あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2013年皐月蝶人花鳥風月狂歌三昧

2013-05-31 13:36:23 | Weblog

ある晴れた日に第127回


じゃんじゃかじゃん5月になってもなにもない

おのれの内臓をまるでベーコンのように描きたりフランシス・ベーコン

「フランシス・ベーコンです!」と画家は答へたり「ローマです!」と答えしヘプバーンのやうに 

あの人は黒い花びらひとたびは散れどまた巡り来る夢とルドン歌いき

たった一時間でルドンがわかってしまったといってもいいの

五月雨やニッポン全国楽しいウヨクウヨウヨ

全国の学友諸君お元気なりやこの国は右翼だらけになりました

井の中の蛙は夜郎自大にて世界を相手に戦うと嘯く

「消費税と書かなければ値下げしてもいい」ってお前はヒトラーか

なんで固くて強くなきゃあかんのか安倍川餅弱弱しく伸びたらいいじゃんか

CDを買えなくなった私の代わりにトヨタが大儲けするそれが安倍蚤糞

国益国益と騒いでいるがいったいどういう国のどいつのための利益なんじゃ

天皇を元首に祭り上げるというその前によくご本人にお伺いしてご覧よ

じぇじぇじぇじぇ日経平均大暴落ほんとは誰も安倍蚤糞なんて信じちゃいない

人はみな自分の話が一番面白いと思ってる ところがところがギッチョンチョン

ミニストップで1杯100円で売っているなんたらコーヒーの異常な不味さよ


―尾崎翠と出口なおに捧ぐ
翠は「悲しきダダ」なおは「怒れるダダ」襤褸を背負いて峠をくだる

百千のおたまじゃくしが陽を仰ぎ「早くカエルになりたい」と叫んでる

モンローが雲中菩薩の如く飛んできて我に抱きつく春の夜の夢

明るさは滅びの兆しか青空を三匹の鯉黙々と泳ぐ

余に「ランニング・ハイ」てふ言葉教えてくれしアメリカン人35年前に亡じたり
 
「今日は施設には行きません」3.11の朝に告げたり障碍の息子

耕君からお父さん優しいですと初めて言われた4月15日月曜日

「おばあちゃん、僕お仕事がんばってます」と遺影の前で叫ぶよ耕君

俳優が開演時間を忘れて休演すこれぞアホ馬鹿日本の象徴なるか

土踏まぬ超高層の少年の掌の上をダンゴムシは行く

全山が緑というがその緑ぜんぶ違っているのだ

時はいま皐月の若葉の煌めきにいざ生きめやもと鶯が鳴く

青は天赤は煉獄の色にして妖しく耀う王仁三郎の碗

この赤もこの黄緑も叫んでる生きよ生きよと王仁三郎の碗

桜咲く君と二人1500円のイタリアンランチ食べるしあわせ 

ほんたうの自分なんかどこにもありゃせんありのままの今の自分がここにあるだけ

飛び去りてひとつ所にまた戻るアカタテハ見る白き富士の嶺

ビヨンセの口パクなんて渡辺直美と同じじゃないか

なつさんなら大丈夫ですよとなんの根拠もなく思う僕

午前中から映画を観ているおのれを恥ずかしいと感じられるような人が好きだ

すずかけの並木道をわれゆけばいとながきくちなわ静かに横切る

誰ひとり買うひともなき馬鈴薯よはつかに緑の新芽出したり

埼玉をさいたまなどとひらくのはさだめし痴呆の所業なるべし

若冲が金閣寺の水墨画に描きたる四方竹を斬るな農夫よ

なにゆえにわれをつけ狙うかはいざ知らず口赤き狼犬に追われたり

余りにも早く父母死にたればその身代わりでわれ生きており

新聞の週刊誌広告見れば世の中が分かったようになる不思議

衰えた生命力を燃やすためジェームス・ブラウン聴きながら鱈子スパ食べてる

値が安く丈夫で長く履きやすい買うならことと下駄は「てらこ」で

DⅤとⅤDの違いもわからず生きており

じぇじぇじぇお前みてえなアホは目え噛んで死んじまえ

春蘭を尋ねてみれば花はなし

薫風や出町柳の柳腰 

流鏑馬や黒目に穀雨注ぐ日に

ありがたやオタマジャクシに降る穀雨

全山を緑にせんと穀雨降る

万緑に背を向けて読む春樹かな

春樹読む謎の続きも春の夢

荷風忌やラジオを鳴らす人もなし

万緑の緑異なる五月かな

万緑の万色異なる五月かな
 
躑躅てふ字は書けずともうつくしき

子供の日国旗を揚げる人もなし

つばくらめ我が家には来ぬ寂しさよ

全山が緑となりて皐月尽

嗚呼また無明長夜の悪夢が続いていくんや


     すいかずらの甘き香りに包まれて13年5月27日蛍飛びけり 蝶人




