あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

さよなら神無月!12018年10月特別企画玉石混交映画超豪華20本立てずら

2018-10-31 11:58:47 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1857~1876



1)バスター・キートンの「キートンの大列車追跡」
1927年の作品で若き日のキートンが体を張って大活躍する。
南北戦争に南軍に従軍したいと願うが列車の機関士ゆえに拒否された主人公が、その蒸気機関車を駆使して大手柄を経て、念願の少尉に任命されるまでのドタバタずら。「
風と共に去りぬ」などを除くと南軍から南北戦争を描く映画は珍しいのではないだろうか。

2)ロマン・ポランスキー監督の「毛皮のヴィーナス」
マゾッホの原作と同名の演劇を自在に引用しながら、ポランスキーのマゾヒストとしての欲望を映画の中で心ゆくまで表現し尽くした。
これはおそらく彼の最高傑作ではないだろうか。

3)ビリー・ワイルダー監督の「深夜の告白」
悪女に魅入られて破滅していく哀れな保険リーマン、フレッド・マクマレイ。
残念ながらバーバラ・スタンウイックがファム・ファタールの必要十分条件を備えていないのが残念。

4)ビリー・ワイルダー監督の「お熱い夜をあなたに」
交通事故で急死した父の遺体を引き取りにイスキア島にやってきたジャク・レモンが父の恋人の娘ジュリエット・ミルズとすったもんだの挙句、琴瑟相和して亡き両親と同じような関係になっていく素敵なラブロマンス。
仲を取り持つホテルの支配人クライブ・レヴィルが好演。ワイルダーの演出と南イタリアの風光明媚に酔わされる。

5)ビリー・ワイルダー監督の「ねえ!キスしてよ」
人気歌手ディーン・マーティンに自作の曲を売り込もうと、自分の妻フェルシア・ファーの身代りに売笑婦キム・ノヴァクを送り込む夫レイ・ウォルストン。
脚本はちと無理があるが、そんなことをいささかも苦にせず観客をラストまでひっぱっていくワイルダーの怒涛の演出力を見よ!
結局フェルシア・ファーはマーチンと、キム・ノヴァクはマーチンとウォルストンとしっかり寝てしまったんだね。

6)ビリー・ワイルダー監督の「地獄の英雄」
一発ネタで世間をあっと驚かせたいブンヤをカーク・ダグラスが熱演。
こういう連中は今でも沢山いるんだろうな。
それにしてもビリー・ワイルダーって凄過ぎる!

7)ジャン・ルノワール監督の「夢多き女」
ブーランジェ将軍事件をまき餌にして政治より恋が大事と着地させようと図ったルノワールだったが、ヒロインのバーグマンが大根なうえに私の大嫌いなメル・ファーラーが出ているのが良くないずら。

8)イータイ・ロス監督の「ノック・ノック」
成功した芸術家のキアヌ・リーヴスが妻子の留守に招き入れてしまった2人のギャルに襲われて縛りあげられ、強姦され、あまつさえその光景をネットで公開されていたく面目を失う悲惨なお話ずら。

9)アニエス・ヴァルダ監督の「5時から7時までのクレオ」
ヒロインにはさして魅力を感じないが、1961年のパリとそこに生きる人々がなんと魅力的に映像化されていることか。
ヴァルダの即興的な演出とモノクロームの美しさも素晴らしい。
ルグランもゴダールも若かった!

10)マーティン・スコセッシ監督の「アリスの恋」
夫に死なれたアリス(エレン・バースティンが熱演)と息子。おんな一人で夢見るはモンタレイで歌手になることだが、男なしには生きていけない。
登場人物のすべてが頑なに個性を主張し、お互いにぶつけあいながら逞しく生きていくビルダングス物語。さすがはマーティン・スコセッシだなあ。

11)マーティン・スコセッシ監督の「グッドフェローズ」
子供の時からヤクザに憧れてその通りになった男の半生をスコセッシが舌舐めずりしながらありのままに描く。
男は肉親以上の絆に結ばれたファミリーと一心同体で生活しているのだが、最後に主人公は司法取引をしてようやっとグッドフェローズから離脱する。
こういう映画になるとデ・ニーロ、ジョー・ペシの迫力は半端ない。

12)マーティン・スコセッシ監督の「カジノ」
昔のデニーロは良かった。この映画ではじょーペシに加えてシャロン・ストーンが思いがけず好演しているので長すぎる映画だが見ごたえがある。しかしこれが実話とはねえ。

13)マーティン・スコセッシ監督の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」
ウオール街でのし上がった一匹狼の成功と挫折をディカプリオが熱演。
しかし最後まで戦うと豪語したのに、自分が手塩にかけた部下たちを司法取引で売り、たった3年で出てくるというのは人間としていかがなものだろう。
どうにも後味の悪い映画ずら。

