あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦二〇一二年水無月 蝶人狂歌三昧

2012-06-30 11:03:01 | Weblog


ある晴れた日に 第111回



滑川に平家蛍乱舞す七時半 

玄関になでしこが咲いているのが我が家です。

1ドル79円1ユーロ99円の日本に生きる幸せと不幸せ

横須賀の医科歯科大の校門に僅かに藍しジャカランダの花

イチロー松井松坂海の彼方の末期の花よ 

イシオカがねヨシオカがねヤジマとやったんだってサ 

男のくせに香水なんかつけてやがる俺に近寄るな近づくとぶっ飛ばすぞ

他人の拳銃を捨てさせようと思ったらまず自分が捨てなければならない

君の鳥肌は軽々しく立ち過ぎる

細君と峠の湧水を訪れて手足あるオタマを返しやりけり

ピリオド奏法にすれば音楽の生命が蘇るのかよロジャー・ノリントン

モダーンにて下手な指揮するその男古楽器に替えても下手は変わらず

茣蓙の上で仰向けに往生しており忠犬ハチ公

偶の外出「私これでいい?」と訊ねる妻を可愛ゆしと思う

いきなり誰かに刺されないよう気をつけながら新宿を歩きました

犯人は捕まらなくても構わない防犯カメラは即止めるべし

日本全国防犯カメラ基本的人権肖像権ゼロ

歌も人間も失敗作のほうが味がありますね

日本アカデミー賞の男子より聞きごたえがあったなあAKB女子のスピーチ

寒い朝葉に止まるルリシジミに息を吹く掛ければうれしそうにじっとしていた

皇室を飛び出し障碍者のために働きたかったんだってね髭の殿下逝く六十六歳

髭の殿下御舟入テングチョウとルリシジミ数多生まれた日

これよりは皇族もパンは己で稼ぐべしさなきだに平成の民の貢は日々重ければ

民主党はもう終わりです即解党するか解散総選挙しなさい

太陽を水すましのように泳ぎゆく一匹の黒い天道虫今日の金星

その日金星は一匹の黒い天道虫になって向日葵の花の周りをゆっくり歩いていきました

ディースカウ、畑中、吉田、新藤、偉大な人物がどんどん死んでいくなあ

障碍の息子を持ちて身につけし障碍の子を見つける速さ

耕君のお陰で穂村氏に選ばれました六月三日「日経歌壇」

「じゃあまた」と明るく別れを告げたけど吉田秀和『名曲のたのしみ』

青嵐吉田翁なき雪の下を歩みけり
 
風に向かいて われ歌を放つ 唄をうそぶく

明日を生き抜くために今夜しっかり夢を見ること


今日こそはあえて使う日卯の花腐しといふ言葉  蝶人
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デビッド・リーン監督の「アラビアのロレンス」を見て

2012-06-29 08:15:11 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.266


何度見ても素晴らしいのは広大な砂漠の美しさで、モーリス・ジャールのテーマ音楽に乗ってくり広げられるこの雄大な自然の景観を眺めているだけでもう十分映画の醍醐味を堪能した思いになってしまう。

 ロレンスがラクダを乗りこなす場面、部族の白い衣装を纏って踊る場面、アラブの遊牧民を率いて要衝アカバに突撃する場面、部下を命懸けで救出する感動的な場面、その部下をやむを得ず射殺する場面、不覚にもトルコ軍の捕虜となって凌辱される場面、人を虐殺しながら楽しかったと告白する場面などなど忘れ難いシーンは数多いが、もっとも見事なのは効成り帰国して万骨枯れ果てた現代の英雄が映画の冒頭であっけなくオートバイで事故死する場面であろう。


 大英帝国の一軍人でありながら彼の脳内で理想化された「アラブの大義」のために獅子奮迅の活躍を続けたロレンスは、ある意味では個人として可能な極限の領域を踏破した大冒険家であり革命家であったといえようが、その後の歴史の推移を見るならば、しょせんは大国の利害と政治的思惑に呑みこまれていった哀れなドンキホーテという他は無い。



1ドル79円1ユーロ99円の日本に生きる幸せと不幸せ 蝶人
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黒沢清監督の「トウキョウソナタ」を見て

