あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

山崎方代著「山崎方代全歌集」を読んで

2018-03-31 13:38:22 | Weblog


照る日曇る日 第1051回



1995年9月に不識書房から満を持して刊行された方代の全歌集です。

代表作「方代」、「右左口」「こおろぎ」「迦葉」に加えて、彼の初期作品や歌集未掲載作品も多数掲載されていて、愛読者の渇を癒してくれるのですが、後半の「資料編」では前半との重複をおそれず、制作年代順に全作品を右から左に並べてあるのがすごい。
 もちろん年譜も、索引もつけてあるという親切さは、いかに方代選手が大下一真、岡部桂一郎、玉城徹などの編集委員に愛されていたかという証左のようなものでしょう。

古事記の建速須佐之男命以降、本邦はあまたの歌人を輩出したわけですが、石川啄木とこの山崎方代ほど、人懐かしさを覚える歌を詠んだ人はいなかったのではないでしょうか。
この本源的な懐かしさはどこから来るのか? 叙事と叙情、蒼茫と草莽のふたつごごろの共鳴は、生まれながらにこの漂泊の歌人の胎内に宿っていたと思われます。

1914年に山梨県八代郡右左口村に生まれ、2度の召集を経て1946年傷痍軍人として台湾から病院船で帰国した方代は、長年にわたる放浪生活を終え、1972年からは鎌倉市手広の4畳半の陋屋に侘び棲むようになります。
八幡様のすぐ近所にあった「鎌倉飯店」(ずっと夕方から方代も皿洗いをする中華料理屋であったが、現在は代が変わって蕎麦屋)の店主の好意によるものでした。

ようやく安住の地を見出した方代は、1980年から地元の文芸誌「かまくら春秋」のもとめに応じて毎月3首の作品を発表するようになりますが、その中からいくつかご紹介しましょう。代表作なんかには入りませんが、個人的に近しさを感じるものですから。

 朝比奈の隠し砦のあとどころほたるぶくろは花吊しおる  (前述誌9月号掲載)

朝比奈峠は自宅から歩いて5分もかかりません。ここは中世鎌倉と六浦港を結ぶ交通で、要害の地でしたから、その麓に天然の「やぐら」を活用した隠し砦が構えられ、それはいまも天高くそびえています。

ちなみに小学生時代の次男のケンくんと愛犬ムクなどは、彼の悪童仲間と一緒に、ここを拠点にターザンかトムソーヤーさながらの大冒険を楽しんでいたようです。

  湘南のくまがい草も咲き移り短く寒く夏はゆくなり  (同詩11月号掲載)

 これは驚いた。1980年にはまだくまがい草が乱獲されずに私の地元に咲いていたんですね。

  夕方の酒屋の前にて焼酎に生の卵を落としている (同上)

 なんかあまりにもぴったしかんかんな光景ですが、この酒屋は近くの荒川さんか、それとも今は無き「泉水屋」か? あした荒川さんチに行って聞いてみようかな。


     校長に若き女性も数見えて日本列島千本桜 蝶人
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邦画3本立て

2018-03-30 16:30:15 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1316,1317,1318


1)若松孝二監督の「エンドレス・ワルツ」
稲葉真弓原作の同名の小説の映画化で、鈴木いづみと阿部薫の熱愛と破局を描くが、そこには2人のドラマはなく、2人を演じる町田町蔵と広田玲央名の力演があるばかり。

2)野村芳太郎監督の「疑惑」
桃井かおりが先天性の悪女を好演。弁護士役の岩下志麻を引きずりまわす。こんなに強烈な女のいくさは見たことがない。

3)吉田大八監督の「紙の月」

すらりとした姿態を惜しげもなくシノラマのキャメラの前に晒していたあどけない少女が、あの小林聡美と張り合うまでの本邦を代表する性格俳優にまで成長を遂げるとは、亡くなったりえママも草葉の陰で喜んでいるだろう。
日本を逃亡したヒロインが外国で楽しく生き延びているという結末には納得できないが。

   妻君が買うてきたばかりの琺瑯を台無しにしてしもうた奥さんごめんね 蝶人

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福永光司著「荘子」を読んで

2018-03-29 16:11:19 | Weblog


照る日曇る日 第1050回



中国の古典に親しんだことなんかてんでなかったので、名のみ知る「老荘思想」の有名な「老子」ではなく、誰も騒がない「荘子」から読んでみよう。
それもいつか名のみ聞きかじったことのある福永光司氏の注釈で、と思っていたら、幸い念願かなって、今月今夜のこの佳き日にこの手にとることができました。

「荘子」は「内篇」7、「外篇」15、「雑篇」11の合計33篇から成っているそうだが、福永氏によれば「外篇」「雑篇」はいわば二次的著作で、もっとも古くて荘子自身の面目を濃厚に伝えている「内篇」を熟読すればそれでよい、と断言されているので、これ幸いと本書に決めたわけです。

最初の「逍遥遊編」の冒頭に、皆さまが良くご存じの超有名なフレーズがあります。

「北の冥に魚あり。其の名を鯤と為う。其の幾千里なるを知らず。化して其の名を鵬と為う。鵬の背、其の幾千里なるを知らず。怒ちて飛べば、其の翼は天垂つ雲の若し。是の鳥は、海の運くとき、将に南の冥に徒らんとす。南の冥とは、天のなせる池なり」

