あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

柳美里の「山手線内回り」を読む

2007-09-30 14:57:44 | Weblog


降っても照っても第58回

私は、小説というジャンルの内容や形式の新しさなどはもはや出尽くした、と勝手に考えていたが、そうは問屋が卸しはしなかった。まだまだ前人未到の領域が残されていることを著者は見事に証明して見せたのである。

まず「山手線内回り」というタイトルだが、ここには東京の代表的な交通エリアに物語の場所を据え、駅周辺に生活する三人の都会人の最先端の生を描くと共に、その三つの生の最期と一体化された冷酷無残なギロチンとしての電車を終幕に登場させるという趣向なのである。

3つの短編にはそれぞれの主人公がいちおう存在するのだが、物語の真の主人公は、山手線の電車に象徴される現代社会がはらむ無機的な非情さと無関心と敵意と孤独そのものなのである。

第1作の最初のページは、「女は便器に越をおろすと、タイトスカートをへその上までまくりあげ、パンツをふとももまでずりおろした。緊張が内にこもっているようなおまんこを右手におさめ、右手の上に左手を重ね、最初はそっと、徐々にこねるように、そしてなか指をクリトリスに押し付けて左右に強く―、」という卑猥で下品で文章で始まる。

私は著者の人格を思わせるそのあまりの「えぐさ」に不愉快になり、かててくわえてその擬音や雑音や地口や広告やチラシの無秩序な引用やらにムカついて、あやうく本書を文字どおり放り出そうとしたのだが、「しかしこれはセリーヌに比べたらまだひよっこみたいなものだ」と思いつつ、ぐっとこらえているうちに、しだいに著者の術中にはまり込み、「まもなく4番線に上野・池袋方面行きが参ります、危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」という最後の文章を読むころには、あろうことか著者の力量にすっかり脱帽してしまった。

次の「JR高田馬場」、さうして巻末におかれた「JR五反田駅東口」では、著者の実験的手法は(少なからざる失敗と大きな逸脱はあるものの)、着実な成果をあげることに成功し、最後の作品の最後の文章(記号!)を眼にした人は、容易に忘れられない感銘を覚えるにちがいない。

著者は、通常の作家が見落としている非文学的な領域にあえて下降して、もっとも文学的ならざる醜い文体、無意味な記号、漂流するネット情報の断片などを丁寧に拾い上げ、それらの糞のようなガジェットどもを総動員して見事な平成文学を荒々しく紡ぎ上げた。

これは、まさしく泥池に咲いた一輪の美しい蓮の花であり、醜いアコヤ貝に育まれてついに世に出た一粒の真珠であり、さらにいうなら、閉塞する現代文学に対して投じられた起死回生の手榴弾である。
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寂しい異端派

2007-09-29 09:29:19 | Weblog


♪音楽千夜一夜第27回

いまどきの人は誰も読んでいないだろうが、音楽之友社という出版社から「レコード芸術」というクラシック趣味のマニアックな雑誌が出ている。私は吉田秀和氏のエッセイが連載されているので毎号必ず目を通しているのだが、巻頭の目玉記事は月評ということになっていて、いろいろな音楽評論家が、(読者の大半が馬鹿にしているとは知らないで)手前勝手に新作CDの批評をしている。

昔はここで高く評価されると実際にレコードが売れることもあったのだが、この節ではそのような幸福なめぐり合わせは絶えてないようである。

さてこの月評で面白いのは、交響曲担当者の小石忠雄氏と宇野功芳氏の見解と評価が毎回ほとんど一致しないことで、一方が推薦しているCDを、他方(その大半が宇野氏である)がくそみそにけなしていることだ。

例えば07年9月号では小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によるモーツアルトのリンツやプラハの演奏を、小石氏は「小澤のモーツアルト世界が構築されている」と絶賛しているのに対して、宇野氏は「両曲とも平凡で、自分はこういうモーツアルトをやりたいのだ、という意志がなく、とても名曲とは思えない」と一刀両断している。

同じ指揮者の同じ演奏を前にして天地さかさまの評価が出るのは、当たり前といえば当たり前だろうが、もし芸術に鑑賞者の能力や資質や好悪を超え、各人各様の恣意性を超えた客観的かつ絶対的な評価基準があるとすれば、「どちらの意見も正しい」、あるいは「めくら千人、目明き千人」とはけっしていえないはずである。