2012-06-28 07:12:43 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.265


市川中車になった香川照之とキョンキョンがリストラサレタリーマンとその満たされぬ妻を力演している。

 夫が突然会社をファイアされたがそれを妻に隠してハローワークに日参するが、プライドが高くなかなか仕事にありつけない。そのうち慈善団体の給食をありがたく頂戴するあたりはなかなかみせる。

しかし長男がなぜか米軍に志願したり、キョンキョンが強盗に誘拐されて海岸で水浸しになったり、夫が自動車事故で死んだと思ったのになぜか生き返ったりするご都合主義のシナリオはまことに観念的で、それを現場におとそうとしたときに空虚な映像となって空中分解していることにこの監督は気付いていないようだ。

家族崩壊しかかっていた一家の絆がなんとか結び直され、ラストで次男が弾くドビュッシーの「月の光」が美しい。


君の鳥肌は軽々しく立ち過ぎる 蝶人
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矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」を見て

2012-06-27 08:37:24 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.264

よい題名なので、はじめは水泳少年のドラマかと思っていたら、高校生の男子が最後の思い出に文化祭で男子のシンクロナイズド・スイミングをするお話だったので驚いた。

導入からラストまで漫画のようによく出来ているが、いやあ良かった良かった感動ものだねなぞとと言いあって観終わるとなにも残らない炭酸飲料のようなもの。

いつの時代もこういう映画を好む国民がいるということはわかるが、こういう1発ノリの映画が主流になっていき、単館上映の大衆の原像に迎合しないインディーズ映画が廃れて行く国の文化は先が思いやられる。じじつそうなってしまっている。収穫は竹中直人の怪演のみ。やれやれ。


イチロー松井松坂海の彼方の末期の花よ 蝶人
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新藤兼人監督の「午後の遺言状」を見て

2012-06-26 09:29:44 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.263

すでに死病に冒されていた愛妻乙羽信子の力演は涙なしには見ることができない。しかし相方の杉村春子も朝霧鏡子も観世栄夫も、そしてとうとう監督自身も幽明境を異にしてしまった。この映画はそれらすべての死者たちの遺言状であろう。

元築地小劇場の女優仲間であったという設定の杉村と朝霧(すでにアルツハイマーに冒されている)がチエ―ホフの「かもめ」のセリフを言うシーンは感動的だが、さしたる理由も無く瀬尾智美が滝つぼでスッポンポンになるシーンはもっと感動的である。

朝霧鏡子と観世栄夫夫婦は手を携えて日本海の海に消えてゆくが、これはちょうどこのころに秋田の海にまっすぐ進んで行った老夫婦の事件にヒントを得たのだろう。「午後の遺言状」は彼らが書いたものであるが、ただただ悲しい。

突然レポーター役の倍賞美津子が出てきて杉村選手の写真を撮りまくるが、あれはいったいどういう脚本の趣向なのか不可解なり。




横須賀の医科歯科大の校門に僅かに藍しジャカランダの花 蝶人
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新藤兼人監督の「裸の島」を見て

2012-06-25 08:39:54 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.262

急峻な細道を二つの水桶をぶら下げた天秤棒を担いで懸命に上り下りする夫婦。瀬戸内海の孤島で過酷な農作業を強いられる一家の日常をリアルに描き尽くした日本映画の傑作である。

全篇を通じてほとんどセリフがなく林光の簡素な音楽だけがこの白黒のドキュメンタリーな映像を彩って行く。ゆいいつ彼女が声を上げて泣く長男が急死したシーンですらノンモンの方が良かったと思わせるくらい、それは効果的だ。

されど、いかに映画とはいえ女の細腕で漁船を操り、一日に何度となく遠い村で汲み上げた水を見上げるような島のてっぺんまで運び上げ、植えたサツマイモや小麦の苗に与えるという作業はどれほど熾烈なものであったことか。

万難に耐えて映画製作に打ち込んだ乙羽信子新藤夫妻と殿山泰司、2人の子役も立派だが、その周囲で格闘するスタッフの全力投球が伝わって来る。貧乏プロダクションが歯を食いしばって冒頭とラストで投入したヘリ撮影も見事に決まっている。



