あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

慈しみ深き-鎌倉小町通りに「聖ミカエル教会を訪ねて」

2024-03-31 09:47:59 | Weblog

 

鎌倉ちょっと不思議な物語 第461回&これでも詩かよ 第308回

 

横須賀線が北鎌倉のトンネルを抜けた瞬間に空気が少しひんやりする。しばらくして鎌倉駅のプラットフォームに降り立つと、潮の匂いが微かに鼻腔を衝く。そしてこれが鎌倉という田舎町に住むことの最高の贅沢なのである。

しかし今も昔も東口から出る霊園方面の京急バスの最終は10時15分、ハイランド行きの最終は45分なので、私は混雑するタクシー乗り場を捨てて、たまには夜の小町通を八幡宮に向かって歩いた。

今から30年くらい前の小町通にはお茶屋と信用金庫と2つの喫茶店と玩具屋と駄菓子屋と古本屋と中華料理屋と呑み屋とひき肉屋と牛乳屋とピロシキ屋と薬局と医院と寿司屋とクリーニング屋と氷屋以外はほとんどなにもなかった。

現在のような阿呆な芋アイス屋やスイーツ屋や煎餅屋やブチックや雑貨屋やカフェなどは、ただの1軒もなかった。

ほの暗い街灯の下を私はとぼとぼと歩いた。しもた屋も貧しい民家もかたく門を閉じて寝静まり、狭くて細い道に人影はなく、舗道をうつ私の靴音だけがぴたぴたと音を立てていた。

小町通りの舗装が尽きるあたりに竹製品などを売る生垣屋があり、その左側に聖ミカエル教会が静かに佇んでいた。鎌倉には明治時代から多くの外国人が居住したために市内には22の教会が現存しているそうだ。

四人の大天使のうちの1名の名を冠したこのカトリック教会は、最近“ぴかぴかに醜く”立て直された。木造の聖堂部がかろうじて当時の姿をとどめているだけで往年の面影はない。市の指定景観重要建築物だというが、その価値はなさそうだ。

私は久しぶりにこの教会の前に立ち、この教会が経営する施設に障碍児の息子を入れていただけるかどうか神父様に相談に行った遠い昔の日を思い出した。礼拝堂に入ると格天井などさすがに内部の意匠が歴史を感じさせたが、それより驚いたのは私の亡くなった母と同じ名前の女性が最近神に召されたという知らせに出会ったことだった。

 

春夏も秋冬もあり弥生尽 蝶人

 

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西暦2024年弥生蝶人映画劇場 その6

2024-03-30 09:02:31 | Weblog

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3574~78

 

1)サミュエル・フラー監督の「拾った女」

1952年の犯罪アクション映画。B級だが筋金入りの演出で、ジーン・ピーターズはエロっぽく、R.ウィドマークは本気で殴る。

 

2)ダンテ・アリオラ監督の「アイ・アム・ニューマン」

コリン・ファースとエミリー・ブラント主演の2012年の珍道中物語。

 

3)テイラー・ハックフォード監督の「パーカー」

義賊ジェイソン・ステイサム主演の2013年の犯罪映画。

 

4)ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「静かなる叫び」

モントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件を2009年に映画化。

 

5)チョン・ゲス監督の「めまい 窓越しの想い」

OLとビル窓磨きの恋を描く2019年の韓国映画。

 

龍馬姉「乙女」の如し土佐文旦 蝶人

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祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」よりその8

2024-03-29 09:17:09 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第129回

 

最終回 「あとがき」および「あとがきのあとがき」

 

あとがき

 

往年私が波多野鶴吉翁伝を書いたとき、それまであまりご交際もなかった佐々木さんからひどく褒めてもらい、深く感謝された。私はそれが丹波で初めて知己を得たような気がしてうれしかった。とともに、佐々木さんが無二の波多野鶴吉翁崇拝家であることを知った。

 

その後佐々木さんの丹波焼蒐集のお手伝いをしたりしているうちに、だんだん御懇意になり、時に身の上話なども伺ったのである。

 

