照る日曇る日第1692回
「巨悪が蔓延る濁世に、権力者共を打倒して社会正義を打ち立てたい」と願うある種の倫理的浪漫主義が流行し、それが降り積もって実際に様々な政治組織の内奥で活動し始めると、たちまち「どんな正義を、どのようにして実現するのか」を巡って激しく理論闘争を繰り返すようになり、それが度重なると今度は問答無用の暴力で相争うようになる。
多種多様な党派が「おのが仏」を崇め奉るあまり、その権威を認めない反対者の存在を肉体的に抹殺するようになるのだ。
「彼奴は敵だ。敵を殺せ」、世界の人類史で至る所で何度となく繰り返されてきた政治的、宗教的争闘は、本邦の60年から70年代の左翼の間で熾烈なものになったが、その刃が権力よりも身内に向かったところに悲劇があった。
本書は、はじめはいわば処女の如く始まった左翼的運動が、内ゲバを繰り返し、1972年の「あさま山荘事件」と共に脱兎のごとく壊滅していくまでを丁寧に辿って、その道行の悲劇的必然性を白日の下で晒している。
しかしなぜ優秀な知性の持ち主を擁しながら、新左翼は後世に「一億総ノンポリ化」を残して全く無意味に自滅したのか? それともどこかの誰かの他山の石や哀しい反面教師くらいの意味はあったのか。
本書の最後で佐藤は「最終的な命取りになったのは、彼らが官僚化しないことでした。現代の政治は官僚化しないとできないものなのです」と語っているが、素直に頷くことが出来ない結論である。
東京教育大の入試中止でやむを得ず慶應でマル径を専攻した池上彰と、わが丹陽教会の牧師であった緒方純雄先生の愛弟子で同志社大神学部闘争を沙青同の一員として戦った佐藤優による対談であるが、目配りが行き届いていて好感が持てる。
感染したウガンダ人はウガンダへ亡命希望のビルマ人は日本に留めよ。蝶人