14)マーティン・スコセッシ監督の「シャッターアイランド」
絶海の孤島にある反米委員会肝いりの凶悪犯専用病棟を訪れたディカプリオ捜査官だが、始めは諸悪の根源と思われた犯罪病院が、どういう風の吹きまわしか終盤になると様変わりして、すべては頭がおかしいディカプリオの妄想だった、ような話に転移していくが、もしそうなら前半と同じ映像を逆の視点から観客にちゃんと見せる必要があるだろう。観客を裏切るのは構わないが映画の作法を裏切ってはいけない。

15)デミアン・チャゼル監督の「ラ・ラ・ランド」
映画とジャズの世界で成功を夢見る男女の、いわゆるひとつのミュージカル映画だが、肝心のミュージカルシーンはかつての「シェルブールの雨傘」や「ウエストサイド物語」に比べると遜色がある。
なんといっても詞と曲にさしたる魅力がないのが致命的。ラストに多少のひねりを加えてあるが別にどうということもないね。
こんな映画だったら今の邦画のほうが上手に作るのではないだろうか。

16)原田真人監督の「日本のいちばん長い日」
原作は同じでも脚本、演出、役者が変わると全然違った映画になるもんだ。
岡本喜八の「日本のいちばん長い日」を8月の炎熱に燃える陽の映画だとすると、原田眞人のは絵も暗く表現も陰に籠り、なんだか8.15の大事件全体が絵空事のように映っている。
すべての画面を奇麗に撮ろうとしているので端正な表情だが、ドラマ自体の手触りが妙につるつりしていて、実在感に乏しい。
三船敏郎であったが、原田版の役所広司にくらべると出番は少なかった岡本版の阿南陸相は、圧倒的存在感を発揮していた。

17)森谷司郎監督の「海峡」
青函トンネルを完成させるためにすべてを投じる男、高倉健。その必要もないときにサングラスをかけるのはなぜ? 
彼にからむ2人の女、吉永小百合と大谷直子。あとは例によって例のごとし。おやじ労働者役の森繁がよく出演したものだ。

18)降旗康男監督の「夜叉」
元ヤクザの高倉健が漁師になってひっそりと暮らしていたが、昔とった杵ずかは背名の夜叉の刺青同様きれいにぬぐい去れず、またしてもぎりと義理と人情と女の深情けの泥沼に突っ込んでゆく。
それにしても現役時代にあれほど大勢の組員を殺した癖にどうして安穏と漁師が続けられたのかな。

19)アンドリュー・Ⅴ・マクラグレン監督の「マクリントック」をみて
ジョン・ウェインとモーリン・オハラが楽しく共演。珍しく成功した西部劇コメディ。なんと元ネタがシェークスピアの「じゃじゃ馬ならし」だったとは!

20)アーサー・ヒラー監督の「ある愛の詩」
アイアン・オニールとアリ・マッグローによる1970年特製の難病物ラブストーリー。これと同工異曲の映画はその後も世界各地で大量生産されている。

   この世では絶対的にあり得ない「完全かつ最終的な解決」 蝶人


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漱石の「夢十夜」を読んで 

2018-10-30 14:03:13 | Weblog


照る日曇る日 第1155回



毎日毎晩の夢を枕元で記録して「夢百夜」というタイトルで連載するようになってほぼ10年になるが、その元祖、本家本元である漱石の「夢十夜」を久しぶりに読んでみた。

「こんな夢を見た」で始まる「第1夜」は、仰向けに寝た女(どことなくそれからの三千代、或いは漱石の嫂、或いはミレイのオフィーリアを思わせる)が死んで100年目に蘇る話だが、これが圧倒的に浪漫的で耽美的で物悲しく、わずか1200字余りの掌篇であるが、もしかすると漱石の最高傑作ではないだろうか。
こんな夢を本当に見たとしたら、もうそれだけで死んでもいいと思うに足りる珠玉の名篇である。

「第2夜」は難解な公案を出されて恨む侍の話で、おそらく若き日の円覚寺参禅の体験が夢に出てきたのであろう。「父母未生以前の自己如何」と問われて正解できる人なんかいるのだろうか? 
ここで主人公は侍を侮辱した和尚を殺そうとまで思いつめるのである。

「第3夜」は怖い。これ以上の怪奇小説はないといっていいほど怖いので、まだの人は読まない方がいいだろう。
背負った子供が「文化5年辰年だらう」と断言するあたりが一等怖い。私も人を殺す寝醒めの悪い夢を見るたことはあるが、こんな夢だけは見たくないものである。

「第4夜」も怖い。
「深くなる。夜になる。真っ直ぐになる」と唄いながら川の中に沈んでいく爺さんはいったい誰だろう。

「第5夜」はどこか「走れメロス」に似ているが、結末は正反対の壮絶な大悲劇であり、「天探女は自分の敵である」という結語の切れ味が最高である。

「第6夜」は運慶の創造の秘密の話だが、これは漱石の小説にも出てきた話柄のような気がする。また同じ趣旨の話を幸田露伴や谷崎潤一郎も書いていたのではなかったか。

「第7夜」もまるでポオの怪奇小説を思わせる恐ろしい話で、あたかも自分が早まってタイタニック号から飛び降りたような背筋の寒さを味わえる。
いやあ漱石の夢って怖いですねえ。

