な粗大ゴミと化した新宿副都心の超高層ビル群と鋭く一線を画して、あくまでも美しい。また頂上部のルックスは、ポストモダンンなクライスラービルといったところだろうか。

設計者は02年建築のドコモ川崎ビルと同じく林雄嗣で、そのコンセプトは「現代の仏壇」である。

つまりドコモ代々木ビルは、かの偏狭な靖国神社に代わって15年戦争のすべての死者に哀悼の意を表しつつ、近未来の廃墟トーキョーに向かって沈黙の弔鐘を打ち鳴らしているのである。

夜も昼も…
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鎌倉ちょっと不思議な物語12回

2006-11-23 19:27:57 | Weblog


とても危険で観光どころではない鎌倉



家の近くに温泉?がある。
といっても熱海や箱根のような迫力はない。ドラム缶の中に地面から湧くお湯が溜まっていく天然の自噴井らしい。
もしかすると鎌倉唯一のミニ温泉かもしれない。(写真1)

あまり温度は高くないが鎌倉の天然記念物くらいの値打ちはあるだろう。この家の人はたぶん温泉のお湯で洗車しているのではないかなあ。

でも、こんなところでなぜお湯が出るのだろう? それには深い訳がある。

もとよりわが国は名高い地震国だからどこを掘っても1キロくらいの深さからお湯が出る。だから鎌倉に温泉があってもちっとも不思議ではないのだが、それだけではない。

おらっちが住んでいるこの十二所付近には地下にマグマの塊が潜み、13世紀中頃の鎌倉時代にマグニチュード8クラスの大地震が起こったのである。

当時日本の首都であった鎌倉には、1)頼朝が住んでいた鶴岡八幡宮付近の大倉幕府、2)頼朝が父義朝の墓地があった勝長寿院、3)実朝が蹴鞠を楽しんだ将軍別邸の永福寺、4)そして巨大な祭儀センターの大慈寺、と合計4つの重要施設があったが、この大地震のためにわが十二所の大慈寺を拠点とする壮大な七堂伽藍は一夜にして灰塵に帰した。(写真2)

長谷の大仏以前に造られた大慈寺の有名な大仏は、このとき首がぽっきりと折れてしまい、その首の残骸がいまの光触寺(一遍上人建立。頬焼き地蔵で有名)に安置されている。(写真3)

大慈寺跡には現在どういう風の吹き回しか大きなカトリック修道院が建っているが、この裏山の阿弥陀山が崩壊し、盆地の明石谷戸(いまうちのおばあちゃんが住んでいるところ)の地下全体が液状化状態になった、

そうである。(「吾妻鏡」&鎌倉市の発掘調査による)。

あれからおよそ750年。ついこないだの関東大震災をはさんで、鎌倉温泉の温度がじりじり上昇すれば、またまた鎌倉大地震が勃発する危険性はかなり高い。

いざ釜倉、地獄の季節よ、どーんと来い!

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鎌倉ちょっと不思議な物語 第十一話

2006-11-22 21:55:38 | Weblog


小さな橋の上で



数年前、近所に突然ウクレレの店ができた。

ウクレレといえば牧伸二か高木ブーだが、店長さんはそのいずれでもなく50代半ばの赤ら顔のおじさんだった。

 Tシャツに短パン姿でパイプをくわえながらハワイアンを弾いたり、透明なビニールハウスの中でウクレレを木から作っていた。店ははじめはガラガラだったがそのうち東京ナンバーの車でかなりのお客がやってくるようになった。おじさんは彼らにウクレレの製作を教えていた。

3年前の7月中旬の午後7時過ぎのことだった。私がこのお店の左側を入った所にかかっている小さな橋の上で自転車を停めてきょろきょろしていると、そのおじさんが「何をしているんですか?」と声を掛けてきた。