最初母の眼病(「本書第一話」)の話を聞いた時、何という哀れな話だ、まるで浄瑠璃の赤坂霊現記を実話でいったようなものだ、と涙をこぼしこぼし聞いた。次に「父帰る」(本書第五話)を聞いた時、これはまた菊池寛の「父帰る」そっくりだと思い、「いつか私が暇にでもなりましたら、そんな話を私の筆でひとつ書かしていただきたいものですなあ」とあてもないことをいったのである。

 

その暇な時が頽齢七十になった私に回ってきたので、「ひとつ書かしてもらいますわ」ということになって、ことし晩秋の頃から年寄り二人が行ったり来たりして、書けたものをどうするというあてもなく、ポツリポツリと始めた仕事である。

 

佐々木さんは私より一つ年下であるが、まるで青年のごとく若々しく、記憶も至極確かであり、話もまことに卒直で書くにも書きよかった。私は今までこんな楽な書き物をしたことがなく、高血圧静養中の退屈しのぎの気まま仕事として願ってもない仕事だった、

 

やっている間に佐々木さんは、「これを本にして古希祝賀の記念にしたい」といわれ、佐々木さんの家で働いた人たちで結ばれている「佐生会」の人々にも相談して実現されることになり、途中から急に油が乗ってきたわけである。

 

ところが私の老筆はすでにカラカラにちび、それが高血圧二百の老身を労わりつつ、こたつ仕事でポツリポツリとやったのであるから、さっぱり問題にならない。あえて佐々木氏知遇の恩に酬うるに足らざるばかりでなく、「齢長ければ恥多し」を感じて、深く自ら恥ずる次第である。

 

昭和二十八年歳晩  

生野の里にて 村島渚記

 

 

あとがきのあとがき

 

この半生記は、あとがきで村島氏が述べられているとおり、古希になった祖父が過ぎし波乱万丈の生涯を小冊子にまとめて親戚に配ったものをほとんどそのままリライトしたもので、孫の私も知らなかった行状が事細かに記されているのに驚きましたが、それ以上に明治、大正、昭和三代を駆け抜けた実業家、篤信家の有為転変の軌跡が生き生きと活写されて興味深い読み物になっていると思います。

 

明治18(1885)年2月22日、京都府の山陰地方の小さな盆地、綾部に生まれた祖父は、その生涯の大半を養蚕教師、野心的な商人、宝生流の能楽師、経営者、そして敬虔な基督者として活動しましたが、昭和37(1962)年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、あえて不遜な形容詞を使うなら、まことに恰好良く、78歳で天に召されました。

 

旧約聖書の「士師(しし)記」に、窮境を跳ね返して剣をもって奮戦したギデオンという立派な義士が登場しますが、この勇者の名前を冠した「国際ギデオン協会」という1899年に設立された組織があります。

 

わが国にも支部があって、昔からホテルや病院、刑務所などに臙脂色の表紙の英和併記の特別製聖書を寄付しているのですが、晩年の祖父は、この「ギデオン協会」のボランティア活動に熱中し、大津ホテルでの最期のスピーチもこれに因んだものでした。

全8回にわたる祖父、佐々木小太郎の半生記をお読みいただき、まことに有難うございました。

 

2024年3月20日

佐々木 眞

 

物事には始めがあって終わりあり終わって初めて何かが始まる 蝶人

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「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」よりその8

2024-03-28 11:04:15 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第128回

 

第8話 小話四題

 

その一

昭和三年、世界日曜学校大会に出席し、アメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見た中で、バークレー市のカリホリニヤ大学で電子顕微鏡を見せてもらい、それを応用して写真が物を言うところも見せてもらった。すなわちトーキーで今だったら別に珍しいとも不思議とも思いはしないが、その頃日本にはまだトーキーがなく、映画はまだ活動写真と言って、動く写真だけだった。

 