ちなみに私も宇野氏とまったく同じ評価なのだが、どうやら世間ではあいもかわらず小澤と巨人軍(たかが野球なのにお前は軍隊なのか!)と自民党ファンが主流派らしく、少数異端の私などは、いずれ君たちにも分かる日も来るさ、と寂しくつぶやきながら黙って耐えているしかなさそうである。


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コーリン・デイビス80歳

2007-09-28 14:22:01 | Weblog


♪音楽千夜一夜第26回&遥かな昔、遠い所で第20回

今日もロンドンで放送しているBBC3のライブをポッドキャスティングで聞いている。コーリン・デイビスが80歳になったのでそれを記念したライブやこれまでの演奏を紹介しているのである。白髪のコーリンがフィガロの第二幕とか幻想交響曲と、シベリウスなどのおはこを楽しそうに振っているのが目に見えるようだ。

幕間のインタビューで内田光子が、コーリンのモーツアルトへの愛を例によってとても興奮した口調で喋っていたが、そんなに大げさに褒めることもあるまい。コーリンはいつでも謹厳実直で温和で、しかしここぞというときには激しい精神の火花を散らす音楽家であり、今では数少なくなった古きよき時代の英国の紳士なのである。

私が彼の音楽をはじめて耳にしたのは今から30年以上も昔の東京文化会館で、来日したコーリンがブリテンの「ピーターグライムズ」とベルリオーズの大作「トロイ人」を指揮して、それが私の生まれて初めてのオペラと英仏音楽体験となったのだった。ピーターグライムズを熱演したジョン・ヴィカーズのあの逞しい体躯!

コーリンよ、どうかいつまでも長生きして彼独自の優美なモーツアルトのオペラを聞かせてほしい。


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吉本隆明著「自著を語る」を読む

2007-09-27 10:10:08 | Weblog


降っても照っても第57回

吉本の人間と思想から決定的な影響を受けて雑誌「ロッキング・オン」を創刊したロック評論家渋谷陽一による吉本へのインタビュー本である。渋谷陽一のロック評に私はかつて一度も裏切られたことがないが、渋谷はここでも著者に対する的を射た的確な問いを発し、著者の誠実な回答を引き出すことに成功している。

吉本は渋谷の手引きによって忌野清志郎や遠藤ミチロウの「スターリン」のライブに出かけたそうだが、吉本とスターリンの取り合わせの妙には笑ってしまった。

それはさておき、本書では、初期の「固有時への対話」「転位のための10篇」から始まって、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」にいたる著作の執筆動機や時間的経過を経ての振り返りが、吉本の難解な表現に辟易した私のような読者にもわかりやすく語られている。

渋谷が断じたように、「言語にとって美とは何か」「共同幻想論」「心的現象論」の3部作とは、小林秀雄とは違った形の吉本の「詩」であったのもかもしれない。ちなみに吉本は小林の評論を「無思想な詩」であると総括している。

しかし子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の名句である所以、芸術作品としての価値は必ずや一字一句微分積分できるはずだと、相変わらず頑固に主張するこの数理学者の言語論には首をひねらざるをえない。

もしもその理屈が可能になったとしても、その機能還元主義的分析の極限は子規の人格そのものであり、吉本主義的分析は、俳句創造の精神とはついに無縁なものであるだろう。吉本があこがれる朔太郎や中也は、別に後世に残る名詩を書きたくて詩人になったわけではない。

吉本において、言語美とは自己表出と指示表出の「織物」であるそうだが、So What?  いったいそれがどうしたというのだ。私たちの作句の精神作用となにか関係の絶対性でもあるのだろうか? ここには「文学に科学を介在させることが進歩的である」という奇妙な錯覚がある。

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小池昌代著「タタド」を読む

2007-09-26 11:35:31 | Weblog


降っても照っても第56回

今日の朝日新聞によれば、文芸誌の書き手が既存の専業作家から演劇畑などの異業種に拡大されつつあるそうだが、国会議員にお笑いタレントや格闘技選手が進出しているご時勢なのだからこれは遅きに失した当然の成り行きだろう。