「第8夜」は本郷の散髪屋「喜多床」へ行ったときの実体験か。
床屋の親父が「今日はよいお日和ですね」と話しかけたら、漱石はそんな余計なことは言うなと窘めたそうだ。

「第9夜」は漱石が母から聞いたという悲しい話。
出征してすでに戦死している夫の無事を祈ってお百度を踏む妻の姿は哀れを誘う。

最後の「第10夜」はレミングのように暴走する豚の大集団に襲われ、懸命に豚の鼻ずらを叩いて海に落すが、多勢に無勢、とうとう豚に舐められて命を落とす庄太郎の話。
可哀想の話なのだが、そのくせユーモラスなところが面白い。

   「右翼とは席を同じうせず」てふ奇妙な悪癖今に残れり 蝶人
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新潮日本古典集成新装版・日野龍夫校注「本居宣長集」を読んで 

2018-10-29 14:47:33 | Weblog


照る日曇る日 第1154回



本居宣長なんてまともに読んだことがなかったので、本書に収められた「紫文要領」と「石上私淑言」を一読して、その論旨の明快さと強烈さに賛嘆した。両書とも弱冠33才頃の論文なのに、おのが主張をテッテ的に貫き通すその異様なまでの情熱は、どことなく全盛時代の梅原猛を思わせる。

「紫文要領」は源氏物語礼賛の書。源氏の本質は「物の哀れ」であるという仮説を、ありとあらゆる手段を駆使し、その只ならぬ汗牛充棟の中から鮮やかに博引旁証して、どうだ、どうだと突きつける。

はじめは「そうかなあ、他の考え方もあるだろうに」と疑いの眼で眺めていたが、最後には根負けして「はいはい仰るとおり、源氏こそは物の哀れの最高傑作です」と認めざるを得なくなってしまう。

しかし仮説がいつのまにか既成事実と化してしまう梅原流とは違って、宣長選手はこちらが懐く疑問を自らが問題提起しては懇切丁寧に証明、論破していく。けっして一方的な主張ではなく、予想される反論のありったけをいちいち潰しながら議論をブルトーザーのように前に進めるのである。

しかし百花繚乱の恋の花が咲き乱れるあの不倫乱倫の源氏物語を、儒仏の教戒と道徳と切り離し、自由な人情と感性の発露の産物として評価したところまでは良かったが、
「石上私淑言」になると物の哀れが文芸から逸脱して、神道「神ながらの道」の護符、御本尊に大化けしていくのは不可解ずら。

宣長にとって、神とは善も悪も引き起こす民草には不可知な存在であり、民草はその身に降りかかる善や悪を、ただただ有難く受け入れるしかない哀れな存在であった。

戦争も地震も津波も貧困も差別も、ありとあらゆる災厄が、神聖にして冒すべからざる「神」のせいである、というそれこそ「物の哀れな」考え方。宣長が悟達したこの思想ならざる思想こそが、上代から現代までの列島人に共通する悲しき民草の世界観だったのではないだろうか。

   「トイレのあと洗面台を奇麗にせよ」と芦田淳氏のたまう 蝶人

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半蔵門の国立劇場で「通し狂言平家女護島」をみて 

2018-10-28 12:46:06 | Weblog


蝶人物見遊山記第293回



ついこないだの橋之助が、いつの間にか八代目の中村芝翫になっていて、清盛と俊寛僧都の2役を、物凄いしゃがれ声で演じていました。

平家に対する陰謀の廉で喜界ヶ島に流された俊寛は、ひとり取り残されてうおううおうと嗚咽するのですが、芝翫のその声たるや、三階席の右端に座っている私の難聴気味の耳朶を聾するくらい猛烈なもの。

これを今月の1日から私が見物した24日まで毎日毎晩やっていたのですから、喉がもつわけがない。それでもひしゃげた声を振り絞ってセリフをちゃんと喋っていたから偉いもの。とうてい軟弱な喉の吉右衛門、白鸚、藤十郎なぞに出来る芸当ではありません。

それはそれとして、この近松門左衛門のシナリオは平家物語の島流しのお話と違って自由奔放の限りを尽くしている。正使が2人もいて、一人は成経、康頼しか赦免しないといううのに、もう一人の正使は清盛ではなく教盛の赦免状を持参していて、そこには俊寛の名がある。

ところがその俊寛、成経と結婚した海女の千鳥を帰国させるために赦免を辞退しようとするのだから、訳が分からない。ついには傲慢不遜な正使を殺害し、その罪をひっかぶって島を出ないことに自分でしてしまうなんて、こりゃあんまりな自業自得ではないかいな。