私が「ヘイケボタルを探しているんです」と、答えると、「まさか私の家の裏でホタルが出るなんて!」とおじさんはびっくりしたようだった。そしてパイプを口からはずして、自分が鎌倉の海岸の傍で生まれ育ち、少年時代にはホタル狩りをしたこともあると語った。

私が「昨日の夜もこの橋から3匹見たんですよ。でも今夜はいないですね」と言うと、彼は「もう鎌倉にはホタルなんていなくなったと思ってました。これはいいことを聞きました。今日からしっかり観察しますよ」と、大喜びであった。

私は次の夜も、そのまた次の夜も、ウクレレ屋の後の小さな橋の上で自転車を停めて滑川の上流と下流を眺めたが、それっきりホタルは現れなかった。パイプのおじさんにも会わなかった。

それから1年が過ぎて、去年の7月上旬の午後7時過ぎのことだった。

私はいつものようにこの小さな橋の上に立っていた。

その日はいつもより多い6,7匹のヘイケホタルが、滑川の上にはらはらと舞う姿を私は陶然と眺めていた。

するといつのまにかウクレレ屋から一人の若い女性が出てきて、「ああ奇麗だこと」と言いながらホタルを眺めている。そこで私が思い切って、「今日はこちらのお店のご主人はいらっしゃらないのですか。あのパイプのおじさんは?」と聞いてみると、彼女は「今年の5月に突然亡くなってしまいました。あんまり急なことだったのみんなびっくりしてしまって」と、実に意外な訃報を私に伝えた。

彼女がおじさんの娘か親戚か店のスタッフなのかは分からなかったが、急死のショックは相当大きいようだった。私もあんなに元気そうだったおじさんが、と、信じられない思いだった。

私が、「おじさんにこの橋にホタルが現れることを教えたのは、私なんですよ」と言うと、彼女は、「去年の夏は毎晩ここから眺めていましたがとうとうホタルを見ることができなかったので、今年こそはと楽しみにしていたんですが…」と言い掛けて、どうやら涙を隠すためであろう、急いで店の裏の部屋へ姿を消した。

それから私は、また小さな橋の上から暗闇を自由自在に乱舞するヘイケボタルに見入った。

そしてそのホタルのうちの1匹が、あのパイプのおじさんのような気がして思わず合掌したことであった。


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鎌倉ちょっと不思議な物語 第一〇話

2006-11-21 19:58:34 | Weblog


鴨たちはこうしたもの



今日、散歩の途中で滑川をのぞいてみたら、鴨が二つがい浮かんでいた。
ということは、全部で4匹である。

彼らはカップルごとに移動するが、二つのカップル同士が接近して多少の混乱を招くときもあるようだ。

私はなんとなくモーツアルトの「コジ・ファン・トゥッテ」の世界を思った。


鴨のように仲睦まじく生きて死にたい


風雪に耐えゆく鴨の行方かな
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鎌倉ちょっと不思議な物語 第九話

2006-11-20 21:28:00 | Weblog


今日はトリの話です。



昨日ご紹介したヘビが出没する川の土手にはカワセミが巣を作っています。

猛烈な勢いで狭い流域を飛び回っては、また巣に戻る。

私はこのカワセミを、かの大作家ジュール・ベルヌとかの大映画作家エリック・ロメールに敬意を表して「緑の光線ちゃん」と呼んでいます。

それからこの川の中にはカモの夫婦やカメやハヤもすいすい泳いでいます。初夏には天然のへイケボタルも飛ぶのです。

トリに話を戻すと、太刀洗や熊野神社近辺ではコジュケイの家族連れに出会います。つい先日もぱったり出くわしてお互いにワアと驚いたことでした。

ここいらではすべての生物の天敵のタイワンリスが大繁殖しているというのに、よくぞ生きながらえていてくれるものです。

彼らはほとんど空を飛べずに山野を農協の団体旅行のように歩き回っているだけ。だからあの凶暴なタイワンリスに襲われればそれこそ聖徳太子の一族のように皆殺しされてしまうのです。

さて今日の午後5時過ぎ、新宿の学校から鎌倉に戻ったばかりの私は、東口駅前交番の隣に立っているクスノキの樹を撮影しておりました。

真っ暗な写真ですが、右端から飛び出していく白いものが見えませんか?

