あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

上野国立科学館にて「南方熊楠展」をみて

2018-01-31 16:42:09 | Weblog


蝶人物見遊山記第270回



上野にて「100年早かった智の人」という副題がついた本展を見物して参りました。

昔は美術関係の展覧会にキャッチフレーズなんてつけなかったと思うけど、「映画から100年遅れて」、こういうコピーライターに頼んだような惹句を張るつけるんだなあ。嫌な世の中になったもんだ。

それはともかく、上野公園の夜は無人だったし、シニアの私は無料だったし、会場内で物凄くいい音がするチェロとピアノのデュオの演奏が聴けたし、なんというても南方展の内容が素晴らしかったので、久しぶりに心豊かな気分になれた金曜の夜でした。

「ミナカタクマグス」という妙な名前の妙な人物の名前が気になったのは、漱石と同じ頃に(もっと前から、もっと後まで)ロンドンで(官費留学じゃなくて)私費遊学していて、一方は神経衰弱で消耗していたのに、他方は元気溌剌、大英博物館に入り浸って時々職員と喧嘩したりしていたと知ったから。

漢英独仏西羅の言語を自在に使いこなし、英国のみならず米国、外国人にコンプレクスを持っていなかった熊楠選手の逞しさは、軟弱な漱石と大違いだなあ、と思ったのがはじまりです。

それで平凡社の全集を次々に読んだんだけど、「こりゃ何者なんじゃ!」とびっくり仰天。特に凄いと思ったのが彼の主著「十二支考」でした。

本展では会場の終わりの所で、その「虎」の巻の全体構造図と腹稿(ヴァージョン)が展示されていましたが、ともかく底抜けの博覧強記、終わりなき百学連環とはこういう人だと完全に脱帽しました。「知の巨人」という大仰なキャッチフレーズも、この人に限ってはまんざら嘘ではないわいなあ。

この人には古今東西の森羅万象をおのが脳裏に刷り込みたいという猛烈な欲望があって、それは彼が図書館や書斎で超極細字で書写した無数の「抜き書き本」(未刊行取材手帖)を見れば一目瞭然であります。

熊楠の知的好奇心は、博物学、民俗学、考古学、人類学、科学史、宗教学など知の百科に跨りますが、中でも隠花植物、菌類、地衣類、藻類に興味を持ち、死ぬまで手当たり次第に標本を作っては模写、記録、整理、研究に没頭しました。そんな彼が明治政府による神社合祀に反対したのも理の当然でしょう。

展覧会を一巡した私は、「万巻の書物を読み、万里を歩くべし」という中国明代の書家、董其昌の処世訓は彼のためにあったのではないか、と思いましたが、彼自身はマラルメのように「万巻の書は読まれたり」というようなもっともらしい境地に達したことは、74年の生涯でただ一度もなかったことでしょう。

南方熊楠にとって、知ること、それもすべてを知ること、知りつくすことこそ、この世で生きることそのものだったのです。


   大空の隅から隅まで羊雲どこかで誰かが息を引き取る 蝶人


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かがくいひろし作「だるまさんが」「だるまさんの」を読んで

2018-01-30 10:41:43 | Weblog


照る日曇る日 第1032、1033回



現代によみがえった「だるま」さんがごろごろごろごろ大活躍です。

「だるま」という存在をゼロから見直し、あらゆる固定観念からときはなって自分勝手にそれと戯れていると、まったく新鮮なだるまさんが誕生してしまった。

しかも絵本と物語の定理にちゃんと乗っかっている。

これぞかがく流の方法的制覇だな。




仏蘭西の土産にブレンデルのLP買うてきてくれた酒井君どうしているか 蝶人




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都美術館で「ブリューゲル展」をみて

2018-01-29 13:56:11 | Weblog


蝶人物見遊山記第269回



なんでもビリューゲル一族は先祖代々絵描きを輩出してきたようで、この展覧会では親子孫曾孫4代にわたる作品を、同時代の画家を含めて、鑑賞することができます。

そういえばつい最近同じ美術館で「バベルの塔」を見物して感嘆したけれど、これは一族の元祖にあたるピーテル・ブリューゲル1世(1525/30-1569)の作品だったらしい。子のピーテル2世(1564-1637/38)とかヤン・ブリューゲル1世(1568-1625)とか紛らわしいが、その作風は微細に観察すれば微妙な違いがあるものの、小さな油彩やエッチングをちょっと離れた所から眺めると、まあそのお、だいたいおんなじような手法で描かれたものであるというても大過ない。ちと我が国の運慶工房に似たシステムで大量に共同生産されたのではなかろうか。

