あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2023年文月蝶人映画劇場その4

2023-07-31 10:37:23 | Weblog

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3354~58

1)三宅唱監督の「ケイコ目を澄ませて」

聴覚障害を持つ元プロボクサーの自伝に拠る2022年の伝記映画。なんというてもヒロインの岸井ゆきのがいいね。

 

2)ウェズリー・ラッグルズ監督の「シマロン」

開拓時代の西部を舞台に逞しく自立する女性を描く1931年の超大作。1960年ばんお

 

3)マイケル・カーチス監督の「破局」

ヘミングウエイ原作の「持つと持たぬと」の1950年の2回目の映画化で。面白い。パトリシア・ニールが色ッぽいね。

 

4)デリク・ボルテ監督の「アオラレ」

下らないことで後続ドライバーとトラブったヒロインが、どえらい災難に遭う2020年の噺。

 

5)キング・ヴィダー監督の「街の風景」

エルマーライスの舞台劇を名匠が忠実に映画化した1931年の傑作群像劇ずら。

 

  羽生よりもジョコよりも強い若者を見て驚かぬ我に驚く 蝶人

 

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村上春樹著「街とその不確かな壁」を読んで

2023-07-30 10:16:33 | Weblog

 

照る日曇る日 第1932回

 

久し振りの村上春樹だが、珍しくイントロが凡庸かつ退屈で、珍しく「もう投げ出して別のを読もうか」とまで思ったのだが、「いやまてまて、他ならぬムラカミ小説だから、途中から必ず面白くなるはずだ」と思い直して、我慢に我慢を重ねて読み続けていたら、だんだんよくなる法華の太鼓、言葉通りに面白くなって、「やはりさすがはムラカミだ、ムラカミハルキだ、「森から初夏の草原に飛び出した兎のように」躍動するぢゃあないか」と、いつもの村上節、お得意の異次元パラレルワールド世界の魔か不思議に酔わされかかったのだが、やっと第1部が終わると、止せばいいのに第2部の街と不確かな壁が出現し、やっとこさっとこ第2部が終わると、止せばいいのに、なんとなんと第3部のお馴染みの街と不確かな壁とやらが、「あらえっさあさあ」とまたしても立ち上がり、「小説には己のために書く小説と、特定の誰かのために書く小説と、不特定多数のために書く小説の3つがあるんであるんでR」とさる達人が喝破していたけれど、その伝でいくと、これは最初のカテゴリーに分類される「他人ではなく、不特定多数のためでもなく、自分のためにだけ書かれた世にも珍しい長篇小説」で、だからこそ「あらゆる読者をおいてけぼりにして、なんと655頁も書きに書き捲って、たった一人でゴールインしたんだろう、けしからんムラカミめ!」と口を揃えて罵らざるを得ないような、奇妙奇天烈な長篇変態小説だった。

 

   青い鳩を亡きものにして×にするテスラのマスクの趣味の悪さよ 蝶人

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村上龍著「ユーチューバー」を読んで

2023-07-29 08:35:48 | Weblog

 

照る日曇る日 第1931回

 

最近はあまり小説など出てこないので、もう作家家業からすっかり足を洗って、テレビキャスターや経済評論家?になりすましているんか、と思っていたら、突如これが出たので、おやまあ、と思って、読んでみました。

 

島田雅彦なんかは、この村上より若い方だけど、それでも昔を振り返って、「回顧録」というか「半自叙伝」らしき本を2冊も書いている。

 

ところで、これを読むまで知らなかったんだけど、村上龍ってなんと古希なんですね。誰でも歳をとる。そして歳をとると、なんだか昔を振り返りたくなってくる。これはああ、そういう本かな。

 

1976年に「限りなく透明に近いブルー」で颯爽とデビューしてから、現在に到るまでの、光も影もある人世や、なかんずく女との付き合いや、最近の暮らしのあれこれや心境やらを、小説的なオブラートにまぶさず、「正直」というのでも「露悪的」というのでもないが、わりと即物的に語っているところが、思いがけず新鮮だった。

 