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永田和宏著「近代秀歌」を読んで

2013-05-30 08:08:33 | Weblog


照る日曇る日第597回

明治・大正・昭和を中心に日本人の心のふるさととして永久に口ずさみ伝えるべき100首を選び、適切な解説をほどこした岩波新書の好企画です。

「恋・愛」「青春」「旅」「四季・自然」などの項目ごとに、いつかどこかで目にした短歌の名作が続々登場するので、楽しみながらすいすい読めてしまう、それこそ面白くて為になる詩歌集なのですが、なかにはここで初めておめにかかる作品も多く、わたくしの日頃の、いな、これまでの不勉強に赤面せざるを得ない選集でもありました。

  我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ 茂吉

 この斎藤茂吉の「赤光」の「死にたまふ母」が全篇のハイライトをなしているのは間違いないと思うのですが、土屋文明の「君がもてる貧しきものの卑しさを是の友に見て耐へがたかりき」や「さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝を棺に」、そして土岐善麿の「遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし」や「あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ」などの作品に接して私は大きな衝撃を受けました。 

 子規と茂吉が“近代短歌の父”ならば、その母の名にふさわしいのはやはり与謝野晶子ではないでしょうか。

  金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に 晶子

これは短歌ではありませんが、若き日の彼女の「君死にたまふことなかれ」の5連40行は、いまこそ再読三読すべき内容を含んでいるとわたしには思われてなりません。

 君死にたまふことなかれ、すめらみことは、戦いに おほみづからは出でまさね、
 かたみに人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ。
 

 
井の中の蛙は夜郎自大にて世界を相手に戦うと嘯く 蝶人
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岸恵子著「わりなき恋」を読んで

2013-05-29 08:06:19 | Weblog


照る日曇る日第596回

才色兼備の俳優でありエッセイストでもある著者が70歳を超えて年下の男性と大恋愛をして、その顛末を小説に書いたというふれこみの広告にだまされたふりをして早速読んでみましたが、まあこれはなんと申しましょうかあ、半分は小説で半分は驚きのプライバシイ、しかしてその実態は小説でも私事報告書でもないというヌエのような得体のしれない迷文章が出来あがってしまいやしたあ。

小説の中での主人公と私との区別がずぶずぶだし、ヒロインが恋に落ちた相手の男性の小説世界での存在感が最後まで不明確で、いったい彼のどこにどんな魅力があるのか恋に理なき私にはさっぱり分かりませんでした。

しかしこういう小説を書けば世間の話題にはなるでしょう。有名無名の若いタレントや芸能人が毎日のようにくっついたり離れたりしていますが、それはそれが彼らの商売であり営業政策だからやっているだけのことで、少し知恵のある映画俳優、まして多少まともな物書きなら、色恋沙汰は世間に隠れて楽しむのが筋ってえもんでしょう。

まして“老いらくの恋”ってえもんは多少はこっぱずかしいことでもあるからして、普通は黙って墓場の中までお持ち帰りになって、「おほほ、もう老い先短い人生なにもないかと思っていたら、思いもかけずにこんな素敵な人に巡り合えてよかったわね」なぞと思い出し笑いしながら成仏するてえのが世間の常識、女の嗜みとでもいうべきもんではないかと超保守派のわたくしなんぞはかたくなに愚考するわけなんでありやすが、どこでどうとち狂ったのかこの岸さん、顰蹙は買ってでもゼニにしたい?という料簡の編集者の口車に乗せられて、一流作家になったつもりでこんな本を書いちまった。やれやれ。