題材もおおむね中世フランドルの教会付きの牧歌的な風景や村人の人物画が多く、ヤン1世の「ノアの箱舟」はあっても、ピーテル1世の「バベルの塔」(マールテイン・クレーフェという人の小品はあったけれど)のような異色の大作はないから、数多くのちっこい作品を見るほどに退屈してくる。というか、両目から浸透してくる中世の憂愁と倦怠に全身が侵されてなんだかぐったり疲れてくる。宗教画はもちちろんだが、描かれた森羅万象の内奥に神がありありと偏在している。

超個人的な感想ですが、やっぱキリスト教の一党支配は良くないね。ギロシア&ローマの百神繚乱のほうが芸術文化も豊穣だったね。こういう一族のお絵描きはなんかみみっちくていかけないね。というやさぐれた気分になってきたら、ありました、ありました、私の大好きな蝶の絵が。ヤンファンケッセル1世の2枚の写実的な昆虫画は1659年の制作でわが若冲のほぼ100年前の作品だが、さすがに西洋だけあってより写実的である。

中世神学の呪縛からようやくにして解き放たれつつあった余の脳髄は、最後の最後の作品ピーテル・ブリューゲル2世描く「野外の婚礼の踊り」で完全に覚醒しました。おいそこの君、ダンスしながらこんなおっきな股袋(コッドピース)をぶらんぶらんさせて、恥ずかしくないのか。

なお本展は来る4月1日までぶらんぶらん開催ちう。



  村男踊れば股袋ぶうらぶら村の娘はちらちら見てる 蝶人


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伊藤比呂美新訳「説教節」を読んでから半蔵門で通し狂言「世界花小栗判官」をみる

2018-01-28 12:53:21 | Weblog


蝶人物見遊山記第268回&照る日曇る日 第1031回



「説教節」というても「しんとく丸」ではのうて「小栗判官」のほうですが、今回の通し狂言では中世の語り物「小栗判官」を題材にした「姫競双葉絵草紙」に尾上菊五郎がうまく手を加え、いかにも初春にふさわしい波乱万丈の恋物語に仕立て上げていっときも飽かせません。

思い返せば去年の今頃、所も同じ半蔵門に河竹黙阿弥の生誕200年記念の通し狂言「小春穏沖津白波」が上演され、大詰めの「鎌倉佐助稲荷鳥居前」で大立ち回りをみせて圧倒した尾上菊五郎。

今年もいちおう主役の盗賊風間八郎(こと新田義貞)で気を吐いてはいるものの、演技の方はもっぱら小栗判官兼氏役の菊之助にまかせ、この長大な江戸オペラを後に回って見事にプロデュースしておりました。

二条大納言の息子が横山一族の娘に勝手に手を出したために、10人の部下と共に毒殺されるが、息子だけが地獄から蘇って餓鬼阿弥となり、諸国を放浪するうちに熊野権現の助力で復讐を遂げ、ついにハッピーエンデイングを迎えるという語り物「小栗判官」のお噺は、室町時代の足利vs新田残党の権力争いに換骨奪胎されていますが、横山大膳が差し向けた人喰い馬「鬼鹿毛」を鮮やかに乗りこなすところなどはそのまま生かされて、絶大な劇的効果を発揮しております。

全10場が春夏秋冬の四幕に区切られているのもおつな趣向で、とりわけ二幕目近江堅田浦の夏の舞台美術、それから菊之助の音吐朗々たる素直なテノールが素晴らしい。



補追 
○文芸担当理事大和田 文雄氏による作品解説戯文の出来栄えが見事なりき。

○先日二代目白鸚がインタビューで「張り上げなくても三階席まで届く声を目指したい」などと抜かしておったが、10年早い。君の喉はもともと非力なのだから、張り上げなくては私の指定席12列60番まで届くわけがないずら。


