あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

2008年亡羊如月詩歌集

2008-02-29 06:32:18 | Weblog


♪ある晴れた日に その22

雪深しわれは昭和の子供なり 

立春哉窓一面乃銀世界
 
ギョウザより大事な問題があると思いつつ中国製の餃子を喰らう

ぴらかんさ千両の順に食われけり

その日の午後西郷どんの首の如き橄欖樹の枝を斬った

生きておっても死んでおっても空の空なり

詩歌については論じるなかれ朝な夕なにただ詠めばいいのだ

如月も十日を過ぎて仕事なし

そこはかとなく薫り洩れ来し艶人の その衣擦れの音 溜息の歌

またひとひ無事生き長らえたり1億2600万分の1の小さき生を

25年お世話になりしステンレスの浴槽よさらばさらばと別れ行くかな

古いお風呂よさようならお払い箱になるんだねと耕君がいう

30年家族暖めし風呂なればこぼつは惜ししもったいなし

25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな

亡くなった父も母もムクも入りしこの湯船

白々と骨が残りしバスルーム美人モデルはスープとなりぬ

青山の3LDKの浴槽にトップモデルは骨だけ残せり

けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気

家族3人で水炊きを食べるほど幸せなことはない

私には何がなんだか分からない確定申告できる人は偉大なり

まぎれもない獣の臭いが好きだった丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク

如月も半ばを過ぎて仕事なし 

無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ

花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 

1000本の時計を持てるちょい悪ジローラモその強欲をひそかに憎む

1000本の時計が自慢のちょい悪ジローラモわれは1本千円を愛す

小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 

全山の緑を剥がしてことごとく墓に変えしは堤義明

いち早くその白き墓購いて父叔父葬りし我ら一族

堤氏が山を毀ちて築きたる墓に眠れる義父と叔父かも

梅千本ただ一輪が咲いており
 
全山鳴動梅一輪ひらく 

蝶々が舞うように歌いたりフィオレンツア・コソットの不可思議な「君が代」

老残のグレース・バンブレー出ぬ声で懸命にシャウトせり黒人霊歌

篤姫を見てもフルスイングを見てもすぐに涙出るこの安物の私の眼球

セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄

大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし

できれば目白のように睦みあいたいものじゃ

私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり

如月の果ての果てにて舞い降りし鶴の一声受けるうれしさ 
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自閉症を知る 第4回

2008-02-28 08:47:50 | Weblog


♪バガテルop46

自閉症には3つの大きな特徴があり、その悲しい特徴はだいたい3歳までに現われます。
その3つの特徴とは、

1) 人とうまく付き合えない。
2) 人とうまくコミュニケーションがとれない。
3) 奇妙なものに対してこだわりがある。

に大別されます。

最初1)の例としては、他人と目を合わせて会話すること、喜怒哀楽の感情を素直に表すこと、同じ年齢の人と集団で遊ぶ、自然に決まっているルールに従うことなどが苦手な場合が多いのです。自閉症児者は健常者に比べて想像力に乏しいので他人の気持ちを理解したり、KYことがとても難しいのです。

次のコミュニケーションもこれと似たことですが、言葉を覚えて使うこと、相手の発言を理解すること、適切な返事をすること、たとえ話を理解することなどが困難です。というのも自閉症児の大半は言葉の障碍があるからです。

3番目のこだわりの具体例としては、溝の穴など同じところをじっと見続けたり、決まった道や順序でないと行動できないとか、流れる水や扇風機や車輪などグルグル回るものに気をとられたりするケースが見受けられます

要するにいつもと違うことの出現に対して警戒したりパニくることが多いのです。


♪私には何がなんだか分からない確定申告を一人でできる人は偉大なり

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続々 自閉症とは何だろう

2008-02-27 05:45:13 | Weblog


♪バガテルop45

前回述べたように自閉症の人は知恵遅れなど別の障碍をともなうケースも多く、また人によって現われ方が違っていたり、同じ人でも成長していくうちにその症状が変化したりします。

また自閉症のある特徴は顕著でも、別の特徴はあまり発現しない人もいて、同じ自閉症といってもその状態はまるで虹のように色彩が多様であり、色と色との境界線がはっきりしていないのです。

そこでそういった区別や境界をあまり厳密に区別せず幅広く自閉症総体としてとらえようという考え方がうまれ、そのときに「自閉症スペクトラム」というアバウトな概念と用語も生まれたのです。