蛇足ながらこの題名は清少納言の祖父の清原深養父という歌人が詠んだ「心をぞわりなきものとおもひぬる 見るものから恋しかるべき」からとられたようで、こういうのはサスガ岸さん!と思わされたりもするのでした。



埼玉を「さいたま」などとひらくのはさだめし痴呆の所業なるべし 蝶人
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「円」の2013アンシャンテ公演「ビロクシー・ブルース」を観て

2013-05-28 11:33:22 | Weblog


茫洋物見遊山記第125回

演劇にうとい私が生まれて初めて見物したニール・サイモンの自伝的ビルドゥングスドラマですが、非常に面白かった。

ときは第2次大戦中の1943年、アメリカ南部ミシシッピー州のビロクシーを舞台に作家をめざす主人公のユージンをはじめとする新兵仲間が、とても風変わりな鬼軍曹に徹底的にしごかれながらも軍人として一人前?になっていく疾風怒濤、悲喜交々、波瀾万丈の物語です。

そこでは洋の東西を問わず人間性を完膚無き迄に剥奪する軍隊組織の在り方、ユダヤ人や黒人、同性愛者への強烈な差別と偏見がするどく見据えられているのですが、その傍らでは新兵同士の友情や鬼軍曹への対決、主人公のユーモラスな娼婦初体験やロマンチックな初恋などが息もつかさず繰り拡げられ、見る者を飽きさせません。

特に興味深いのはユージンと同じユダヤ人のエプスタインという若者で、彼がおのれの思想と信条を武器にしながら身を挺して非情で冷酷な軍隊組織と孤立無援の戦いを続けていく姿は感動的ですらある。こういう人物こそがアメリカの民主主義の根底を支えてきたのでしょう。

訓練を終えて軍隊紙「スターズ&ストライプス」の記者となった主人公をのぞいて戦場に赴いていった仲間たちの多くが悲惨な結末を迎えたというエピローグを聞くと、思わず胸が痛くなりました。

演出も役者も新人ばかりの自主公演とはいえ、どんなセリフも耳にきちんと届くヴェテラン芦沢みどりの達意の翻訳、低予算を逆手に取ってパイプ什器のみで軍営や列車などの空間を自在に表現した舞台装置の工夫など、随所に見どころ聞きどころのある自主公演でした。
◎本公演は本日28日と明日29日まで演劇集団「円」(東京メトロ銀座線「田原町」下車)にて上演中。
http://www.en21.co.jp/
http://enchante2013.web.fc2.com/


         全山が緑というがその緑ぜんぶが全部違っているのだ 蝶人
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中村登監督の「紀ノ川」を観て

2013-05-27 07:53:07 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.460

紀の国を悠々と流れる大河紀ノ川にも似たある女性の生涯を、あしひきの山鳥の尾の垂り尾のごとく長々しく描く。

中村というよりは撮影監督の成島東一郎の長所はその抒情性にあって、ヒロインの司葉子が朝紀ノ川を舟で下って夜に嫁入りするシーンなど、彼女の美しさとあいまってまことに素晴らしい。

しかし彼女が田村高広の実家に嫁入りして子をなし、子に背かれ、戦争になり、戦後になってうんぬんかんかんという年代史的な展開は、原作を忠実になぞっているだけの趣がつよく退屈だ。田村が演じている政治家が紀ノ川の氾濫を防ぐ歴史的大工事を成し遂げたような話になっているが、これは事実に反するし、ときどき思い出したように挿入される紀ノ川のカットもうるさく、それにいちいち反応している武満徹の音楽も珍しく饒舌でありすぎる。

これは女優司葉子のかつての美貌を銀幕史に永久にとどめる映画としてわずかに価値があるのだろう。


           土踏まぬ超高層の少年の掌の上をダンゴムシは行く 蝶人
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オタマジャクシはカエルの子 後篇

2013-05-26 09:07:24 | Weblog


バガテル-そんな私のここだけの話op.168&鎌倉ちょっと不思議な物語第286回


今から10年ほど前のある日、突然このヒキガエルの雌雄が10匹ほど峠道の水たまりに現れて見境なしに交尾していたことがあった。

「ぐええ、ぐええ」と奇声を上げながら雄が雌を追いかけまわし、背後からのしかかる異様な春の祭典を半日がかりで楽しく見物したものだが、そのあとには大量の卵が産み残され、なかにはちょん切れてひものようになったのもあった。