実はこれはスズメです。

そして見えない目をよーく凝らしてこの心霊写真をご覧下さい。そーするとあちこちにスズメたちが飛んだり跳ねたり鳴いたり喚いたりしている姿が見えてくるでしょう? 

なに見えない? まだまだ修業が足らないなあ。

ともかく何十羽のスズメたちがこのように集まって周囲の人々を驚かせております。

私が青池様より譲って頂いたデジカメ名機を彼らに向けていると、会社帰りのおじさんが近寄ってきて尋ねました。

おじさん「なんの鳥ですかなあ?」

私「今日はスズメです」

おじさん「じゃあ他の日にはスズメ以外のトリも止まるの」

私「はい。昔はスズメじゃないトリがやっぱりこうやって大集団でこの樹に群がっておりました。たぶんシジュウカラだと思います」

おじさん「そういえば小田急の藤沢駅前の樹でも、こうやって大騒ぎしているなあ」

このとき横合いからおばさんが登場。

おばさん「でもスズメはなにしてるのかしら?」

おじさん「街なかは人間がおおぜい居て安全だからこうやって集まってるんですよ。町の外はトンビやカラスが飛んでいて危険でしょ」

私「いやいや、彼らはああやって集まって文化服装学院FD専攻の生徒さんと同様に、熱心にお勉強しているんですよ」

おじさん&おばさん「???」

私「ほら、スズメの学校ってよくいうじゃないですか」

おじさん&おばさんは、なおもフラッシュをたきつづけている私を残して、さっさと改札口に消えていきました、とさ。

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鎌倉ちょっと不思議な物語 第八話

2006-11-19 19:34:39 | Weblog


熊野神社付近に出没する謎の人物

 熊野神社は北条泰時が開鑿した朝比奈切通しの交通安全を祈願して紀州熊野から勧請されたという。

山腹に上下2つの社殿が築かれているが、最近下の本殿の左側に時々アマチュアの修験者が出没して無念無想の業に耽っている姿を見かける。

また本殿右側の突き当りには幻の名水を湛えた江戸時代からの井戸がある。

はるばる東京からやってきた名水マニアが汲んでいるようだが、30年前と比べてあまり清潔安全な水とはいえない。持ち帰るのは勝手だが、煮沸したほうが無難であろう。

さらにこの神社の麓付近には、サングラスをかけた青年考古学研究者?が地図を広げて待機しているので、ここらの歴史や遺跡や史跡について教えを乞うのも一興であろう。

この熊野神社は江戸時代に再興されたが、昭和初年から10年代にかけて地元の有力者によって門や狛犬などの寄進を受けた。

その多くが旧満州国の軍需産業で成功した人たちのようだが、日本帝国敗残のあと彼らは無事に母国に辿り着けたのだろうか? 

天国から地獄へ、一瞬の栄華から無限の奈落の底へ突き落とされた彼らの運命やいかに? 

戦争は断じていけないな、と、いつも思いながら、私は毎日のようにお気楽に散歩しているのである。

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鎌倉ちょっと不思議な物語 第七話

2006-11-18 20:53:42 | Weblog


蛇、長すぎる。 
と、言ったのは博物誌を書いたルナールだが、最近あまり身近にこの「長モノ」を見る機会が減ったような気がする。

しかし実際にはそうでもないようで、つい2、3週間に私の妻が太刀洗で短いやつ、それから左の写真の細長い道で2メートルになんなんとする超特大のアオダイショウに遭遇したそうだ。
しかも2回も続けて出会ったそうだ。