ともかく荘子選手と北きたら宇宙的に気宇壮大で、大言壮語を敢てし、孔子や老子なんかを現世に拘泥する阿呆呼ばわりして平気なのですが、その思索は思いもよらぬ深みに達しているのではないかという気がします。気がするだけですが。

「徳充符篇」では有用の人より無用の人のほうが尊いとされているし、「大宗師篇」では身体が全後左右滅茶苦茶にこわれた障害者がどっさり出てきて、世の中の聖人君子をあざ笑うところもいわば逆転の発想で痛快無比ずら。

最初を紹介したので最後の「応帝王篇」からも逸話をひとつ。

中央の帝、混沌に御馳走された南海の帝と北海の帝が、お礼のしるしに目鼻立ちのかけらもない混沌に鑿を使って7日ががりで眼、鼻、口など7つの穴を開けたところ、あわれ混沌は死んでしまったという。

人間のさかしらが、生々溌剌たる自然の営みを窒息させ、死滅させると荘子は言うのであるが、子どもの教育現場のみならず大人の労働環境に至るまで、現代社会全般がよってたかってこの混沌退治に血道を上げているような気がしてくるようなおはなしですね。

  またしてもわがパスワード忘れ去りわれパソコンに潜入せんとす 蝶人


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なむあみだぶつサーカス ―――今井義行著「Meeting Of The Soul(たましい、し、あわせ)」を読みて謡える

2018-03-28 10:24:54 | Weblog
著者の8番めの詩集を手にしてまず驚いたのは、表紙と裏表紙の石ころの写真でした。
さまざまな形をした雨に濡れた石たちは、まるでとろりとした溶液に包まれた未知の生き物のようで、じっと見つめていると、彼ら独自の言葉で、彼らだけの物語を語り出しそうです。

自宅のすぐそばで雨に打たれながら著者自らが撮影されたようですが、何の変哲もない身近な素材に思いがけない光を当てて、誰も見たこともない新しい世界へ導き、今までにない心が震えるような体験を私たちに提供してくれるのが詩人の真骨頂で、その皮切りがカバー写真という訳です。

全部で34篇の詩編の中には、「逝ってしまった細胞質が転生遂げる」「魑魅魍魎の華は咲く」「病棟から暁子に電話した」「フランダースの犬」「よこしまなすいようび」「彗星パルティータ」「透明な、かえる」「厨藝坊にて」「依存の樹」「きぬかつぎ」「フランスへの手紙」「造花の如く」などという魅力的なタイトルがひしめいていて、どれもが「読んで!読んで!」と声を上げて手招きしているようです。
そもそも詩とは、そのタイトルからして詩でなければならないのでしょうね。

本書には、著者の日々の暮らしのありよう、生と性の喜びと悲しみ、人々と世界に対するむきだしの愛のすべてが自由奔放で創造的な書法で刻みこまれ、読者の身魂を震わせます。

それでは早速、私の大好きな仲間たちの感想を聞いてみましょうか。


○野比のび太
ああ面白かった!
久しぶりに心が自由になって、外へも、内へものびのびと広がっていくような不思議な現代詩を読んだな。

○源静香
自由な詩だというのは、分かるけど、「外へも、内へも」というのは?

○のび太
なんかさあ、能の「羽衣」を見物しているような気分。
「♪東遊びの数々にー」の謡に合わせて、漁師から羽衣を返してもらった天女が、嬉しくなって三保の松原で踊ると、漁師だけじゃなくて、私たちの心まで晴れ晴れとしていって、最後に天女は、富士の高嶺の果てに消えてゆく。
そんな広大無辺の精神世界を、詩が「花粉を舞わせながら」、霞のように、昔風に言うとエーテルのように、舞っているような気がしたんだ。

○源静香
へえー、よく分かんないけど、わたしは、世知辛いこの世の中をなんとか生き延びながら、「地球が突然垂れ下がろうとも」、一篇の詩を命がけで紡いでいる鶴。暮らしと「友愛」のために、身を粉にして糸を紡ぎながら、気宇壮大な「東遊び」を楽しんでいるボーダーレス、ジェンダーレスの一羽の「つう」がいるんだ、ということは分かったわ。

○ドラエもん
分かったずら。「夕鶴」、ね。

○のび太
その「夕鶴」っていう名詞ひとつが、まごうかたなき詩である、と「あまでうす」という人がさかんに主張しているんだけど、誰か知ってる?

○イクラ
パブーン。

○静香
でもこの今井さんて人、詩の言葉の構成、発芽と生成過程、遊び方も独特のものがあるけど、それだけじゃなくて、無機的になりがちな散文の美しいこと! 
単なる自伝的文章とか考察が詩に化ける、なんて、ちょっとすごくない?