それが物を言うのを聞いて、世の中にはまだ人間の知恵では計り知れない不思議のあることを知って、私は今まで聖書にある奇跡というものを信じることが出来なかったが、この電子の不思議を見て、マリアの懐胎も、五つのパンと二匹の魚とが五千人の空腹を満たしたことも、さては水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエスなど、数々の奇跡も、必ずしもあり得ないことではないと信ずるようになった。

 

その二

それからウイルソン山上の天文台で、世界第一の直径百インチの大望遠鏡で、夜の木星を見せてもらって、今更のごとく宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、一層敬虔の念を深うしたのである。

 

その三

帰路シアトルから加賀丸という大きな船で北回りして帰る途中、猛烈な暴風に遭い、どの船室にも海水が侵入して、乗客一同生ける心地もなく立ち騒ぎ、食事をとった者は一人もなかった。

 

私はこの時ひたすら神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず、体もあまり丈夫ではない私が、ただ一人平気で食事も常のごとく摂ったものである。私はガリラヤの海の難船で、ただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めた時、「ああ信仰薄きものよ」と憐れみ、たちどころに波風をしずめ給いしことと思い合わせ、それとは比べものにならないが、やはり、信じたから、祈ったから、弱い私があれだけ強かったのだ、と思わざるを得なかった。

 

その四

これは昭和十五年上海に行った時、ホテルから外出しての帰り道、中国人街見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車の通っている大通りから、とある横道に入った。折から夕刻で、中国人はみな軒下に集まって、にぎやかに食事をしている有様などを物珍しく眺めつつ町を歩いているうち、日も暮れかけ、雨さへえ降ってきたので引き返し、元の電車道に出て帰ろうとしたのであるが、どこをどう迷ったものか、道は見たこともない川にぶつかってしまった。

 

地図を見ても見当がたたず、雨はますます激しくなる。中国人が食事などをしている軒下は通れず、ズブ濡れで町をあちこっちと歩き回った。どの道を行っても川に行き当たるばかりで、電車道には出ない。ますますいらだち、ますますあわてる。尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもならない。

 

ふと通り合わせた中国人の人力車夫に指を輪にして「金はいくらでも出すから乗せろ」という意味を身振り手振りで示して乗せてもらった。幌があるから濡れないだけでも極楽だ。こうしているうちにはなんとかなるだろう、と思っていたが、そのうち車夫がこの得体の分からぬ客を持て余したのか、「降りろ」と要求しだした。

 

私は財布から金をつまみ出して、「これだけやるから、もっと乗せろ」というのだが、車夫は正直に二十銭だけとって私を引きずり降ろしてしまった。私は途方に暮れて、もう歩く気もしない。

 

その時だった。私はやっと気づいてそこに佇み、救いを求めて一生懸命神に祈った。すると「その道を真直ぐに行け」という神のお告げを感じたので、元気を出して歩いた。

しばらく行くと兵隊らしい者に出会った。

 

兵隊らしい者は、途端に銃を構えて「止まれ!」と怒鳴り、誰何されたが、日本の兵隊だと分かった私が訳を話すと大いに同情して電車通りに出る道を教えてくれたので、ようやく無事にホテルに戻ることができた。

 

前の難船の話とともに、これは私が子供の頃から持ち続けてきた「祈れよ、さらば救われん」の実証で、私が七十年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを疑わない。

 

わたくしの最後の叫びを後世に伝える人はだあれもいない 蝶人

 

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西暦2024年弥生蝶人映画劇場 その5

2024-03-27 09:36:15 | Weblog

西暦2024年弥生蝶人映画劇場 その5

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3569~73

 

1)西川美和監督の「蛇いちご」

2003年の製作だが、宮迫博之の忘れがたい演技、そしてラストの衝撃。西川美和は天才だ。

 

2)山田洋次監督の「男はつらいよ」

1969年の記念すべきシリーズ第1作。寅さんの的屋の啖呵が素晴らしい。初代マドンナは午前様の娘の光本幸子で博の父の志村喬が全体を締める。

 