そのとき自転車でこっちからあっちへ行こうとしていた彼女は、その超特大が右側のつつじの根本にゆっくりと移動するまで息を潜めてじっと立ち止まっていたという。

ああ惜しいことをした。そいつがしずしずとグロテスクな巨体を動かすところをぜひとも見たかった。

そう思って今日もこの道を行きつもどりつしたのだが、ついに超特大は姿を現さなかった。

もう冬眠の準備に入ったのかもしれない。

つつじの根本でねんねぐーしているのかもしれない。

この長い道の左側を流れるのは滑川だが、うちの健ちゃんは、昨日紹介したO家のマサ君たちと一緒に、少年時代によくこの川に入ってウナギ取りをしていた。

両手でウナギをつかんだと思ってよく見ると蛇だったのでびっくりして投げ捨てた、なんて楽しそうに語っていたっけ。

そういえば健ちゃんは蛇が好きだった。石切り場跡地にはヤマカガシの巣があったらしく、我が家の庭には春になると小さなヤマカガシがうじゃうじゃ出てくる。健ちゃんはそいつらを捕まえては、首に巻いたり地面で這わせたり、動くおもちゃ代わりにして何時間も遊んでいた。

そういえば我が家が新築されて間もないある日の朝、なにやら変な気配がするので私が寝たままの姿勢で頭の先に目をやると、40センチくらいの長さのアオダイショウがチラチラと舌なめずりしながら写真(中)の植木鉢のへんでうごめいていた。

思わず凍りついてしまった私は、「どうしよう、どうしよう」とうろたえてパニクったのだが、隣の部屋でねんねぐーしていた健ちゃんの名を呼んだ。

やって来た健ちゃんは、傍にあった座布団をぱっとアオダイショウの上にかぶせ、それから両手をゆっくり座布団の下に差し入れ、しばらくもぞもぞやっていたが、やがてアオダイショウの胴体をそおっと引き出し両腕に優しく抱え込んだので、私は彼のとても少年とは思えないきわめて冷静沈着なその一連の所作にいたく感動したものだった。

健ちゃんはしばらくアオダイショウと遊んでから家の前を流れる滑川に逃がしてやった。

するとアオダイショウのあおちゃんは、「ありがとう健ちゃん、さようなら。またあそぼ」
といいながら流れに消えたのだった。

私は健ちゃんと違って蛇は怖くて触れない。何回見てもおぞましいその不気味なぐねぐねを目にすると、総身にぶるぶるっつとくる。そのぶるぶるが、忘れていた生のなまなましさを思いださせてくれる。

そういえば、つい先日逗子開成高校の生徒が捕まえた蛇と遊んでいたら、何人かがそいつに咬まれてしまって保健室に行ったらはじめてマムシだと分かったそうだ。

マムシも蛇だが、これはアオダイショウが黒化した攻撃的なカラスヘビと並んでとても危険だ。

私は田舎の少年時代に昆虫採集をしていてマムシに追いかけられたことがあるが、とても恐ろしかった。

谷川でカニ取りをしていてカラスヘビに追いかけられたときも怖かった。

シューという不気味な声を上げて牙を剥きながらまるでキングコブラのように1回大きく跳躍し、また着地してからすぐに体勢を立て直してまたジャンプしながら襲い掛かってくる。思い出すだにまた怖い。

鎌倉のマムシも凶暴である。

右端の写真は朝比奈の滝であるが、この上流がその名も「蝮ケ谷」という谷戸だ。

だいぶ以前にあるカメラマンがこの谷戸にわけ入ったら案の定マムシに襲われて三脚に噛み付かれたので三脚を放り出したまま逃げだしたそうだ。

おおコワ。
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鎌倉ちょっと不思議な物語 第六話

2006-11-17 21:13:07 | Weblog


小早川家にも佐々木家にも秋が来た。O家の秋は、芸術の秋である。

長く続く塀に長い蛇のようなツタが絡み付いて独特の風情がある。

O家は江戸時代の名主の家で、この付近で切り出される鎌倉石の石切り場でもあった。

もっと遡ると中世鎌倉時代にはこの地点が鎌倉から六浦港、金澤文庫、金澤八景、そして江戸、房州に通じる基幹街道の関所であった。

 O家の向かいのちょっと高くなった土手の上に馬頭観音が鎮座しているが、この土手が関所の残骸である。現在の北鎌倉駅の大船駅寄りの土手にも同じような関所の残骸がある。あの一遍上人がもっとも鎌倉に接近したのはこの付近であった。

