あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2013年水無月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2013-06-30 08:40:35 | Weblog


ある晴れた日に 第134回


またしても世界最強最美の音楽が鳴り響く六月一日横浜能楽堂

アリが10匹でありがとう

私は所謂一人の人生マンである。

「1111」という車体番号は嫌みだ。

「一旦辞するに当たり誠に感謝します」と妻に遺言せしは書家杉岡華邨

ほんたうはアフリカの児が食べるべき二つ目のパンを我は喰ふなり 

武器を売り奴隷を売るとも己は売らぬ砂漠の商人アルチュール・ランボー

神社裏のわれのみぞ知るイワタバコ根こそぎ取られて跡かたもなし

短歌とは全三幕のオペラにて「序破急」をもてわが魂を歌う
 
飛び去ってまた立ち戻るアカタテハ夕焼け富士がじっと見ている

遥々と尋ねてみれば更地なりわれら二人が四人となりしその場所

若冲が金閣寺の水墨画に描きたる四方竹を斬るな農夫よ

なーるほどワイシャツに胸ポケットが無くってもどうってことないんだと胸撫でる

芸術家は霞を食べるしかないのだがその霞がどこにもないという 

フォロワーをあまた従えフォローゼロ哀れなるかな唯我独尊有名人ども

新聞の週刊誌広告見ておれば世の中が分かったようになる不思議

ハイドンの出だしの一撃に脳天が打ち砕かれしはいつの日か いざさらばわが青春の東京カルテットよ

ぐわんぐわんと鐘が鳴る 誰が為に鐘は鳴ると問うなかれ そはそなたの政権への弔鐘なり 

新宿で『泥棒日記』観たその足で紀伊国屋のジュネ盗みし昔もありき

SMも蝶も聖書も小説も故郷の「火星社書店」にて学びたり

ついにゆくその日のために一挺の拳銃と二発の銃弾を我に与えよ

「たり」よりも「おり」がよろしと言われたり厳父山田孝雄の眼光をもて

ひたぶるに過ぎにぞ過ぎて夕暮れの泉のほとりにたたずむ二人

今宵また我が家のチャイムを鳴らすのはおそらく風の又三郎ならむ

ありとある木に番号が振られたる霊園の道を歩みたり


ケネディとカラスが語る薔薇の園

じぇじぇと呟きながら今朝の夏

夏山を裾をからげてすたすた坊主 

つばくらめ五軒に一軒の空き家かな

芸術家は霞を食べるしかないのだがその霞がどこにもないという

じぇじぇじぇじぇすぐにも廃る言葉なれば今日一度だけ使ってみるべし

老人にひかりあれとや初蛍

蛍狩り見知らぬ人と語りけり

水無月や「熊野」の鼓は荒あらし

万緑の奥に潜むか暗黒物質

春の朝夢の続きに春樹読む

鎌倉や薔薇病みゆく夕べかな

蛍狩り君の手を取りどこまでも

子が呉れし深紅のパンツや衣更え

見てる間に心変わりか七変化

ザーメンと比べて過ぎぬ栗の花

星と見え生霊と見えて蛍かな

星光り蛍も舞いたりスーパームーン

交尾ちうの恥ずかしき姿追うキャメラ秘事暴かれしパンダは哀し

母上の身まかりし日にふるさとの丹波の山に舞ひしギフチョウ

宇宙にも存在するとひとはいうわが心底の暗黒物質 

わが心を流るる毒素今日もまたおのれを殺し世界を殺す 

泣きながら娘は駅へ走りたり限りなく祖父小太郎を憎悪しながら


ケネディとマリリン・モンローが揺れている午後四時半の墓地のバラ園 蝶人

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鎌倉国宝館で「墨蹟」展を見て

2013-06-29 08:35:33 | Weblog


茫洋物見遊山記第128回&鎌倉ちょっと不思議な物語第289回

鎌倉山の開発に尽力した故菅原通濟によって1943年に創始された常盤山文庫が設立70周年を迎えたのを記念する今回の展示会では、その所蔵品の中から精選された国宝、重文級の墨蹟の名品が展示されています。

南宋の無準師範が書いた「巡堂」という寺の看板文字などはまことに純乎清冽な筆跡で、その高僧の行い澄ました高潔な人格まで想像できるような気がいたしますが、鎌倉時代に本邦に渡来した蘭渓道隆や無学祖元の紙元墨書も見事なものです。