偶の外出「私これでいい?」と訊ねる妻を可愛ゆしと思う 蝶人
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古井由吉自撰作品6「仮往生伝試文」を読んで

2012-06-24 09:25:09 | Weblog



照る日曇る日第520回


「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」なぞと孔子のように悟り済ませればいいのだが、われらの人生、いつどこでどのように終わるのやら君子聖人でさえ予知できぬとあれば業平卿のごとく「ついに行く道とはかねて聞きしかどきのうきょうとは思わざりけり」とうろたえつつ、今生の暇を乞うほかはなさそうである。

しかし何事につけても事前に心の準備をしておけば、いざそのときの周章狼狽、見苦しき振舞いのいくばくかは避けられるかも知れない、などと浅間しいことを考えつくおのこがいたもので、この古井由吉なる御仁もご多分にもれずあれやこれやの前例を取り出しては畳の上の水練を敢行しようとしている。げに哀れというも愚かな話である。

しかし定家の「明月記」(漢文!)を息を凝らして読み込んで、齢90を越した父俊成のかなり長く続いた臨終を、とって43歳になった息子が執拗に追いかけているくだりはなかなかに面白い。元久元年の師走も近づいた11月の夜半に北山から届けられた雪を口に含み、

めでたき物かな、猶えもいはれぬ物かな。おもしろいものかな。

と子の親切を心から喜び、その翌日、定家が見守るうちに静かに息絶えた大歌人の大往生こそ、われらがのぞんでも果たせない理想の最期であろう。

見渡せば花も紅葉もなく、後期老齢者だけが右往左往しながら老老介護に明け暮れる今日この頃、古今の事例が縷々紹介されている本書を参考にして、自分なりの理想的な死に方を研究してみたいものである。


茣蓙の上で仰向けに往生しており忠犬ハチ公 蝶人


*日曜日の特別付録 なかなか興味深い劇評をご紹介しませう。
http://www.wonderlands.jp/archives/20836/#more-20836
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三木卓著「K」を読んで

2012-06-23 10:31:20 | Weblog


照る日曇る日第519回


そもそも夫婦というものはあかの他人であるからして、喜びも悲しみも幾年月、いくら相思相愛で結ばれようが長い歳月が経過する中でいろいろな葛藤が水の中に水素が湧くがごとく、空気の中に酸素が噴き出すがごとく生起して、とうてい予定調和の一筋縄の結着をみるわけにはいかない複雑怪奇の関係性をけみするはずのものであるが、相思相愛どころか最初からボタンの掛け違った場合は、それがいっそう甚だしいのであろうか、いやそれとも案に相違して南極と北極ほどもかけ離れていたはずの両極端の男女が琴瑟相和して好々爺孝行婆となりおおせてあんきに生涯を終える例も枚挙に遑これなく、いずれにせよ夫婦生活の真相は当該の夫婦自身にも杳として不明というのが世の常であったが、そこに登場したこれなる実録ゴキュメンタリー的私小説では作者と凡そ半世紀に亘って連れ添うた細君との痛恨の決別がその出会いの「野合」の日から始まって72歳で癌でみまかるまでの47年間のあれやこれやがCe qui n'est pas clair n'est pas françaisの代名詞である仏蘭西の哲学者アランのプロポのような明快さで縷々述べられ、それはまた作者による愛妻の介護録であると同時に半自叙伝にもなっており、少し冷静に距離をおいて己を他人のように観察する鋭さと冷たさはカサノヴァの回想録の筆致を思わせるのだが、読む者は彼ら2人があるときは愛し合いまたあるときはニルアドミラリな様相に陥りつつもかろうじてどこかで赤い1本の紐で繋がっていることを確認しておおいに安堵し、またあるものは、この腸ガンを患った女性が4年10カ月の間に腹部を2度、脳を2度手術され最後は体重25キロを割った状態で召されたことに一粒の涙を灌いだりしながらああ人生は大変だなあ、夫婦を続けるって大変なことなんだなあとなどと呟きながら何故だかドガの「眠れる子供」の挿絵が飾られた嵩高紙の226頁を恭しく閉じることだろうが、おやおや表題のKとは作者の妻君で本名は福井桂子という詩人であったことをつい書き忘れてしまうところだった。



