あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2015年如月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2015-02-28 11:09:12 | Weblog


ある晴れた日に第288回


障がいのある息子と並んで剃られている土曜の朝の小林理髪店

担当者はどんどん変わるが君だけは同じ所に立っていた40歳の障がい者

家中の窓に垂らしたカーテンは白き秘密を外に漏らさず

腹違いの従兄妹の娘がやって来て御機嫌ようと挨拶するなり

「温かき心は挨拶から」と書いてある標札にして掲げるはいかがなものか

金魚を滑川に放つ人がいる止せといおうとしたがそれも一興

またしてもモンゴルの怪物現れて日本の土俵を席巻せんとす

朝な夕な立ちんぼうにて仕事する販売業はつらきものかな

恐らくは一万円ちょっと入っていただろうどこへ消えたか私の財布

いぎたなく美食飽食し尽くして猪八戒になりし人々 

「八犬伝」をものした馬琴は偉いけど崋山を裏切る馬琴は卑劣漢 

「モーレツからビューティフル」のコピーを書きし人の死を告げていた美しい筆跡

網走も京大阪も東京も日本もアジアの番外地なり
 
中国を憎むは容易く愛するは難ししばらくは黙って眺めていよう


20年をボランティアに捧げて全身ガンで73歳で果つ

私の代わりにトイレに行ってくれる小便小僧どこかにいないか

寝た切りの老人の用を足す小便小僧どこかにいないか

眼を瞑れば此岸から彼岸へ一っ跳び眼を見開けばこれまた此岸

堪えに堪え我慢に我慢の健さんがにっくき彼奴らに天誅下せり

死ぬ前の年にヘッツエルがコンマスで弾きしモーツアルトを聴く

新聞屋は親切な商売なり朝晩届けて集金に来る

もはや収入はどこからもやってこないかつがつの年金を大事に使おう

私には「ご主人様」妻には「奥様」と礼儀正しきミサワホーミングの桑名君

窓なども極力小さく拵えて敵に備える要塞のごとし

幻想の共同体の暗がりでシームレスのストッキングの猪八戒が蠢く

説明なんか要らないお前のやっていることをすぐに止めよと言っているんだ

国防婦人会のやうなオバハンが現れて国賊だの非国民だのと決めつけている



6000の中から選ばれし10句ゆえどこがいいのかつらつら鑑賞 蝶人
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伊藤大輔監督の「切られ与三郎」をみて

2015-02-27 21:35:05 | Weblog


bowyow cine-archives vol.776 


 歌舞伎で有名な「与話情浮名横櫛」を伊藤大輔が1960年にダイジェストして映画にしたもの。

「いやさ、お富」とすごまれるお富役を若き日の淡路恵子が演じている。

 主役の与三郎はなぜか一部の女性に熱狂的な人気を死後もなお誇る市川雷蔵だが、せっかくの歌舞伎の名セリフだというのに、何の興趣も湧かない。

 武智鉄二は歌舞伎役者としての雷蔵を応援したそうだが、このシーンを見る限り、たいした役者だったとは到底思えないのである。

 伊藤大輔は時代劇黄金時代の名監督だそうだが、その演出は今となってはいかにも古くさいものである。



もはや収入はどこからもやってこないかつかつの年金を大事に使おう 蝶人

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トム・グライス監督の「軍用列車」をみて

2015-02-26 15:25:22 | Weblog


bowyow cine-archives vol.775


昔から潜水艦と鉄道を主役にした映画に駄作はなかったが、これもまあその範疇に入れてやってもいいかもしれない。

驀進する蒸気機関車の上でチャールズ・・ブロンソンとかジョン・ベンソンとかが組んず解れつの大活躍を演じるのだが、誰が敵だか味方なのかもよく分からない。
ジョン・ベンソンよりも「ウーン、マンダム」のチャールズ・ブロンソンの方が圧倒的な存在感を見せつけたことも意外だったが、ジル・アイアランドが可憐で可愛かったのも意外だった。

ジルは1990年に死ぬまでチャールズと添い遂げたのだった。


馬鹿丁寧な説明なんか要らないお前のやっていることをすぐに止めろと言ってるんだ 蝶人
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マキノ雅弘監督の「昭和残侠伝 死んで貰います」をみて