人世に疲れているのか、人世を達観したのか、なんとなく全篇を覆う疲労と倦怠と死の翳りのアマルガムが、この世にありながら彼岸にあるような、不可思議な印象を醸し出していて、「へえっー、これが村上龍のいまなんだあ」と実感させてくれる、そおゆう「物語」ではなく「散文小説」の本。

 

   むちゃくちゃな暑さにたまらず死んでいく無着成恭森村誠一 蝶人

 

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高樹のぶ子著「小説小野小町 百夜」を読んで

2023-07-28 10:28:41 | Weblog

高樹のぶ子著「小説小野小町 百夜」を読んで

 

照る日曇る日 第1930回 

 

のぶ子さんによる半分史実、半分フィクションによる小野小町物語なり。

 

「小町」の母君が「大町」とは知らなかった。この美貌の東北美人と、天下の名筆にして問題児、小野篁とが一夜契った結果誕生したのが、われらがヒロインというわけだが、これって史実なのかしらん。

 

もっとも、いつ生まれて、いつ死んだかも不明な女性だから、おおかたは作り話になるに決まっている。

 

されど、7本作で彼女が関係する?のは意外に少なく、大本命が良岑宗貞、対抗がなんと僧遍昭、穴は叔父の小野良美で、安倍清行、在原業平、文屋康秀なんかは所謂ひとつのアトモスフェールとして雰囲気づくりに務めているというところか。

 

高樹のぶ子選手の筆だから、もっと女性優位の視線で男どもを見下す流れになるのかと思いきや、おおむね「古今集」序の紀貫之の穏健ラインで終始しているのが、ちと意外なりき。

 

  いま鳴くはホトトギスと気がつきて慌てて飛び出すわれは家持 蝶人

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ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』をみて歌える

2023-07-27 11:13:13 | Weblog

ホン・サンス監督の『気まぐれな唇』をみて歌える

 

これでも詩かよ 第298回&闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3353

 

わいらあ どうせ だらしないひと

おぬしも さいごは だらしないひと

 

女たらしが おるように

男たらしも わんさと おるがな

 

ときにそこいく お客さん 

よってらっしゃい みてらっしゃい

 

この世で いちばんめか 2番目に大事なこと

ただで 教えて しんぜよう

 

あんさんに どうしようもなく 好きな人が 出来

その人と やりたいと 思ったら

 

すかさず それを やることだ

抜く手も みせずに やることだ

 

パッパラパーと 脱ぎ捨てて

ペロペロペーと 舐め回し

 

グチュグチュグチューと 口吸うて

ズビズビズバーっと 突き入れて

 

アレアレアレーと 叫んだら

グルグルグルンと 捏ねまわし

 

一念発起 無念無想

一心不乱 一気通貫

 

四の 五の 言わず

二人揃って 成仏するんだ

 

よってらっしゃい みてらっしゃい

耳をほじって お聞きなさい

 

お二人さんも よござんすか

あたしは 二度は 申しません

 

好きで やりたく なったなら

ここを 先途と やることだ

 

これぞ この世の 置き土産

死に物狂いで やりきる ことよ

 

  モーターの生首なんかいくらでも飛んだらよろしこの暑さでは 蝶人

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澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」を読んで

2023-07-26 11:29:09 | Weblog

照る日曇る日 第1929回

 

南雲中将指揮下の第1機動部隊の兵装が、ミッドウェイ基地→米艦隊→基地へと2転3転し、航空母艦の艦上と格納庫がごったがえしていた「運命の5分間」!

 

突如雲間から急降下した米機の爆撃によって、あっという間に「赤城」「加賀」「蒼龍」が大爆発、大火災を起こして戦闘不能になり後に沈没、残る「飛龍」も敵空母「ホーネット」を撃沈したものの自沈、海軍の虎の子の空母4隻他を失い、貴重な戦闘員3056名が落命したこの海戦が、半年前の真珠湾攻撃の戦果を帳消しにするどころか、日米戦争の勝敗を決する結節点になったことは周知の事実である。

 

ところが戦史とは無縁な素人同然の澤地選手が、虚心坦懐に当時の記録を再確認していくと、「運命の5分間」などは存在せず、被弾直前の各空母の甲板に航空機の影はなく、その大半は格納庫の中で燃料満載状態で待機していたのである。そこには海戦敗北の責任を糊塗するための戦史の書き換えがある、と疑われても仕方がないだろう。