3)中平康「誘惑」

伊藤整の原作を1957年に映画化したホームドラマ。銀座の画廊や洋品店を舞台に左幸子が生き生きと動き回る。

 

4)今村昌平監督の「エロ事師たち」

1966年に野坂昭如の処女作を映画化。

 

5)是枝裕和監督の「真実」

是枝監督がドヌーヴ、ピノシュ、ホークなどの外国人俳優をうまく使いこなして自分の作品に仕上げた2020年のフランス映画。

その「真実」の製作ドキュメンタリーを衛星放送でみたが、撮影を振り回し演出に口を出す「大女優!?」カトリーヌ・ドヌーヴの高慢さに頭にくる。黒澤や大島渚なら前夜の撮影が遅いと翌朝遅れるなどの俳優の我儘は許さないだろうな。

 

ウクライナガザの戦はさておいてお彼岸につき墓参りする 蝶人

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「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」よりその7

2024-03-26 19:23:51 | Weblog

遥かな昔、遠い所で 第127回

 

第7話 ネクタイ製造 その3

 

ネクタイの生命は、柄にあった。これで他社にヒケをとってはならじ、と京都高等工芸出の意匠図案係三名に、欧米の流行を参考して研究工夫させた。

 

たまたま郡是に、スンプ*という顕微鏡のプレパラート同様のものがあり、極めて簡単、即座に作れるものが発明されたのを応用して、動植物の部分を拡大して検べてみると、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠が得られて製品の柄、模様に一新機軸を開くなど、ネクタイ製造に独特の地位を占めた。

 

このように我が社は、戦前の日本産業大飛躍時代に小粒ながらも一役を買ったのであるが、時代はやがて日華事変となり、それが太平洋戦争に進む頃には、洋服も背広も廃れて、国民服に取って代わられ、ネクタイは贅沢品として、さっぱり売れなくなってしまった。

 

あまつさえ昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしまったので、会社は解散のやむなきに至った。

 

戦後になって復興させたが、今度は思い切って趣を変え、家内工業の小工場十余箇所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、兄弟二人だけの当初発足の昔に還った。

 

弟の死後は、長男がその後を継いで今日に及び、戦前ほどの華やかさはないが、まず以て堅実な経営を続けている。

 

 

*スンプとはSuzuki's Universal Micro-Printingの頭文字をとったもの。郡是の鈴木純一が発明したプレパラート作製の一方法で、物体の表面の観察に用いられる。適当な溶剤で表面を柔らかくしたセルロイド板に被検物を圧着し,乾燥後これを取り除く。セルロイド板上には被検物の表面構造が転写されて残るという仕組みである。

 

相棒に裏切られたる青年が我に非あらずと断言する朝 蝶人

 

 

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長谷川宏著「日本精神史 下」を読んで

2024-03-25 09:21:39 | Weblog

照る日曇る日 第2030回

 

本邦の民草の精神の歴史を、文藝、美術、宗教、文書の断片的解読を通じてあからめようとする著者の冒険的な試みの後半は、「新古今和歌集と愚管抄」からはじまって、「平家物語」「御成敗式目」、「一遍聖絵と蒙古来襲絵詞」「徒然草」、「神皇正統記」「能と狂言」「金閣・銀閣」「那智滝図と雪舟と松林図屏風」「茶の湯」「宗達と光琳」「伊藤仁斎と荻生徂徠」「西鶴・芭蕉・近松」「池大雅と与謝蕪村」「本居宣長」「春信・歌麿・写楽・北斎・広重」と続き、「鶴屋南北の東海道四谷怪談」で悪の魅力を論じて大団円を迎える。

200年前に南北が見詰めていた「悪が悪を呼び、死が死を呼ぶ」という虚無の終末、その忌まわしい流れは、近代を経て平成の現代に生きる私たちが、いままさに直視している現実に他ならない。