2015-02-25 13:34:15 | Weblog
マキノ雅弘監督の「昭和残侠伝 死んで貰います」をみて


bowyow cine-archives vol.774


マスオさん「健さんはいつもどおり演技の出来ない健さんだったけど、ハンサムだけど許せる。それより恋人役の藤純子が終始ぶりっこの猫ねで声で喋るのがどうにも妙な感じだったね」

カツオ「だけど、ラストの大立ち回りは大迫力だったなあ」

ワカメ「ご本人もそれまでとは打って変わって生き返ったようにダンビラを振り回していたわ。不器用な人だから、現場では大勢のけが人が出たんじゃないかしら」

サザエさん「でも我慢に我慢を重ねていくら足を洗おうとしても、ヤクザのしがらみから身を引けず、最後は元の黙阿弥で網走番外地行き。娑婆に出てくるまでに藤純子がお婆さんになってしまうと思うと可哀想だったわ」



 堪えに堪え我慢に我慢の健さんがにっくき彼奴らに天誅下せり 蝶人
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紫上奇譚~「これでも詩かよ」第127番

2015-02-24 13:54:59 | Weblog


ある晴れた日に第287回

 
私は諸国一見の放浪者だったが、野原で捨てられて泣いていた女の赤ちゃんを拾って育てた。食うや食わずの毎日だったが、彼女はすくすくと育っていつのまにか美しい少女になっていた。

降っても照ってもいつも私は彼女と一緒だった。同じ道を歩き、同じ風景を眺め、同じ木の実や魚を食べていた。夜が来れば粗末な覆いの下で抱き合って眠った。寝顔をよくみると堀北真希に似ていた。

雪や嵐の夜などはあまりにも寒くて淋しいので、私らはただ抱き合うだけでなく口づけをしたり体中を舐めまわしたり、いつのまにかお互いの性器を合体して激しく動かしたりしていた。

ある日のこと、峠のてっぺんで私がいまきた道を振りかえると、彼女の姿はどこにもなかった。私はその日一日じゅうあちこちを探し回ったのだが、とうとう彼女を見つけることはできなかった。

それから何十年も経って、諸国をたった一人で放浪していた私が、いつか堀北真希に似た少女が行方不明になった峠の麓にたどり着き、大きなタブの樹の下で眠っていると、真夜中に誰かが私の上にのしかかってきた。


  家中の窓に垂らしたカーテンは白き秘密を外に漏らさず 蝶人

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ケビン・コスナー主演・監督の「ワイルドレンジ 最後の銃撃」をみて

2015-02-23 12:51:44 | Weblog


bowyow cine-archives vol.773


牧童仲間のロバート・デュヴァルとケビン・コスナーが放牧を阻む大牧場主に戦いを挑む話であるが、主演兼製作兼監督のコスナーのメガフォンの切れが悪過ぎて、途中で大いにダレてしまう。

クライマックスの銃撃戦はそれなりのものだが、そこへ行くまでの道中のマンネリと物語の終わらせ方の緩さにはいらいらさせられる。

誰か別の職人肌の監督なら、この半分の長さで、もっとスリルとサスペンスに飛んだ切れ味のいい西部劇をつくるだろう。

  金魚を滑川に放つ人がいる止せといおうとしたがそれも一興 蝶人
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梅原猛著「親鸞「四つの謎」を解く」を読んで

2015-02-22 11:08:36 | Weblog


照る日曇る日第760回


「親鸞の出家の謎」、「法然入門の謎」、「親鸞結婚の謎」、「親鸞の悪の自覚の謎」、という四つの謎を彼なりに解いてゆくという趣向が、まるで数学の問題を解いてゆくようなスタイルになっていて、最後に「証明終り」などと記してあるのがなななかにユーモラスである。

このようにまだ誰も解決したことのない難問を該博な知識と執拗な論理思考、そして足を使ったフィールドワークで怪傑して黒頭巾をかぶるのは、昔からこの思想家の得意中の得意であったが、本書もその最新の大きな成果といえよう。