たとえば知的な遅れが目立たない自閉症を「アスペルガー症候群」と呼んで、おおかたは知恵遅れを伴う本来の、狭義の自閉症と区別する考え方もあります。それというのもけっきょくは自閉症の本質が解明されず、漠然と脳の機能障碍であるとしかいえないところから来ているわけで、今後の研究次第ではいま自閉症とされている障碍がじつは別のものになってしまう可能性もなしとしないのです。

私は個人的には秀才型?自閉症の「アスペルガー症候群」は、お馴染みの古典的な「だめ自閉症」とはぜんぜん別種の違うものであろう、とひそかに考えていますが、これが正解か否かはそれこそ神のみぞ知るであります。


♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族で囲む水炊きの湯気 亡羊

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続 自閉症とは何だろう

2008-02-26 08:07:18 | Weblog


♪バガテルop44

1943年にアメリカのカナーという精神科医が11人の子供の特徴をまとめて世界ではじめてその障碍についての研究成果を発表しました。これが世界で初めての自閉症についての報告です。しかしカナー以降二十年ほどは自閉症は主に「情緒の障碍」「心の病気」として研究されていたので、その原因が母親の愛情不足や育て方の誤りが原因であるなどという俗説がまかりとおることも多かったのです。

前回にも述べたように「自閉」という言葉は統合失調症でも使用されるのでまぎらわしいのですが、この2つはまったく違うのです。またこのいずれもが親の育て方など心理的な要因で起こるわけではありません。研究が進むに連れて自閉症は家庭環境、不安・ストレスに起因する心の病ではなく、生まれながらの脳の機能障碍であることが分かってきたのです。

また日本自閉症協会では、自閉症はおよそ100人に1人くらいの割合で存在しているといっていますが、広い意味での自閉症(これを「自閉症スペクトラム」と呼んでいます。スペクトラムとは英語で連続体という意味です)を入れるとその割合はもっと多いのではないでしょうか。


♪亡くなった父もムクも入りしこの湯船 亡羊
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スピルバーグの「シンドラーのリスト」を観る

2008-02-25 08:49:35 | Weblog


照る日曇る日第102回

激突、ジョーズ、未知との遭遇、1941、E.T、トワイライト・ゾーン、カラーパープル、太陽の帝国、インディジョーンズ、ミュンヘンと常に話題作を撮り続けてきた世界の人気監督の93年の作品である。

彼の本領はなんといってもインディジョーンズなどの問答無用の娯楽にあると思う私は、プラーベートベンジャミン、カラーパープル、太陽の帝国など、非常に生真面目であったり、人道的、政治的色彩が濃厚に漂う作品はあまり評価できない。

例えば「太陽の帝国」におけるゼロ戦大好き少年のあこがれのまなざしのいかがわしさを見よ。光り輝く太陽の彼方に権力の栄光を夢見る少年のひとみは、そのままけがれなき永遠の童心少年、スピルバーグのものでもある。

さて本作は第2次大戦中にチェコの実業家シンドラーがナチにうまく取り入ってなんと1100名のユダヤ人の命を救ったという美談を、スピルバーグが映画化したもの。実話だそうだが、じつに感動的な脚本である。

特に素晴らしいのはヤヌス・カミンスキーの白黒の撮影で、これほどの美しさが果たして必要だったのかという気すらする。常連ジョン・ウイリアムズの珍しく抑制した音楽もベテランの味を出している。これをアカデミー賞にしなくてなにがアメリカだ、ハリウッドだ、といわんばかりのああ威風堂々の完成度だ。

しかしそんな立派な偉大な人類愛の物語であり、もちろん感動もするのだが、スピルバーグならではのワクワクドキドキする映画的感興はそこにはない。

あるとすれば、モノクロ画面でゆいいつ赤く着色される少女の姿やシンドラーの愛人の奔放な性交シーンであろうが、主題が主題であるだけにそれ以上の逸脱やいかがわしさの発露が微塵もない。

ユダヤ人であるスピルバーグがどうしても撮りたかった映画であり、その価値と歴史的な意味は十二分に評価してうえでいうのだが、これは凡庸な映画である。ジョーズやジェラシックパークを本領とするスピルバーグのようなエンタの達人に、大真面目に力みかえった偉人伝なぞ似合うわけがない。それは最後の主人公の演説のシーンで「もっと金があればもっともっと人を救えたのに」と泣くシーンを見れば分かるだろう。