才能の発掘の余地はつねに広く開かれていなければならない。本書の著者も本職は詩人であるが、詩人らしい繊細な感性を生かしてなかなか面白い短編を3本並べてくれている。

表題の「タタド」というのは、意味不明のタイトルで始末に終えないが、要するに海の傍の広い1軒屋に集った2組の熟年カップルが、ふとしたはずみにスワッピングしてしまう話で、ひとつ間違えば低俗ポルノに堕しかねないプロットを、著者はその寸前で見事に持ちこたえて、絶妙なクライマックッスを築くことに成功している。

しかしその文尾は、「寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた」というのだが、詩人にしては少しく下品な日本語ではないだろうか。

「波を待って」もやはり舞台は海であり、この短編の主人公は、終始海から吹き続ける夏の終わりの風である、といってもよいだろう。突然サーフィーンに狂ってしまった夫の帰還をひたすら海辺で待ち続ける妻のモノローグは、どこかヴァージニア・ウルフの「波」の独白を思わせるところがあった。

私の隣人もサーファー夫婦だが、この小説を読んで、若い彼らがいったいなににとりつかれて毎日のように海に行くのか、その一端がおぼろにつかめたような気がした。

最後におかれた「45文字」は物語の設定がやや強引に過ぎると思うが、末尾の二人の登場人物のこれからが気になる。

このように著者の短編は、はじめは処女の如くおずおずと助走を開始し、徐々に加速しながら最終地点で脱兎の如く読者めがけて投じられる長弓のように、むしろ物語が果てた後で、その大きな震動が私たちを揺るがし始めるのである。

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五木寛之著「21世紀仏教への旅ブータン編」を読む

2007-09-25 13:20:04 | Weblog


降っても照っても第55回

2500年前にインドで起こった仏教は、中国や朝鮮半島を経由して日本に渡り、インドでヒンズー教と習合した後期大乗仏教が、チベットに入って土着のボン教と習合してチベット密教となり、それがブータンに入ってブータン仏教徒となった。

ブータンでもっとも信奉されているのはニンマ派の開祖で「第二の仏」と称されているグル・リンポチエで、グル・リンポチエは時と場合に応じて釈迦、王、僧侶、歓喜仏、王族、修行僧、憤怒尊など8つの姿に変身して出没するという。チベット密教の影響を強く受けたブータンの仏教が、わが国の仏教とまったく相違するのも当然であろう。

ブータンの人々はけっして蝿や蚊を叩いて殺さない。死して49日後には輪廻転生して次の人?生に生まれ変わることを信じているから、位牌を持たず、先祖供養をせず、インドと同様墓を所有しない。

インドでは遺灰はガンジスなどの川に流すが、ブータンでは手のひらほどのピラミッド型の泥細工にされて山陰や仏塔のたもとに供えられ、歳月とともに風化して土に還っていくそうだが、私はこの考え方にとても共感を覚える。

ブータンといえばGNP(国内総生産)という物神思想を廃し、国民総幸福量GNHで人間の幸福を図ろうとする価値観をなんと28年前の1979年に世界に向かって発信したことで知られる。

この國ではいかにして金儲けするかではなく、いかにして幸せに生き、幸せに死ぬか、ということが最大のテーマなのである。

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村上春樹編著「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読む

2007-09-24 10:59:31 | Weblog


降っても照っても第54回

著者が偏愛するスコット・フィッツジェラルドの短編、エッセイ、故地探訪記、そしてスコット・フィッツジェラルドを助けた「エスクアイア」編集者によるアーネスト・ヘミングウエイとスコット・フィッツジェラルドのエッセイを付け加えた興味深いアンソロジー(いずれも村上の書下ろしと翻訳、解題による)である。

私にはわけてもスコットのファム・ファタールであるゼルダの伝記と最後の思い出話が興味深かった。
ゼルダ・セイヤーはスコットが「アラバマ、ジョージア2州に並びなき美女」と絶賛したそうだが、写真に見るその顔はそのような美人ではない。彼は彼女が発する凄まじい生命力の虜になったのだろう。

退屈のあまり消防署に「子供が屋根に上ったまま降りられないから助けて」と電話してから屋根に上り、はしごを外して救援の到着を待つ少女ゼルダ、そして20年代ジャズエイジのフラッパーとなって酒とパーテイとダンスに明け暮れ、酔っ払って断崖絶壁から深夜の海に飛び込む命知らずの女を私は好きになれないが、タデ喰う虫も好きズキ、そんな生命の爆発的な輝きにスコットは限りなく魅せられたのだろう。