日中双方の文字を比べてみると、先進国の中国のほうはよくいえば天衣無縫的下手くそで動的であるのに対して、後進国のわが国の方が作法通りにちまちまと上手であるが静的で、書の命である生気に欠けています。ベルクソン流のいわゆるエランヴィタールが欠如しているのです。

しかし今回わたくしの眼を釘づけにしたのはかの茶聖千利休が羽庵という人に宛てた手紙でした。利休は、元時代の文人が書いた横長の手紙をカットしてレイアウトしようとした羽庵に対して、「そのままにせよ。絶対に切ってはならぬ」と警告、指示しているのですが、その内容はともかく、その文字が一筋縄で括れない複雑で微妙なニュアンスを漂わせていることに刮眼瞠目いたしました。

一口でいうとこれは桃山時代の武人が書いたというよりは、近代あるいはわたくしたちの時代の非常に油断ならぬ人間が書いた痕跡のような感じがいたします。進むも戻るも容易ならぬ現代的な苦悩に満ちあふれた知的で繊細な筆といえば漱石の手ですが、時代は違うけれども時代を超えてちょっとこれに近いものが利休の書には感じられました。

なお本展は明30日日曜日まで鎌倉の八幡様の境内でひっそりと開催中。



「じぇじぇじぇじぇ」すぐにも廃る言葉だから今日一度だけ使ってみよう 蝶人
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鏑木清方生誕135年記念「初夏の風情」展を見て

2013-06-28 09:31:49 | Weblog


茫洋物見遊山記第127回&鎌倉ちょっと不思議な物語第288回


富士山の世界遺産登録の馬鹿騒ぎをみせつけられるにつけ、鎌倉が同じようなめにあわなくて本当に良かったと思わずにはいられない。国内のみならず世界中から押し寄せる観光客を喜ぶのは、東京資本の土産物業者だけなのだから。美観の浪費と環境の劣化、住民の静謐生活権の対価はなにか? 恐らくは無。

観光客が増えれば市の収入も増え、それが少しは我々市民に還元されてもいいはずなのに、この町の税金は相変わらず異様なまでに高く、かててくわえて市職員の給料も本邦1、2を争っており、その激減をうたい文句に当選した若い市長が公約を果たした形跡も無い。やれやれ。

そういう次第で早朝の小町通りを歩いていると、お馴染みの鏑木清方消記念美術館でわが年来の愛読書「こしかたの記」にちなんだ初夏の風情展をやっていた。木原美術館やサントリー美術館からの出品も加わって、夏の朝夕や草花にまつわる江戸風美人画の数々が例によって厳選少数飾られている。

画家のお得意は中間色のあざやかな色遣いで、今回も初夏の着物をいろどる緑青、青磁、とくさ、苔色などの地の色との対比の妙に感嘆の声をあげながら開場を去ったことでした。

なお本展は明後30日まで開催されています。



つばくらめ五軒に一軒の空き家かな 蝶人
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オットー・クレンペラーの「マーラー交響曲集」を聴いて

2013-06-27 09:01:03 | Weblog


音楽千夜一夜第308回

クレンペラーでいちばん好ましいのはモーツアルトの交響曲とオペラの演奏で、これこそは人類の不滅の宝物だろう。しかし彼はセルやベームと同様、ライヴでその真価を発揮する指揮者だった。

ここでは手兵であるフィルハーモニア管を相手にマーラーの交響曲の2番、4番、7番、9番と「大地の歌」を振っており、2番と7番の終楽章などではなかなかの盛り上がりを見せる。最後の曲はワルターと違って妙にモダンな味わいがあって面白く聴けるが、だからといって交響曲におけるバーンスタインのような「なにか」が起こるわけでもない。

クレンペラーにその「なにか」が起こるのは、フィルハーニアとの大人しいスタジオ録音ではなく、例えばバイエルン放響やケルン放響、あるいはウイーン・フィルとのとのライブでブラームスやベートーヴェンを振ったときである。

とりわけバイエルン放響の音源は録音も素晴らしく、ぜひもういちど英EMIからリリースしてほしいものだ。



ほんたうはアフリカの児が食べるべき二つ目のパンを我は喰ふなり 蝶人
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アーサー・ペン監督の「左ききの拳銃」を見て