○ドラエもん
毎朝4時に起きてPCに向い、点滅する最初の一字、最初の一行、「輝珠」から、世界が、詩的宇宙が切り開かれていくなんて、なんかぼくの「どこでもドア」みたい。親しみが持てるなあ。

○のび太
きみの「どこでもドア」なら、多くの詩人が羨ましがっていると思うよ。
問題は、「どこでもドア」を開いた後だ。その一字、その一行をどうやって次の一時、次の一行につなげていくかということなんだけど、この詩人は、その連続的な軽業を、まるでサーカスのブランコ乗りのように、(少なくとも傍目には)いともたやすく自由自在にやってのけるんだ。

○ドラエもん
天才じゃん。ぼくの「4次元ポケット」みたいずら。
サーカスの天才、ぼく、超うらやま。

○のび太
「なみあみだぶつサーカス」、てんだけど、聞いたことない?

○イクラ
パブーン。

○静香
初耳だけど、不思議な響きね。詩になりそう。

○のび太
この「なむあみだぶつサーカス」の最大のウリはなにか、きみたち知ってるかい?

○ドラエもん
なに? なに? 教えて! 教えて!

○のび太
鉄製の円球の中に閉じ込められたオートバイがね、エンジンを最大限にふかしながら、大音声を上げて、球形の内部をぐるぐる回る。
何度も何度も全速力で回るもんだから、ドラーバーの頭の中も、ぐるぐるぐるぐる全速力で回転し、見物しているわれわれの脳味噌も、心拍も、身魂さえも紅蓮の烈のように燃えたぎって、尋常ならざる異世界へぶっ飛ばされてしまう。なむあみだぶつ なむあみだぶつ。
そして気が付くと、狂気のように回転し続けていたオートバイは、ドライバーもろともいつのまにか跡形もなく消え去り、サーカスのテントのてっぺんからはスーパームーンがぬっと顔をのぞかせているんだって。

丸静香
なんか面白そうね。

○のび太
うん。一度のぞいてみたら。

○ドラエもん
あした読んでみるずら。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだぶつ


     限りなく黒に近き灰色を白だと白だと切り抜けていく 蝶人

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ビートたけし著「アナログ」を読んで

2018-03-27 11:11:07 | Weblog


照る日曇る日 第1048回



新しい事務所を作った、その裏には新しい女がいるということで新たな話題をまき散らしている著者による「初の恋愛小説」という触れ込みである。

建築のデザイン会社に勤めている主人公が、「クラシック界の幻のヴァイオリニスト!」と恋に落ちるという、どこか漫画的な話なのだが、文章が妙にパサパサしていて、ラブストーリーらしい潤いに欠け、ひたすら物語の成り行きを追うだけの「作り話」に終わってしまっているのが残念である。

いつしか気心が通じあうようになった2人は、ある日コバケンが指揮するコンサートに出掛けるのだが、その夜の曲目が、ベートーヴェンの「運命」と、ベルリオーズの「幻想交響曲」に加えてスメタナの「わが祖国」だったというのだが、いまどき世界中のどこでもこんなてんこもりのヘビーなプログラムを演奏するオケも指揮者もいないだろう。(全6曲のうち第2曲の「モルダウ」を取り出して演奏されることもあるが、この小説では一夜の演奏会のプログラムに相当する「わが祖国」全曲となっている)。

小説では、そういうほんの小さなディテールひとつで、すべてが台無しになってしまうということは、映画のメガフォンをとる北野武なら熟知していても、お笑いのビートたけしには、ついぞあずかり知らぬ領域の話だったのだろう。


   有名なビートたけしが描いた本と言われなければ誰も読まない 蝶人

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チチンプイプイ

2018-03-26 11:13:50 | Weblog


これでも詩かよ 第235回


チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

あなたのチンポは どれですか?
それは あなたの秘密です。
世界の誰にも 明かせない。

チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

私のチンポは どのくらい?
それは 私の秘密です。 
愛する人にも 明かせない 

チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

できればチンポは ビッグがいい
大きいだけでは うどの大木
硬くて なかなか しぼまないやつ!

チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

男の値打ちは なんでしょう?
男の値打ちは チンポで決まる
顔も 知性も 関係ない

チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

大きなチンポが ほしいなあ
硬いチンポが ほしいなあ。
なかなか しぼまぬ チンポは どこだ?

チチンプイプイ チチンポイ
大きいチンポ 小さいチンポ 中くらいのチンポ

大きく 硬く しぼまぬチンポ
これさえあれば 打ち出の小槌
打てば打つほど 女性はよろこぶ

ズズンズンズン ズビズバア
チチンプイプイ チチンポイ
朝の5時まで しあわせさ


  コウ君が捨てたと恨んでた歯ブラシ出てきたコウ君ごめんね 蝶人
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ロベール・ブレッソン3本立

2018-03-25 13:47:14 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1313、1314、1315


ロベール・ブレッソン監督の「少女ムシェット」
ベルナノスの小説を1967年にブレッソンが映画化。貧困、いじめ、孤独、家庭崩壊、暴行、そして絶望の自死。どこにも救いがない少女の肉体と魂の底の底まで、ブレッソンは冷酷にあばきだす。やはり神はどこにもいなのだろうか。

ブレッソン監督の「抵抗」
ゲシュタポに捕えられ投獄された死刑囚の決死の脱出行、暴虐への抵抗を淡々と描きつくす。真実を映像にとどめることがブレソンの願いであったが、ここにはその理想的な達成がある。