    楽しみは東京駅に来るたびに迷いて求む名物駅弁 蝶人

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鏑木清方記念美術館の「鏑木清方幻想と文学」展をみて

2018-01-27 11:35:28 | Weblog


蝶人物見遊山記 第267回&鎌倉ちょっと不思議な物語第395回


清方と明治大正の文学者とのかかわりをテーマにした今回の展示はなかなか面白い。とくに彼が愛読し、敬愛した泉鏡花との出会いはよほど心に残ったようで、後年になってそのときの緊張感あふれる出会いのスケッチを残しています。

一葉、天外との出会いも印象的な作品を生んだが、尾崎紅葉の「金色夜叉續編」の挿絵が圧巻。当時の拙劣な印刷技術の極限に挑むように、発色の細部に至るまで細かな駄目だしをしているのが印象的。芸術家というより職人であった作家の仕事ぶりの一端がうかがえまする。

なお本展は来る2月25日まで鎌倉小町横道入るの同館にて開催ちう。


  監督も役者もスタッフもことごとくこの世を去りし映画を観たり 蝶人
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2018年版「誰もが泣いて喜ぶ冠婚葬祭その他諸々スピーチ集」第23回

2018-01-26 11:41:58 | Weblog


蝶人狂言綺語輯&バガテル―そんな私のここだけの話op.283


○ 新社屋落成式/社長のあいさつ

本日は山川ガリバー株式会社の新社屋の落成式にご出席賜りましてありがたく厚くお礼申し上げます。私は、このほど代表取締役社長に就任いたしました山川啓一郎と申します。どうぞよろしくお見知りおきのほどお願いいたします。

*1弊社は創業以来日本有数の化学メーカーとして堅実な成長を遂げてまいりましたが、昨今の科学技術のグローバルな発展に対応すべく、昨年米国ベンチャー企業の雄ガリバー社との技術提携に踏み切り、同社の資本参加を求めました。

*2のちほど弊社会長に就任いたしましたダニエル・ジョンソンよりも皆さまにご挨拶させて頂きますのでどうかよろしくお願い致します。

さて、このたび大星建設様の格別の御尽力のもとで2年の工期、35億の工費を投じて本日完成いたしました弊社新社屋は、通常の本社機能に加えまして最近巷で話題となっております「バイオマス化学工場」を併設しております。

*3バイオマスとは、生ゴミや農産物、食品廃棄物、家畜の排泄物など、いわゆる生物資源の総称でありますが、弊社では、本工場にて、米国ガリバー社が所有する遺伝子組み替え微生物の開発、生産、応用技術を駆使しまして、籾殻、油かす、わら、廃木材などの植物資源を効率的に発酵させ、エチルアルコールなどの食用・工業用アルコール類を高速低コストにて生産する計画であります。

来る2019年には、わが国におけるアルコール販売の全面自由化が予定され、その時点では、アルコールを自動車燃料に混入する新たなマーケットが、欧米を皮切りにグローバルに形成されていると思われます。

弊社の新社屋と新規バイオマス工場はそうした新規市場に明確にターゲットを定めたものでございます。来年度は総額100億円を投入し、中国の上海にも弊社支店とバイオマス化学工場を新設しまして、石油石炭、原子力に替わる新規エネルギー源を鋭意開発してゆく所存です。

本日ご列席の皆さまには釈迦に説法でございますが、*4最近の世界の科学技術の最先端は、20世紀以来のIT情報科学にバイオテクノロジーを融合したバイオインフォマティックスに向かっております。

そして、この生命情報科学の進化とともに展開される弊社の事業活動が、ポスト平成時代のの人々の暮らしをより豊かに、より創造的なものに変革することができたならこれほど喜ばしいことはございません。