しかし自由と自立を求めて、愛する恋人スコットとも戦う中で精神を病んだゼルダの晩年は、1940年、ハリウッドで心臓発作で急死したスコットと同様、目を覆いたくなるように悲惨である。1947年11月、ゼルダはアッシュビルのハイランド病院で火事に遭い他の8人の患者と共に黒焦げになって焼け死んだ。享年48。「彼女を知るものは誰一人としてその人生を短すぎるとは感じなかった」、と村上は記している。

アーノルド・ギングリッチによって書かれた巻末の「スコット、アーネスト、そして誰でもいい誰か」は、スコットとヘミングウエイの二人の共通の友人による交遊録と両者の比較であるが、ギングリッチはその人物、文学的価値のいずれをとってもスコットに軍配を上げている。

「皮肉なことに存命中には大成功しそうに見えたほうが挫折のうちに死に、挫折のうちに死んだ方が見事な成功を手にした。やがてヘミングウエイ再評価がやってくることもあるだろう。ちょうど私がドライサー再評価の到来を信じているように。でもフィッツジェラルドには再評価はもう必要ない。フィッツジェラルドは、将来必要とするであろうものまで既にすっかり手に入れてしまった。そしてヘミングウエイがいまだ辿り着いていない不動の地位をも獲得した。それはまったくのところ、スコットの好みそうな趣向である。しかしそれを鼻にかけたりすることはなかったはずだ。彼はそういうことをけっしてしない人だったから」

この1966年12月に書かれた追悼文を、泉下のスコット・フィッツジェラルドに読ませたかったと思うのは、私だけではないだろう。
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G・ガルシア=マルケス著「悪い時」を読む

2007-09-23 10:46:57 | Weblog


降っても照っても第53回

表題作のほかに「大佐に手紙は来ない」「火曜日の昼寝」「最近のある日」「この村に泥棒はいない」などの短編を9本収録した作品集である。


前作の「落葉」は著者の生まれ故郷のアラカルタをモデルにしたマコンドの物語であったが、本作の舞台はコロンビアのとある町に変わっている。

マルケスは50年代に発表の当てもなく「悪い時」をパリで書き始めたが、その途中で「悪い時」の登場人物が、前述の「大佐に手紙は来ない」など、それぞれ自分を主人公にした物語を書くことをマルケスに要求したため、「悪い時」の完成は1962年を待つことになってしまった。

個人を描きながら、全体としての町を描き、些細な事物をきめ細かく叙述しながら、その町を取り囲む政治、経済、社会の動向を刻一刻と記録していくその手法は、ドキュメンタリーとロマンチックなドラマツルギーの双方向的融合であり、著者が目指したのは虚実をあわせ含む現代の総合全体小説といってよいだろう。そしてその試みは後の「百年の孤独」において見事に結実するのである。

 それはともかく、この作品集におさめられた「失われた時の海」における海底都市の幻想的な美しさには息を呑む思いであった。
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叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

2007-09-22 11:09:26 | Weblog


♪ある晴れた日にその13&鎌倉ちょっと不思議な物語79回


 年々蛇も少なくなる。

ここ太刀洗はヤマカガシがうようよしていて、私が大切にしているオタマジャクシを食べてしまう。「ダメダメ」と追い払っているうちに秋が来るのが常だったが、今年はそんな必要もなさそうだ。

ヤマカガシよ、しっかり生き延びて大きく育ち、ここいらへんにやって来る「杉並歩こう会」のおばはんたちをびっくりさせなさい。
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クワガタの指に食い入る痛さかな

2007-09-21 13:41:07 | Weblog


♪ある晴れた日に その12

一昨日の朝は私が、そして昨日の朝は家内が、玄関先の同じ場所で小さなクワガタに親指の肉を噛まれた。

仰向けになって必死でもがいているので、可哀相だから起してやろうと掴んだところを、クワガタの両手で深々と挟まれた。しかも私はオスに、家内はメスに噛まれたのである。

世の中には不思議なこともあるものだ。そうして不可思議な似た者夫婦もあるものだ。

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原聖著「ケルトの水脈」を読む

2007-09-20 13:51:06 | Weblog


降っても照っても第52回

講談社の「興亡の世界史」第7巻が本書である。80年代に入ってアイルランドのリバーダンスやエンヤの癒し?音楽など、いわゆるケルトブームが世界中で巻き起こったが、そのケルトとは何かをあれこれぐちゃぐちゃ論じている。