 

確かに急降下爆撃自体は電撃的だったろうが、それ以前に「陸を叩くのか、海を叩くのか」最初から最後まで作戦意図が分裂しており、敵空母発見の報が入っても対艦用の半分の飛行機は予め与えらえた仕事をしていなかった。

 

真珠湾で勝った勢いで、「敵は連動艦隊が怖いから出てこないだろう」と海軍部の作戦課長が慢心豪語しているのだから、推して知るべし。徒に敵の実力を舐めて、油断と隙があった。

 

「1石2鳥の両備え」がまるで機能していなかった。空母4対3の優位を生かす道を、自らが閉じていたも同然である。

 

4空母喪失の責任は南雲司令官、誤った命令で2隻の重巡を犠牲にした責任は山本五十六にあるとする著者の断罪は、理の当然であるが、彼らの責任は、ついに問われることはなかった。

 

もっとも、もしもこれらの問題点がなく、連合艦隊が真珠湾に続いてミッドウェイで大勝して米空母を全滅させていたら、日本軍の敗北の時期が実際よりも、さらに遅れて、実際よりもさらに甚大な被害が出ていた可能性が大なので、そこはなんともいえないのだが。

 

  コウ君がもしやまゆり園にいたならばやっぱり彼奴に殺されてたか 蝶人

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窪田政男歌集「Sad Song」を読んで

2023-07-25 10:03:48 | Weblog

 

照る日曇る日 第1928回

 

あの『汀の時』から、もう6年も経ったのかと思いながら、皓星社から出た第2歌集の、超お洒落な装丁を楽しむ。

 

都会の夕焼け空に伸びるクレーンが、まるで作者のよう。1羽の孤独な鶴のように震えている。既にして私は、クボタワールドの住人である。

 

裏表紙には繊細な紅色で、

 

  十二月のimagine「想像してごらん」命令形じゃなくぼくらはいる

 

と印字されて、既にして私は、ジョン・レノンの歌声に陶然としている。

 

  そしてまたジョンとヨーコをまねてみてベッド・インしながら花など持って

 

  十月のA Day in the Life点描の落葉の中に滲んでしまう

 

「Sad Song」というタイトルが示すように、全篇にわたって作者が愛聴した音楽の一節やミュージシャンの歌声が通奏低音のように鳴り響き、それが57577のリズムと、浅く、深く重層的に絡み合いながら、父母未生以前の思いを伝える。

 

  十一月のNacht Musik優しさも酷たらしさも歌われて、ある

 

そこには若き日の熱情を抱きしめ、滅びの日を予感するような諦念と清冽なリリシズムが迸る。

 

  雪は降るジョニーは来ない来られない「あなたが望めば戦争は終わる」

 

戦争と疫病が跋扈する日常に、黒い悲しみを吐露しながらも、作者はまだ見ぬあしたに絶望したわけではない。

 

  青あじさいひと世の花と思うとき酸性雨降る未来の方へ

 

そう、老いと病に身を晒しながら、作者は胎児のような姿勢で未来を見つめているのだ。

 

  あと十年てかんにんしてぇなけっこう気ぃ疲れとって、半分かなあ

 

半分なんて気弱なこと、言わんといて欲しいわぁ、窪田はん。

 

追記 中身も比類なく充実した歌集ですが、「栞」の田中知之さんのエッセイだけでも、本書を購入する値打ちあり。私は、不覚にも号泣してしまったずら。

 

    維新とは独逸ナチ党にさも似たり合法的な無法の政党 蝶人

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柄谷行人著「力と交換様式」を読んで

2023-07-24 09:22:59 | Weblog

 

照る日曇る日 第1927回

 

今年これまでに読んだ本のなかで、もっとも面白く、エキサイティングな思想書がこれだった。

 