どうか今後とも宜しくご指導ご鞭撻を賜りますようお願いいたしまして、私のご挨拶にかえさせていただきます。

○ アドバイス
* 1過酷な国際競争の荒波の中で、勝組みをめざすハイテクバイオベンチャー企業の新社屋落成である。
* 2海外企業と接触したときにはじめて国内企業のグローバル化が生じる。企業と企業の間に「国」の存在が微妙に介在するのである。この会社にとって国際提携先の会長とのコミュニケーションを円滑にはかることもスピーチの重要な目的である。
* 3廃棄物から多様な物質を作り出すバイオマス工場は、いうならばゴミから宝を再生産する魔法の打ち出の小槌として世界的に注目を集めている。
* 4 山川社長が指摘したITとバイオインフォマティックスにナノテクノロジーを加えた三位一体型で、21世紀の技術は急速な進展を遂げつつある。



 世の中に女体よりやわらかきものはなしああやわらかきものやわらかきもの 蝶人

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大辻隆弘著「新版・子規への遡行」を読んで

2018-01-25 11:40:06 | Weblog

照る日曇る日 第1030回



短歌の評論集などほとんど読んだことがなかったのですが、タイトルに魅せられて本書を手に取りました。

子規からアララギ、そして現在にいたる短歌の歴史を、時系列を逆にさかのぼって跡付ける、俯瞰的な書き下ろしの概論を期待していたのですが、そういう体系的なものではなく、私だけが知らない有名歌人への言及や多種多様な時論に混ざっての飛び石的遡行だったのがちょっと残念でした。

しかし短歌における「私性」の問題であるとか、岡井隆がどのようにしてアララギ派の先輩たちの文体との差別化を図ったか、塚本邦雄の前衛短歌において57577の定型がどのように「疎外」されているか、という具体的な分析、佐藤佐太郎の短歌の「あてどなさ」は何に起因しているか、前川佐美雄の戦争責任問題、萩原朔太郎がどういう道行で歌人から詩人に転換したか、等々の著者による論考は、問題提起の鋭さと結論までの明晰な論理展開の切れ味が抜群で、じつに読み応えがありました。

子規に戻ると、驚いたのは彼がはじめは「言文一致」に賛同していなかったということ。山田美妙のように文尾に「です/ます」を使えば、作者と同等もしくはそれ以下の階級の士人を、円朝を真似した二葉亭四迷だと聴衆に相対した落語の語り口になってしまう。文語が備えていたあらゆる人々に対するニュートラル性を失う、というのです。

その後子規は結局「言文一致」体を採用するにいたるのですが、その具体的な経緯についても知りたいと思ったことでした。

なおこの新版の巻末には、著者が選んだ子規の短歌150首がつけられていて久しぶりに通読したのですが、驚いたことにいつものような感動が湧き起ってこなかったことに一抹の寂しさを感じました。

どんな革新的な歌も、時代を超然と貫きながら光輝あまねくすることはやはり難しいのでしょうね。


  神社から自宅までが間に合わずパンツに漏れたぞビチビチウンコ 蝶人

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由良川狂詩曲~連載第20回

2018-01-24 11:38:27 | Weblog


第7章 由良川漁族大戦争~僕らは若鮎攻撃隊




翌朝、ケンちゃんは、朝ごはんに山崎パンのトーストに生協のイチゴジャムをてんこ盛りに塗りつけたやつを1枚と、ネスカフェ・ゴールドブレンドの熱いのを2杯おいしくいただくと、おじいちゃん、おばあちゃんに「ごちそうさま」を言って、自転車を軽くひとまたぎ。あっという間に由良川河畔へとやってきました。

川には、一面の朝霧が立ち込めています。そこへ、寺山の反対側にそびえる三根山からまっすぐに立ちあがった5月の朝の太陽が、由良川を一望しながら、慈愛に満ちた光を放ちました。

ところどころうす雲をぽっかり浮かべた大空に、一羽のひばりが、ギザギザの螺旋状の軌道を残して舞い上がり、しばらくお神酒に酔っ払ったような歌を唄っていましたが、すぐに、青空のどこかで自分を見失ってしまったようでした。

素晴らしい朝です。
次第に温度が上がってくるようでした。

ケンちゃんは、由良川漁業協同組合の会員でもあるおじいちゃんから借りた漁網を自転車の後ろから取り出すと、それを井堰の上流15メートルの所に仕掛けました。
由良川の全幅700メートルにわたって、人の眼にも、魚の眼にも、それとほとんど識別不可能な漁網を、おじいちゃんに教わった通りに、端から端までていねいに張り巡らしました。
普通のネットだと破れる恐れがあるので、特別素材を二重にバック・コーティングしてある超ハイテク製品です。