まあその他、清盛が厳島神社の御座船から後白河法皇を海に突き落として殺そうとしたり、反天皇制主義者が泣いて喜ぶような、3幕終盤のサプライズもあって、退屈する暇のない通し狂言でありました。

    半蔵門の国立劇場のわが指定席3階12列60番なり 蝶人

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上野の森美術館で「フェルメール展」をみて 

2018-10-27 19:48:15 | Weblog


蝶人物見遊山記第292回



フェルメールの絵では、おおかた左側から光があたり、室内にいる女性の姿かたち、とりわけその風貌を印象的に浮かび上がらせる。

ドラクロアほど劇的ではないが、この光の存在が、なにげない日常を生きる、さして特徴のない人物の存在をひどく印象的な存在へと変化させ、当代のミロのヴィーナスのような、ある種普遍的な存在にまで高めてしまうのである。

絵の中で時間は静かに流れているようだが、流れていたミルクはいつのまにか止まってしまい、停止した時間と空間が、どこか永遠の相に彩られ、むかし聞いたことのある単純な音楽が、どこか遠方で鳴っているような錯覚にとらわれる。

「手紙を書く女」や「手紙を書く婦人と召使」、そして「牛乳を注ぐ女」の実物の前に心ゆくまで佇んでみて、私はあの「失われた時を求めて」の作家が、これらの珠玉のような名品を偏愛した理由が、遅まきながら初めて分かった。

幸いにも今回見ることができた8点、いずれも素晴らしいと讃えたいところだが、唯一の大画面で自由だがやや弛緩した描きぶりの「マルタとマリアの家のキリスト」は、もしかすると別人の作ではないだろうか。



  大いなる壺より流る白き滝果てなく落ちて音は聞こえず 蝶人
   Vermeerとはおらっちのことかとフェルメール言い 
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門井慶喜著「銀河鉄道の父」を読んで 

2018-10-26 11:55:43 | Weblog


照る日曇る日 第1153回

実際は「宮沢賢治の父」の話なのだけど、それを「銀河鉄道の父」と言われると、妙に気になって、ついつい手に取ってしまう。そおゆう意味では、近来稀なる名タイトルかも知れんて。

さて、どこまで本当なのか分からないけど、ここに出てくる賢治の父、宮沢政次郎は、息子に厳しそうにみえながら実際は甘アマで、夢見る文学青年の生き身と夢に終生寄り添ってやる優しい優しい父親で、井上ひさしの芝居なんかとは一風変わった印象である。

恐らくあまり資料がない中、それでも周辺記録を丹念拾い集め、それらをジグソウハズルのように貼り付けていく描き方であるために、記述はいちおう客観的に見えるが、宮沢家の人々の面影に対する著者の主体的な踏み込みが欠けるのは、致し方ないことかもしれない。

しかし、父、政次郎がいままさに賢治の妹トシの遺言を書きとろうとしたとき、賢治が無理やり2人の間に割って入り、トシの耳元に口を寄せて「南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」と唱えるなどという「暴挙」をほんとうにしたのだろうか? 識者の教えを仰ぎたいところである。

1122 2525 2951 9674 願いを込めてナンバープレート 蝶人

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大友克洋作「AKIRA3アキラⅡ」を読んで

2018-10-25 13:49:30 | Weblog


照る日曇る日 第1152回


クーデターが起こり臨時政府が発足するなか、都心部では大爆発が起こり登場人物たちは命からがら逃げ惑う。地球最後の日を思わせるような大災害の精密描写が凄まじい。


    日曜の朝から草を刈る人のエンジンの音ひたすら煩し 蝶人
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講談社学術文庫版「寺山修司全歌集」を読んで

2018-10-21 10:46:43 | Weblog


照る日曇る日 第1149回



あとがきで塚本邦雄は、冗談か本気か「天才、超人」と崇め奉り、穂村弘は「魔術師」呼ばわりしているが、果たしてそれほど物凄い歌人と歌であるか、わたくしには甚だ疑問である。

確かにアララギの伝統から大きく逸脱し、みじんも「私」や「私生活」を詠まずに「劇化された私」や虚構世界を想像・創造しようと努めてはいるが、その現実からの飛躍度は、他ならぬ塚本に比べたら僅かなものであり、特に「初期歌篇」などは、青森という特権的な場所の自然や文化に根ざした異色の青春譜と評すべきものだろう。

舞台が都会に移って「空には本」「血と麦」「テーブルの上の荒野」においてもその様相に格別の変化は感じられないが、そんな中に在って圧倒的に素晴らしいのは、代表作「田園に死す」の最後におかれた8つの「新・病草紙」、5つの「新・餓鬼草紙」の詩編である。