2013-06-26 09:26:43 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.487


 大西部の無法地帯で、お世話になった人生の大先輩が理不尽な暴力によって丸腰で殺戮されたら、彼に心酔していたその弟子は、左利きの拳銃に訴えてでも復讐しようとするだろう。

そういうある意味では純粋な心根の持ち主であるガンマン、ビリー・ザ・キッドが、世間の掟とは無関係にあくまでも個人的な復讐殺人を次々に実行していく西部劇に姿を借りた血なまぐさい倫理劇である。

 こうと思いこんだら現世秩序も警察権力もお構いなしに私的リンチに熱中し、激走していく赤黒い魂の悲劇をポール・ニューマンが熱演していてとても他人事とは思えない。

 リタ・ミラン演じる美貌の想い人を失った絶望が、この孤独なガンマンを最後に哀しい自死に導くのだが、このあたりのアーサー・ペンの演出はじつに心憎いものがある。




「一旦辞するに当たり誠に感謝します」と妻に遺言せしは書家杉岡華邨  蝶人

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五味文彦編「現代語訳吾妻鏡13親王将軍」を読んで

2013-06-25 09:19:25 | Weblog


照る日曇る日第601回

躍進続く北条家

 源家を悪辣な陰謀でのっとった北条氏の躍進は続く。

執権北条時頼に嫡子時宗が誕生し、宝治合戦の余波で了行法師の謀反未遂事件が勃発、京で九条道家が突然逝去するや、幕府は道家の孫である摂家将軍藤原頼嗣を追放し、御嵯峨上皇の皇子宗尊親王を親王将軍として鎌倉に招くのである。

先日富士山が世界遺産に認定されたそうだが、建長3年6月まで幕府は炎暑の時期には富士山の雪を取り寄せていたというから驚く。

しかし北条時頼は安倍晴茂などの陰晴師などが5月に旧御所を取り壊すのは憚るべしと声を揃えて猛反対したにもかかわらず、中国の古典を引用してその愚を説き、破却したというから、やはり並の人物ではなかった。

当時は犬追物と称して騎射の練習のために多くの犬を射殺していたが、そのために多くの犬をどこかで飼っていたのではないだろうか。武士たちの弓矢の技術は世界最高のレベルにあったから、もし当時うちの愛犬ムクなんかが横丁をぶらぶら散歩していたなら、すぐにとっつかまって血祭りにあげられていたに違いない。

建長4年正月11日に「大慈寺の前の川の中でトビが21羽死んでいた」という記事が出ていたので、念のためにさっそく駆けつけてみたが、761年後のまったく同じその場所では、数匹のハヤが楽しげにスイスイ泳いでいるだけであった。


 フォロワーをあまた従えフォローゼロ哀れなるかな唯我独尊有名人ども 蝶人

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テレンス・マリック監督の「シン・レッドライン」を見て

2013-06-24 08:35:38 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.485

3時間になんなんとする長い映画で、途中で止めようかと思ったのだが、辛抱してエンドマークまで漕ぎつけた。やれやれ。太平洋戦争のガダルカナルの戦闘を米軍側から描いた戦争映画なのだが、ともかくテンポがまどろしくって閉口する。というより監督の演出方針がぶれまくっているからこういう酩酊朦朧映画が出来てしまうのだ。

戦闘シーンは確かに過酷で激烈ではあるのだが、それがガ島とも思えぬ緑豊かな草原で行われるためにどこか全体としてセットで行われている嘘の戦争のような印象を与える。

この島は日本軍にとっては餓島であり、水も食料もない不毛のジャングルの中で圧倒的な物量作戦に追われたおよそ3万の兵たちが戦闘どころか喰うや喰わずで2万の病死傷者を出して敗退した、地獄のように悲惨な戦いの現場であった。

一方米軍側の被害はそれにくらべると軽微であったにもかかわらず、この映画では悲愴なまでに深刻に描かれているので、それが日本人であるわたくしの癇に障るのだろう。

いずれにしてももう戦争だけは御免蒙りたいものだが、どうしても行きたい人は自民党の安倍とか石破、維新の橋下、慎太郎が先頭に立つ?アホ馬鹿軍団に続いて、徴兵ではなくてボランティアでどこへでも進軍してちょうだい。