スピルバーグといえば最近中国政府がスーダンの大量虐殺に対して誠実に対応していないという理由で北京五輪の芸術アドバイザーを辞任したそうだが、彼もまたシンドラーのような正義の人を目指そうとするのだろうか。


♪25年お世話になりし浴槽よさらばさらばと別れ行くかな 亡羊

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自閉症とは何だろう

2008-02-24 09:43:22 | Weblog


♪バガテルop43

自閉症が「病気」や「性格」ではなく生まれながらの「脳の障害」であることは、近年になって世間から少しずつ理解されてきたようです。30年前の神奈川県立こども医療センターのように、「親の育て方に原因がある「母原病」です!」と私たちの目の前で担当医が決め付けたり、砂糖の摂取に原因がある砂糖病であるなどという馬鹿げた診断をする医者はなくなりましたが、相変わらず「引きこもり」や統合失調症における「自閉」と誤解したりする人はあとを絶ちません。

まず自閉症は生まれついての先天的な障碍で、中枢神経系(つまり脳と脊髄ですね)のどこかの障碍が原因と考えられています。以下の3つが大事なポイントです。
1) 自閉症は内気とか自閉的とか人間嫌いなどの「性格的」なものとは無関係です。
2) 自閉症は病気ではなく、生まれつきの障碍です。
3) 自閉症は人によってその現われ方に違いがあるので厄介です。

自閉症は風邪のように一時的な治療で治る病気ではなく、また親や周囲の愛情が不足してなるような「心の病気」でもありません。これはよくマスコミなども誤解しているようですね。多くの自閉症児者はまったく自閉的ではなく、むしろ外観は元気はつらつとしていることが多いのです。

しかし世間がそういう「根暗の閉じこもり人間」が自閉症であるというレッテルを貼るようになった原因のひとつは、この「自閉症」というネーミング自体にもあったようです。日本自閉症協会の機関紙名は現在は「いとしご」ですが、長い間「心を開く」という誤解を招きがちなタイトルでした。これでは自閉症が脳の障碍ではなくて精神や心の障碍であるとご本尊が宣言しているようなものですからね。

それはともかく自閉症の原因は、「中枢神経系(脳、脊髄)が生まれつきうまくはたらかないことにある」と学者の意見はようやく一致しました。しかしではその根本的な治療法は?というとそんな素晴らしいものはまだ世界中どこにも存在していません。
最近は脳や遺伝子研究が進んでいるので、その伸展に期待するほかなさそうです。


♪花もまた花の悩みがありぬべし静かに耐えてただ春を待つ 亡羊


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古くて暗いモノクロ映画を見る

2008-02-23 11:22:16 | Weblog


照る日曇る日第102回

「陽のあたる場所」はセオドア・ドライサーの原作を51年にジョージ・スティブンスが映画化したもの。田舎育ちの青年がふとしたはずみで隣の女と関係し妊娠させるところから悲劇が始まる。そのまま地味な家庭を築けばよかったろうに、偶然ハイソサエティの美女と恋に落ちたことから青年の心と体は真っ二つに引き裂かれ、若い2人は今生の別れをつげることになる。
世間によくある話だが、身につまされる。「生も暗く、死もまた暗い」というマーラーの「大地の歌」のように暗い物語だが、その悲劇の主人公をモンティが悲壮に演じるので観客はいっそう暗い気持ちになってしまう。そうして彼がついに届かなかったA place in the Sunへの想いが胸を打つ。
純情可憐なヒロイン役を演じるエリザベス・テーラーはきれいでかわいい。後年の熟女の面影なんかみじんも感じさせない。しかしものの本によればこの映画はドライサーの「アメリカの悲劇」の皮相なパロディであり、ヒロインは軽薄で鼻持ちならないハイソの馬鹿娘として描かれているらしいが、私は原作を読んだことがないのでなんともいえない。

44年の英国映画「ガス灯」も負けずに暗い。殺人犯のシャルル・ボワイエの魔手に引っかかって結婚してしまったこれまた純情可憐なイングリッド・バーグマンが、悪い夫に徹底的にいじめられ、あわや心身喪失状態で病院送りになる寸前に正義の味方ジョセフ・コットンが登場してお姫様の危機を救ってくれるという典型的な勧善懲悪の1幕であるが、ここでもバーグマンが後年の堂々たる存在感とは無縁の輝かしい若さと官能美を見せる。