そして、左岸に1本だけ立っている大きな柳の木の根っこのところにポッカリ口をあけている、例の千畳敷の大広間に通じる秘密の入り口の手前のところだけは、わずかながらネットを掛けない隙間をつくっておきました。
つまり、左岸の隅っこのわずか30センチを除いて、由良川は完全に封鎖された、というわけです。

それが終わると、ケンちゃんは、柳の木の下の木陰に腰をおろして、おばあちゃんが特別につくってくれた沢庵入りの特大おにぎりを、おいしそうに平らげました。
そして掌にねばつくご飯を、川の水でごしごし洗っていると、メダカが3匹寄ってきて、ご飯粒をツンツンつつきながら言いました。

「ケンちゃん、ケンちゃん、そろそろ1時だよ。戦闘開始の時間だよ。さっきから若鮎行動隊がスタンバッてるよ」

――よおーし。

気合いを入れながら、ケンちゃんは、寺山を背中にして西郷どんのような格好で、すっくと立ち上がりました。
ケンちゃんは上半身はもちろん裸ですが、半ズボンの腰のところにベルトをつけ、ベルトにはてらこ先祖伝来の少しさびた脇差をはさんでいます。

気合いもろともその短刀を腰からエイヤッと抜きはなって口にくわえ、一瞬川面ににぶい光をきらめかせると、ケンちゃんは、柳の根方から、一気に由良川に踊りこみました。
ケンちゃんは、口に短刀をくわえたまま、由良川の中央最深部めざして、ぐんぐん泳いでゆきます。

まもなく綾部大橋の下にさしかかります。
橋の下には、由良川でいちばん速い魚、すなわち50匹のアユが、全員うすいピンクのたすきを掛けてケンちゃんを待ち受けていました。

みなさま、覚えておられるでしょうか。これこそ、去る4月23日未明、全由良川防衛軍最高司令官に就任したウナギのQ太郎が編成した、海軍特別攻撃隊でした。

昨年の冬、丹後由良の海で越冬し、ふたたび由良川にさかのぼって来たばかりの頼もしいアユたちが、ケンちゃんの日焼けした顔を見ると一斉に胸ヒレを4回、背ビレを3回、尻ヒレを2回、そして尾ヒレを1回振って歓迎しました。
これが由良川の魚たちの正式の挨拶の作法なのです。

知育・体育・徳育の3つのポイントで厳重に審査された、由良川史上最強の若鮎特別攻撃隊は、ケンちゃんを三角形の頂点にして、見事なピラミッド梯団を組みながら、由良川を毎時13ノットで遡行してゆきます。

ドボン、ザボン、ガボン
僕らは若鮎攻撃隊

死地に乗り込む切り込み隊
命知らずの若者さ

ドボン、ザボン、ガボン
僕らは若鮎攻撃隊

邪魔だてする奴はぶっ殺す
ナサケ知らずの若鮎さ

みんなで唄いながら進んでいくと、やがて由良川は急に深くなり、きのうライギョたちが、ホルスタインを喰い荒していた地点にさしかかりました。

ここが「魔のバーミューダ・トライアングル」と呼ばれる怪しい一帯です。
水は濁りに濁り、前方は、ほとんど見通しがつきません。


                             来月につづく

  日々何をしているんだと聞かれれば自宅で静養していると答える 蝶人


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岩波明著「発達障害」を読んで

2018-01-23 09:39:36 | Weblog


照る日曇る日 第1029回


磯野カツオ
なんだか知らないけど「発達障害」は流行語になって、それが生れながらの障害であるにもかかわらず、「私この頃「発達障害」になったみたい」とか堂々と「告白」する人も増えたみたいね。

サザエさん
この本でも一方ではそうした誤解を諌めながら、他方では大村益次郎とか、アンデルセン、ルイス・キャロルなどが「発達障害」ではなかったかと、確証もないのに勝手に憶測して「発達障害ブーム」の過熱に油を注いでいる。これでもまともな学者なのかしら。