しかし時ならぬ春の祭典はたった1日で終わり、交尾軍団はその翌日からは杳としてその行方を絶つのである。

残されたヒキガエルの卵は人の腸のように長く繋がっていて、ゼラチン状の箱の内部には孵化する前の黒い卵がひとつずつ眠っている。ヤマアカガエルの卵は円錐状の小さな透明の山のようになったゼラチンの中に、ヒキガエルよりもうんと小さい黒点が入っているのだが、この黒い点が♪オタマジャクシはカエルの子、のお玉になるのである。

彼らがなぜか単独行を好まず、常に仲間とひとつところに凝集するのは、孤を嫌い衆になずむわが大和民族の性癖に似てまことに不愉快だが、狭い水域に一目数百匹という高密度で蠢くオタマジャクシは頭を軸にしてゆらゆら動き回って愛らしい。

しかし無数とまで思われたオタマジャクシも、カラスやヘビ、そして最大の天敵である人間どもの手にかかってどんどん数が減ってゆく。

人間たちの中には彼らの生育環境を無視してオタマジャクシを自宅へ持ち帰って無惨な最期を迎えさせたり、オートバイや4輪駆動車で野原に侵入して泉や水たまりもろとも殺戮を恣にする凶悪犯がいるので油断できない。

けれどもよしんば獰猛なる殺人鬼の魔手から辛うじて逃れることができたとしても、肉食の彼らにはカツオブシなどの好個の餌がてぢかにないために、生き延びるための共食いという死と恐怖の通過儀礼が待ち構えている。

親ガエルの産卵以来オタマジャクシが晴れて小さなカエルとなって水たまりを離れるのはおよそ半年後だが、その確率は極めて小さく、おそらく200に1の割合だろう。

その奇跡の1をあらしめるためには、毎年三角形の底辺部が途絶することなく維持され、出来得べくんば豊かに富ましめて保たらねばならぬ。かくして余のオタマジャクシ存続活動は細く長く、およそ30年の歴史を閲したのであった。


百千のオタマジャクシが陽に向かい「早くカエルになりたい」と叫ぶ 蝶人

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オタマジャクシはカエルの子 前篇

2013-05-25 09:04:52 | Weblog


バガテル-そんな私のここだけの話op.167&鎌倉ちょっと不思議な物語第285回

2週間ほど自宅の水盤で飼っていたオタマジャクシを細君と一緒に太刀洗へ行って元の水たまりに放してやった。本当は現地のオタマジャクシが事故で絶滅したりした際に備えて毎年こうやって最低数の個体を確保しているのであるが、日当たりのよい東側の窓辺に置いたのでどんどん成長してしまい、なかには手足が伸びて水盤の外に出ようとする元気のいいやつも現れたから、これは已むをえない処置であった。

朝夷奈峠を登りはじめると、たくさんのカラスがぎゃあぎゃあとうるさく鳴きながら飛んでいた。私はミズキの木の上から私たちの登場を警戒しながら見守っている彼奴等に礫をお見舞いしてやったが、かつての左腕のエースも腕がなまって当たらない。

カラスは逃げようともせず私を嘲笑うようにガアガアと鳴き騒ぐ。私は自分が手塩にかけたオタマジャクシを、彼奴等がもしやムシャムシャと食っているのではなかろうかと心配したが、それは杞憂であったらしい。数百匹いたオタマは数こそ減ったが、だいぶ大きくなって健在だったので胸をなでおろした。

朝夷奈峠にはむかしからヒキガエル、ヤマアカガエル、ツチガエルの3種類のカエルが自生していているが、産卵に適した流れの無い水たまりがなければいくら交尾しても子孫を残すことはできない。

そこで私は毎年1月の末に家からスコップをかついで峠道を登り、枯れることの無い小さな泉にたまった落ち葉を丁寧に掻きだし、その周辺の水たまりを深く掘って雨水がたまりやすくしておいてやる。すると春にはまだ早い2月の中旬のある日、草むらや地面の下に冬眠していたカエルたちがその泉や水たまりにぬるぬるした灰色の卵を産みつけるのである。