ともかく読むほどに、あのマルクスが、エンゲルスが、ヘーゲル、カント、ホッブス、スミス、レーニン、イエス、モーセなどの傑物が、頁の上にまるで生きた亡霊のようにスック、スックと立ち上がって来るという、そんな生々しさを感じることができたのは、ひとえに作者の6年越の忍耐と求心力、異常なまでの執着力と熱量の持続力の賜物だろう。

 

でも思想家の思想の最終的根拠は、その論理的真実や、客観的科学的検証に委ねることはできず、ひとえに彼の大脳前頭葉の内部の確信にしかないことを、私は吉本選手や梅原選手の規模雄大な所論を読むたびに痛感させられてきた。

 

この柄谷選手においても然り。彼はこれまでの人間社会を駆動させてきた力の根源を、マルクス経済学でお馴染みの生産力と生産関係ではなく、あえてABCD4つの交換様式の発現に求める。

 

「交換様式A」は「贈与に伴う物神、霊の力、「交換様式B」は「身の安全を保障する代わりに権力の支配下に入る契約の力」、「交換様式C」は「資本、貨幣、胞の力」、そして最後の「交換様式D」こそが本論と次代の本命であり、具体的には「交換様式B」と「交換様式C」の力に抑え込まれるなかで「どこか向こうの方からやって来た高次元でのAの復活」である。と驚くべきテーゼを柄谷選手は打ちだすのであるが、いったい柄谷選手以外の誰がその当否を判定できるだろうか?

 

 「そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが

 必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、“Aの高次元で

 の回復” としてのDが必ず到来する、と。」(引用終わり})

 

恐らくそれは今度の事態の推移によってしか証明できないだろうが、私がこれをけっして狂人の寝言とは思わず、「待てば海路の日和あり」と楽観できるのは、他の凡百の思想家よりも柄谷選手の天気予報に絶大なる信を置いているからに他ならない。

 

ちなみに拙著『佐々木眞詩歌全集』の全詩集の最後587頁「お花畑にひと」はおらっちだと思っていたが、もしかすると柄谷選手かも知れないぞ。

 

  ミンミンがミンミンミンと鳴いておる耳はまだまだ大丈夫だぞ 蝶人

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ジェーン・バーキンの思い出 最終回

2023-07-23 10:06:04 | Weblog

ジェーン・バーキンの思い出 その7

 

遥かな昔、遠い所で 第97回

すべてのプロジェクトが終わって、いよいよ明日は帰国という日に、コーディネーターの方の招待で、ジェーンと私はJR有楽町駅前のガード下あたりの、当時はちょっと有名だったフレンチレストランに入ろうとしていた。

 

ところが、入口でジェーン・バーキンを上から下までじろじろ観察していたボーイが、「ただ今満席です」と、にべもなく入店を拒否したのである。

 

彼女はいつものように白の幅広シャツにあちこち素肌が露出しているボロボロに履き慣らしたジーンズといういで立ちだったが、それがこの格調高い高級店?のドレスコード?に抵触したらしい。

 

私は、ここでまたしても逆上して、「このお方をなんと心得る!」と、不逞のボーイを叱りつけようとしたのだが、その前に「あ、そう。そんなことは慣れっこよ」といわんばかりに軽やかに身を翻したバーキンは、別に「食べるのはどこでもいいのよ。あ、ここがいいんじゃない」と呟くと、敷居の高すぎるフレンチの左隣にあった大衆食堂にどんどん入っていき、私たちはその日本料理屋の畳の上であぐらをかきながら、ビールで乾杯してから天ぷら、刺身、寿司などの山海の珍味に舌鼓を打ったのであった。

 

今ではその高級フレンチも、なんでもありの大衆食堂も消え失せて跡形もないが、私はここを通るたびに、女優でもなく、歌手でもなく、ただ一個の人間であった日のジェーン・バーキンを、懐かしく思い出すのである。

 

そして、その日彼女が日比谷花壇で買ってプレゼントしてくれた大きなタペストリーは、今でも我が家の家宝のように大切に保存されていて、毎年のクリスマスの日が、すなわち「ジェーン・バーキンの日」になるのだった。

 

巴里に戻ったバーキンとドワイヨンは、その後も彼らの愛児ルーを寵愛しながら、数年間仲睦まじく暮らしたようだが、1990年に離別し、ドワイヨンは96年の「ポネット」でヒットを飛ばしたけれど、2人の代表作は1984年の「ラ・ピラート」であるとわたくしは信じている。

 

ジェーン・バーキンの霊よ、安かれ!