ロベール・ブレッソン監督の「バルタザールどこへ行く」

どこへ行くと訊かれてもバルタザールはロバであるからむやみに好きな所へはいけない。幼いときにはネコ可愛がりされたものの、長じるに従って過酷な現実に飲み込まれて言語に絶する労苦に苛まれ、最後にようやくその現世からの脱走が可能になるものの、流れ弾丸に当たって不慮の死を遂げる。そのバルタザールを可愛がった少年少女もろくなことにはならない。ま、それが我らの人世さ、と哲人ブレッソンはいいたげである。本作で映画デビューしたヒロインのアンヌ・ヴィアゼムスキーはひところゴダール映画のミューズに なったが、去年の秋70歳で亡くなった。

     待ち待ちてついに桜は咲きたれど政界ばかりは真冬の寒さ 蝶人



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亡き母を偲ぶ歌 増補版

2018-03-24 12:54:45 | Weblog


ある晴れた日に 第501回


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり  

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花

雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 

なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 

土手下に真昼の星は輝きぬ小さく青きイヌフグリ咲きたり 

人の齢春夏秋冬空の雲過ぎにぞ過ぎてまた春となる 

春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか

おかあちゃんはたった一人で逝きはったわいらあなんもしてやれんかった 

とめどなく流れる水を見つめつついたく泣かれし日曜の朝

ただ一度われの頬を打たれしことありき祖父の死を悲しまぬわれを


 まなかいに浮かびし母の面影に丹波言葉で語りかける今朝 蝶人

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佐々木 愛子歌集

2018-03-23 09:29:26 | Weblog


本日、母、佐々木愛子没後16年につき遺作を再掲させていただきます。
 

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり 

    
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく
                   
1992年5月
五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

          
1992年7月
くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり


15,6年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて

色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける

谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむ

1992年8月
娘達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

兼さん(昔の「てらこ」の番頭さん)の遺骨還りたる日近づく
かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

1992年11月
もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

1992年12月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ   「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

1993年1月 病院にて
陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

1993年2月
大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえずり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。
十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            

1993年9月
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして      雅子さんご成婚か、不詳

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

1994年5月
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       「水無月祭」は郷里の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく


   早すぎる死亡通知を嗤いつつその翌日に金子兜太逝く 蝶人

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かがくいひろし作「だるまさんと」を読んで

2018-03-22 09:33:25 | Weblog


照る日曇る日 第1047回


大好評のだるまさんシリーズの第3作です。

「と」という助詞をなかだちにして、いちごさん、ばななさん、めろんさんが次々に登場し、最後にそれらを3位一体ならぬ4位一体化させる編集基軸と、絵とコピーの絶妙な取り合わせが見事です。

昨日の「100万回生きたねこ」といい本書といい、優れた絵本は「繰り返しの定理」を巧みに使いこなしているようだ。もちろん内容が乏しければいくらいくらシェーマが完成されていてもダメなのだが。


      麻生安倍自民文科省は酷いけど
  羽生と羽生藤井くんとなおみちゃんが凄いので
   おらっちも負けずにぐあんばろうとぞ思ふ 蝶人

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佐野洋子作・画「100万回生きたねこ」を読んで

2018-03-21 10:10:59 | Weblog


照る日曇る日 第1046回


ともかく「100万回生きたねこ」という題名からして凄い。
全体の構成も、文も、絵もよく考え抜かれた素晴らしく感動的な絵本です。

 100万回もないたねこは、しずかに うごかなくなりました。
 ねこは もう けっして生きかえりませんでした。

という最後の1行を読み下すと、もう 涙が噴出してくるのをけっしてとどめることはできませんでした。

とりわけ白いねこが登場したときの輝くような美しさ!
そして彼女が死んでしまった時の悲しさ!
おりからの花粉症で、鼻からは鼻水、目からは涙涙の垂れ流しですからもうたまりません。

しかしねこにしろ他の動物にしろ、人間にしろ、果たして100万回も生きることができるのか。輪廻転生で行けば、もっともっと長生きして生き続けて死ぬことがないわけですが、ずーーとネコではいられない。時々人間になったり、ヒバリになったり、センザンコウになったりするから、退屈しないであの世とこの世を行き来できるというもの。
私は人間ですが、こんなに大変な人世なんて、1回だけでたくさん。100万回も繰り返すなんて狂気&地獄の沙汰としかいいようがない。

この絵本の主人公のねこは、最愛の奥さんが亡くなったとき、はじめて泣くのですが、1回2回3回どころか100万回も泣いたという。
100万回どころか100回泣くのも大変だろうな、と薄情者のわたくしなんかはつい考えてしまいます。

むかし中国の哲学者の老子が死んだとき、たった3回しか泣かなかった男を、弟子が責めたのに対して、荘子は「人間の死とは天の摂理だ。それを何回も泣いたり喚いたりするのは天から受けた自己の生命の本質を見失っているからだ」とたしなめたそうですが、われらが主人公は、断固として100万回泣いた後で、生きることを止めてしまいます。

それまでは天理に従って100万回生き続けていたねこが、100万1回目を生きる道をはずれて、死んでしまう。
つまり輪廻転生を拒否して、わが道を行ったわけですが、それだとあれほど愛した白ネコ(こちらは相変わらず輪廻転生しているはず)との再会は、おぼつかなくなってしまう。