二つの関所を結んだ直線の真ん中が鶴岡八幡宮である。そして八幡宮からまっすぐ北上するとして半僧坊にどーんとつきあたるのだが、この半僧坊を頂点とした2等辺三角形を眺めてみると、明らかに2つの関所が当時の鎌倉幕府の都市計画に基づいて設置されたことが分かるだろう。

 O家から近い私の小さな家は、数百年の歴史と伝統に燦然と輝くO家が所有していた石切り場の跡に立っている。

そしてこの石切り場から切り出された鎌倉石は、鎌倉、室町、江戸、明治、大正、昭和30年代までの東京の民家の台所のかまど(へっつい)の素材になったわけである。

そしてそして、今は亡き愛犬ムクは、その由緒ある石切り場の跡に盛り土された小さなお庭でねんねぐーしています。Wang!



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最近気になる日本語

2006-11-16 21:16:43 | Weblog


○敬愛なるベートーヴェン

今日の夕刊に「敬愛なるベートーヴェン」という映画の広告が出ていた。キャッチフレーズによれば、「第9誕生の裏に耳の聞こえないベトちゃんを支えた女性がいた」」という楽聖物語らしい。

まだ見ていないのでその内容はともかく、気になったのはその題名である。

「敬愛するベートーヴェン」とはいっても、「敬愛なるベートーヴェン」とはいわないはずだ。それをいうなら、「親愛なるベートーヴェン」だろう。

この映画の字幕翻訳はベテランの古田由紀子、字幕監修は音楽学者の平野昭、字幕アドバイザーなる者に、大汗かくけど下手くそ指揮者の佐渡裕という豪華絢爛たる(豪華絢爛なるとはいわない!)専門家がついていながら、肝心かなめの題名に奇怪な日本語をクレジットするとはどういうわけだ!? 

それともいよいよ私の頭が狂ってきたのだろうか?


○応援よろしくお願いします!

応援するのはこっちの自由だろ。

応援は、選手にリクエストされて、したりし、なかったりするものではないだろ。

おマエさんもいちおうスポーツのプロなんだろ。プロならプロらしく自分だけの言葉で語り給え。
 

○よろしくお願いします!

まだ言ってるのか。

それって挨拶なの? 挨拶なら「こんにちは」でいいでしょ。

いったい、何を、どう、よろしくして欲しいの? 

それをちゃんとした日本語で言ってみなよ。


○もう一度盛大な拍手をお願いします!

今度の修正日本国憲法の第9条に書いてあるでしょ。

拍手はいかなる場合にもこれを強要してはならない、って。


○元気をもらう 癒される

いま流行の?「元気をもらう」とか「癒される」という言葉を軽々しく多用する人は、じつはその言葉を挨拶代わりに使っていて、本当に元気になったり、癒されたりはしていないのだと私は思う。

他者と自分の関係をまるでロッテのバレンタイン監督が大好きなチュウーインガムのようにイージーに接着しようとしているだけだと思う。

そもそも元気はなるものであって、もらうものではない。元気は他人に与えるものであって、むやみやたらと「もらう」ものではない。

しかし行きずりのティッシュペーパーなどのようにたまたま「もらってしまう」こともあるだろう。

その場合は「元気をもらった」とはいわない。正しくは「元気づけられた」という。

もちろんあなたが本当に「元気をもらった」と思っても一向にかまわない。その恩人に対して心の中で深い感謝をささげるべきだ。しかしその奇妙な日本語をミキシィ日記に書いたり、まして人前で公然と発音してはならない。

