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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2010年文月茫洋花鳥風月人情紙風船

2010-07-31 07:21:58 | Weblog


ある晴れた日に 第77回


現金をゴミ箱の中に捨てていた不思議の国に生きている息子

金捨てる息子の生きる不可思議な世界を知りてまた驚きぬ

横顔が母に似ているなと思いながら息子の顔を見ている私の顔

障碍を持つ長男の髪を切る鎌倉2小の同級生かな

私と障碍のある長男を並べて髪切る小林理髪店

世界と私との戦いではおそらく私は息子の側に立つだろう

しかすがにてふ枕詞思い出したりシカスガオの歌ききて

お位牌のチンは横からそっと打つのよと母がいう

亡き父の鞄の底に眠りしは肩書のない一枚の名刺

父死にて泣けぬ我かと案じしがとどまることなく涙流れたり

大股を開いてメール打つガンガン娘は災いなるかな

「お父さんは好きか嫌いかどっちなの」に遂に答えられぬ柳美里

なんの根拠もなく絶対生きているという言葉にすがりつく哀れ

美しきうわべの貌をひとめくり心はいかに美しき人か

新宿の天丼てんやで五〇〇円の天丼食らうアメリカ人カップル

文学の巨星なれど医学の巨悪人間森林太郎をいかに位置づけるべき

なにゆえによきひとさきにゆくならむむらさきいろのあじさいさくひに

ポネル死してオペラまた死したりその雲居の声に残響に耳を澄ます

はじめに女ありき そこから始まった日本私小説 

ブロンドの謎の少女も叔父上もおのれもすべてうつせみにして

ライバルの御家人どもをなぎ倒し最後は自滅のああ伊豆豪族

ピッチには一度も立てずアフリカの歌をうたいし選手のこころ

野に山にノウゼンカズラの花咲けば狂乱の夏いまぞ来にけり

1200円の三浦スイカを食べにけり

シューマンの象徴の森深く分けて入る

おたま食らうヤマカガシ殺したるおぞましさ

ジャワ更紗サラサはスカンポの柄に似て

いくたびもカラス何代目あらわれては消え

佃煮にして食べたき魚泳ぎけり


ねえお母さん 茗荷と紫蘇が獲れる庭はいいね 茫洋
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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第13回

2010-07-30 07:27:21 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1

10月29日

お母さんが、弟の純君を叱りました。
「こらっ、純。もっとちゃんとご飯を食べなさい」
僕も言いました。
「こらっ、純。もっとちゃんとご飯を食べろ!」

 そして、僕は、純がちゃんとご飯を食べないし、お母さんに純のことばかり注意するので、頭にきて、純の頭をごっつんと殴りました。

純は、びっくりして僕の顔を見ました。お母さんは、
「岳がほんきで怒ってるよ。マジだよ」
と言ってたいそう驚いて
「純君、どうしたの、なにが気にいらないの? どこか具合でも悪いの?」
と聞きました。

「ううん、僕どこも悪くないよ。大丈夫ですお」
と答えると、お母さんはなおも僕のことが心配になったようで、急に僕の機嫌を取ろうとするように、
「岳君、どこか遊びに行きたいところがあるんでしょう?」
とカマを掛けてきたので、僕が
「火星社書店」
と答えると、お母さんはもう一度びっくり仰天して
「そ、それは高尾山の麓の本屋さんじゃないの。あそこはあなたがもっと小さい頃に日曜日ごとにさんざん行ったところじゃないの。そんな遠いところじゃなくて、もっと近いところで岳が行きたいところがあるでしょ?」
と言ったので、
「それじゃあ川崎の岸さんちへ行きたいお」
と言ったら、お母さんはまたまたあわてて
「川崎も遠いよね」
と言ったので、
「それでは僕は大船のイトーヨーカ堂に行きたいです」
と言ったら、お母さんは思わず両手を胸の前でパシリと打ち合わせて、
「よおーし、じゃあ岳君、イトーヨーカ堂へ行こう。行こう、行こう、みんなで行こう!」と大声で叫んだので、僕は「僕は岳ちゃんではありません。岳君です!」
と言いました。