唯一無二の愛の記憶を胸に、我らがねこクンは、輪廻転生のない虚無の世界に逸脱していったのでしょうか。


 今日もまた歌壇にボツを喰らったのでお隣のヒグチさんにあわせる顔がない 蝶人


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若竹千佐子著「おらおらでひとりいぐも」を読んで

2018-03-20 10:13:37 | Weblog


照る日曇る日 第1045回


世上では本作が芥川賞を受賞したというので、幻冬舎ならぬ「玄冬文学」の誕生だとかいうてはやし立てる莫迦な奴がいるようだが、騙されたと思いつつも勢い込んで読んでみると、ただ最愛の夫を天に奪われた婦人の悲嘆を、紙背にたぷり塗り込めた小説、というより上手に書けた自分史、ありいは私小説風のエッセイみたいな文章だったので、なんでこんな作品に栄えある金時計が授与されたのかといたく怪しんだ次第。

思うに、内容よりは、著者の郷里の岩手言葉を(井上ひさちに倣って)取り入れた語り口の巧みさと、スタッカートでずばり断ち切った鮮やかなエンディング?!が評価されたのだろうが、全体的には同時受賞した石井游佳の「百年泥」に一籌を輸す出来栄えだと思った。

誰が選考委員をしているのか知らないが、最近の芥川賞は、ハリウッドのアカデミー賞同様、「これがそれかよ!」と驚くような愚策凡作を果敢に選んで、わたしらを唖然茫然とさせてくれる。

読者と同様、プロと称される選考委員も目明き千人、めくら千人ということなのだろう。


    アッキーが足を運べば役人が忖度せぬと誰が思うか 蝶人
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石井游佳著「百年泥」を読んで

2018-03-19 12:11:16 | Weblog


照る日曇る日 第1045回


南インドのチェンナイという町で日本語教師として働くヒロインが遭遇した100年に一度のアダイヤール河の大洪水。泥土からは行方不明の人間などが次々に現れ、それらを見物に出かける老若男女の上空には成金だけが所有操縦する最新式の有翼小型飛行機が飛び交うというシュールな光景。日本語教室にはむかし見世物師の客寄せをしながら各地を巡業していたというデーヴァラージがいて、教師などやったことのない彼女を助けたり邪魔をしたりするが、いつしか「顔から血の気がひくほどの美形の」若者に惹かれてゆくのだった。

リアルなのだが、ちょっとシュールでポップなこの独特の風味は後を引く。できれば続編を読ませてもらいたい。


          狼が息絶えし日の寒さ哉
          おおかみが身罷りし日の寒さ哉
          九十八の狼去りて2月尽 蝶人
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由良川狂詩曲~連載第21回

2018-03-18 14:01:04 | Weblog



(春なので、第19、20、21回を併せて収録しました)




★第19回 第6章 悪魔たちの狂宴~正歴寺の鐘は鳴る

 やがて、朝ケンちゃんが登った寺山には、虹のような琥珀色の後光が射して、西の空が美しい朱色に染まりました。
 その朱色が、わずかに暮れ残ったセピア色と溶け合いながら、明暗定かならぬ幻覚を見ているような微妙な色調に、おぼろおぼろに変わる頃、正歴寺の高く澄んだ鐘の音が、綾部の町ぜんたいに子守唄のような晩祷を捧げはじめました。

  他人おそろし
  やみ夜はこわい
  おやと月夜はいつもよい

  ねんねしなされ
  おやすみなされ
  朝は早よから
  おきなされ おきなされ

  ねんねした子に
  赤いべべ着せて
  つれて参ろよ
  外宮さんへ

  つれて参いたら
  どうしておがむ
  この子一代
  まめなよに まめなよに

  まめで小豆で
  のうらくさんで
  えんど心で
  暮らすよに 暮らすよに

  寝た子可愛いや
  起きた子にくや
  にくてこの子が
  つれらりょか つれらりょか

  あの子見てやれ
  わし見て笑ろた
  わしも見てやろ
  笑ろうてやろ 笑ろうてやろ

  あの子見てやれ
  わし見てにらむ
  突いてやりたや
  目の玉を 目の玉を

 と、その時、
 正歴寺さんの鐘の音が、「突いてやりたや目の玉を、目の玉を」と唄い終わった時、
ケンちゃんは、由良川全域に響き渡るような大声で、

 「そうだ!」

と叫びました。

 ケンちゃんは、由良川の水際の泥と水を両足でぐちゃぐちゃにかきまぜ、砂利だらけの河原をましらのように走り抜け、さまざまな自然石を足掛かりになるようにコンクリートに埋め込んだ堤防の傾斜面をイノブタのように駆けのぼり、スズメノテッポウやチガヤが生えている堤防の上の一本道に座り込んで、土の上に棒きれでなにやら地図のような見取り図のようなものを一心に描きはじめました。

 それからケンちゃんは、なにを思ったのか、もうとっぷり日が暮れて誰一人いない由良川へ、静かに入ってゆきました。
 そして大きなストロークで河を15メートルほどさかのぼってから、空気をうんと吸い込んでどこか深い所へ潜ってしまいました。

 5分、そして10分近く経っても、ケンちゃんは浮かんできません。
 どこかでなにかが、ポチャンとがねるような音がしました。あれはきっとアユかフナが、水面すれすれに飛ぶユスリカに飛びついたのでしょう。
 それからさらに30分、1時間と、時はどんどん過ぎてゆきます。

 おや、水浸しになった濡れ鼠のケンちゃんが、星いっぱいの夜空に、片腕を元気いっぱい振り回しながら、岸に向って泳いできます。

――やったあ、これでうまくいくぞお! チェストー!