この「今昔物語」&「伊勢物語」の超現代版のようなカオスを原泉として、著者の詩魂は、演劇、映画など各方位に向って全面展開していったのだろう。

 塚本は絢爛豪華なシェヘラザード寺山は恐山に鳴るグリーグの抒情小曲 蝶人
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ポール・オースター著・柴田元幸訳「インヴィジブル」を読んで

2018-10-20 11:05:11 | Weblog


照る日曇る日 第1148回



今回の特徴は小説のお話の中身よりも、その構成への徹底的なこだわりでしょうかねえ。

未完の原稿を2つ並べておいてから、3つ目でその原稿の曰く由縁の解説が入ったり、章ごとに話者が変わったり、あえて完全に推敲されない文章を投入したり、かと思えば、その不完全部分を修復して読者に披露するとか、さまざまな手練手管を次から次に披露して、はてさて今度はどうなっていくのだろうと、ハラハラドキドキさせてくれるのです。

だが、その結果、肝心要の物語のあれこれがもうどうでもよくなってきたりするのが欠点といえば欠点なのでしょうが、かというて、そんな著者の飽くなき新小説創造への挑戦と作家根性を、おとしめたりしようとするケチなわたくしめではござんせん。

それにしてもポール・オースター、71歳なのに若くて元気だなあ。ちいと見習わなくっちゃ。

 おこがましくもジャーナリストを名乗る君 生きながら殺される覚悟はあるか? 蝶人

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吉祥寺美術館にて「柿本幸造の絵本の世界展」をみる 

2018-10-19 13:32:31 | Weblog


蝶人物見遊山記第291回



わが地元十二所が生んだ偉大なる芸術家は日本画の小泉純作、純文学の岡松和夫、童画の「柿本幸造」ですが、その柿本氏の没後20年を記念する大回顧原画展が開催されている吉祥寺まで足を運びました。

そこには彼の広告デザイナー時代の日産のカレンダーから1967年に始まった「どんくまさん」シリーズ、「ごんぎつね」、「どうぞのいす」、さらには地元十二所のバス停や郵便ポストなど数多くの絵本、童話の原画が展示されていました。

どの作品も朱色を基調とした暖色系の配色が目と心にやさしく沁みわたり、それが画家の世界に対する豊かな包容力を示しているように思われますが、とりわけ胸に響いたのは、小学生の教科書で有名な「くじらぐも」と1998年の死の直前に描かれた未刊の遺作「どんくまさんと手風琴」でした。

これらの作品が遺族亡きあとも、しかるべき場所に安置、公開されますように、と願いながら帰途についたことでした。

なお本展は来る11月11日まで同館にて好評開催中です。

   地下駅に轟きわたる騒音を我ら黙してひたすら耐えおり 蝶人

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由良川狂詩曲~連載第27回 

2018-10-17 20:38:52 | Weblog


第8章 奇跡の日~水の上で歌える



その次の日、5月5日は子供の日でした。五月晴れの晴天でした。
うっすらと絹のヴェールを刷いた青空が、丹波の国、綾部の町の上空に、お釈迦様のような頬笑みを浮かべながら、おだやかに拡がっています。

ケンちゃんは、コウ君と一緒に、由良川の堤防の上に立ちました。
気持ちの良い風が、シャツの袖の下から脇の下へとくぐり抜けてゆきます。
対岸の家並のいらかの波のあちこちで、大きなマゴイや小さなメゴイが、5月の透明な光と風を呑みこんでは吐き出し、ゆらゆらと泳いでいます。

「ケンちゃん、『8組の歌』を歌おうか」
「うん、いいね」

そこでふたりは声を揃えて、大船中学校3年8組の歌をア・カペラで歌いました。

 明るい青い空 光があふれるよ
 野に咲く はなばなは
 ぼくらに ほほえむよ
 みんなで ゆこう
 あの山こえて
 みんなで ゆこう
 よびあいながら
 明るい青い空 光があふれるよ
 野に咲くはなばなは
 ぼくらに ほほえむよ

それから、ふたりが河原へ降りてゆくと、井堰のちょっと浅くなったところで、由良川の魚たちが背伸びしたり、躍りあがったりしながら、ケンちゃんたちの到着を待ちわびているのでした。
中には井堰を乗り越え、身をよじりながらこちらへにじり寄ってくる、せっかちなドジョウもいます。

「おや、そこをノソノソと歩いているのは幸福の科学を呼ぶとか言うゼニガメじゃないか」

ケンちゃんは、チビのくせに生意気にも背中にコケをはやしているゼンガメを掌に乗せると、井堰の突端できれいに澄んだ由良川の流れの中にそおっと放してやりました。

ゼニガメが不器用に泳ぎながら、コイやフナ、ギギやアユたちが群れ集っているところに辿り着くやいなや、誰かが合図でもしたように、その数えきれない何千何万匹もの由良川じゅうの魚たちが、一斉に銀鱗をきらめかせながら、思いっきりジャンプしました。