1200円の三浦スイカを食べにけり 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第12回

2010-07-29 06:11:48 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


10月28日 曇

今日は朝から風邪気味でした。

具合がとても悪いので、流れてきた「イチョウまんじゅう」の箱をぼんやり眺めていたら、突然目から火が出ました。

現場監督の長島先生が僕をぶん殴りました。僕の頭をぐあんと殴ったのです。

僕は目からバチバチと火を出しました。それからあんまり痛かったのでわあわあと言って泣きました。そしたら、
「いつまで泣いてんだ。バカ」
と言ってまた長島先生が僕を殴りました。

今度はほっぺをぶん殴りました。すごく痛かったので、また泣こうかと思いましたが、また泣くと、また長島先生にぶん殴られると思ったので、僕は必死で泣きませんでした。

いっしょうけんめい泣くのをこらえました。ヒックヒックと言ってこらえました。

長島先生は嫌いだ。長島なんてぶっ殺してやる。



美しきうわべの貌をひとめくり心はいかに美しき人か 茫洋
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柳美里著「ファミリー・シークレット」を読んで

2010-07-28 06:42:08 | Weblog


照る日曇る日 第360回

どうやらこの人はいいしれぬ苦悩に陥っているようです。そうして、それがどういう苦しみであるのか、またその苦しさがどこからやって来たのかについて、この人の苦難に満ちた来歴が、あるいはまたその絶望的に悲惨な日常生活の断片が、啼くがごとく、恨むがごとく延々と語り続けられるのです。

幼い時から父親の家庭内暴力の被害に遭い、世間からも迫害されてきたという作者は、様々な小犯罪やリストカット、自殺未遂を繰り返しながら、おのれを護持するために懸命に小説を書いてきたそうです。

しかし不幸なことに、40歳を超えた今日も過去のトラウマから解放されず、新しい連れい合いからは連日殴る蹴るの虐待を受け、しかしながら前夫との間に出来た最愛の息子に対しては時として暴力を加え、夜は寝られず、精神には異常をきたし、とうとう著名な精神分析者のカウンセリングを受けることになります。

そうして何度かの濃密なセッションを通じて、次第に作者の精神的な障碍の構造があきらかになり、長年にわたって音信不通であった父親との再会が実現し、(それらの「家族の秘密」はすべてあからさまに小説の中で公開されるわけですが)、幼い時から奪い去られていた「愛」を取り戻すためのささやかな試みがようやく開始されるかにみえるところで、本書はなんとかハッピーエンドの姿を取ろうと努めるのです。

けれどもまばらな拍手にこたえるべくカーテンコールによろばい出た作者の、鎌倉雪の下カトリック教会で聖体拝受にあずかる疲労困憊した姿や、横浜弘明寺商店街を彷徨する幽鬼のような姿は、とてもこの世のものとは思えません。

複雑な少女時代に「碧いうさぎ」の刻印を受けた酒井法子や、わが子を川に投じた畠山鈴香に自分の分身を感じるという作者の赤裸々な言行録は、読む進むほどに痛ましさがつのり、「親の因果が子に報い」などという古いことわざが、あたかもアポロンの不吉な神託のように聞こえてくるので面妖な心地さえしてくるのです。

いずれにしても、ほとんど精神の決壊寸前に立ち至ったこの俊秀の一日も早い拝復を祈らずにはおれません。

「お父さんは好きか嫌いかどっちなの」に遂に答えられぬ柳美里 茫洋
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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第11回

2010-07-27 07:12:38 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1


10月27日

星の子学園に行きました。

僕の住んでいる街でいちばん有名な「イチョウまんじゅう」の箱を折りました。

流れ作業です。最初にのぶいっちゃんと洋子がタテ折りだけして、次にひとはるちゃんと文枝がヨコ折りして、そこから回されてきたA4くらいのイチョウの絵が描かれたリサイクルペーパーを、僕と吉本公平君の2人がもういっぺんタテヨコきれいに折り直して化粧箱に組み立てます。

朝9時からお昼休みをはさんで午後5時までそればっかりやってる。やらされてる。

僕はとても不器用な人間なおですが、それでも毎日毎日やっているうちにだんだん上手になってきましたが、僕は結局なにをやっているんだろう。それが全然わからない。

朝から晩まで箱を折り続けているので、それでとても疲れます。

働くことは疲れることです。僕はもう働きたくありません。働くことは嫌になりました。

働くことが好きで上手な人だけ働いてください。


♪新宿の天丼てんやで五〇〇円の天丼食らうアメリカ人カプル 茫洋

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文化学園服飾博物館で「世界の更紗」展を見る

2010-07-26 10:42:33 | Weblog


茫洋物見遊山記第35回&ふぁっちょん幻論第60回


更紗と聞けば、♪スカンポ、スカンポ、ジャワ更紗という歌を遠い日にどこかで聞いたことを反射的に思い出します。

調べてみると北原白秋作詞、山田耕作作曲の「酸模の咲く頃」という小学唱歌でした。正式には、次のような素敵な歌だったのでここで全国のよい子の皆さんとご一緒にのどちんこを全開しながら大きな声で合唱してみたいと存じます。