封建の世から個我の自由解放、そして今また専制独裁の暗い時代を迎えても、この国の民草の実存のありようはさほど変りがないとも映るが、はてさていかがなものであろう。

各論はいずれも面白くて為になるが、とりわけ北条泰時の「御成敗式目」と北畠親房の「神皇正統記」における武士の理知的でリアルなまなざし、荻生徂徠の剛毅な思想家ぶりが印象に残った。

 

久し振りに本書を再読して、その壮図と卓抜な構成に瞠目したが、とりわけ今回は、その豊かな修辞の絢爛さに脱帽せざるを得なかった。

 

記録より記憶が大事かその逆か幕尻尊富士初優勝 蝶人

 

 

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「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」よりその7

2024-03-24 10:03:31 | Weblog

 

遥かな昔、遠い所で 第126回

 

第7話 ネクタイ製造 その2

 

私は昭和四年創業の当初から、年々洋服着用者の数を調べるため、調査員を四条大宮の京阪食堂の二階に陣取らせ、下の道路を行く洋装者を数えさせた。

 

最初の昭和四年は一時間に男子洋装者は三人くらい、女子は勘定にかからんほど少なかったが、三年経つと二倍に増え、その後の増加はまた著しいものだった。そんなことから考えて、工場をだんだん拡張していった。

 

ところが昭和十年に株式会社に改めてから、生産も大いに増加し、どうしても有力なデパートに売り込まなくては、製品の捌け口が足りないことになったので、その売り込みを始めた。

 

ところが、原糸から染め、織り、柄、加工のすべてに最善を期し、どこの製品と比べても遜色がなく、しかも値段は格外に安くしてあるのに、どこのデパートも全然相手にしてくれない。

 

本間俊平先生が、大丸重役の信者を通じて、一度買ってもらったが、あとが続かない。

賀川豊彦先生にも見本を持って頂いて、あちこち運動してもらったが、これもダメだった。

 

どうも不思議だと思って、いろいろ探ってみると、これはデパートの仕入れ係につかませたり、ご馳走したりして十分ご機嫌を取り結ばなければ、いかに良い品を安くしても、見向いてもくれないものだ、ということが分かり、弟ははやくそれをやろうといってあせるのであるが、いやしくも社主にキリストを戴いている私の会社で、そんな真似はできない。

 

ちょうどその頃、阪急百貨店が開業早々だったので、私はひとつ天下の小林一三さんにぶつかって、何とかして阪急に売り込もうと、一日阪急に小林社長を訪ね、見本を見せて取引を懇請した。

 

小林さんは、係の者にもそれを見せ、一応製品の優秀性は認めてくれたのであるが、値段があまりにも安いのを不審がり、しきりに小首を傾けるのである。

 

そこで私は、それは私の会社のは、他社のごとく仕入れ係への高い運動費を含まないだけ安いのだ、ということを、社主キリストの精神から説いて、大いに小林さんをけむに巻いたのである。

 

小林さんは、「よく研究して返事をする」ということだったが、私は確かな手ごたえがあったと感じた。

 

果たして数日すると、小林さんがただ一人自動車で「あなたの会社を探すのに一時間もかかった」と言いながら来訪され、次のような話をされた。

 

「いかにもあなたの言われる通り、開店間もない私の店の仕入れ係も、ワイロを取っていた。そこで後来のみせしめに、その仕入れ係三人をかわいそうだが解雇した。今後私の店は、あなたの会社のネクタイを中心に売ることにするから、せいぜい勉強して入れて下さい」と、まことに小林さんらしいパリッとしたご挨拶である。

 

それから阪急との間に、誠意を尽くした取引が始まった。

それはよいのだが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。

 

「その三人を私の会社の売り込み係に採用したい」といって小林さんに頼むと、就職難の時代ではあるし、大喜びで来てくれた。

二人は慶応出、もう一人は神戸商大出の優秀な青年で、よく働いてくれた。

 