しかしケルト人とは何か、と問うても諸説紛々でいまいち定説がなく、基本的にはカエサルが「ガリア戦記」で述べているガリア人と同じであるらしい。ただ確かなことは古代からケルト文化の淵源はアイルランドやスコットランドなどではなく、ガリアの本拠である現在のフランスのブルターニュ地方であり、昨今のアイルランドやスコットランド中心のケルトブームは、先祖探しに狂奔するそれらの國の政治的戦略でもあるらしい。

キリスト教を国教にしたローマは、ギリシアローマ神話のみならずありとあらゆる非キリスト教的なる神話や伝説を皆殺しにしたが、このブルターニュ地方にはかなり長くケルト文化が残り、地下水のように細々と流れながらその遺産を現代に伝えているらしいのである。

その水や泉や巨石や聖なる山、ドルイドと呼ばれたケルトの僧侶が太陽崇拝を行った聖なる火、フレーザーが「金枝篇」で研究したヤドリギなどの木や植物、鬼や魔女や妖精や妖怪、アンクウと呼ばれた死神などは、いずれもケルトを代表するカルチャーであった。


著者によれば、フイニステール県の海岸部では、死者を運ぶ「霊魂の船」が人知れず夜中に航行するが、霊魂の呼びかけがあっても絶対に「アーメン」としか答えてはならない。もしそうしなければ一緒に連れて行かれてしまう。

またブルターニュ地方ではあの世からの帰還を求めて夜に洗濯する女の幻影が古来数多く見られるという。死後の霊は蝶、野うさぎ、ネズミ、小蝿、黒猫、ガチョウなどに姿を変えてこの世に戻ってくるというのだが、これはまったく非キリスト教的な考え方であり、むしろわが国の仏教に似ているのではないだろうか。

そんな次第で、このさい改めて西欧世界の歴史を学びなおし、NYの聖パトリック教会の由来や、アーサー王伝説などについてくわしく知りたい人には手ごろな教材になるだろう。



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エットレ・スコーラの『星降る夜のリストランテ』を観る

2007-09-19 13:29:58 | Weblog


降っても照っても第51回
                              
この映画は『特別な一日』や『ル・バル』や『マカロニ』のエットレ・スコーラ監督の作品だから、少し乱暴だけれども、あら筋がどうだこうだと書くのはいっさいやめよう。108分間、黙ってみていれば十二分に楽しませてくれる。

原題の『ラ・セーナ』は、イタリア語で「晩餐」。前菜やデザートや洒落た会話や悲喜こもごもの人間模様の数々を、監督は美味しく料理してくれる。そして最後に、夜空の星がぼおっと映し出されて、スコーラさんは、このシーンを撮りたかったのだとわかる。モーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の溶ろけるようなアンダンテを、リストランテの全員がしんみり聞き惚れるシーンは素敵だ。もういちど人間を、人生を好きになれる映画、かも知れない。

以上で終り、のセンス良し映画なのだが、僕としては、ある女性に再会できて嬉しかった。
ファニー・アルダンである。もう相当の歳なのに、色っぽい。レストランの女主人という役どころ。ベージュの前開きワンピースをゆったりと着こなし、ちょっと胸元をのぞかせ、あの人懐こい笑顔、大きな口を開けて「ヴオナセーラ」とお客様にご挨拶ーー
眼を凝らして、肩紐を何回もチェックしたが、多分ノーブラOR恋するブラであろう。

80年代の前半に、フランスかイタリアの田舎町でアルダンの映画を見た。アルダンが海辺の汚いバーのトイレに行く。ドアを開けたまま、パンストとスカートを一気に下ろして便器にしゃがむ。その時陰毛がくっきり映っているので僕は吃驚した。これ見よがしにシャアシャアと用便するアルダンめがけて、若きジャックニコルソン風労務者が欲情をムキダシにして進んでゆく……。

嘘みたいなシーンだったが、僕はこの眼でしかと見たのだ。しかし、このあと2人がどうなったのかまったく覚えていないのが残念。日本未公開の超B級作品だとおもう。恋人トリュフォーを失ったアルダンの自暴自棄がアナーキーに出ていた。できるだけ下らない映画に出て、自分を痛めつけてみたかったのだろう。