♪1000本の時計を持つ男ジローラモその強欲をひそかに憎む 亡羊

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萩原延壽著「陸奥宗光下巻」を読む

2008-02-22 08:58:30 | Weblog


照る日曇る日第101回

陸奥宗光は明治10年の西南戦争の際土佐立志社系の一部が企てた政府転覆、要人暗殺計画に陰謀に加担したかどで逮捕され、禁獄5年の判決を受けて明治11年9月から15年12月まで山形と仙台で獄中生活を送ったが、その間独学の英語でベンサムの功利主義哲学にめざめ、それが彼の政治思想の転回点となった。

獄から解放された彼は伊藤博文、井上馨、渋沢栄一などの助力で欧米に留学し、英国の議会制民主主義につぶさに接するとともに、ウイーンに赴きオーストリアの公法学者シュタインの元でプロシア流の政治理論を体得し、政府専制と議会責任内閣制の双方について当時の世界最先端の政治思想に通暁する新帰朝者となった。本書はその大半のページをこの間の「思想家陸奥から政治家陸奥への変貌」に焦点を当て、その劇的な精神の転回を精細に追跡している。

余談ながら明治時代には多くの政治家や官僚、学者が欧米に留学している。大日本帝国憲法の制定にあたって伊藤博文に大きな影響を与えたオーストリアの公法学者シュタインのところにも、その伊藤をはじめ陸奥宗光、伊東巳代治、黒田清隆、松方正義、海江田信義など多くのエリートたちが教えを乞いに行っている。

彼らはそれぞれ通訳を連れて2、3週間続けてシュタイン家に日参して個人教授を受け、通訳と自分の2人でノートをとり、そのあとで1つに清書してから、今度はそれをシュタインに送って訂正してもらい、そんな風にして完全なノートが出来上がり、それが彼らの留学土産になったという。
私は萩原氏のその話を聞いてなるほど漱石の文学論もそのような形で中川芳太郎を通じて現在のような姿になったことを思い出した。もっとも漱石はその中川ノートを全面的に改稿したのだったが。

藩閥政府と自由民権派の両極で激しく分裂した陸奥は、その後中央政府の外務大臣として日清戦争を主導するが、日露、第1次大戦、太平洋戦争へと拡大していくわが国の朝鮮半島、中国、台湾への介入・進出はじつに明治27年の日清戦争から出発していることが本書を読めばよくわかる。

陸奥は首相の伊藤博文とコンビを組んで山縣有朋などの武断派を懸命に統御しようと試みるが、本心では大陸不介入派であったと思われる陸奥も、結局は軍部などの強硬派、国内に燎原の火のように燃え盛る愛国主義の嵐(それは漱石、子規をはじめ大多数の文学者、知識人をも飲み込んだ)、英、露、独、仏などの帝国主義列強の圧力に屈して、ついに「朝鮮の独立を保持するための」対清開戦に踏み切った。

幸か不幸かこの日清戦争の勝利が遼東半島の三国干渉を生み、その屈辱が列強の代理戦争としての日露戦争を生み、ひいてはあの大東亜戦争への泥沼の道を用意したのである。いかに当時の国内外情勢の渦中で陸奥が献身的な努力を傾注したとはいえ、(彼の涙ぐましい「蹇蹇録」を読まれよ)当時の陸奥が死生をともにした大日本帝国が、大国の圧力に強いられたという以上に、自らが列強の一員として積極的にアジアに覇を唱えようとしたことはまぎれもない事実である。

陸奥たちが東アジアに刻んだその最初のステップこそが、20世紀という戦争の時代のパンドラの箱を開けた。小さな侵略の成功と既得権の確保が、また次なる利権の獲得とその利権保持のための新たな戦争へと繋がっていく。かつて陸奥たちがつまずき、我々が60年前に破綻したのと同じ過ちを、現在アメリカがそのままイラクで繰り返している哀れな姿を見るにつけ、歴史は何度でも繰り返すという思いを新たにするのである。