 と、ケンちゃんは北斗七星の大熊くんに向かって吠えました。
 それからケンちゃんは、由良川の堤防に置いてあった自転車に軽々と飛び乗ると、西本町の「てらこ」までお得意の両手放し乗りで帰ってゆきました。

 晩ごはんは、ケンちゃんの大好きなスキヤキでした。
 丹波の但馬のいちばんやわらかでおいしい肉を、ケンちゃんのおばあさんがサトウをどっさりかけてお鍋でグツグツ煮込んでいきます。
 そこへフとネギを加え、肉と三位一体になった大好物が奏でる香ばしいかおりと絶妙の味わい……
 ケンちゃんは、ごはんを3杯もおかわりして、もうお腹がいっぱいになってしまいました。
 ごはんの後ケンちゃんは、おじんちゃんに由良川での投げ網の漁のやり方についていろいろ教わってから、大好きないつもの「テレビ探偵団」も見ないでお風呂に入り、8時すぎには、もうぐっすりと眠りこけてしまったのでした。

                                   
★第20回 第7章 由良川漁族大戦争~僕らは若鮎攻撃隊


翌朝、ケンちゃんは、朝ごはんに山崎パンのトーストに生協のイチゴジャムをてんこ盛りに塗りつけたやつを1枚と、ネスカフェ・ゴールドブレンドの熱いのを2杯おいしくいただくと、おじいちゃん、おばあちゃんに「ごちそうさま」を言って、自転車を軽くひとまたぎ。あっという間に由良川河畔へとやってきました。

川には、一面の朝霧が立ち込めています。そこへ、寺山の反対側にそびえる三根山からまっすぐに立ちあがった5月の朝の太陽が、由良川を一望しながら、慈愛に満ちた光を放ちました。

ところどころうす雲をぽっかり浮かべた大空に、一羽のひばりが、ギザギザの螺旋状の軌道を残して舞い上がり、しばらくお神酒に酔っ払ったような歌を唄っていましたが、すぐに、青空のどこかで自分を見失ってしまったようでした。

素晴らしい朝です。
次第に温度が上がってくるようでした。

ケンちゃんは、由良川漁業協同組合の会員でもあるおじいちゃんから借りた漁網を自転車の後ろから取り出すと、それを井堰の上流15メートルの所に仕掛けました。
由良川の全幅700メートルにわたって、人の眼にも、魚の眼にも、それとほとんど識別不可能な漁網を、おじいちゃんに教わった通りに、端から端までていねいに張り巡らしました。
普通のネットだと破れる恐れがあるので、特別素材を二重にバック・コーティングしてある超ハイテク製品です。

そして、左岸に1本だけ立っている大きな柳の木の根っこのところにポッカリ口をあけている、例の千畳敷の大広間に通じる秘密の入り口の手前のところだけは、わずかながらネットを掛けない隙間をつくっておきました。
つまり、左岸の隅っこのわずか30センチを除いて、由良川は完全に封鎖された、というわけです。

それが終わると、ケンちゃんは、柳の木の下の木陰に腰をおろして、おばあちゃんが特別につくってくれた沢庵入りの特大おにぎりを、おいしそうに平らげました。
そして掌にねばつくご飯を、川の水でごしごし洗っていると、メダカが3匹寄ってきて、ご飯粒をツンツンつつきながら言いました。

「ケンちゃん、ケンちゃん、そろそろ1時だよ。戦闘開始の時間だよ。さっきから若鮎行動隊がスタンバッてるよ」

――よおーし。

気合いを入れながら、ケンちゃんは、寺山を背中にして西郷どんのような格好で、すっくと立ち上がりました。
ケンちゃんは上半身はもちろん裸ですが、半ズボンの腰のところにベルトをつけ、ベルトにはてらこ先祖伝来の少しさびた脇差をはさんでいます。

気合いもろともその短刀を腰からエイヤッと抜きはなって口にくわえ、一瞬川面ににぶい光をきらめかせると、ケンちゃんは、柳の根方から、一気に由良川に踊りこみました。
ケンちゃんは、口に短刀をくわえたまま、由良川の中央最深部めざして、ぐんぐん泳いでゆきます。

まもなく綾部大橋の下にさしかかります。
橋の下には、由良川でいちばん速い魚、すなわち50匹のアユが、全員うすいピンクのたすきを掛けてケンちゃんを待ち受けていました。