幅おそよ1キロの大河ぜんたいを、見渡す限り銀色で埋めつくした魚たちの跳躍は、いつまでも続きました。
いつもはそんな絶好のチャンスを見逃すはずのないカワセミもトビもサギも、さすがにこの時ばかりは水面を飛ぶことも忘れ、くちばしをあんぐりとあけたまま。魚たちの繰り広げる一大ページェントに見とれていました。

やがて由良川の川面に、ふたたび静寂が戻ったとき、最長老のオオウナギが、ケンちゃんとコウ君が立っている井堰すれすれのところまで、クネクネと泳いできました。
魚族の生存をおびやかす凶悪な敵との熾烈な戦いを我らがケンちゃん、そしてコウ君の助けを得て、やっとこさっとこ勝利に導いたこの老練な指導者は、ごま塩の長いヒゲをピクリ、ピクリと動かしながら、重々しい声音で一場のスピーチを試みました。

「うおっほん、このたびの、由良川史上かつてない大戦争を、なんとかかんとか無事に終結でけましたんわあ、ほんま、そこにおわっしゃる、おふたかたのご尽力の賜物と、心より感謝感激しとる次第であります。

わいらあ一族の平和な暮らしを脅かし続けてきた、あのライギョども、そしてそのライギョよりもさらに恐ろしい極悪非道のアカメどもを、当代最高の知性と教養、そして、沈着冷静な判断力と積極果敢な行動力とを兼ね備えた、アメミヤケン氏およびその兄上のコウ殿が、力を合わせて一挙に撲滅されたちゅうことは、じつに国家3千年、由良川6千年の歴史を飾る壮大な事業、いな大革命といううべく、まことにまことに慶賀に堪えましえん。

ここにわいらあ全由良川淡水魚同盟員一同、鴈首揃え、幾重にも伏して御両所の獅子奮迅の大活躍に満腔の謝意と敬意を表し、遠く遙かな子々孫孫の代まで、その偉業を語り継ぐことを、この場で厳粛にお誓いするものであります」

「ひやひや、そおそお、そのとおり!」
「よお、よお、三流弁士。言葉多くて心少なし!」
と、後に控えた魚たちは口々にはやし立てます。

由良川じゅうをどよめかせる大騒ぎがようやく収まると、威儀を正したオオウナギが、今度は慎重に言葉を選びながら語を継ぎました。

「んな訳じゃによって、わいらあ一同は、おふたかたのこのたびのお働きを、とわに記念して、なにか贈り物でもと考えたんじゃが、ご承知の通りの台風一過、火事場のあとのおおとりこみ、葬式あとの結婚式で、あいにく何の持ち合わせ、何の用意もでけへんかった。

もとよりわいらあ魚は生涯無一物、この世、あの世へのさしたる未錬も執着も愛憎もあらでない。ただ後生への功徳をいかにつむか、はたまた天地を貫く真徳とはいかなるものであるか、について、いささかの知恵を持つのみ。

そこで本日の別れにのぞみ、ここでわいらあ魚族の誇る吟遊詩人に登檀願い、人・魚・両種族の末長き友愛と交情を祈念することといたしたいが、いかに?」

最長老のわざとらしい問いかけを受けて、もう一度由良川じゅうをどよもす拍手と喝采が湧き起りました。

そしてオオウナギが軽く右の胸ビレを振って合図すると、背ビレも尾ビレもぼろぼろになり、ガリガリにやせ細った一匹のちっちゃな子ウナギが、井堰の向こうからよろよろと姿を現しました。

                                              次号最終回へつづく



昼間からライトを点けて走っている法令順守の車たちは 蝶人
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ラフマニノフはお好き?~ワーナー廉価盤ラフマニノフ8枚組CDを聴いて 

2018-10-14 10:47:10 | Weblog


音楽千夜一夜第421回



EMIを買収したワーナーから発売されたラフマニノフの8枚組CDを、安さにつられて買ってみました。

中心は、ラフマニノフの前奏曲、チェロソナタ、4つのピアノ協奏曲とパガニーニの主題によるラプソディなどを、新進気鋭のピアニスト、ルガンスキーとサカリ・オラマ指揮バーミンガム市響で、いずれも最新録音の最近演奏なんですが、これがちっとも面白くない。

ラフマニノフを演奏する時は、ピアノの一撃でもって、恋の予感で胸をワクワクさせなければならないのですが、この、指は廻るが糞真面目な男のピアノには、いくら聴いてもそれがない。

だいたいルガンスキーというロマンを感じさせない名前がよくない。改名して出直してこい。

あとは溝に捨てようと思ったら、なんと懐かしや!アンドレ・プレヴィン&ロンドン交響楽団の3つの交響曲と交響的舞曲、声楽入りのコーラルシンフォニー「鐘」がおまけについていました。