♪土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする 
僕ら小学1年生 今朝も通って また戻る 
スカンポスカンポ川のふち 
夏が来た来た ドレミファソ

みなさん、いかがでしたか。ちゃんと歌えましたか。とってもいい歌ですね。
特に「昼は蛍がねんねする」というところと、最後の「夏が来た来たドレミファソ」というコーダはあーだこーだを許さないとてもチャーミングなもの。昨今の、歌詞が聞こえない、出鱈目英語入りのあほばかポップスなど足元にも及ばぬ白秋&耕作ゴールデンコンビの至高の境地でしたね。

私はこのスカンポソングをハミングしながら楽しく「世界の更紗」展を見物しました。展覧会のチラシによれば、更紗とは「主に木綿の布に手描きや型を使って文様をあらわしたもの」を指すそうですが、織りでなくなく染めで文様を作るところがポイントです。

原産国はインドですが、たちまちジャワ(インドネシア)近辺に飛び火し、ここから17世紀の大航海時代の東インド会社の貿易ルートを経由して、東は中国、日本、西はヨーロッパ、ロシア、中東、アフリカまでほぼ全世界に伝播していったようです。

それにしても同じ文様をアレンジしながらジャワ更紗、ペルシア更紗、アフリカ更紗、フランス更紗、日本更紗のおそろしく微妙で多彩な差異よ! ここに統合を夢見つつもけっして単一化されざる世界文化の一典型があるようにも思われます。

なおこの興味深い展覧会は新宿の文化学園服飾博物館にて9月25日まで開催されています。


♪ジャワ更紗サラサはスカンポの柄に似て 茫洋
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由比ヶ浜海水浴場にて

2010-07-25 08:21:19 | Weblog


バガテルop128

今日も朝から猛烈な暑さです。午後の遅い時間に、例によって家族3人で、今年3回目の海水浴に出かけました。

由比ヶ浜の海岸は黄色い旗が立っていました。それほど波が高くないのにどうしてだろうと思っていたら、中央監視所からアナウンスがありました。
「今日は雷警戒警報が出ているので遊泳注意になっています。あまり沖には出ないようにしてください。それから海岸では決まった場所以外での喫煙はやめましょう」

そういえば今年の4月から神奈川県の喫煙条例が施行されたので、こういう放送をしているのでしょう。従来から海岸でプカプカ煙草を飲む連中には頭に来ていたので、この規制は大賛成ですが、ライフガードの人たちは例年にも増して大忙し。去年は大波で若い学生を溺死させたのですが、今年は海に加えて陸地でも目を光らせなければならなくなりました。

私たちはいつものようにライフガードの人たちがたむろしている監視所のすぐそばに陣取りました。これなら泳げない息子が浮輪で遠くまで行ってもすぐに助けてもらえます。

息子はもうとっくに星条旗の派手なデザインの浮輪に乗って波間にゆらゆら浮かんでいます。私も海に入りました。先日の花火大会のせいでしょうか、海水が濁って少しゴミがういています。(花火大会の後にはトラック何台分もの物凄いゴミが出て、毎年市の職員やボランテイアが総動員で片付けるのですが、大変な重労働だそうです。)

しばらく進むと次第にきれいになって中指くらいの大きさの魚がたくさん気持ちよさそうに泳いでいます。これを佃煮にしたらさぞやおいしいだろう、と思って両手ですくおうとしたのですがそうは簡単に問屋が卸さないのでした。

辺りを見回すと男女のカップルと家族連れが半々くらいでしょうか。みんな思い思いに楽しく遊んでいます。今からざっと700年前の和田の合戦で討ち死にした若武者たちの骨がおよそ5メートルの深さに眠っている砂浜の上では、褐色の肌の筋骨たくましいアフリカ人の青年が若い女性にフランス語で声を掛け、あちらではいかにも色男風のイタリア人が長身のモデル風の日本人女性を英語でくどいていますが、これまたそうは簡単になびいてはくれないのは北条氏の陰謀に斃れた武士達の怨念ゆえであることを、彼らは永久に理解できないでしょう。