芸術家は霞を食べるしかないのだがその霞がどこにもないという 蝶人
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ロブ・ライナー監督の「恋人たちの予感」を見て

2013-06-23 10:13:53 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.484


「ハリーがサリーに会ったとき」という原題がどうしてこんなけたくその悪いタイトルになるのか分からないが、ともかくハリーのビリー・クリスタルとサリーのメグ・ライアンが出てきて、最初の出会いは最悪だったけれど、歳を経て再会してやっさもっさしている間にめでたく一緒になるという♪ハッピー、ハッピーみなハッピー♪的な映画で、ノーラ・エフロンのちょっと洒落た小噺で繋がれた脚本のせいでアメリカのみならず世界中の善男善女はこういう毒にも薬にもならない娯楽映画を見せられて喜んでいるうちに突如世を去るのであろうが、しかしそのこと自体はまことに慶賀すべきことであり、なんらあまでうす風情によって不当におとしめられる筋合いのものではないのであって、考えてみればそれなりに満足すべき連れ合いに恵まれている夫婦なんてこの地上でそれほど多くはなく、たしか1秒に30人程度がお互いをののしりあって離婚したり訴訟に出たりしているわけであるからして、この種の罪のない恋愛映画に描かれているステレオタイプのカップルこそがじつはせちがらい平成の世に浮沈しているしがないわれらの理想中の理想像、お手頃なイコンということにもなるのであるんであるんでNYのレストランで悪目の真似をしてみせる女性のように真昼間でも見えない星はあるんだよ。



   なーるほどワイシャツに胸ポケットが無くってもどうってことないんだと胸撫でる 蝶人


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伊丹十三監督の「タンポポ」を見て

2013-06-22 10:17:03 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.483


これは理想のラーメン作りに挑むか弱き女性を援け、強気をくじく男たちのさすらいの西部劇で、どこかシエーンを思わせる風情もある異色のドラマである。確か当時ニューヨークでも公開されたはずだ。

そうさねえ、先ず題名が良い。主演の宮本信子の名前が題名というわけだが、昔なら大和撫子というところをこれにした。同じタンポポでもこれは日本タンポポだろう。ちなみに私の妻君のメルアドも同じ名前です。

やっとこさっとこ究極のラーメンが誕生して物語はメデタシ、メデタシとなるわけだが、この本筋にからむ黒沢のドデスカデン的ルンペンたちや白服のギャング役所広司とその情婦黒田福美のグルメ風性愛光景も面白い。イノシシの山芋の腸詰めなんて食べてみたいな。

ほんのちょっとだが晩年の大友柳太郎が出演していて、その存在感に圧倒される。




ハイドンの出だしの一撃に脳天が打ち砕かれしはいつの日か さらばわが青春の東京カルテット 蝶人
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6月のうた「これでも詩かよ」第6弾 ♪エリーゼの為に

2013-06-21 08:28:06 | Weblog

ある晴れた日に第133回


私が住んでいる町では、毎日ゴミを選別して出さなければならない。

月曜日は、燃えるゴミの日。

火曜日は、段ボールや本や新聞や衣類の日。

水曜日は、さまざまな草や木や薪を出す日。ペットボトルもこの日に。

木曜日は、もう一度、燃えるゴミの日。

金曜日は、プラスティックや燃えないゴミ、ビンや缶を出す日だが、
最近その分量がどんどん増えてきたために、週に1回だけではパンクしそうだ。

毎朝8時20分までに我が家のゴミを出すのは、
自慢じゃないが、私の仕事である。

さて本日は、第1火曜日。
毎月この日は、どこの家でも溜まりに溜まった危険で有害な廃棄物をじゃんじゃん出すのである。

みどりのそよ風に乗って聴こえてきたのは、収集車が流す「♪エリーゼの為に」のメロディ? それとも嫁はんに叩きだされた爺さん婆さんの断末魔の悲鳴?