これはアシュケナージと入れたピアノ協奏曲ともども、若き日のプレヴィンの知る人ぞ知る名演。やっぱりラフマニノフはこうでなくっちゃ。


 この節はラフマニノフ的ロマンチストは世界のどこにもいなくなった 蝶人

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岩波版夏目漱石全集第19巻「日記・断片上」を読んで 

2018-10-13 10:53:21 | Weblog


照る日曇る日 第1147回



夏目漱石の謎は「嫂との恋」説、「兵役逃れの北海道本籍移籍」説、「妻鏡子による漱石暗殺未遂」説などいろいろあるが、故車谷長吉による「漱石=愛と献身の作家」説もそのひとつである。

明治40(1907)年、彼は妻鏡子の父、中根重一(1851-1906)が相場に失敗して抱えた巨額の負債を肩代わりするために、一高、帝大講師の身分、友人狩野亨吉からの京大教授招聘依頼を捨て、より高収入の新聞社への就職を決意。読売新聞(100円)よりも高い月給200円を提示した朝日新聞に入社したというのである。

当時2つの学校からの年収は1500円、朝日だと2400円だから、その差は大きい。
中根の借財がいくらあったのか、それらを大正5(1916)年12月の生前にどれくらい返済できたのかは分からないが、ともかく漱石は自分に残された10年足らずの生涯のすべてを、妻の父親の不名誉な借財の返済に捧げた、という。

妻鏡子をはじめとする親類縁者、友人知己、研究者の証言や資料を探したが、今に至るも確たる証拠がない。車谷説は文学者の妄想の類かと思うこともあったが、この仮説は漱石の後半生を今までになく鮮やかに照射するものなので、軽々には捨て難い魅力を持っている。

けれども、本書233頁「甲浪人して負債山の如し。ある紳商その才を惜しんで某会社の社長に推す」に始まる漱石の明治39年の断片は、注目に値する自己証言、貴重な参考資料といえるだろう。

彼はそこで中根重一の下手くそな経営の才、重一の死後家督を相続した長男、倫(漱石の妻鏡子の弟)の、父が死んでも葬儀を営むことができない無能さ、借財と積極的に取り組もうとしない無責任な態度、好ましからざる異性関係などについて苦々しげに叙述している。

断片の最後は「嗣子の姉二人、AとBとに嫁ぐ。AとBとの関係。Aとこの家族との関係。Bとこの家族との関係」という箇所で突然終わっている。

Aは鏡子、Bは梅子で建築家鈴木禎次の妻であるが、漱石と鈴木禎次は同じ娘婿としてある程度の付き合いはしたようだが、鈴木も漱石に倣って、義父の借財を身銭を切って返済したのだろうか。

漱石は晩年、妻鏡子の金銭管理に見切りをつけて自ら家計簿をつけ、家計を管理しているが、重一、鏡子と二代にわたる経営感覚のなさに気付いたのかもしれない。

ともかく漱石が表舞台で掲げている小説より遥に面白いこと間違いなしの「日記・断片」の集積である。

  予報士が明日は晴れたり曇ったり所によって俄か雨という 蝶人

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国立新美術館でオルセー美術館企画「ピエール・ボナール展」をみて

2018-10-12 10:50:52 | Weblog


蝶人物見遊山記第289回



今回のボナールは、「日本かぶれ」とか「ナビ派」とか下らない包装紙に包まれて巴里から六本木までやってきたが、んなもん余計なお世話である。

僕にとってのボナール選手は、その名前のとおり、あのボナーッとしていて、ヌボーっとしたダイダイ色などの暖色が、疲れた心身を穏やかに揉みほぐしてくれるやわらかな存在で、例えばルーベンスとかルオーなんかの重厚長大派とは対照的に、「親和力に富む絵描きはん」、なのである。

作品は静物や風景、室内画、それぞれに良きものがあるが、なんというても愛妻マルタの入浴図にとどめを刺すだろう。

もう半世紀以上も昔の大むかし、丹波の田舎の中学か高校生だった僕は、美術鑑賞の時間に同級生と一緒に、恐らく京都の美術館でボナールの入浴図を見て、その美しさとエロチシズムにしばし陶然となったことがある。

その展覧会は、当時ポピュラーだった印象派を中心とした寄せ集めの「泰西名画展」で、ボナールはおそらく1点か2点しかなかったはずだ。

小一時間の鑑賞を終えて、クラス担任のU先生から、「ササキ君、どうやった? どれが良かった?」と聞かれた僕が即答できずにいると、U先生は、どことなく自信なさげに、でもその自分の感想を、誰かに支えてもらいたそうに、「ボクは、ボナールがええなあ思たけど、君はどう思った?」と尋ねられた。