 著者の巨大な問いに対する回答もあっと驚く巨大なもので、嘘か真かは俄かに即断できないが、その論証の過程で飛び出した「親鸞は源頼朝の甥であり、彼の最初の妻は九条兼実の娘、玉日である」という発見にも驚かされる。

 また著者は、かの有名な「悪人正機説」を最初に唱えたのは親鸞ではなく、彼の師、法然であること、また親鸞の教説の主眼は、その「悪人正機説」ではなく、その先にある「二種廻向」にあったと力説する。

 「二種廻向」とは「往相廻向」と「還相廻向」という2つの転身転生コースのことである。

 前者は衆生が念仏を唱えて阿弥陀仏のおかげで「どんな悪人、凡夫、女人であっても」極楽往生できる道行きであるが、法然はもっぱら「自利」をモットオにするこの片道転進への奨めを説いていた。

 しかし親鸞は、いったん極楽往生した衆生が、迷える衆生を救済するために再び現世に戻って「利他」を実践する「還相廻向」を重視した。それが偉大な2人の先覚のもっとも大きな違いであるという。

 そしてこの世に帰還した聖なる人間は、現世→来世→現世etcという無限の行程を繰り返し、たとえ生身の肉体は幾たび消滅するとも、私たちのDNAが不滅であるように、過去現在未来永劫にわたって果てしなき転生、生まれ変わりを続けていくのだと説くのである。

 この縄文以来の私たちの死生観を、最新の遺伝子工学で補強した、いっけん非科学的な宗教哲学を、私は著者の混迷する現代と人類へのラスト・メッセージとしてしかと受け止めたいと思う。


 幻想の共同体の暗がりでシームレス・ストッキングの猪八戒が蠢く 蝶人

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チャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る。」をみて

2015-02-21 10:40:20 | Weblog


bowyow cine-archives vol.772


高倉健が主演した2005年製作の日中合作映画で、おしもおされぬ大家となったチャン・イーモウが監督している(日本撮影分はお馴染み降旗康男だが、あまり好きではないので無視することにする)。

なんで高倉扮する老主人公が単身中国の雲南州に出かけたかというとガンで瀕死の息子が同地で収録を果たせなかった仮面劇公演を息子に代わって撮影しようと思った、という鄒静之の脚本なのだが、しょっぱなから私は躓いてしまった。

いくら長き絶縁関係を修復するためとはいえ、いきなり「単騎、中国を走る」とはあまりにも展開が不自然である。

現地に入ってから、我らが主人公は、中国の官僚制や彼我のコミュニケーションギャップによって何度も破綻しそうになるのだが、このひたむきで健気な「親子愛」に感動した異国の人々の「国境を超えた人間的な絆」によって健さんは悲願を達成したかにみえたが、時すで遅かったというような見え見えのクリシェに最後までついていくことはできなかった。

冒頭と掉尾は荒れ狂う海に向かって一人たたずむ我らが健さんといういままで何度も見せられてきた図式的な映像が提示されるのだが、こういう平成東映映画のような図像も遥か昔に賞味期限を過ぎた代物なのであろう。


  中国を憎むは容易く愛するは難ししばらくは黙って眺めていよう 蝶人

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石井輝男監督の「網走番外地」をみて

2015-02-20 13:26:58 | Weblog


bowyow cine-archives vol.771


 およそ半世紀ぶりに再見した高倉健の網走刑務所脱獄物語なり。

 前半はいろいろな罪状で網走刑務所に収監された人々の囚人生活が描かれるが、なんといっても嵐寛寿郎の“八人殺しの鬼寅”が圧倒的な存在感を示す。

 後半は、安倍徹の悪だくみに巻き込まれた若いヤクザの健さんが、南原宏次と手錠で繋がれたまま恩人の丹波哲郎に追われて雪原を逃走する。

 スタンリー・クレーマーの「手錠のまゝの脱獄」が1958年、本作が1965年なので、おそらくあの有名なハリウッド映画をぱくったのだろう。

 高倉健は石原裕次郎と同様、まったく演技が出来ないので、そのあるがままの姿で若き日の姿をスクリーン上に晒している。

 彼が歌う主題歌「網走番外地」の原曲は、作曲家橋本国彦に拠るもので、昔わたしがリーマン時代に広瀬さんから聞いたこの曲の歌詞は、夜が朝に白むまで延々と続いた。

 単純なメロディに乗せて果てしなく歌われるこの歌謡は、演歌というよりお経、お経というより古代の記紀歌謡の呪文の流れを汲むがゆえに、我々の琴線に黒々と訴えるのだろう。