私が海水浴に来るのは海で泳ぐためです。太古私の祖先が生まれた海に肌近く接し、海と風の声を聴きながら静かに物思いにふけるためですが、その大いなるさまたげになるのが海の家からの騒音。DJだかあほだらミュージックだか知らないがアルコールをあおりながら傍若無人に踊って叫んで騒音をまき散らして喜んでいる破廉恥漢々はどこか無人の山奥か都会のビルの地下室に直行してほしいものです。

♪佃煮にして食べたき魚泳ぎけり 茫洋

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高橋源一郎著「「悪」と戦う」を読んで

2010-07-24 13:03:24 | Weblog


照る日曇る日 第359回

どうやら作者にはいわゆる「発達障碍」の子どもが身内に居るようで、その切実な個人的な体験が、偉大な「ドンキホーテ」を想起させるこの気宇壮大な哲学的ファンタジー小説を生みだしたことは間違いないようです。

作者自身を思わせる父親には3歳のランちゃんと1歳半のキイちゃんという2人の男の子がいるのですが、このキイちゃんの言葉の発達が遅れているので父親はとうぜん心配するわけですが、母親はおおように構えている。

しかし不思議なことに、ろくに言葉を発しないキイちゃんの意思を、ランちゃんだけは的確に読み取り、いわば「親をしのぐ介護者」として叡智に満ちた大人のようにふるまうのですが、ある日彼らの前に超絶的な魅力を持った少女が登場するところからこの小説の発熱と激動がはじまります。

じつはこの少女は顔容のみ奇形ですが、他の部位はまるでモデルのように非の打ちどころのない完璧な美形なのです。生まれながらに天から授かったこの悲劇に耐えてきたミアちゃんの母親は、公演の片隅で「わたしは「悪」と戦っているのです」と父親に囁く。ここまでが本作の見事なプロローグです。

ここで彼女がターゲットにしている「悪」とは、障碍という不公平を地上にばらまいた天とその障碍をネタに迫害する世間の双方です。彼女と娘のミアちゃんには彼らがこうむった不当な悪に対して抗議し、反抗し、もしかするとその正当な復讐を要求し実行する権利があるのかもしれません。

しかし彼女は、天と世間への怨嗟や異議申し立てを健気にも押し隠し、正体不明の巨悪にやむを得ず立ち向かわざるを得ない自分の孤立無援の思想を、あたかもチャイコフスキーの6番目の交響曲の最終楽章のように奏しているようです。

物語はさらに進み、作者は世界中のいたるところに、この世界とこの世界に住む人間たちの「悪」を発見します。世界も世界の創造者も、それ自体が善悪を超越した存在であるために、ミアちゃんのような犠牲者は次々に生まれ、世界の住人たちも負けじと数知れぬ犯罪を引き起こし、その悪の連鎖が、またしても無数の悪と敵意と復讐の連鎖を生みだしているのです。

これらの諸悪を必罰懲戒せんとする正義の味方・善玉ボスから強いられて、なぜか悪玉暗殺者になってしまったランちゃんのところには、これまで人類のせいで惨殺されたシロクマやゾウたちまでもが、「千人一殺」(責任者全員ではなく任意の誰かだけを殺害すること)の復讐を要求して詰めかけます。

たった3歳の男の子が、世界を破壊しようとする悪意の持ち主を、みずからの判断で見ぬき、サイレンサーでプシュッと消さなければ、これまで世界中の善意の人たちがかろうじて守ってきた平和と秩序が決定的に破壊されるという極限状態は、どこかカフカの「世界と君との戦では、君はどちらを支援するか?」という名高い設問を想起させます。

いまや悪の象徴と化した最愛のミアちゃんを、わが幼いヒーローは果たして自分の手で消せるのか? それにしても、いったいなにが悪でなにが善なのか? 悪にも正義があるように、善にも不正があるのではないだろうか? ほんとうの幸せはどこにあるのだろうか? 