ことしはヒキガエルとヤマアカガエルが3ヶ所で産卵してくれた。



うかうかと浮かれ出けるアゲハチョウまだ春浅き朝夷奈峠に 蝶人
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川西政明著「新・日本文壇史第十巻」を読んで

2013-05-24 08:25:28 | Weblog


照る日曇る日第595回

「日本文学から世界文学へ」と副題された本シリーズの最終巻では、尾崎一雄、丹羽文雄、舟橋聖一、川端康成、三島由紀夫、島尾敏雄、庄野順三、吉行淳之介、安岡章太郎、小島信夫、三浦朱門、小川国夫、古井由吉、安部公房、開高健、大江健三郎、遠藤周作、大庭みな子など日本文学を代表する作家たちの作品と業績、そして文壇の終焉が歯切れよく回顧され、最後に「異端が正統なき時代の正統となった」村上春樹の世界性を論じて、ああ堂々の掉尾を飾っている。

本巻で私が驚いたのは舟橋聖一の妻妾同居生活で、巌谷大四に「僕に自信はないが、今晩僕の部屋で、二人の女と…」と口吻を漏らすこの稀代の耽美主義作家の創作の秘密はじつにエロくて生々しいものがある。

昭和29年から3年間にわたって三島由紀夫と毎晩のように性愛を重ね、彼の「澄んだきれいな瞳」を見続けていた豊田貞子が、映画「憂国」の由紀夫の眼にはそれが失われていた、という証言も生々しいが、昭和42年に船山馨と銀座のバーで川端康成夫妻と同席した著者が目撃した、康成が見ず知らずの隣の女性の身体を手で執拗に撫でまわす光景は「眠れる美女」の世界を思わせてもっと生々しくて息を呑む。

また遠藤周作には仏留学時代に将来を誓ったパストルという婚約者がいたにもかかわらず、鴎外のエリスのように彼女を袖にして岡田順子と結ばれたという秘話も紹介されている。

かにかくに全10冊を時の経つのも忘れて読んだはずの健忘症の頭の中には、例によってなんの残影も残ってはいないが、それというのも著者がここで手際よく紹介してくれた原作のほんの一部しか私は読んだことがないからである。

嗚呼、なんという日本文学の広大無辺の広がりと奥行きであることか! あの世に行くまでにあとどれくらい時間が残っているか分からないが、小西甚一、ドナルド・キーンと比肩するこの恰好の文学ガイドブックを手掛かりに、これからも好きな作家の好きな文章を独りぼつぼつ渉猟してゆきたいと思っている次第である。


じぇじぇじぇじぇ日経平均大暴落ほんとは誰も信じちゃいない安倍蚤糞 蝶人


◎本日より29日までニール・サイモン作「ビロクシー・ブルース」公演
http://enchante2013.web.fc2.com/
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ヒュー・ハドソン監督の「炎のランナー」を観て

2013-05-23 08:04:02 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.458&ふぁっちょん幻論第78回 


普段は忘却の彼方にある英国の由緒ある古式豊かな服飾術。それは20年に一度くらいの確率で古い歴史の奥座敷から呼び出されてくる。

この映画に登場するスポーツウエアがまさにそれ。冒頭のバンゲリスのテーマ音楽に乗って海岸を走る陸上競技の選手たちのユニフォームやケンブリッジのキャンパスにつどう学生たちの制服やカジュアルウエアはいまみても新鮮でカッコいい。

1924年、彼らは世界中からパリの第8回オリンピック大会に集ったスポーツマンたちと世界一をきそうのだが、その主役がユダヤ人のエイブラムズとスコットランドのエリック・リデルというところにこの英国映画の複雑さと面白さが隠されているようだ。

しかしなんといっても一番カッコいいのが、スコットランドから英国代表として参加した敬虔なクリスチャン、リデルで、日曜日に予選が行われる100mへの出場を拒否した彼だったが400mでは見事金メダルを獲得する。走ることが神の御旨にかなうと信じる彼がランイング・ハイというよりもスピリチュアル・ハイになって恍惚とゴールを駆け抜けるシーンは感動的だ。