 

    鈴木理男水丸真木準原田隆げに懐かしきは冥界のひと 蝶人

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ジェーン・バーキンの思い出 その6

2023-07-22 14:43:08 | Weblog

 

遥かな昔遠い所で 第96回

 

仕事柄何度も何度も帝国ホテルに通ったのだが、彼女はその都度「ボンジュール!」といいながら、自分の頬を私の頬に左右2度に亘ってくっつけ、そのたびに明後日の方を向いて、チュッと唇を鳴らすのだった。

 

フランス人が、親しい友人との間で交わす「ビズ(la Bise)」、すなわち“社交的なキスである。

 

はじめのうちは大いに戸惑い、右から来るのか左から来るのか、と緊張しまくったが、だんだん数を重ねて慣れてくると、その時のテキの出方で、なんとなく分かるようになり、彼女の頬の柔らかさと淡いあえかな香水の匂いにうっとりしている自分が恥ずかしくなる瞬間も、偶にはありましたね。

何事につけても自然体で、あるがままに振る舞う彼女なので、格別セクスイーとは感じないのだが、何度も何度もビズを繰り返しているうちに、これはもしかするとベゼbaiserではないかという勘違いに陥る人も、いるに違いありません。

 

私はそういうニッポン人だけにはなりたくないなあと思っていると、バーキン様が喫茶レシートを見ながら、何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミック・ジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て、激しく首を振っています。

 

彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えて帝国ホテルのレシートにVirkinとサインしていたことを、いま知ったのです。

 

    優勝は出来ずとも地元で愛されて野球を楽しめ大谷翔平 蝶人

 

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ジェーン・バーキンの思い出 その5

2023-07-21 09:59:28 | Weblog

 

 

遥かな昔遠い所で 第95回

 

ジェーン・バーキンが滞在していた間、東京でも京都でも、素晴らしく天気が良かったので、私は中原中也が待望の長男の誕生に狂喜し、『文也の一生』で「10月18日生れたりとの電報をうく。生れてより全国天気一か月余もつゞく」と綴ったことを、ぼんやり思い出していた。

 

1986年11月29日の土曜日も、東京は晴れていたが、その日、渋い2枚目俳優のケーリー・グラントが82歳で死んだ。

私は同じ英国生まれの彼女から、帝国ホテルでそのニュースを直接聞いたのだった。

「ジャパンタイムズ」を両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、(フランス語ではなく英語で)、彼女とグラントとの思い出について語ってくれたが、残念なことに、それがどういうエピソードであったのか、私の貧弱な語学力では、ほとんど理解できなかった。

 

しかし、同じ英国生まれの大先輩とはいえ、共演したこともない偉大な俳優の死に、なんで彼女はあんなに興奮していたんだろう?と、私は随分あとになってからも気になっていたのだが、ある時米国アイオワ州ダベンボートの劇場でリハーサル中に脳卒中で急逝したケーリー・グラントが、現地で「火葬」されたという事実を知って、もしかすると、それが興奮の原因だったのかも知れない、と考えるようになった。

 

わが国では死者の殆どが火葬だが、欧米では今でもその多くが土葬にされるので、ケーリー・グラントのようなケースは稀である。

 

バーキンは「ジャパンタイムズ」でそんな記事を読んだので、光則寺で土葬と火葬の話題をふってきたのではないか、と思い当たったのだが、ひょっとすると先日パリで死んだ彼女は、フランスでは少数派でも、英国では多数派の火葬にすることを、予め遺言していたのかもしれませんね。 

 

   江尻京子日出山陽子久田尚子げに捨てがたき故人の名刺 蝶人

 

 

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ジェーン・バーキンの思い出 その4

2023-07-20 09:54:00 | Weblog

 

 

遥かな昔、遠い所で 第94回

 

前にも書いた通り、私は彼女の接待役であったから、雑誌社の取材の時にも立ち会って、賓客の「バーキン様」に失礼や粗相のないように気を付けていなければなかったが、マガジンハウスのふぁっちょん雑誌「アンアン」の取材のときに問題が起こった。