かつてドストエフスキーが問い、宮沢賢治が問うたこの難問に、今一度われらが高橋源ちゃんも鋭く問いかける。これは古くて新しい普遍的な人倫小説の平成新装版と言えましょう。


世界と私との戦いではおそらく私は自分の側に立つだろう 茫洋


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ギュンター・グラス著・池内紀訳「ブリキの太鼓」を読んで

2010-07-23 07:35:05 | Weblog


照る日曇る日 第358回

現代ドイツ文学の最高峰の若書きとしてあまねく人口に膾炙する本作ですが、いったいどこがどう面白いのか理解に苦しみます。

3歳の時に地下室に転落して以来成長を拒否した主人公が故郷ダンツヒを舞台に第2次大戦の戦中戦後をアクロバチックに怪しく生き延びるピカレスクロマンにして20世紀のビルダングス浪漫、なのではありましょうが、それらのやっさもっさが著者の切実な戦争体験に基づく政治的性的ドキュメンツなのだとしたところが、それがいったいどうしたのさ。

それでも新工夫を凝らそうとする著者は、主人公の言動を、「オスカル」と「ぼく」に2分化して描写しようとしているのですが、ではこの3人称と1人称をどのように区分けし、どのように統合しようとしているのかが読めどもてんで分からない。いかにも20代の若造の考えそうなアイデア倒れに過ぎません。

もしかするとヒトラー・ユーゲントに入っていた前歴を2重人格的に複合化(ナチと非ナチの自分)しようと思いついたのかも知れませんが、このように重大な事実を著者が告白したのはようやく06年になってからのことでした。

あまり否定的なこと挙げばかりでは公平を欠くので、無理矢理面白そうなことをとりあげると、この主人公のいちばんの執着は女性のスカートの下の匂いで、祖母のそれからはじめって恋人や看護婦のその部分への異常なこだわりが随所で執拗に描写されているのはそれほど変態的でもなく、人間の本質を外貌ではなく肉体生理に求める文学者らしいフェチ嗜好として微苦笑しつつ読み飛ばすことができます。

そういえば、昔これを原作としたフォルカー・シュレンドルフの映画を見たことを思い出しましたが、オスカルの太鼓連打で教会の窓ガラスが粉砕される光景がことのほか印象的で、あのような武器を欲しいと今でも思わないでもありません。



一斉の太鼓連打で宿敵打倒恩敵退散 茫洋
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グラモフォン盤「シューマン全集」を聴いて

2010-07-22 06:49:32 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第152夜

ショパンと並んで今年はロベルト・シューマン(1810-1856)の生誕200年記念に当たるためにこのような大きなコレクションが続々発売されています。

交響曲はガーディナーと革命浪漫交響楽団の演奏ですが、ロマン派を古楽器で演奏するのは邪道につきゼロ評価となりますが、フィッシャア・デイスカウとエッシェンバッハを主力とする歌曲大全集が抜群に面白く、シューベルトと同様やはりロベルトは歌の詩人であることがよく理解されます。シューベルトもシューマンも歌曲においてもっとも重要なな仕事ができたわけで、その他のジャンルの作品は別になくても構わないと放言したら本気で怒るひともいるのでせうね。

時折エディト・マチスの可憐な声も入ってくるのですが、バリトンとソプラノに寄り添うエッシェンバッハのピアノ演奏の見事なこと。全35枚のうちでこの9枚の歌曲集がもっとも聴きごたえがありました。

ともかく1枚258円の廉価版なのであとはおまけのつもりで聴きましたが、室内楽のハーゲンカルテット、私のひいきのボーザールトリオ、クレメル&アルゲリッチも悪かろうはずがありません。ピアノの名曲の多くをポリーニが弾いていますが、牛刀割鶏の嫌いあり。シューマンの含蓄ある音楽をどうしてこのような神経衰弱患者が弾き急ぐのでしょうか。この名人は(ミケランジェリと同じく)音楽に無知なピアノの技術屋にすぎず、ショパンだろうがベートーヴェンだろうがシューマンだろうが同じことで、ただただ物理的な音響の連鎖を切ったり張ったりして粋がっている。

げいじゅつなんて昔も今もの芸、サーカスの曲芸、いかがわしい小手先の魔術とおんなじなんだから、それすらわかろうとしないなまじインテリゲンチャンな藝術家がいちばんハタ迷惑なのです。この男はもいちど生まれ直してきてバックハウスやコルトーやサンソン・フランソワやホロビッツ、ポゴレッチ、サイなどのアホなところをたっぷりと外部注入しないと、世の心ある人は聴いてくれんだろう。いまだまされているのは耳無芳一的トウシロウばかりだよ。