ワカメ
「「発達障害」とはアスペルガー症候群を中心とする自閉症スペクトラム障害、注意欠如多動性障害などを獏然と指していることが多い。」なんて書いてあるけど、全然わかんない。

フネ
「発達障害」を、ガンや風邪と同じような「病気」と呼んでいるのも不可解。「自閉症」の原因は先天的な脳の機能障害と考えられているのに、東大の精神科ではそんなことも教えていないのかしら。

タマ
今から40年ほど前、「あなたの息子さんを自閉症にしたのはお父さん、お母さんお二人の育て方のせいです」となんの根拠もなしに決めつけたのが、著者の先輩にあたる東大精神科の教授たちだった」と佐々木眞という人が証言しているニャア。

マスオ
「発達障害」が生れながらの障がいであり、個別の疾患ではなくてASDやADHD、精神遅滞、コミュニケーション障害などいくつかの疾患の「総称」であると明記している点は評価できるけど、そもそもこうした術語も診断基準も相も変わらずアメリカの精神医学会による「マニュアル」に全面的におんぶにだっこになっているのが気に喰わないね。

カツオ
例えば邦語の「自閉症スペクトラム障害」ってAutism Spectrum Disorder Attention 、「注意欠如多動性障害」は、Deficit and Hyperactivity Disorder の翻訳で、それぞれASD、ADHDと略称されるんだって。

波平
現在は2013年に発表された第5版(DSM-5)が天下の副将軍の印籠みたいなお墨付きになっていて、誰も疑わず本書もそれに全面的に依拠しているようだ。本家本元のお墨付きが変われば、この国の精神医学の基準もころころ変わる。
今しばらくは有効だとしても、この本の内容がいつまでもつかは著者だって分からなんのじゃないか。

サザエ
「発達障害」なんていう漠然としすぎていて訳の分からない名前をいったい誰がつけたのかと思っていたら、やっぱりアメリカさんなのね。この本によると1963年にアメリカの法律でDevelopmental Disabilityという用語が初めて使われたみたいで、「発達障害」ってその翻訳なのね。なんだか馬鹿みたい。

マスオ
トランプが風邪をひくと、安倍蚤糞がクシャミする、じゃないけど、政治経済社会技術だけじゃなくて、精神医学などの学問もみんな先進国アメリカに右に倣え、なんだね。ちょっとおかしいんじゃない。

タマ
フニャア。


     初雪は大雪となりて白一色されど隠せぬ殿の大罪 蝶人
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新潮版「源氏物語七」を読んで

2018-01-22 11:07:29 | Weblog


照る日曇る日 第1028回



光源氏死してのちおそらく紫式部はこの物語は放擲したいと願ったのでしょうが、パトロンの藤原道長が「もそっと話を長引かせよ。ここで止めたら一条天皇が娘彰子の寝所にやってこなくなるじゃんか」というて脅迫したので、仕方なく続編を無理矢理でっちあげたのでしょう。

本巻でのメーンエベンターは、源氏の孫子の世代に当たる薫や匂宮ですが、どう見ても小物ですし、彼らにからむヒロインたち、大君、中の君、浮舟も、かつての源氏の恋人たちに比べれば一様に地味でくすんでいる。

彼らがしでかすことだって、基本的には前篇と同じですから、既視感の漂い方も半端なものではない。にもかかわらず同工異曲の随所にさまざまなバリアントを施して宇治十帖を健気に書きつづけた作家根性は、見上げたものと評すべきでせう。

それにしても薫選手は、後からそれほど後悔するのなら、どうしてせっかく大君が段取りしてくれた絶好のチャンスに、据え膳の中の君のをぱっくり食べておかなかったのでしょうか。まさに後悔先に立たず、でありますですね。

草食系のインテリゲンチャンと体育会系の肉食男匂宮との対比が鮮やかですが、これも源氏が柏木に煮え湯を飲まされた挿話の繰り返し。しかしここでは因果応報、その柏木の息子、薫が、ものの見事に復讐されているのですね。