 

彼女が滞在していた帝国ホテルの彼女の部屋でインタビューし、ホテルの裏口あたりで何カットかの写真撮影が行われ、「さあこれで終わりだな」と思った瞬間、取材担当のライターのおネイさんが、バーキンが肩にかけていた白くて大きなバッグに眼をつけ、彼女に断りもせずバッグを手に取って、そのままコンクリートの地べたに置き、カメラマンに「これを取れ」と命じたのである。

 

後ろの方でそれを見ていた私は、思わずカッとなって最前列に飛び出し、「あんた、こんな所でバーキン様の大事な私物を撮るなんて、失礼じゃないか、即やめれ!」と阻止したのだが、その白くて無暗に大きな皮製のバッグこそ、1984年にエルメスから商品化された「エルメスのバーキン」の「原型そのもの」だったのでR。

 

だから今思うに、本家本元の大元祖に目を付けたオネイさんは、礼儀知らずの無礼者ではあったけれど優れた編集者であり、それを実力で阻止した私は、ふぁちょん音痴の忠犬ハチ公なのでありました。

 

    画眉鳥と台湾リスを憎むわれ超過激なるナショナリストよ 蝶人

 

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ジェーン・バーキンの思い出 その3

2023-07-19 10:05:00 | Weblog

 

遥かな昔遠い所で 第93回

 

それはさておき、接待役の私は、日本の普通の家の暮らしが見たいというジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を鎌倉に招き、当時妻の両親が住んでいて、その死後には私の次男のアトリエ兼展示会場に変身した古民家「五味家」に案内すると、大層喜んでくれたのだった。

 

それから妻が運転するカローラに2人を乗せ、大仏と長谷観音を見物してから光則寺に行ったら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながら、アカペラで知らない歌を歌っていたので、「ああ、この人はこういう不思議な少女みたいな人なんだ」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろ?」とか、「日本人はどうして火葬にするの?」などと、矢継ぎ早に英語で聞かれ、不勉強で教養のない私は激しくうろたえたことを、いま思い出した。

 

長野県の親戚の田舎などでは、いまだに土葬にすることを知っていただけに、「日本全国総火葬」と言い切ることも憚られたのである。

その場はいい加減にちょろまかして、私らはそこから以前女優の田中絹代が住んでいた鎌倉山の眺めの良い日本料理屋に行って、4人でお昼御飯を食べたのだが、その思い出の「山椒洞」は、その後ミノモンタとかいう貧相な金持ち芸能人が買い取って、無惨なるかな跡も形もなく破壊され、すっかり新築されてしまったそうだ。

 

さて京都での撮影が無事に終わって東京に戻り、ドワイヨンが一足先に帰国してからも、バーキンは一人で帝国ホテルに滞在していたので、当時季刊映画雑誌「リュミエール」の編集長をやっていた蓮實重彦さんが彼女をインタビューし、私もその号に「バーキン愛」のエッセイを寄稿させて頂いたはずだが、肝心の掲載誌がどこかに消えてしまって見当たらないのが、とても悲しい。

 

  2万円にお目々が眩んでいそいそとマイナカードをもろたのは誰? 蝶人

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ジェーン・バーキンの思い出 その2

2023-07-18 10:12:31 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第92回

 

ジェーン・バーキンが出演するテレビや雑誌広告の撮影は、京都の大沢池や高山寺の周辺で行われたので、私はロケ隊と同行し、彼女のモデルとしてのプロ意識とスタッフに対するざっくばらんな接し方に共感を覚えたが、いちばん印象的だったのは、ある日の昼の弁当に出て私を驚かせ、どうしても食べられなかったアメリカザリガニ!のフライの弁当を、彼女がミック・ジャガーのような大口で、パクパクパクと喰ってしまったことだった。

 

1986年11月30日日曜日の私の日記に、「ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜、音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ『キネマ旬報』の原稿を書く」とあるが、この時のテレビCⅯの音楽で、彼女がスキャットで歌った「ソルヴェイグの歌」が、彼女が帰国したあとの1987年に、ゲンスブールの歌詞とプロデュースによって「ロスト・ソング」という新曲としてフィリップスレコードからリリースされたのだった。