みなさま、覚えておられるでしょうか。これこそ、去る4月23日未明、全由良川防衛軍最高司令官に就任したウナギのQ太郎が編成した、海軍特別攻撃隊でした。

昨年の冬、丹後由良の海で越冬し、ふたたび由良川にさかのぼって来たばかりの頼もしいアユたちが、ケンちゃんの日焼けした顔を見ると一斉に胸ヒレを4回、背ビレを3回、尻ヒレを2回、そして尾ヒレを1回振って歓迎しました。
これが由良川の魚たちの正式の挨拶の作法なのです。

知育・体育・徳育の3つのポイントで厳重に審査された、由良川史上最強の若鮎特別攻撃隊は、ケンちゃんを三角形の頂点にして、見事なピラミッド梯団を組みながら、由良川を毎時13ノットで遡行してゆきます。

ドボン、ザボン、ガボン
僕らは若鮎攻撃隊

死地に乗り込む切り込み隊
命知らずの若者さ

ドボン、ザボン、ガボン
僕らは若鮎攻撃隊

邪魔だてする奴はぶっ殺す
ナサケ知らずの若鮎さ

みんなで唄いながら進んでいくと、やがて由良川は急に深くなり、きのうライギョたちが、ホルスタインを喰い荒していた地点にさしかかりました。

ここが「魔のバーミューダ・トライアングル」と呼ばれる怪しい一帯です。
水は濁りに濁り、前方は、ほとんど見通しがつきません。


                            
★第21回 第7章 由良川漁族大戦争~ある戦いの歌


なにやら血なまぐさいにおいがしてきました。
いました。ライギョたちの大群です。
30、50、70、100、150,およそ200匹くらいでしょうか。
巨大な肉食魚のライギョたちが、イライラ不機嫌な表情で、お互いに八つ当たりをしながら、狂ったようにあたりをぐるぐる回っています。

もう昨日のホルスタインのご馳走は、今日はひとかけらもありません。
「腹が減ったときほど、魚に理性と常識を失わせるものはない」
と、いつかもタウナギ長老も申しておりました。

みずからを呪い、他魚を呪い、由良川を呪い、丹波を呪い、この国を呪い、ついには全世界を呪って、ありとあらゆるものへの敵意と憎悪が最高潮に達したライギョたちは、新たな獲物を求めて歯噛みしながら、血走った両眼をあちらこちらへ飛ばしています。

さあそこへ、ケンちゃんと若鮎特攻隊の討ち入りです。

雷魚タイフーン
「おや、あれは何だ。上の方でスイスイスイッタララッタスラスラスイとミニスカートで踊っている軽いやつらは?
なんだあれは由良川特産のアユじゃないか。
よーし、みんな俺についてこい。皆殺しにしてやる」

雷魚ハルマゲドン
「えばら焼き肉のタレで喰った昨日のこってりした牛肉とちごうて、アユはほんま純日本風の淡白な味や。塩焼きにしえ喰うたら最高でっせ。
ああヨダレがぎょうさん出る出る。ほな出陣しよか」

てな訳で、よだれを垂らしながら急上昇しはじめたライギョ集団めがけて、ナイフかざしたケンちゃんが、上から下へのさか落し。
先頭の雷魚タイフーンの顔面を真っ二つに引き裂いたものですから、さあ大変。
怒り狂ったおよそ200匹のピラニア集団は、ケンちゃんめがけて猛スピードで殺到しました。

するとこれまた決死の若鮎たちが一団となって、ケンちゃんとライギョ集団の間に、すかさず割って入りました。
ライギョは時速60キロ、対するアユは時速75キロですから、その差は大きい。
まるで戦艦と高速駆逐艦が、至近距離で戦うようなもの。
お互いに大砲も魚雷も打てないまま、体力と気力の続く限りの壮烈な肉弾戦が、由良川狭しとおっぱじまりました。

雷魚ハルマゲドン
「くそっ、待て待て莫迦アユめ!ちえっ、なんでこんな逃げ足が早いんじゃ。よおーし、とうとう追い詰めたぞ。これでもくらえっ!」

若鮎ハナコ
「オジサンこちら、手の鳴るほうへ。いくら気ばかり若くっても、もう体がいううこときかないんでしょ。

 赤いおベベが
 大お好き
 テテシャン、
 テテシャン」

雷魚ハルマゲドン
「若いも若いも 
 25まで 
 25過ぎたら
 みなオバン
とくらあ。それっ、行くぞ。この尻軽フェロモン娘め。とっつかまえてやる!」

若鮎ヨーコ
「やれるもんなら、やってみなさいよ。
 お城のさん
 おん坂々々
 赤坂道 四ツ谷道
 四ツ谷 赤坂 麹町
 街道ずんずと なったらば
 お駕籠は覚悟 いくらでしょう
 五百でしょう
 もちいとまからんか
 ちゃからか道
 ひいや ふうや みいや
 ようや いつや むうや
 ようや やあや ここのつ
 かえして
 お城のさん 
 おん坂々々」

雷魚ハルマゲドン
「うちの裏のちしゃの木に
 雀が三羽とまって
 先な雀も物言わず
 後な雀も者言わず
 中な雀のいうことにゃ
 むしろ三枚ござ三枚
 あわせて六枚敷きつめて
 夕べもらった花嫁さん
 金華の座敷にすわらせて
 きんらんどんすを縫わせたら
 衿とおくみをようつけん
 そんな嫁さんいんどくれ
 お倉の道までおくって
 おくら道で日が暮れて
 もうしもうし子供しさん
 ここは何というところ
 ここは信濃の善光寺
 善光寺さんに願かけて
 梅と桜を供えたら
 梅はすいとてもどされて
 桜はよいとてほめられた」