萩原延壽の「陸奥宗光」を読むこと。それは私たちがあえて明治、大正、昭和を生き直すことであり、それを教訓として今を生きることでもある。


♪できれば目白のように睦みあいたいものじゃ 亡羊

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愛犬ムク六周忌

2008-02-21 09:36:14 | Weblog


♪ある晴れた日に その21

OH!アデュー 人語をはじめて口にして 
老犬ムクは いま身罷りぬ

ネンネグー 阿呆ムク 可愛ムク 処女のムク
盲目のムク いま昇天す

鎌倉の 山野を駆けし細き脚 
そのマシュマロの足裏を ぺろぺろ舐めおり

ここで跳べ! ザンブと飛び込む滑川 
ウオータードッグよ 輝きの夏

大蛇(くちなわ)を ガブリくわえて二度三度
振って廻して ぶん投げしムク

ヒキガエルの逆襲浴びし野良のムク
目の毒液をヒリヒリはがす 

十七年 一直線に駆け去りぬ 
今一度鳴け 野太きWANG!
  
「狂犬病の注射に出頭せられたし。佐々木ムク殿」と
鎌倉保健所は葉書を寄越せり

庭に眠るムクのからだの腹のあたり 
濃き紫のアサガオ咲きたり

崖下の庭の土なるムクの墓 
アオスジアゲハの雌雄乱舞す

まぎれもない獣の臭いが好きだった
丘の上にて尾振りし汝(なれ)の

春風に吹かれて一声吠えるムク

丘に立ち一声吠えしうちのムク 

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市川崑追悼の「細雪」を観る

2008-02-20 04:52:54 | Weblog


照る日曇る日第100回

先日私の大好きなマイミクのぽんぽこはんが映画「細雪」について書いておられたので私も負けてへんでとぐあんばってDVDで見てみたんや。谷崎はんの原作もそら素晴らしいけど、さすがに市川崑はんの代表作に恥じへん代表的な日本映画どしたえ。

時は昭和13年。迫りくる戦争の足音とつかの間の幸せ。やがてはすべてが崩壊する桜の園の最後の宴、姉妹たちの窓際を流れゆく二度と帰らぬ美しい季節が、市川はんの円熟のメガフォンでその一時いっときを惜しむかのようにゆるやかに流れていくんですからもうたまりまへん。

ラストのへんで岸恵子はんが「今年はもう姉妹4人で京の桜を見れへんのやねえ」と呟かれたときには、さすがに非情で冷酷な鉄の心を持つ私も、我知らずさめざめと細雪のような涙を流しておりましてん。

思えば映画で泣いたんは今を去るおよそ10年前に「ローマの休日」がコンピューター補正された新装版を、確かまだ新橋にあったヘラルドさんの試写で見たとき以来やったなあ。あんときはヘップバーンはんが、記者会見で「イエス、ローマ」と答えられたその瞬間に、あたしゃぐわあと人目をはばからずに号泣してしもうてからに、もう恥ずかしゅうて恥ずかしゅうてたまらず、失礼ながらラスト・クレジットが終わるのをまたんと現場から新橋駅まで逃走しよりましたんや。しゃあけんど私にいわしてもらえば、あの映画のあのシーンで泣かないやつなんか人間ではあらしまへんで、ほんまの話。

肝心の「細雪」でっけど、女優さんがみなはんよろしおしたなあ。私は吉永はんの演技がいつも気になるんやけど、この映画の雪子はんでは役どころとマッチして彼女の大根ぶりがあんまり外に出ず、ほんまよろしゅうおしたなあ。

衣装も絢爛豪華で眼の保養になりましたが、あれは当時の大阪船場や芦屋のセレブのおべべにしては、なんぼ映画衣装とはいえちと色柄デザインが下卑すぎておりましたな。上方のふぁっちょんかるちゃあは、絶対もっと渋くて底が深いもんや。当節ならいざ知らず、谷崎わーるどの主人公たちが、あんなギンギンギラギラにどぎつい下品な着物を着ておったはずはありまへん。大阪弁だけやなしにコスチュームも谷崎夫人のご指導を仰いだらよかったんとちゃいますか。

それから音楽担当2人もおるくせに、使用音楽は英国ヘンデルはんのラルゴ、おんぶら・まい・ふだけちゅうのは一体どういう了見や。貧相な電子音楽やし、せめてオケの生使うとか、もうひとひねりできんかったんやろか。ともかくあれなら素人でもでけます。

それにしてもラストの箕面の紅葉と女優さんの顔のアップ、きれいどしたなあ。美しい日本の景色と美人はいったいどこに行ってしもたんやろか。5年前にたった一度銀座で見かけたような気がするけど、あれは夢まぼろしやったんやろか。