この表現は「元気」という日本語の価値をおとしめ、自分を粗野な人間のように思わせてしまう下品なものの言い方であるということを知るべきだ。

「癒される」という言葉もそうだが、「元気をもらう」と言ったり書いたりした瞬間、あなたは恥ずかしくならないだろうか? もしそうなら、

あなたって意外と恥知らずな人なんですね。


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拝啓 安倍内閣総理大臣殿

2006-11-15 19:04:49 | Weblog


教育基本法の国会審議等にてご多忙のところ、誠に恐縮でますが謹んで一筆啓上奉ります。
総理はご存知かどうか分かりませんが、最近世界で一番目か二番目に卑猥な古典音楽がわが神国ニッポンにて頻繁に上演され良識あるわが帝国のインテリゲンちゃんおよび婦女子の顰蹙を買っております。その音楽とは、かのリヒヤルト・シュトラウスのオペラ「薔薇の騎士」、とりわけその序曲冒頭の音楽であります。

物語の舞台はマリア・テレジア治下のウイーン。いきなり指揮棒が一旋すると、管楽器の不協和音が鳴らされ、と同時に、深紅のカーテンが左右にさっと開かれます。すると貴族の寝室のベッドに転がっているのは妖艶な元帥夫人と青年貴族オクタビアンではありませんか。

そしてこの二人があろうことか、いきなり公衆の面前で熱烈なラブシーン、いやいやそんな生易しいものではありませんぞ。な、なんとリアルな性交を繰り広げているのです。そしてリヒヤルト・シュトラウスの音楽は、その二人の性交を、まるで舌なめずりをするように、いやらしく、ねちねちと、正確無比に劇伴するんでありますよ。

(卑しくもわが日本帝国の権威をその愛嬌ある笑顔と意味不明の曖昧な言説で体現される総理に対して、こんな軽薄で露骨な言葉を安易に使っていいのか、不敬罪でニャロメの警官にすぐにもタイホされるのではないかと激しく惑うのですが)、高鳴るホルンの一撃は余りにも早すぎるペニスの勃起であり、次なる弦楽器の強奏は、成熟した年増女の「警告と教育的指導」であり、しばらく血沸き肉踊る猛烈な揉み合いが続いたあとで、全木管金管楽器が悲鳴を上げて咆哮するフォルテッシモは、若者のあまりにも性急で早すぎた射精であり、そこにすかさず分厚く覆いかぶさる弦楽器は、やむを得ず自分のエクスタシーを早めようとする元帥夫人の怒りを込めた焦りであり、やがてゆるやかに奏される序曲の終わりは、すなわちセックスの終わりとそれなりの性的満足の表明、なのですよ。

良い子の皆さん! いや安倍総理大臣閣下! こんな世にも猥褻でセックスむき出しの演芸を、馬鹿で低脳な他の国はともかく、神聖で高潔で比類なく美しいわが国の公衆の面前でオラ、オラ、オラと見せつけてよいのでしょうか?
 
今からでも遅くはありません。これ以上ジコチューで怠け者で惰弱で国民を大量生産しないためにも、天皇陛下のためにイランでもイラクでも南極でも月でも金星でもよろこんでじゃんじゃん死ねる汝忠良で愛国心に富んだ小国民を育成するためにも、とりあえず教育基本法の改正と防衛省昇格審議は後回しにして、大至急「薔薇の騎士」の公演禁止を今期の大政翼賛会にて即議決していただきたいのです。

以上、なにとぞ応援宜しくお願い致しますね。
アラアラかしこ。あまでうす拝。


*参考 R.シュトラウスの「バラの騎士」はカルロス・クラーバー指揮のウイーン国立歌劇場またはバイエルン歌劇場による演奏。同じくカラヤン指揮のウイーン国立歌劇場またはフィルハーモニア管演奏のできれば映像付の録音がおすすめです。

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