 

ゲンスブールは高音部を出せないバーキンに、あえてそれを強いた。バーキンの悲鳴に似たその歌声が、この曲の悲愴味をいやがうえにも高めているが、ハンサムでインテリのドワイヨンに夢中で、間もなくゲンスブールと別れて結婚することになるバーキンに対する、サディスティックないたぶりも、ふと感じさせるような編曲である。

 

なぜか音楽の話になってしまったので続けると、私はバーキンの最初の夫、英国の作曲家ジョン・バリーの映画音楽が割と好きで、今でも「007シリーズ」や「冬のライオン」「真夜中のカーボーイ」「アウト・オブ・アフリカ」などの名曲を楽しんでいるのだが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが、2013年12月に謎の死を遂げたことは、子供思いの母親バーキンにとってとても大きな痛手だったに違いない。

 

来日中の彼女は、毎日3女のルーに、「ルー、ルー」とその名を愛しげに呼びながら、国際電話していたことを、何故か私は知っているのだ。

 

   広辞苑の隣に並べて「柔らかき建築物」として楽しむ詩集 蝶人

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ジェーン・バーキンの思い出 上

2023-07-17 16:29:00 | Weblog

 

 

遥かな昔遠い所で 第91回

 

2023年7月16日、女優ジェーン・バーキンが、パリの自宅で76歳で死んだそうだ。

長く心臓を患い2021年には軽い脳卒中を起こしたこともある、という新聞報道を斜め読みしながら、私はしばらく彼女との懐かしい思い出に浸っていた。

 

バーキンといえば、日本人の誰もが思い出すのは、2011年3月11日の福島原発事故であろう。あの時、多くの外国人が来日を取りやめたが、なかにはジェーン・バーキンやシンディ・ローパーのように、万難を排して震災直後のわが国にやって来てコンサートを開いたり、激励のメッセージを私たちに伝えてくれた勇気あるミュージシャンもいた。

当時原発事故の様子は、本邦よりも西欧諸国のメディアのほうがより深刻に報道されていたはずだから、「万難を排して」というのは単なる形容詞ではなく、彼らは恐らく文字通り、みずからの生命の危険を賭して、飛んできたに違いないのである。

実際ジェーン・バーキンが乗り込んだ成田行きのエアフランス機には、彼女以外の乗客は一人もいなかったそうであるが、この便がパリに戻るときには、大勢の乗客で満席だったはずで、その中には本邦を逃げ出そうとする日本人もいたに違いない。

なぜジェーンが、そういう命懸けの向う見ずな行為に及んだのかは私にはよく分からないが、思うに彼女は、愛する日本人のことが心配で心配で仕方が無かったのではないだろうか。

 

テレビで第一報に接してすぐにシャルル・ドゴール空港に向かおうとする異邦人の心の底には、日本人と自分を同一視し、この最大の苦難の時をともにしたいという、国境を超えた同胞愛のようなもの、が点滅していたに違いない。

「朋あり遠方より来たる」と孔子は言うたが、同胞からおのれを切断する悲愴な決意を固めて西に飛んだ友人の代わりに、新しい東方の友人を迎えた人たちは、百万の味方を得た思いで「楽しからずや」だったのではなかろうか。

私がジェーン・バーキンという伝説付きの女優に初めて出会ったのは、1986年11月のことだった。

 

当時彼女はレナウンの「B.B.N.Y」という婦人服の広告にモデルとして出演するために、夫の若手映画監督ジャック・ドワイヨンと共に来日し、宣伝部に在籍していた私が、その接待役?を務めることになったのである。

 

私はその前年に同じ「B.B.N.Y」というブランドのテレビCⅯ2本を、やはり老練映画監督のJ=Ⅼ・ゴダールに撮ってもらっていたので、なんとなく新旧のヌーヴェルヴァーグに近いところで、趣味と実益を活かした?楽しい仕事をさせてもらっていたなあと、今振り返って思うのである。

 

   ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり  蝶人

 

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