若鮎ハナコ
「あやめに水仙 かきつばた
 二度目にうぐいす ホーホケキョ
 三度目にからしし 竹に虎
 虎追うて走るは 和藤内
 和藤内お方に 智慧かして
 智慧の中山 せいがん寺
 せいがん寺のおっさん ぼんさんで
 ぼんさん頭に きんかくのせて
 のるかのらぬか のせてみしょ

雷魚タイフーン
「京の大盡ゆずつやさんに
 一人娘の名はおくまとて
 伊勢へ信心 心をかけて
 親の金をば 千両ぬすみ
 ぬすみかくして 旅しょうぞくを
 紺の股引 びろうどの脚絆
 お手にかけたは りんずの手覆い
 帯とたすきは いまおり錦
 笠のしめ緒も 真紅のしめ緒
 杖についたは しちくの小竹
 もはや嬉しや こしらえ出来た
 そこでぼつぼつ 出かけたとこで
 ここは何処じゃと 馬子衆に問うたら
 ここは篠田の 大森小森
 もちと先行きや 土山のまち
 くだの辻から 二軒目の茶屋で
 縁に腰かけ お煙草あがれ
 お茶もたばこも 望みでないが
 亭主うちにと 物問いたが
 何でござると 亭主が出たら
 今宵一夜の 宿かしなされ
 一人旅なら 寝かしゃせねど
 見れば若輩 女の身なら
 宿も貸しましょ おとまりなされ
 早く急いで お風呂をたけよ
 お風呂上りに 二の膳すえて
 奥の一間に 床とりまして
 昼のお疲れ お休みなされ
 そこでおくまが 休んでおると
 夜の八ッの 八ッ半の頃に
 「おくまおくま」と 二声三声
 何でござるかと おくまは起きて
 金がほしくば 明日までまちゃれ
 明日は京都へ 飛脚を出して
 馬に十駄の 金でも進んじょ
 それもまたずに あの亭主めが
 赤い鉢巻 きりりと巻いて
 二尺六寸 するりと抜いて
 おくま胴体 三つにきりて
 縁の下をば 三間ほりて
 そこにおくまを 埋めておけば
 犬がほり出す 狐がくわえ
 亭主ひけひけ 竹のこぎりで
 それでおくまは
  のうかもうとののう一くだり」

雷魚ハルマゲドン
「ほら! 歌にご注意、恋にご注意、
 油断大敵、うしろに回って
 オジサンがつかまえた!
 そらっ、泣くも笑うも、
 この時ぞ、この時ぞ」

若鮎ハナコ、ヨーコ
「きゃあああ、やめて、やめて、
 許して、お願い!」

雷魚タイフーン、ハルマゲドン
「千載一遇、ここで会ったが百年目。
 ここは地獄の一丁目。ここで逃してなるものか。
 処女アユめ、オジサン二人で貪り喰っちまうぜ。
 おお、ウメエ、ウメエ、
 処女アユときたら、なんてウメエんだあ!」

                                つづく

  この国の未来は暗いね若者の多くが自民を支持しているらし 蝶人

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レフ・トルストイ著・中村融訳「アンナ・カレーニナ(下)」を読んで

2018-03-17 09:42:02 | Weblog


照る日曇る日 第1044回



夫と別れて好きな男と一緒になったものの、肝心の男が彼女に(当たり前のことながら)120%密着してはくれず、他の女に色目を使ったりするので疑心暗鬼に駆られた哀れな女は、とうとう神経衰弱のようになって極度に錯乱し、発作的に鉄路に身を投げてしまう。

ああついに一巻の終わりかと思ったのですが、ト翁のペンは一向に止まらず、無神論者だったレーヴィンの感動的な改心に向かって全精力が注ぎこまれ、いわばアンナの身代りにレーヴィンが再生して生命の松明が引き継がれていくような楽天的&一瀉千里の終わり方をする。

私はロシア語なんて一語も解さないが、本書本訳の最後の一文はもはや正常な文法を大きく逸脱しており、あたかも1951年バイロイトにおけるフルトヴェングラーのベートーヴェンの「第九」終楽章の、音も命も宙に跳ぶような奇跡的な爆演を思わせるのである。

こういう小説は、あまりないのではないか。

表題こそ「アンナ・カレーニナ」だが、この大河小説の主人公は、彼女だけでなく、彼女の主人カレーニンや情人のウロンスキー、レーヴィン夫妻、オブロンスキー夫妻であり、この大河小説は、彼らの多様な人世、輻輳した家庭生活を描くことを通じて、当時の貴族や農民、帝制ロシアの階級社会、経済政治体制そのものを、重層的かつ個別具体的にえぐり出そうと試みた、「超」のつく意欲作だった。

こういう小説は、あまりないのではないか。

   ホレみなよあっという間に忘れ去る死んだばかりの有名スタア 蝶人
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