    網走も京大阪も東京も日本もアジアの番外地なり 蝶人
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ヒドラ~「これでも詩かよ」第125番

2015-02-19 13:19:53 | Weblog


ある晴れた日に第286回

持っていた自転車の鍵を、東京駅の新幹線乗り場の改札口の機械に挿入したとたん、私は新大阪の駅に到着していた。

電車から降りて無人の改札口を出たところで、前を行く白いチョゴリを着た若い女が幼女と共に道端の渓流に飛び込むのを目撃した。

私は一瞬躊躇したが、ザブリと川に飛び込んだ。

水底からにょろにょろと立ち上がるヒドラの2本の足。

ヒドラはその攻撃の手を休めずにだんだん肉薄してきたが、私は自分の足でキックしながら撃退することに成功した。

私はまず幼女を救い、次いでぐったりとなった女を胸に抱いて、水から引きあげた。

蒼白の女は、眉が細く美しい容貌をしていた。

私が「しっかりせよ」と声を掛けても目を開かず、一言も発しないので、盲目かつ聾であることが分かった。

彼女の幼女の泣き声だけが、白昼の荒野に響いていた。

するとみんなは、「ほら、ほら、ほら」と言いながら、吉田君からもらった異様に大きな林檎を私に見せつけた。

きっと私の分は無いのだろう。

悲しい気持ちに沈む私の傍を、思いがけず昔の思い人が通り過ぎていった。
なにも言わないで。

私の顔の前に彼女の顔があった。
ので余儀なく私は、彼女を抱いた。


国防婦人会のやうなオバハンが現れて国賊だの非国民だのと決めつけている 蝶人
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チャールズ・シャイア監督の「アイ・ラブ・トラブル」をみて

2015-02-18 13:59:11 | Weblog


bowyow cine-archives vol.770


同じシカゴの新聞記者をしているニック・ノルティとジュリア・ロバーツが特ダネをとろうと命懸けで取材活動をしているうちに愛するようになり、ついにメデタシメデタシになってしまうお話。

ニック・ノルティがホームレスをやる映画を見たときは、こいつは莫迦かあ、と思ったが、暴力刑事に扮した「Q&A」は凄かった。この映画では売れっこ作家兼新聞記者を軽妙に演じていてその芸域の広さには驚かされます。

それにしても当時全米トップのギャラをもらっていたはずのジュリア・ロバーツのクレジットが、ノルティの下に甘んじているのは、どういう風の吹きまわしだろう。


   窓なども極力小さく拵えて敵に備える要塞のごとし 蝶人
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池広一夫監督の「若親分喧嘩状」をみて

2015-02-17 13:04:22 | Weblog


bowyow cine-archives vol.769

大正時代の始めに、元海軍士官の市川雷蔵がヤクザになって敵のヤクザを皆殺しするお話なり。

その背景には陸海軍の対立やクーデターの陰謀、それらを影で操る不良米国人実業家が暗躍しているという訳が分かったようなてんでチンプンカンプンの舞台裏があるのだが、池広一夫監督はそれらを手際よく交通整理してラストの大立ち回りになだれ込む。

そのゲバルトの後景には、救世軍の楽隊が鳴っているという趣向(脚本は高岩肇)はなかなか面白いがこういうふうに1時間半で予定調和で終わる往時のプログラムピクチャーの在り方自体が本邦の映画産業の衰退を内蔵していたのであろう。

 なお妻の親戚の五味龍太郎選手も脇役として活躍しています。


  腹違いの従兄妹の娘がやって来て御機嫌ようと挨拶するなり 蝶人
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作曲家の肖像~「これでも詩かよ」第126番