町内の向こう三軒両隣は、静まり返って物音ひとつしない。



新聞の週刊誌広告見ておれば世の中が分かったようになる不思議 蝶人


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森田芳光監督の「家族ゲーム」を見て

2013-06-20 12:45:50 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.480

アホ馬鹿駄目家族のところにやってきた家庭教師が、全然やる気のない中学3年生を見事第一志望の高校に合格させ、ついでにアホ馬鹿家族の全員に駄目を出して颯爽と立ち去るという受験西部劇物語である。

家庭教師という仕事は、私も昔やっていたから分かるのだが、非常に難しい。あてがわれた当の本人にやる気がない場合はまず絶望的で、いくら教師が奮闘努力しても報われることはけっしてない。やればやるほどそれは空虚な演技となり、給料をもらうのが心苦しくなるのであるんであるん。

しかし本作の家庭教師が偉いのは、そのために暴力を辞さなかったことで、当時住み込み3食マージャン付きの下宿に転がりこんでいた私には、金輪際アホ馬鹿どら息子をぶんなぐって本気にさせる勇気も根性もなかった。

しゃあけんど、ぶんなぐられて鼻血を流したアホ馬鹿息子も、それを親に訴えなかったからヒジョーに偉い。殴った方も殴られた方も偉い。だから合格したんだ。これはそういう家庭教師と生徒の模範となる平成文部省大推薦の映画です。

そういう立派な映画ではあるのだが、すでに監督も主演の2人ももはやこの世の人ではないと思うと、なにやら見れば見るほどに物悲しくなる映画ではあった。


飛び去ってまた立ち戻るアカタテハ夕焼け富士がじっと見ている 蝶人


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鈴村和成著「アフリカのランボー」を読んで

2013-06-19 10:06:15 | Weblog

照る日曇る日第600回

「地獄の季節」、「イリュミナシオン」を書き終えたアルチュール・ランボーは、自由奔放な天才詩人としてのペンを置き、1875年、酔いどれ船に乗りこみ、沈黙の船出をした。

 フランスの詩人にして伝記作家のボンヌフォワは「アフリカのランボーが家族に宛てた手紙は読まぬことにしよう」とご託宣をのたまい、わが小林秀雄は、「(彼の手紙は)砂漠のように無味乾燥である」と独断と偏見から断じたために、灼熱の砂漠におけるランボーの生とエクリチュール(書き物)は多くの人々から無視され、封印されるようになってしまった。

しかしここで著者が企んだのは、辺境の地、アフリカのアビシニアに勇躍赴き、残された少なからぬ歳月に亘って従事した貿易商人としての生涯と書簡作家としての実り豊かな業績を、かつての天才詩人としての前半の側面と突き合わせることによって、無惨に切断されたように見える2つの生を、本来の姿形である見事なひとつにつなぎ合わせることだった。

それはいわばランボーの全体像の刷新であり、総合化であり、新たな復活である。
 
これを読む者は、天才詩人の詩魂はけっして突如枯れたのではなく、終生無味乾燥な荒れ地の地下を滾々と流れており、時折はアフリカ書簡の中で生き生きとした命の水、折々には機知と諧謔に満ちた哄笑の噴水を噴き上げたことを知るだろう。

彼にとって後半生のアフリカ行きはいわば生の戦略の転換であり、詩の限界を悟って不毛な労働に身を蕩尽しようと決意した彼の生の必然であった。 

1891年11月9日の死の前日、最後の最期まで詩人・労働者が渾然一体となった全的人間ランボーは、おのれの固有の生と詩をさらに前進させ、いっそう豊かにするために、マルセイユからアフリカ行きの船会社の支配人に「私は完全に麻痺した体です。ですから早く乗船したいのです」という手紙を妹イザベルに口述して、果てた。


武器を売り奴隷を売るとも己は売らぬ砂漠の商人アルチュール・ランボー 蝶人
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サム・ウッド監督の「誰が為に鐘は鳴る」を見て

2013-06-18 10:26:54 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.477


1943年のハリウッド映画であるが、ゲーリー・クーパーやイングリッド・バーグマンが出演しているというのに、どうにもこうにもサム・ウッドの演出が鈍重で、せっかくのヘミングウエイの原作が泣いている。

結局頭に残るのは冒頭とおしまいにぐわん、ぐわんと鐘が鳴るところ、そしてスペイン内戦の共和派についたり離反しようとしたりして悩むエイキム・タミロフの憂悶、恋人の幸福と悠久の大義に殉じようとする主人公の悲壮な最期くらいであろうか。