♪新橋のヘラルドエースの試写室でヘップヘップと悌きしわれかも
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見捨てられた墓地

2008-02-19 09:37:43 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語100回

ここは私が住んでいる十二所のガソリンスタンドがある交差点の、すぐ袂にある小さな墓地です。鎌倉駅から八景方面のバスに乗って、まっすぐ行くと鎌倉霊園、右に曲がると鎌倉逗子ハイランドという交通の要地なのに、誰も見向きもしないで通り過ぎます。

しかしここは鎌倉時代にはすぐそばの大慈寺の境内でありました。大慈寺は八幡宮寺、勝長寿院、永福寺と並ぶ鎌倉四大聖地のひとつで三代将軍実朝が君恩父徳に報謝するために、つまり天皇と頼朝公に感謝するために建暦2年1212年に造営がはじまりました。

十二所のバス停の近くに明王院というこれも鎌倉時代創建の古いお寺がありますが、この明王院の東一帯がすべて大慈寺で、前にも書きましたように現在カトリックの修道院になっている小高い丘陵も往時の七堂伽藍が聳えておりました。

大慈寺の木造の大仏を安置した丈六堂は江戸時代まではこの付近にあり、その仏頭は私が最近住職と和解した光触寺に隠されておりますが、その丈六堂が存続していた頃の面影をかろうじてこの墓地だけが伝えているのです。

ああそれなのに、先日この聖なる地に進入し、1基の仏塔を倒した悪いやつがいるのは許せません。

無残やな地べたに倒れし墓石ありげに凄まじき鬼の仕業よ 亡羊

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映画「アマデウス」を視聴する。

2008-02-18 08:49:48 | Weblog


♪音楽千夜一夜第33回

先日かつて大ヒットした映画「アマデウス」がNHKのBSでデイレクターズ・カット版という長尺版で放送されたので久しぶりに再見したのだが「ドン・ジョバンニ」の序曲の冒頭の和音から始まり、k467のピアノ協奏曲のアンダンテで終わるこの映画の醍醐味はやはりモザールの音楽の素晴らしさを堪能することにあるのであって、サリエリがモザールの神に愛された天才を憎むあまり、刺客を派遣して砒素を盛って暗殺したなどという愚にもつかない伝説や、同じサリエリがモザールの妻コンスタンチエの貞操を奪おうとしたとか、あまつさえみずからが「レクイエム」の作曲を依頼し、モザールの最期の夜に彼の絶筆をアシストしたとなどというモザールにまつわるあれやこれやのホラ話や嘘やインチキや風説のかぎりを吹聴される下世話なたのしさ、面白さなどにけっしてないことは心ある人には自明のことであるにしても、それでもこの映画がモザールの自伝というふれこみであるだけにいまなお一抹の不安が掠めるのであるが、であるにせよ見所聴きどころはいたるところに転がっており、例えば「後宮からの誘拐」のフィナーレのジャン・ピエール・ポネルを偲ばせる見事な演出や「フィガロの結婚」の第4幕の至高のフィナーレで皇帝ヨーゼフ2世が欠伸をすることによって自らの俗流芸術趣味を暴露してしまう箇所、ウイーンで冷遇されたモザールがプラハの民衆から歓呼を受ける光景、死相をあらわにしながら「魔笛」を振るモザールの鬼気迫る指揮ぶり、「ドン・ジョバンニ」の地獄落ちの凄まじさ、光るネビル・マリナーの指揮と音楽構成、セントアカデミー・インザフィールド管の演奏によるk201の交響曲、k450のロ長調ピアノ協奏曲のアレグロの導入、あるいは楽譜初稿に書き損じがないとサリエリが感嘆する瞬間に流れる「フルートとハープのためのコンチエルト」k299の緩徐楽章のフルートの高鳴りなどなど文句なしのお楽しみだが、そうはいっても映画の最後の葬送シーンで未完の「レクイエム」に伴われてウイーンの墓地にしの降る雨はほとんど春雨程度のゆるい降りであり、実際にそうであった12月の暴風雨の荒れ模様などまるで表現されておらず、一体全体どうしてサリエリもコンスタンチエも墓地の入り口で留まって引き返したのか、またいったいモザールともあろう有名人がどうして無人墓地に犬猫のように葬られてしまったのか、あんまり可哀相ではないか、あれでは02年の今月今夜に死んで我が家の庭の奥津城に葬られた愛犬ムクのほうがよほど恵まれていたではないか、と文句のひとつも言いたくなるのである。