「阪急のネクタイは安くて品が良い」という評判が立って、飛ぶように売れ、たちまち他店の売れ行きに響いたので、早くも大丸が二度目の注文を寄越したのを皮切りに、高島屋、三越、十合(そごう)、丸物に入れ、東京では、綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、続いて松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)など、その他岡山、広島の大百貨店とも取引が始まった。

 

多くはその店の株も持たされて、親善関係を結び、製品はどんどん売れ、我が社は繁盛したので、進んで輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込んだが、これは上海で米国製品に化けて売られたので、あまり名誉なことではなかった。

 

 腐敗して悪辣非道のジミントウ 懲りずに入れる阿呆莫迦選挙民 蝶人

 

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佐々木愛子歌集

2024-03-23 09:16:43 | Weblog

佐々木愛子歌集

 

ある晴れた日に 第720回


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり  

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両、万両、億両 子等のため母上は金のなる木を植え給えり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚のごと美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

我は眞弟は善二妹は美和 良き名与えて母逝き給う

母の名を佐々木愛子と墨で書く 夕陽ケ丘に立つその墓碑銘よ

太刀洗の桜並木の散歩道犬の糞に咲くイヌフグリの花

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

滑川の桜並木をわれ往けば躑躅の下にイヌフグリ咲く

犬どもの糞に隠れて咲いていたよ青く小さなイヌフグリの花

頑なに独り居すると言い張りて独りで逝きしたらちねの母

わたしはもうおとうちゃんのとこへいきたいわというてははみまかりき

わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る

瑠璃タテハ黄タテハ紋白大和シジミ母命日に我が見し蝶

犬フグリ黄藤ミモザに桜花母命日に我が見し花
雪柳椿辛夷桜花母命日に我が見し花

真夜中の携帯が待ち受けている冥界からの便り母上の声

われのことを豚児と書かれし日もありきもういちど豚児と呼んでくれぬか

一本の電信柱の陰にして母永遠に待つ西本町二十五番地 

なにゆえに私は歌をうたうのか愛する天使を讃えるために 

土手下に真昼の星は輝きぬ小さく青きイヌフグリ咲きたり 

人の齢春夏秋冬空の雲過ぎにぞ過ぎてまた春となる 

春浅き丹波の旧家の片隅で子らの名呼びつつ息絶えたるか

おかあちゃんはたった一人で逝きはったわいらあなんもしてやれんかった 

とめどなく流れる水を見つめつついたく泣かれし日曜の朝

ただ一度われの頬を打たれしことありき祖父の死を悲しまぬわれを

まなかいに浮かびし母の面影に丹波言葉で語りかける今朝 

たらちねの母が逝きたる故郷の我が家を守るガンの妹 

 本日は、母佐々木愛子没後22年につき、故人が遺した短歌を再掲いたしました。


  亡き母がこよなく愛したイヌフグリこの世を照らす小さな星よ 蝶人

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今枝由郎訳「ダンマパダ ブッダ 真理の言葉」を読んで

2024-03-22 11:25:06 | Weblog

今枝由郎訳「ダンマパダ ブッダ 真理の言葉」を読んで

 

照る日曇る日 第2028回

 

前4世紀の仏陀の没後100年ほど経ってパーリー語で編まれた最初期の仏典「法句経」の現代語訳である。

 

ページをめくると、「光り輝く神々のように、私たちは喜びを糧に生きよう。何も所有することなく、私たちは幸せに生きよう」というような永劫不滅の有難い箴言が次々に登場する。

 

「人は死すべきものである、と自覚しない人がいる。しかし人がそう自覚すれば、争いは鎮まる」とあるので、これはいいことを聞いた。早速阿呆莫迦ネタニヤフやプーチンに聞かせてやろうと思ったが、まてよ、そうすれば彼奴等はなおさら戦に狂奔するのではないかと、思い直して、止めたのよ。

 

字で書けば「空」の一語を呟いて愛犬ムクは身罷りにけり 蝶人

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「祖父佐々木小太郎半生記」~佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」よりその7

2024-03-21 14:39:12 | Weblog

遥かな昔、遠い所で 第125回

 