題名は「誰が為に鐘は鳴ると問うなかれ。弔鐘はお前のために鳴っている。なぜなら人が死ねばそれはお前の死でもあるのだから」という英国の詩人ジョン・ダンの詩からとられたそうで、義勇兵としてスペイン内戦に参加したヘミングウエイが好みそうな言い回しと詩想である。


ぐわん、ぐわんと鐘が鳴る 誰が為に鐘は鳴ると問うなかれ そはそなたの政権への弔鐘なり 蝶人
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クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」を観て

2013-06-17 07:15:33 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.476


イーストウッドが「合衆国」への愛を表明した一作。冒頭では愛妻の、そしてラストでは本人の葬儀が描かれ、そのいずれにも若い神父がスピーチを行うというサンドウイッチ形式の中で、みずからがポーランドからの移民である保守的で頑迷な老いた主人公が、隣に越してきたアジアの少数民族の若者に対して次第に心を開き、ついには我が身を犠牲にするという倫理的な物語である。

朝鮮戦争で若い敵を殺した原罪に悩まされ、息子や孫に恵まれながらも台頭する若い世代や異国人たちの生活様式になじめない老人の旧式な時代意識が丁寧に描かれている。

かつてのヒーロー、イーストウッドならば、強姦された隣家の娘のためにライフルを連射して血の復讐をしただろうが、死病に冒され余命いくばくもない主人公が取った冷静かつ賢明な勇気ある死にざまが感銘を呼ぶのである。



遥々と尋ねてみれば更地なり二人が四人となりしその家 蝶人

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エリオット・ポール著吉田暁子訳「最後に見たパリ」を読んで

2013-06-16 10:36:36 | Weblog


照る日曇る日第599回

セーヌのシテ島、サン・ミシェル広場に程近いパリ・ユシェット通り5番地オテル・デュ・カヴォー。本書は、その一室で1923年からナチ占領直前の18年間を過ごしたアメリカのシカゴ・トリビューン特派員による珠玉のような人情風流譚である。

そこに描かれているのは夜毎カフェに集って議論に花を咲かせる金持ちマダムや貧乏プロレタリアート、花屋や大工や給仕や女中、僧侶、官吏、やくざ、娼婦の老若男女、町内の住人たちのいきいきとした生態。大戦間のひとときの平和を享受しながら、人を愛し、かつ憎み、普段着の生活を愛し、パリを愛する庶民たちのまことに個性的で愛すべきいきざまである。

しかし戦後のしばしの平和はたちまち終わりを告げ、第2次世界大戦の不吉な足音がひたひたと迫ってくる。スペインの共和国政府に挑むフランコ反乱軍を支援するムッソリーニとヒトラー。そして内政不干渉という名目で彼らファシストを間接的に支援する英国、その英国による圧力によってスペイン支援の絶好のチャンスを見逃して国内の内紛に血道を上げるフランス。

戦争の予感が巷にみなぎり、それまで平和的に呉越同舟していた町内の人々が右翼と左翼に別れて激しくいがみあうようになるくだりは、なにやら本邦の10年後を先取りしているようで胸苦しいが、それから間もなく血なまぐさい戦争が、ユシェット通りを覆いつくすのである。

ジャーナリストである著者の鋭い眼は、当時のパリの暮らしのみならず文藝や美術、音楽、料理やファッションについて簡潔にして要を得た見事な報告を聞かせてくれるが、独伊枢軸ファシズム体制の前にずるずると後退を余儀なくされるフランスのあまりにも脆弱で無防備な政治的・経済的・軍事的無為無策の数々についても見逃すことなく、ヒトラー巴里進駐の屈辱の日までの歴史を冷徹に描き出している。

しかしもっとも読者の心を揺るがすのは、著者と才色兼備の少女イアサントとの魂の交流と悲劇的な別れだろう。この本からは、最晩年のドゥ・パハマンが、イアサントだけのためにサル・ガヴォーで弾いてやったショパンのへ短調ノクターンの調べが聴こえてくるようだ。

恐らくこれほどパリの下町とそこに生きる人々の哀歓を捉えきった作品はこれまでもなかったし、これからもないだろう。「ヨーロッパの一つの文化的頂点であった時代のパリが、その匂いや木の葉のきらめきとともにここに収められている」と吉田健一が讃えたのも宜なるかな。


神社裏のわれのみぞ知るイワタバコ根こそぎ取られて跡かたもなし 蝶人


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