細君と峠の湧水を訪れて手足あるオタマを返しやりけり 蝶人

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EMI盤マルタ・アルゲリッチの協奏曲集を聴いて

2012-06-22 08:52:11 | Weblog

♪音楽千夜一夜 第269回


EMIからの廉価版4枚組CDです。アルゲリッチは不思議なひとで、共演する指揮者やオケが凡庸でも、実力以上の演奏に引き入れてしまうことが往々にしてあるから面白い。

ここではわたしが嫌いなショパンとプロコフィエフの2つの協奏曲をデュトワ指揮のモントリオール響をバックに弾いていますが、そのとおりの化学現象が生じています。ラビノヴィッチ指揮のスイス=イタリア交響楽団とのシューマン、ショスタコではもっと高度な次元で音楽が燃焼していて聴きごたえがある。4枚で1100円のお値段も魅力です。


         ピリオド奏法にすれば音楽の生命が蘇るのかよロジャー・ノリントン爺 蝶人
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ヘンリー・ハサウェイ監督の「悪の花園」を見て

2012-06-21 08:40:41 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.261

原題は「Garden of Evil」という1954年公開の西部劇映画で、ゲーリー・クーパーとリチャードウイッドマークが、インディアンと戦いながらなんと麗しのスーザン・ヘイワードを取り合いする。

サム・ペキンパー監督の「荒野のガンマン」では死んだ息子を弔おうとモーリン・オハラがもろ肌脱いで男勝りに大活躍するのだが、本作では炭鉱で負傷した夫を助けようとスーザン・ヘイワードがやはり大車輪の活躍をするので、まわりの男どもはみな魅了されて命を投げ出すようになる。

いずれおとらぬファム・ファタール振りだが、ペキンパーがあれほどオハラを脱がせているのだから、ヘンリー・ハサウェイもも少しちゃんとスーザン・ヘイワードをセクスイに見せてほしかったなあ。

ヒッチコックの映画でよく起用されたバーナード・ハーマンの音楽が終始喧しい。



他人の拳銃を捨てさせようと思ったらまず自分が捨てなければならない 蝶人

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サム・ペキンパー監督の「荒野のガンマン」を見て

2012-06-20 08:54:33 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.260

冒頭、酒場で私刑で縛り首にされそうな男を主人公のガンマンが助けるのだが、じつはこいつがガンマンの頭の皮をはごうとした宿敵で、あとで復讐するために助けてやるという手の込んだシナリオである。

次に酒場で一緒になった都合3人の男たちは銀行強盗に乗り出そうとするのだが、その直前に主人公が誤って踊り子モーリン・オハラ(はじめは処女の如くついでは妖艶な熟女に変身、荒野の水たまりでは強烈なヌードを見せつける!)の息子を撃ち殺してしまう。美しく気丈なオハラは、息子の亡きがらを夫が死んだ墓地に葬るのだといって女一人でゴーストタウンに出発するが、責任を感じたガンマンは他の2人を強要して彼女の護衛に赴く。

映画はこの不倶戴天の男女が次第に惹かれあい、襲いかかるインディアンやならず者どもを退治してハッピーエンデイングに導かれるさまをニルアドミラリに描くのであるが、その表面上の酷薄さこそ、サム・ペキンパーの独壇場なのであるんであるんであった。

タフガイ役のブライアン・キースがとっくの昔に自殺してしまったのに、「わが谷は緑なりき」の女優が91歳で健在なのは、喜ばしい。


男のくせに香水なんかつけてやがる俺に近寄るな近づくとぶっ飛ばすぞ 蝶人

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ルイ・ラングレ指揮エクサンプロバンス音楽祭「椿姫」を視聴して

2012-06-19 09:02:21 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第268回

2011年7月にエクスの大司教館中庭で行われたライヴで熟女ナタリー・デセイが力演。もう盛りを過ぎてはいるが肌も露わに熱演熱演また熱演。とうとう巴里の謝肉祭の喜びをよそに聞きながらみまかってしまうちう哀れな話ですが、こちとらの涙はなかなかちょちょ切れない。ロンドン交響楽団指揮はルイ・ラングレ