2015-02-16 07:34:54 | Weblog


ある晴れた日に第285回


 フリュートをくるくる回しながら
「これ1本でどんなBGMでも生録音致します。どうぞなんなりとご用命ください」
と云って、真鍋理一郎氏は破顔一笑した。

 東京文化会館に行くと、武満徹夫妻の姿をよく見かけた。
 作曲家は普通の大人より小さかったが、妻はそれにちょうど見合う大きさで
 二人並ぶと内裏雛のようだった。

「どうぞ」と云って、一柳彗氏は、出来たての譜面を見せてくれた。
それはパウル・クレーの絵のように、美しかった。
音符はなかった。


  朝な夕な立ちんぼうにて仕事する販売業はつらきものかな 蝶人
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井上ひさし著「井上ひさし短編中編小説集成第3巻」を読んで

2015-02-15 10:10:58 | Weblog


照る日曇る日第759回


 著者の過ぎ越しと戯作者への脱皮を江戸時代の黄表紙作家、十返舎一九のそれとを現代黄表紙仕立てで重ね合わせた「手鎖心中」、戯曲「たいこどんどん」の原作「江戸の夕立ち」、「たそがれやくざブルース」を柱に、「さよならミス・ライセンス」「赤い自転車」「パロディ昭和元禄江戸の春」、「われら中年万引き団」「新作艶笑落語御松茸」という5つの単行本未収録作品をおまけにつけた本巻であるが、やはり前2作が面白い。

「手鎖心中」の中で、主人公が「言葉についちゃあ、妙な癖がある」と云って、たとえば「向学という言葉を聞くか言うかした途端に、好学、後学、高額、工学、光学、講学、皇学、鴻学など同音の言葉を思い浮かべ」、次いで「向学→合格、高閣、行客、口角」など似た音の言葉探しに夢中になり、さらには思いついた言葉を「向学心があったので合格した」「その高閣に登った行客はみな高額な金をとられた」のような文章にまとめ上げると「やっと気がすむ」と述懐するのだが、これぞまさしく井上ひさしの趣味であり、訓練であり、日常そのものであり、彼の文章作法の基礎であったと確信させられるのである。

「われら中年万引き団」を読んでいると、この人は本屋で本を盗んだことがあると分かるし、「江戸の夕立ち」を読んでいると「たいこどんどん」の舞台が鮮やかに脳裏をよぎって、なんだか懐かしかった。


  恐らくは一万円ちょっと入っていただろうどこへ消えたか私の財布 蝶人
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山本周五郎著「季節のない街」を読んで

2015-02-14 10:45:11 | Weblog


照る日曇る日第758回


 冒頭の「街へ行く電車」を読んでいるうちに、黒澤明監督の名作「どですかでん」の記憶が鮮やかによみがえりました。

「どですかでん」というオノマトペは、一度聞いたら忘れられなくなるほど魅力的ですが、この本を読んでその意味が初めて分かりました。

 もちろん六ちゃんが走らせる電車が、レールの継ぎ目を渡るときの擬音なのですが、交差点にかかると六ちゃんは「どでどで、どでどで、どですかでん」と声をあげる。

 これは交差する線路の4点の継ぎ目を、電車の前部車両4組と後部4輪とが渡る音を忠実に模倣した音で、私はこれを読みながら、今を去る半世紀前に、京都左京区百万遍の交差点を通過していった市電の6番の轟音を懐かしく思い出していました。

 本巻には六ちゃんのほかにも、「僕のワイフ」の島さん、「牧歌調」の4人の夫婦、「プールのある家」の親子、房事の最中に身投げと鉄道自殺とどっちが苦しいかを亭主に尋ねる「箱入り女房」、「とうちゃん」の良さん、「がんもどき」のかつ子、「枯れた木」の夫婦、「半助と猫」、「たんば老人」などなど、一読終生忘れがたい印象を残す巷の人々が登場致します。

 しかし、思えば私の丹波の郷里にも、左京区田中西大久保町にも、北区飛鳥山公園前の陋屋にも、中上健次が描いた紀州の路地にも、大勢の「六ちゃん」が蠢いていたのでありました。



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