音響には強いが音楽とは無縁の世界でボケることさえできずに醜態をさらしているポリーニと比べると明らかにシューマンらしい音を並べていたのが意外にもアシュケナージ。どこのオケを振っても下らない演奏しかできない指揮など一日も早くやめてもっとピアノの録音をいれてほしいと思いました。(これはエッシェンバッハ、バレンボイムも同様)。

シューマンの象徴の森深く分けて入る 茫洋

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ウナギの大回遊

2010-07-21 08:04:44 | Weblog


バガテルop127

謹んで暑中お見舞い申し上げます。

こんなに暑いと自分の脳力ではなんにも考えられないので、本日は以前日経の夕刊コラムで国際高等研究所の尾池和夫さんが東大大気海洋研究所の西田睦所長のお話にもとづいて書かれていた「ニホンウナギの記憶」からほとんどそのまま引用したいと存じます。

四万十川など西南日本の河川には天然ウナギが棲息しています。ウナギの稚魚は冬の川を上ってクロコになり、黄鰻になって数年を過ごし、銀鰻となって川を下るのですが、さてそこからどこへ行って産卵するのでしょう?

この長年の疑問が、やっと06年になって解決しました。ニホンウナギの産卵地がマリアナ諸島の北西約370キロにある北緯14度、東経143度付近の「スルガ海山」であることが、東大海洋研究所の塚本勝巳さんたちによって特定されたのです。ここで生まれたニホンウナギは北赤道海流と黒潮に乗って3000kmの大回遊をして日本にやって来るのです。

ウナギの先祖が地球に登場したのが2000万年前だとすると、その頃の西南日本の地は今よりももっと南にあり、その近くにマリアナ諸島がありました。またちょうどその頃インド大陸とアジアの衝突でヒマラヤが隆起し始め、その隆起した山地から豊かな栄養が大河によって海に運ばれるようになりました。安全な深海で生まれたウナギは近くの栄養のある浅い海に来て、その近くの陸地の川に上って成長したのでした。

地球のプレートは1年に5センチというゆっくりした速度で動いていますが、2000万年あれば1000キロ動くことになります。この結果マリアナ諸島は東へ、西南日本は北へ大きく移動して現在の位置に来たのですが、驚いたことにニホンウナギは、遠い先祖の記憶をたどって大回遊しながら相変わらず産卵を続けているのです。


野に山にノウゼンカズラの花咲けば狂乱の夏はいまぞ来にけり 茫洋


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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第11回

2010-07-20 08:17:07 | Weblog
bowyow megalomania theater vol.1

小さな滝から冷たそうな水が次々に流れ落ちて、小さな滝つぼをつくっています。

滝つぼの上にももみじ色をしたもみじがいっぱいたまっていて、ほとんど水が見えないくらいでした。その、もみじの葉っぱを見ていてもぜんぜんこころが静まらないので、僕は石をつかんで滝つぼに投げ入れました。

でも、滝つぼは、ぼちゃんといったまま知らん顔をしています。
僕は頭にきて、ふたつ、みっつと石を投げ入れました。

ふと気がつくと、散歩にやって来た滝沢のおじいさんと秋田犬のシロが、滝の手前のところでじっと僕の方を見ています。変な目つきで見ています。

それで、僕はシロに咬みつかれるとヤバイと思って、いっさんに家の方まで駆けて帰りました。逃げて帰りました。

帰りましたけど気持ちは炭のように真っ暗で、身体のすみずみまでなにか膿のようなタンのようなものでぬりたくられているような気がしました。汚されているように感じました。

僕は、これからどうなっていくんだろう? 自分で自分のことが、分からない。

少し怖くなりました。


♪大股を開いてメール打つガンガン娘は災いなるかな 茫洋

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梟が鳴く森で 第2部たたかい 第10回

2010-07-19 07:07:20 | Weblog


bowyow megalomania theater vol.1



10月26日 雨

白いつぶつぶを混ぜた、変な雨が、ざざあ、ざざあ、と降って来ました。

僕は、じんせいがいやになってきました。すべてのことが、いやになってきました。星の子学園が、いやになってきました。

僕は、僕のことも、弟のことも、お父さんのことも、ムクのことも、みんなみんな、いやになってきました。僕なんか、生まれてこなかったほうがよかったんだ、と考えたとたんに、自分で自分が悲しくなってしまいました。