なぜかというとこの原作と台本に毎度のことながらひっかかるから。2人仲良く暮らしているところにアルフレードの父親ジェルモンが出てきて、ヴィオレッタに「お前さんがアルフレードと別れてくれないとアルフレードの妹の縁談に差し支えるから別れてくれ」と要求してどうしてあっさり身を引くのかてんで理解できないから。

封建時代の本邦ならともかく近世の西欧でこんな下世話な義理人情はないでしょう。どんな名人が演じて演奏してもあほらしくててんで共感が湧かないね。


ヴィオレッタ・ヴァレリー:ナタリー・デセイ、ジョルジョ・ジェルモン(アルフレードの父):リュドヴィク・テジエ、アルフレード・ジェルモン:チャールズ・カストロノーヴォ、アンニーナ(ヴィオレッタの小間使い):アデリーナ・スカラベルリ、フローラ・ベルヴォア:シルヴィア・デ・ラ・ムエラ、ガストン子爵:マヌエル・ヌニェス・カメリーノ、ドゥフォール男爵:コスタス・スモリジナス、ドビニー侯爵:アンドレア・マストローニ、グランヴィル(医者):マウリツィオ・ロ・ピッコロ


          ヨシオカがねヤジマとやったんだってサ 蝶人
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ボリショイ劇場新装記念の「ルスランとリュドミラ」を見て

2012-06-18 05:08:26 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第267回

ロシア5人組のお師匠さん役を務めたグリンカの記念碑的な純ロシア産歌劇で、どこかウエバーの「魔弾の射手」に似た気負いと初々しさが感じられる。

純ロシアというてもとりわけワーグナーの影響を受けていて、あの有名な序曲の旋律は2幕でも3幕でもライトモチーフのように繰り返し変奏され、終幕のロンドでも高らかに奏されている。

この序曲を得意中の得意にしたのはかのムラヴィンスキーだった。ウラディーミル・ユロフスキの指揮はその天才の孤高の鋭さをみじんも持ち合わせず、ただ音符を音に置き換えていくだけの凡庸なものだが、演出のドミートリ・チェルニャコフがその貧弱さを多少は補っているといえよう。

私はこの大曲を蘭フィリップスに入れたゲルギエフのCDを持っているが、その出来栄えも後年の彼の成長を予測するようなレベルのものではない。オペラに録音のないムラヴィンスキーこそこの歴史的作品にうってつけのマエストロだったのである。

プーチン独裁体制に突入したロシアでは最近この愛国的なオペラの人気がうなぎ登りだというが、それが伝統的な領土拡張主義がまたぞろ跋扈して、アメリカ、中国、インド、日本などと再び民族の角を突き合わせる予兆でないことを祈るのみだ。


配役 スヴェトザール(キエフ大公)ウラディーミル・オグノヴェンコ、リュドミーラ(大公の娘)、アリビナ・シャギムラトワ、ルスラン(キエフの勇士)、ミハイル・ペトレンコ、ラトミール(ハザールの王子)ユーリ・ミネンコファルラーフ(北方の勇士)アルマス・シュヴィルパゴリスラーヴァ(ラトミールの女奴隷)アレクサンドリーナ・ペンダチャンスカフィン(よい魔法使い)バヤン(吟遊詩人)チャールズ・ワークマンナイーナ(魔女)エレーナ・ザレンバ頭アレクサンドル・ポルコフニコフ
<合唱>ボリショイ劇場合唱団<管弦楽>ボリショイ劇場管弦楽団<指揮>ウラディーミル・ユロフスキ<演出>ドミートリ・チェルニャコフ

玄関になでしこが咲いているのが我が家です。 蝶人
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内田光子・ポストリッジの「詩人の恋」を視聴して

2012-06-17 08:31:31 | Weblog


♪音楽千夜一夜 第266回


2011年のザルツブルク音楽祭で内田光子がイアン・ポストリッジと組んだシューマンの「詩人の恋」を視聴しました。以前この2人の組み合わせによるシューベルトの「冬の旅」などを聴いたことがありますが、その神経衰弱を病んだかのような異様な演奏に辟易し、これがシューマンならいったいどうなるんかいなと懼れ慄いていたのですが、あにはからんやこいつが思いがけない驚異的な名演で、冒頭の「美しい5月」の序奏が始まった瞬間からこれがかのデイースカウをも超越する自分史上至高の名演奏になることが予感されました。

「ばらに百合に鳩に太陽」「恨みはしない」「あれはフルートとヴァイオリン」「僕は夢の中で泣いた」と続く名曲中の名演を、私は嗚咽しながら聴いていましたが、なんという悲愴な恋の歌をハイネは胸を掻き毟りながら書き、ロベルトは血を吐くように歌ったのでしょう!