 ベルリンフィルは名オケなれど目障りなビオラの猪八戒なんとかしてくれえ 蝶人


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渡辺松男歌集「けやき少年」を読んで

2018-01-21 10:14:17 | Weblog


照る日曇る日 第1027回




「呼びかける空」、「けやき少年」、「褒めあう位牌」の全3部からなる407首が収められている、作者のどちらかといえば初期に属する歌集です。

「呼びかける空」で、作者は空になりすまします。

口づけしつつはるかなるところ旅しておりわたしといっしょに死ぬ大空と
空とわれ結婚をして久しきなりせっくすゆせっくすまでの青空
はるかなるところより吾はおもわれて遥かなるところへ銀鈴を振る

「けやき少年」では、作者のそれまでの人生が振り返られますが、恋人との夢中の性愛がまぶしいくらい。青春真っ只中での歌唱です。

さいしょに好きと言ったのはぼくの方だから何をしたいかわかっている手
指先にきんちょうしきった耳がありさぐるなり若草のくらやみ
たやすい痛みですよと落ちてくる木の葉きょうみたびめのくながいのあと

しかし「褒めあう位牌」では作者は死のすぐそばに佇んでいるようです。

木の陰の上臈の墓にやわからく夕日さしおりは蚊が墓のくびすじ
ただの直方体ならず父の墓てんそんたかくておちつかぬなり
ぼくは墓のなかに入りて羽たたきて墓だ墓だと軽くなりたり

2010年から難病のALSと戦っているという作者の健在と健闘を心から願っています。


  フマ君に「黙れブス!」と怒鳴られし革マル女が唇を噛む 蝶人
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島田雅彦著「深読み日本文学」を読んで

2018-01-20 10:19:34 | Weblog


照る日曇る日 第1026回



この新書は、(おそらく大学での講座を基にしているのでしょうが)、「源氏物語」から「AI小説」までの本邦の文学史、というより人類の黎明期から人工知能新世紀までの文化文学を猛烈なスピードで総覧しながら、いくつもの貴重な省察を道端に放散していて、老生の日々黄昏ゆく大脳前頭葉には刺激的でした。

例えばジョージ・ルーカスの「スター・ウオーズ」がジョーザフ・キャンベルの神話学の影響を受けて、親子関係、成長、悪の誘惑、戦争、権力などの古今東西世界共通のテーマを盛り込んで製作されている、こと。

「源氏物語」は、紫式部の文才を利用して、一条天皇を中宮彰子(道長の娘)の寝室に足繁く通わせようとする道長の深謀遠慮だった、こと。

樋口一葉の小説の特徴は、長大な一文の中で頻繁複雑な人称=視点の移動を行っていささかも破綻がない、こと。

英国留学で英文、漢文、和文の3つの世界に引き裂かれて精神分裂の危機に瀕した夏目漱石を救ったのは、自分を客観的に見つめることができる「セラピーとしての」写生文だった、こと。

などの鋭い指摘が、さながら闇夜の灯台の光のように点滅して興趣が尽きませんが、最終第10章の「テクノロジーと文学――人工知能に負けない小説」の項では、思わず居ずまいを正さずにはいられませんでした。

著者は2015年に未来大学の松原仁教授がAIに製作させた星新一的短編を瞥見して、「当分は大丈夫」とたかをくくっているようですが、昨今の人工知能の進化ぶりをみると、音楽、アニメ、漫画、映画などと並行するAI文学時代の訪れは、意外と早いのではないでしょうか。

そんな時代に生きたくはありませんが、ポスト平成の芸術文化は、人工知能との競合と協業による創作と創造の新時代に突入するような気がします。


  ×と大きく書かれた交差点をみな黙々と横断するなり 蝶人
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2018年版「誰もが泣いて喜ぶ冠婚葬祭その他諸々スピーチ集」第22回

2018-01-19 13:21:05 | Weblog


蝶人狂言綺語輯&バガテル―そんな私のここだけの話op.282



業績優秀者表彰式における営業本部長のあいさつ


ただいまより、弊社第25期京浜地区業績優秀者の表彰を行います。

*1 新年々国内外の市場競争、ブランド競争、本部間競争が激化するなかで、この度わが第5営業本部において、13名もの多きを数える業績優秀者を輩出したことは、まことに素晴らしい快挙であり、皆さんの弛みなき精進の成果に対して、深甚なる感謝と敬意を捧げたいと存じます。