あろうことか、僕は黙って、うつむいてしまった。
しばらくして顔を上げると、U先生の姿はもうなかった。

僕が「ボナール!」と即答できなかったのには、2つの理由があった。

ひとつは自分もボナールに感動したのだが、その絵があまりにも官能的であったので、教師の問いかけに、つい躊躇ってしまったこと。

もうひとつは、普段は謹厳実直そのもののU先生が、ボナールの裸婦に、僕と同じか、あるいはそれ以上に感動し、先生の顔が、興奮で少し赤らんでさえいることに対して、不遜にもある種の嫌悪感を懐いてしまったからだった。

そんなU先生の顔を、まともに見ることもできず、うんともすんとも返事できなかった自分……。
あの頃、丹波の田舎の教育者が、自分の教え子にエロチックな作品への肯定的評価を伝えるのは、それなりに勇気を必要としたに違いない。

思いきって心を開いてくれたU先生に、率直に応えられずに、あまつさえ不快な思いまでさせてしまった僕は、ほんとに嫌な奴だった。

先生、どうかあの時の無礼をお許しください。
恐らくは在天の先生に、半世紀前に答えるべきであった返事を、遅まきながらいま致します。

「ボナールです! 先生と同じ、ボナールの裸婦です!」

*なお本展は、来る12月17日まで同館にてわりと寂しく開催ちう。


 レストランの厨房で働く人々はいつどんなものを食べているのか 蝶人
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続 蝶人神無月映画色々倍速見物記 

2018-10-11 17:50:10 | Weblog

闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1837~1846


1)アンリ・ヴェルヌイユ監督の「ヘッドライト」
せっかく初老のジャン・ギャバンが離婚して新生活を始めようとぐあんばったのに、堕胎したフランソワーズ・アルヌールは、無理がたたって死んでしまう。
あまりにも可哀想な最期なり。原題は「てんで重要ではない人たち」で内容的にはこっちのほうが良かったずら。
ところでアルヌールちゃんは87歳で健在なんだって。

2)アラン・レネ監督の「去年マリエンバートで」
60年代のヌーボーロマンの旗手とされたアラン・ロブ=グリエが黒沢の「羅生門」にインスパイア?されて書き上げた、訳の分からん脚本に基づいて、アラン・レネが知ったかぶりして撮った。訳の分からぬ映画。
私は1964年にこの映画を見てたまらなく退屈したのだが、ただひとつの収穫はこの映画に出てくるマッチ取りの「ニム」というゲームの必勝法を会得して、一時期友人たちに尊敬?されたことだった。

3)ロバート・ワイズ監督の「アンドロメダ…」
マイケル。クラントン原作の「アンドドメダ病原体」をワイズが丹念に正統的SFの映像にしている。
宇宙から飛来した謎の生命体の侵略と戦う科学者たち。
元娼婦の紅一点が興味深い。

4)クロード・シャブロル監督の「いとこ同士」
田舎から巴里に出てきた糞真面目なブラン勉強少年君を、いとこの都会クロード・ブリアリ青年がもてあそぶが、最後に文字通りの命取りになる。
しかし間に挟まった女もずいぶんな奴だ。でもブランが落ちたのに、どうして勉強のしないで遊んでばかりのブリアリは試験に受かったのかしら。

5)細田守監督の「時をかける少女」
筒井康隆の原作を2000年代の新鮮な感覚でよみがえらせた秀作アニメーション。この原作はこれからもいくたびもリニューアルされていくだろう。

6)マキノ雅弘「ハワイの夜」
鶴田浩二と岸恵子美男美女が大戦前夜のハワイで恋に落ちたが真珠湾攻撃で引き裂かれる悲劇を1953年の現地ロケで。
ぶす可愛い岸と鶴田のラブシーンがぎこちない。

7)ローランド・ジョフィ監督の「ミッション」
スペイン統治下のパラグアイで起こる原住民クリスチャンの悲劇。
ポルトガル領に編勇された原住民たちは奴隷になることを拒否して戦うが、宣教師と共に滅びる。
1986年の英国映画でデ・ニーロとジェレミー・アイアンズが熱演。

8)ジョン・ヒューストン監督の「女と男の名誉」
1985年公開のハリウッド映画で、ジャック・ニコルソン、キャスリン・ターナー、アンジェリカ・ヒューストンが競演。
マフィアの仁義が男女の愛を絞め殺す哀しき宿命をアイロニカルに描く。
恋人を殺してマフィアの次期親分になったニコルソンの心はボロボロだろう。

9)アレハンドロ監督の「バベル」
モロッコ、東京、米&メキシコにおける様々な「事件」を同時並行的三題噺として描くが、そのことがバベルというタイトルが意味するものとどのように結び付いているのかはさっぱり分からない。
ケイト・ブランシェットは血塗れで、菊池凛子はスッポンポンで熱演。

10)ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督の「アンコール!!」をみて
愛妻レッドグレイヴに死なれた孤独で狷介な老人テレンス・スタンプが、合唱の楽しさに触れて第二の人生に踏み出すまでを描く、いかにもな英国映画。

  「この一番」というところで負けてしまうそういう人は昔からいた 蝶人
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