第7話 ネクタイ製造 その1

 

昭和三年、世界日曜学校大会が米国ロスアンジェルスで開かれた時、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表中に選ばれて渡米した。その時私は、日本の主要輸出品生糸の消費状況に特に注意を払って視察した。

 

米国滞在中、しばしば信者の家庭に泊めてもらった。どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、二三十本のネクタイがかかっている。婦人の部屋には靴下掛があって、十数足の靴下がかかっているのを見た。

 

この需要の多いネクタイと靴下は、無論米国でも盛んに作られているが、まだまだ輸入の余地がある。なお日本の洋服着用者が年々激増しているから、日本におけるネクタイ、靴下の需要も激増するであろう。

いま日本は、大量の生糸の殆ど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をもって、需要の多いネクタイ、靴下に成品して内外の需要に応じたら有利だろう、と考えた。

 

またネクタイの方は小資本でやれるから、これはひとつ自分でやってみよう。靴下の方は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみようと思ったのである。

 

さて帰国して、郡是に靴下製造を勧めてみたが、遠藤社長、片山専務は、あくまでも製糸一本鎗を主張し、テンで耳を貸さない。ただ一人取締役平野吉左衛門氏は、あの温厚な人が非常な熱意を示してこれを聞き、その後も度々意見を求められ、遂に平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として昭和四年塚口に設置され、一時試練時代の苦悩はあったが、今は靴下製造がやがて製糸を抜いて、全郡是を背負って立たんとする勢いを示している。

 

ネクタイの方は、私がアメリカから帰ると間もなく父が死に、この時都会の生活に疲れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同で経営することにしたのは、前節に述べた通りである。

 

その頃アメリカでも日本でも、網ネクタイが流行していた。これはしごく簡単な設備でやれるから、少額の自己の資本だけで大阪都島に小工場を設けて創業し、その後二、三の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡張し、ようやく確信を得て、昭和十年資本金二十万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を立ち上げた。

 

東洋ネクタイ製織所は、本社を大阪に置き、原糸を郡是に仰ぎ、京都西陣にネクタイ織物工場を新設、加工工場を東京、大阪に設け、染織を京都の一流工場に委託した。

厳格な製品検査を実施し、織、縫を一貫するネクタイ工場として、他に譲らざる体様を整え、一意良品の輸出に勤めたのである。

 

また波多野鶴吉翁が、郡是を創業、経営した精神に学び、次のごとき念願を定めて、一に神の御旨に叶う工場たらしめんことを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けつつ、われらのささやかなる営みが、主の栄光を顕わす一端たらんことを祈りつつ進んだ。

 

吾等の念願

 

一 イエス・キリストを当社の社主と奉載して、日々その聖旨に従い、之を忠実に行わんことを期す

 

二 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以て、すべてのことを為さんことを期す

 

三 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙虚を以て修養し、自己品性の向上を図るため最善の努力をなさんことを期す

 

四 常に考え、常に学び、常に励み、しかして常に何物かを創造せんと努めることを期す

五 目的達成のため信仰を養い、終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし、との信念を以て前進せんことを期す

 

株式会社 東洋ネクタイ製織所

 

   朝食のデザートとして飲み下す血圧頻尿花粉の錠剤 蝶人

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思潮社「現代詩手帖2月号」を読んで

2024-03-20 11:07:06 | Weblog

 

照る日曇る日 第2028回

 

巻頭の伊藤比呂美の「根」は力作で、洋美特集「抑圧に抗して 世界からの声」は好企画だったが、巻頭大特集の「lux  poeticaの詩人たち」とはいったいなんじゃらほい?