皆さんよくご承知のとおり、昨今のわが社のカーセールスは、一部国内ライバル販売会社の安値競争と欧米外車メーカー日本支社の攻勢のはざまにあってかなりの苦戦を余儀なくされております。

かてて加えて、第25期にはコンペティター有力数社が、新規小型車をぶつけてきたのに対して、当社の新車はゼロ。

*2いわば、「武器なき戦い」を1年間にわたって強いられながらも、見事な勝利を飾られた屈強の勇者にたいして、本日ご列席の皆さんとともに惜しみない拍手を贈りたいと思います。

*3本当に良くやってくれました。ご苦労さま!ありがとう!
そしてこれからもよろしく!


○ アドバイス
* 1 最悪の環境下で善戦健闘した部下の努力に報いるスピーチである。
* 2 どのような価値がある業績であったかを正確に述べ、部下の苦闘を熟知する上 司であることを知らしめる。
* 3 営業現場の体育会系の人々を相手にするときは、回りくどい言い回しよりも短い言葉に、熱い感情を込めるのが効果的。


 「しっかり乾燥させなさいよ」と洗濯機に言い聞かせている私の奥さん 蝶人


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邦画いろいろ寸評ずらずら

2018-01-18 11:22:15 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1274、1275,1276,1277,1278、1279



1)佐藤純彌監督の「君よ憤怒の河を渡れ」

権力者と癒着した警察に追われる検事!の高倉健が、乗ったこともない飛行機を操縦して脱出するシーンがあるが、そういう無茶ぶりが佐藤純也監督の持ち味。
上っ面だけをなぞるどこかの監督に爪の垢でものませたい。


2)吉田大八監督の「パーマネントのばら」

西原理恵子原作の漫画の映画化らしいが、菅野美穂、小池栄子、夏木マリなどが思いがけずいい味を出している。
あの演出だと、なおこは、ちょっと頭がおかしくなっているということか。


3)吉田恵輔監督の「ばしゃ馬さんとビッグマウス」

シナリオライター志望の男女の物語。
知らなかったがたしかにこういう若者はいるんだろうな、と身につまされる。
麻生久美子はもっとかわいいかと思っていたが、長く見つめているとそうでもなくなってくる。映画と同様、なんか寂しい顔だ。


4)中田英夫監督の「リング」をみて

テレビの画面の中ではなく、実際にテレビの画面から長い髪の女が出てくると確かに怖いだろうな。
ま、そんなとこ。


5)井上昭監督の「勝負は夜つけろ」

1964年製作のフィルムノワール。
田宮二郎が好きだった色女、久保菜穂子と寝るのはもう映画が終わろうとする頃。
そして寝た途端にあわれ彼女は殺されてまう。残念。


6)犬童一心監督の「ゼロの焦点」

敗戦直後の売春婦が、どっこいしたたかにしなやかに生きていた。
しかしその前歴を隠そうと連続殺人まで犯すもんかいな。
今となってっはちょっと時代を感じる松本清張の原作である。
上野耕治の音楽と最後の中島みゆきの主題歌が、ったく水と油ずら。


  不惑過ぎ無垢なる心なお存すこの子は天の贈り物かも 蝶人


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アピチャートポン・ウィーラセータークン監督の「ブンミおじさんの森」をみて

2018-01-17 13:28:58 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1273



死者は死者なんだけど、いつまで経っても生者の近くに存在していて、むかし懐かしくなると生者の前にヌウボオと姿を現わして、しばらく一緒にいて言葉を交わしたり、ハグし合ったりする。

兄弟の中には森に行って猿人になってしまった奴もいる、なんて、わたくし的にはいわゆるひとつの理想郷だなあ。

おまけに、森の奥の滝に棲むナマズの神様が、身を捧げた王女の陰部にグイグイ食入るなんちゅう神話的な光景など、恐ろしくも官能的ずら。

こういう東洋的な死生観を真正面から描き切る映画がタイから生まれ、その製作を英仏独西の西洋諸国が支援してカンヌのパルムドールを取るというところにも、この映画の現代的な意義が存しているように思います。


 その国を代表してしゃべっているようだがその大方は自分の意見ではない  蝶人


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