なにもかもいやになってしまったけれど、だからといって特になにかすることを思いつかなかったので、近所の金沢八景へ抜ける切り通しのところへ行きました。


♪しかすがにてふ枕詞思い出したりシガスカオの歌ききて 茫洋

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モンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」を聴いて

2010-07-18 07:50:02 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第151夜

引き続きモンテヴェルディの音楽を聴いています。

1989年5月にモンテヴェルディゆかりのヴェネツイアのサンマルコ大聖堂で、エリオット・ガーディナーがイングリッシュバロック・ソロイスツと創立25周年を迎えたモンテヴェルディ合唱団を率いて録画したライブ公演のビデオです。

1610年に作曲されときの教皇パウロ6世に献呈されたこの曲は、主に聖書の詩編を題材として晩課、讃歌などで構成されています。すでに1607年には最初のオペラ「オルフェオ」を完成させていたとはいえ、これは旧態依然たる宗教音楽とはいちじるしく様相を異にし、突如コンチエルト、ソナタなど挿入され、楽曲の形式のみならずその多種多様な曲想が現代に生きるわれわれの耳目を楽しませてくれるのですが、こんな規格に縛られない自由奔放な音楽をつくってよくもローマ教会から破門されなかったものです。

とりわけ聖母マリアに捧げられたコンチエルトやソナタの歌詞や音楽はとうていルネサンス、バロックの規範に合致しているとは考えられず、ソロも合唱もほとんどロマン派の語法で口々に生きるよろこびを歌っているように感じられます。

後年革命浪漫管弦楽団を組織してベルリオーズの「幻想」やベートーヴェンの交響曲を演奏するようになったガーディナーの演奏と音楽観には否定的な私ですが、このモンテヴェルディには素直に耳を傾けることができました。

♪おたま食らうヤマカガシ殺したるおぞましさ 茫洋

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林望訳「謹訳源氏物語三」を読んで

2010-07-17 09:34:30 | Weblog


照る日曇る日 第357回

第1巻がこの間出たと思ったら、もう第3巻でちょっと民主党の小沢を思わせる政敵右大臣の愛娘朧月夜の尚侍をまたしてもやってしまった源氏は、そりゃあんまりだ、当然の酬いだという訳で哀れ須磨に流されてしまいますが自業自得身から出た錆びの都落ちをおいおい泣いたり侘びたりするうちにまたしても都合よく明石の君を発見して奥方の紫の上を気にはするものの結局この鄙には稀な美女もおのがものにして玉のような女児をあげるのですがこういういいかげんうんざりするようなワンパターン的色好みすけこまし譚も一種貴種流離譚のようなお伽噺もすべて超インテリオバハン紫式部の空想にすぎず一世一代の色男を自分の都合のいいように手のひらの上でポンポコリンさせて色即是空させているだけのことじゃねえかと思えばなんだか物語の操り人のその怪しい手つきがほのみえてような気がしていささか興ざめにもなるのですがとはいえ平安時代は藤原道長が位人臣を極めこの世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えたご時世にあって藤原氏以外の貴族たちは立身出世の道を断たれて書画骨董文芸淫美女色の脇道に深入りするしか生きるすべがなかった時代ですからいくら道長から寝ようと誘われ自作の第一読者を自任されていたとしても所詮式部は藤原一族のはしくれですらない彼女はアンチ藤原氏一同を代表して彼らの見果てぬ夢である幻想の源氏の御代を描いてその世界初世界最大最高の物語のあちらこちらにおいて道長一派を皇室を危うくする権謀術数家や権力にこびへつらう滑稽な道化師女の性を利用し踏みつけにしてどこまでも私利私欲を追い求めようとする小市民として点描することによってせめてもの気晴らし口散じをすることだけが関の山だったといえばいえるのでしょうが結果的にその小さな嫌がらせないしささやかな政治的報復行為がこの史上空前の大ロマンの多種多様な副主人公たちの光彩陸離たる大活躍につながって物語の細部を異常なまでに充実させあまつさえそこに読者の視線が集中するという思いがけない結果を生んだために恐らくは致命的欠陥になりかねなかった主人公光源氏のあほばかウドの大木的キャラの肥大化および下半身爆弾常時突貫小僧的単細胞肉体性と諸行無常的空虚感の後景化に見事に成功したといえそうです。


♪藤原の摂関政治にあぶれたる貴族が励みしセックスと歌 茫洋
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