 

「新しい思潮を共にする現代詩人の新潮流」かいな?と思って調べてみたら、さにあらず。思潮社が勝手に売り出しを図ったシリーズ本とその著者たちのことだというので、ぎゃふん、あなあほらし、そおゆう販売促進キャンペーンかいな。そりゃなんのっこちゃ、という気持ちになっちまったぜい。

 

「バカチョン」と何回発音したことか「その舌ちょん切れ」とエスならいうだろ 蝶人

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神奈川近代美術館葉山分館にて「芥川龍之介と美の世界」展をみて

2024-03-19 14:12:56 | Weblog

 

蝶人物見遊山記第381回

 

「二人の先達―夏目漱石、菅虎雄」という副題が付けられているが、これは本来は神奈川近代文学館か、現在工事で休館中の鎌倉文学館でやるべき展覧会であろう。

 

メインは芥川で、かれが短い生涯に見聞きした美術作品を石井柏亭、藤島武二、梅原龍三郎、坂本繁次郎、岸田劉生、安井曾太郎、浅井忠、村山槐多、関根正三からビアズリー、ブレイク、レンブラント、ゴヤ、カンディンスキ、ロダン、ルドンに至るまで細大漏らさず取り上げ、見物の眼に晒しているが、この点はカナキンらしさを存分に発揮していると評価できよう。

 

 今回私が一番驚いたのは、芥川龍之介の著作の小穴隆一の装丁の素晴らしさ。わけても、2人のうちのどちらが書いたのか知らないが、1923年に春陽堂から出版された「春服」の単純素朴で大胆不敵な題字は、隆一宛の長い遺書共々感動的だった。

 

     おもむろに遠藤次郎氏の霊が乗り移る遠藤次郎氏の帽子を被れば 蝶人

 

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神奈川近代美術館鎌倉館にて「小金沢健人×佐野繁次郎ドローイング/シネマ」展をみて

2024-03-18 13:37:07 | Weblog

 

蝶人物見遊山記第380回&鎌倉ちょっと不思議な物語第460回

 

現代ビデオ作家の小金沢健人が今は亡きドローイング作家の佐野繁次郎を泉下から呼び出して勝手にコラボレーションした展覧会、とでも称すべきだろうか。

 

佐野の装丁本の数々いがいはあまり興味をそそられないコレクションであったが、受付に置かれた小金沢のジョン・ケージについてのテキストが超面白い。

 

「ケージは後に4分33秒という無音の作品を発表して有名になるが、それ以前の段階では無音を取り囲むいくつかのフレームが用意されていて、作品の印象は花のメタファー、沈黙には祈りという意味を与えようとしていた」というのである。

 

しかし実際に1952年に発表された「4分33秒」では、「作品を満たすはずだった情緒は消されて、中身を問わないフレームだけが残った」のだが、小金沢健人の「433 is 273 for Silent Prayer」では、この4分33秒を「意思のある沈黙を生成するものとして」再生している。

 

50歳の自閉症児が聞いている「吉高さんなんで泣いちゃったの?」 蝶人

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西暦2024年弥生蝶人映画劇場 その4

2024-03-17 11:08:40 | Weblog

 

闇にまぎれてtyojin cine-archives vol.3564~68

 

1)デヴィッド・ウォード監督の「メジャーリーグ1,2」

38年間も優勝から遠ざかっていたクリーブランド・インディアンズに奇跡を起こすチャーリー・シーンなどのへんてこりん選手たち。

 

2)ジャック・リヴェット監督の「美しき諍い女」

1991年のミシェル・ピコリ、エマニュエル・ベアール、ジェーン・バーキンの良さを出し尽くしたリヴェットの大傑作。こんな映画はそうあるものではない。

 

3)クリント・イーストウッド監督の「スペースカウボーイ」

旧世代のロートル宇宙飛行士が大活躍する2000年のSF映画。

 

4)クリント・イーストウッド監督の「荒野のストレンジャー」

1973年のイーストウッドの心霊流れ者ガン・ファイターずら。

 

5)ジェームズ・ファーゴ監督の「ダーティー・ファイター」

トラック運転手のイーストウッドとソンドラ・ロックの1978年のラブストーリー。

 

「ササキさん煮詰まってますね」と言われたが「中身が濃い」のかとうぬぼれていた 蝶人

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