トリュフォーの遺体に取りすがって、アルダンがわんわん泣いたという記事を読んだこともある。その瞬間、僕はなぜか彼女のわんわん泣いている有様が、まるで映画のワンシーンのように脳裏に浮かんできて、大根女優の彼女を、はじめて好きになったのだった。
熟女アルダンのしどけなく、臈(ろう)たけた感じがなかなかいい。死ぬまでノンシャランにやってくれい。

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映画『こころの湯』を観る

2007-09-18 13:34:10 | Weblog



降っても照っても第50回

いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。

私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。

『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40~50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。

夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。

銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。

この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。

ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。


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御成通りに幻の「滝乃湯」を訪ねる

2007-09-17 09:55:40 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語78回&遥かな昔、遠い所で第20回



00年1月に失職した私は、やむなく筆一本の売文稼業で身を立てようと雑誌社に売り込みをかけ、奮闘努力の結果ようやく名門K社の団塊世代対象の新雑誌の新米ライターとして初めての取材原稿を書くことになった。

私は天にも昇る気持ちで音羽の編集部を訪れ、担当者のSさんから「銭湯特集」の企画の説明を受け、カメラマンとのコンビで千住の「大黒湯」と、大田区仲六郷の「nuland」、そして地元鎌倉の「滝乃湯」を取材することになった。

御成通りの「滝乃湯」の前に立ったのは、忘れもしない01年5月のある晴れた日の昼下がりだった。タイル張りの玄関、苔蒸した築地塀、そしてその塀越しに優しく伸びたもみじの枝がことのほか印象に残った。

当時、この鎌倉最古の銭湯「滝乃湯」は存亡の危機にあった。番台に座り続ける経営者の熊坂紀和子さんは71歳。昭和5年築の銭湯と同い年だった。借地の更新料が払いきれずに、01年2月末に廃業通知を張り紙したところ、常連客を中心に存続嘆願書が殺到。1ヶ月近くでなんと3665通に達したという。

多くの住民の熱望、市の努力と地主さんの好意が結実し、70年の歴史に輝く名湯は、02年3月まで存続できることになったばかりだった。

私が「滝乃湯」に中に入ると、浴場も脱衣場も、照明はただ一本の電燈がぶら下がるのみで、まずこの質素さが心に沁みた。浴場に足を踏み入れると、星空がのぞく高い天井と富士山のペンキ絵が鄙びたいい味を出していた。
新米ライターの私は、さっそく熊坂さんへの取材を開始した。

「滝乃湯」は産後の血行回復、神経痛に効く漢方薬湯が名物で観光客にも人気があり、普通の銭湯と違って、毎日お湯も薬も入れ替えているという。

「うちのお湯はね、3度お湯に入って暖まらないと風邪をひくよ」
「私の夢はここを銭湯保育所にしてねえ、子育てに自信のない母親からお子さんを預かってねえ、オジイチャン、オバアチャンたちといっしょに育てることだったの」
「考えてみると、みんなが裸になって、声をかけあったり、気持を通わせる唯一の場所が、この銭湯なの……」

そんな鎌倉最後の楽園が、ここだった。

私が取材したあとも数年間は営業が続いた「滝乃湯」だったが、とうとう昨年、あの長い煙突も、私が一糸まとわぬヌードモデルとなって入浴した浴槽も、脱衣場も、富士山のペンキ絵も、築地塀も、もみじの枝も、それらのすべてが地上から消えうせて、ご覧のようにどこにでもある駐車場になってしまった。

それにしても、古き良きものは何ゆえに滅びやすいのであろうか?

ちなみに、私が執筆したその雑誌も、創刊わずか2年ほどで廃刊になってしまった。
まことに諸行は無常である。

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御成り通りのおもちゃやさん

2007-09-16 13:54:44 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語77回

鎌倉裏駅「御成り通り」の海側の端っこにある「くろぬま」こそ、この商店街のご本尊であろう。

昔は和洋の紙屋であったが、その後袋物を扱い(現在も各種ビニール袋がずらりと並べてある)、それからおもちゃ屋さんに転身した鎌倉随一の不可思議な商店である。

私たちは幼い子供のためにこの店で花火を買ったが、子供だけでなく大人も楽しめるいろいろなグッズが、ざっかけない店内に雑然と並んでいる。

ウナギの寝床のようなお店の奥に座って新聞を読んでいるメガネのおじいさんも古めかしい店舗の風情ぴったり合っている。
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