♪セサミンを飲んだか飲まぬか忘れてしまうこの安物の私の脳髄 亡羊


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蔵で暮らす

2008-02-17 09:33:06 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語99回

鶴岡八幡宮の東側の小道に気になる蔵があります。外壁の周囲は緑の分厚い蔦に覆われ、四季折々の変容を見せくれます。

昔ながらの蔵なのですが、その中に住んでいる人がいるのです。私は駅から家までの帰り道に必ずここを通ります。どんな人がここで暮らしているのだろう。おそらくデザイナーではないだろうか、などと勝手に想像しているのですが、実際に住人の姿を見たことは残念ながら一度もないのです。

寿福寺から少し南に下がったところにもっと大きく立派な蔵がありますが、これは最近どこか地方から移転させてきたものでイベントなどに使っているようですが、誰かが住んでいるわけではありません。

私もたまにはこんな蔵で寝転がって、八幡様の蓮がパン、パパンと開くのを耳にしながら平家物語や徒然草を読んでみたいな。

♪如月も半ばを過ぎて仕事なし 亡羊

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萩原延壽著「陸奥宗光上巻」を読む

2008-02-16 09:18:09 | Weblog


照る日曇る日第99回

萩原延壽は朝日新聞に連載したアーネスト・サトウの伝記「遠い崖」で知られる歴史家であり、かの大仏次郎に優に比肩する当代一流の評伝作家でもあった。その精緻を極めた資料の渉猟と長期にわたる膨大な調査研究からもたらされた知見に基づく人物月旦は、まことに正統的な客観主義の外観をそなえながら、その外装の奥には主人公に対する秘められた偏愛と熱情のほむらが燃え滾っており、読むものをいつのまにか虜にする魅力を備えている。

大仏が「天皇の世紀」で目指したものが、明治という時代の骨格のあますところなき再現であったのに対して、萩原は、明治を生きた代表的人物をあますところなく対象化することを通じて、明治という時代の血肉をわが手に収めようと試みた。

そして萩原がまず最初に手がけたのが、「頼むところは天下の輿論、目指すかたきは暴虐政府」と叫んでフィラデルフィアに倒れた自由の戦士馬場辰猪であり、続いて「蹇蹇録」で知られる陸奥宗光その人であった。

ちなみに著者によれば、陸奥は明治19年の夏に足尾銅山に視察に行き、中禅寺湖に別荘を持っていたアーネスト・サトウと会ったらしい。(陸奥の次男潤吉は古河市兵衛の養子だった)。サトウの日本人女性に対する観察は足が短いとかなかなか辛らつであったが、ゆいいつ陸奥の後妻で才色兼備の誉れ高い亮子だけは大変な美人と絶賛したそうだ。

陸奥は和歌山藩の上級武士の子であり、海援隊の坂本龍馬の一番弟子であり、御一新の後には藩閥政府の一員であると同時にその敵対者でもあり、木戸、伊藤、後藤に愛され、岩倉、大久保、西郷、島津久光に憎まれ、絶えず権力と理念のはざまに立って動揺常ならぬ混乱と転向を繰り返しながら、わが国にとって大きな里程標となった日清戦争を外務大臣として収拾した、明治を代表する文人政治家である。陸奥は星亨と原敬を育て、結局その系譜が日本の政党政治の主流となるのである。

しかし著者はそういうマキャベリやジョセフ・フーシェを思わせる政治的人間陸奥の行蔵を描くだけではなく、あるときは権力の側に立ち、またあるときはそれを指弾して自由民権運動に加担して獄に投じられる「節操常ならざる分裂した魂」の内部をじっと覗き込む。それによって政治と人間という普遍的な問題がゆるゆるとあぶりだされ、陸奥という人間を鏡としてそこに映じられる同時代の人物たちの生き方、ひいては明治という時代そのものの実像が、おもむろに立ち現れる。ここにこそ本書の魅力がある。

♪大便の残り香さえも愛おしと思える者こそ家族というべし 亡羊
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蕪村のアイドルをさがせ

2008-02-15 09:03:08 | Weblog


♪バガテルop42

俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。

「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。

それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。

月のよは花より明てさくら哉    うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな   小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構     まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら     石松

♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊

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