酬いられぬ恋に生き、そして死んでいく若者の切ない震える魂の儚い非望と激烈な絶望を、ポストリッジはまるで悲劇の主人公になり代わったように、あるいはリルケその人に憑依したように歌い継いでいくのです。

そうしてみずからも歌いながらまるで神がかったような演奏を繰り広げる内田。これは同じコンビでも2度と果しえない奇跡的な名演のように感じられました。

こんな千に1度の体験ができるのだから、わたしはこれからも無数の駄演凡演の山を投げ捨てていくのでしょう。

恐るべし内田光子! 恐るべしポストリッジ 恐るべしハイネ&シューマン!


               青嵐吉田翁なき雪の下を歩みけり 蝶人



特報! またしても今朝の「日経歌壇」で短歌が採られました。今度は岡井隆大先生です。


「じゃあまた」と明るく別れを告げたけど吉田秀和『名曲のたのしみ』 蝶人

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横浜美術館で「マックス・エルンスト展」を見て

2012-06-16 08:57:56 | Weblog

茫洋物見遊山記第88回


会期間際に滑り込みセーフでした。(6月24日まで開催中。木曜休館)

いわゆるひとつの超現実主義を代表する画家、彫刻家として知られるこのドイツ人(1981-1976)の代表的な油彩、コラージュ、リトグラフ、エッチング作品などがてんこ盛りの回顧展でしたが、私が気に入ったのはやはり油絵でして、深い森の中の鳥を描いた「自由の称賛」や全体的に縞柄で横断されたランボー風の「海と太陽」、緑と朱の色彩の饗宴「小麦の芽吹く風景」、それに後年の「パリの春」「美しき女庭師の帰還」などは、シュウマイの代わりに横浜土産にこっそり持ち帰りたい気持ちになったほどでした(セザンヌ展では毛頭その気にならなかったのに)。

世の中にこのひとほど素晴らしい絵描きはいないと断言する。妙な屁理屈を考えたり、コラージュ、リトグラフ、エッチング、彫刻なぞに手を染めず、もっともっと油絵を沢山遺して欲しかったなあ。

ところで、こういう抽象画は描く側も何かを象徴しようとして画筆を握り、一癖もふた癖もある捻ったタイトルをつけており、見る側もその象徴の意味を解読しようとして作品の前で頭をひねるようですが、そういう「知性的な」鑑賞方法はじつはてんで無用の長物であり、わたしらはこれらの意味不明の形態と色彩のぬたくりにじ、じっと目を晒し続けておればよいのです。

美術作品を前にノートを取ったり、にわかにあれやこれやの想念を繰りだし、それをいちいち言葉に置き換えてもっともらしく解釈したり、はたまた(私がいましているように)家に帰って感想文をしたためたりすることは、ほんたうの美術(あるいは音楽)鑑賞からいちばん遠い行為であり、自分をとらえて離さない作品だけを無上の快感と共に即自的現在的にいついつまでも享受すればよいのだ。

 慣れない外出でいささか披露したので即帰ろうとしたら、隣の会場で「横浜美術館特別コレクション」をワンサと開陳していて、それらを全部見たので帰ろうとしたらなんとなんと「マン・レイの写真展&作品展」をやっていて有名な「解剖台の上の蝙蝠傘とミシンの偶然の出会いのように美しい」を見ることができたので、やれやれやっとこれで帰れるぞ、と思ったら、またその隣の会場で「中平卓馬60年代&70年代の写真展」をやっていて、これが一等凄まじかった。

マックス・エルンストにはじまって中平卓馬に終わる金1200円のめくるめく美術体験こそ、「平成24年版シュルレアリスム」そのものではないでしょうか。


民主党はもう終わりです解党するか即解散総選挙しなさい 蝶人
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