その後中国での布教活動に赴いたリデルだったが、1943年に日本軍によって抑留された山東省の収容所で脳腫瘍で2年後に亡くなったそうだ。


余に「ランニング・ハイ」てふ言葉教えてくれしアメリカン人35年前に亡じたり 蝶人
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アンドリュー・ドミニク監督の「ジェーシー・ジェームズの暗殺」を見て

2013-05-22 08:29:25 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.457


ガラガラ蛇を腕に巻きつけたジェーシー・ジェームズは、ついには彼をしとめることになる敵か味方か分からない暗殺者の前で、いきなりナイフを取り出して蛇の二つの首を平然と切断したりするのだが、ここで私たちはジェーシー・ジェームズという男の底知れぬ冷徹と孤独を思い知らされる。

人殺しの極悪人に詭計を巡らせて暗殺した兄弟が、その暗殺劇を舞台に掛けて金儲けしたりしているうちに世間はなぜか騙し討ちを卑怯と糾弾するようになり、兄は自殺、弟は暗殺されるという道行も、ジェーシー・ジェームズにおとらず不気味である。

されど全篇を通じて流れるニック・ケーブの不穏な音楽こそ、この端正な美意識で統一された西部劇映画の隠れた主役だろう。

死と狂気を内蔵したニック・ケーブのミニマル音楽は、そんな不気味な緊張を孕んだ静謐な画面を見詰める私たちを、ついにある緊張の頂点にまで連れて行き、その狭い密室で息苦しいまでの暗殺劇が爆発するのだった。

表題役のブラッド・ピットとその兄役のサム・シェパード、暗殺者のケイシー・アフレックが好演している。


    衰えた命燃やすためジェームス・ブラウン聴きながら鱈子スパ食べてる 蝶人
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工藤栄一監督の「十一人の侍」を見て

2013-05-21 08:32:26 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.455

天保十年の某国某藩における御家騒動を扱った暗欝な時代劇である。将軍のアホ馬鹿息子が引き起こした陰湿な殺人事件が起こったのが旧暦十月としてあるためか、登場人物の吐く白い息が気になって仕方がない。厳寒期の撮影は俳優たちやスタッフも厭だろうが、観客にしてもなにやら息の生臭ささえ偲ばれて、これはいくら映画が面白くても観劇の著しいさまたげになるのである。

息の臭さで思い出すのは「風と共に去りぬ」。強引にクラーク・ゲーブルからキスされたビビアン・リーが「なんともいえず臭かった」と語った話が有名だが、彼は恐らく胃炎か歯槽膿漏だったのだろう。

煙草を飲む人や口が臭い人が不用意に情人に接吻すると、たとえそれまでいくら愛されていたとしても、ひとえにそのために嫌われて、せっかくの愛を失う羽目になることがあるから要注意である。逆に、そんな臭さを我慢してまでけなげに接吻してくれる情人の愛の深さは、また格別のものがあるとも言える。

それはともかく、この十一人の侍たちの血なまぐさい復讐劇は黒沢の活劇を思わせるほどにリアルである。このあいだ鎌倉で亡くなったばかりの夏八木勲や大友柳太郎、里見浩太郎、西村晃は真冬の寒風に晒されながら体と刃をぶつけ、泥水にまみれ、のたうちまわりながら主君の命を巡って死に物狂いで切り合うのだが、当節の形態模写のような静脈流チャンバラ主義者もぜひ見習ってほしいものである。

宮園純子は可愛らしい。音楽は伊福部昭だが、切った張ったの恐ろしい剣劇シーンにあのゴジラの音楽を流して欲しかった。



嗚呼また無明長夜の悪夢が続いていくんや 蝶人
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鎌倉文学館の「腰越文学散歩」に参加して

2013-05-20 08:05:22 | Weblog


茫洋物見遊山記第124回&鎌倉ちょっと不思議な物語第284回

毎年3回開かれている鎌倉文学散歩は半日で最近ようやくユネスコ世界遺産への妄想から醒めてくれたこの湘南の田舎町のあちこちを文学館のガイドさんの案内でぶらぶら歩く文学現地ツアーですが、朝から歩いてお昼には終了する半日コースなのがありがたい。

鎌倉では他にガイド協会が開催している各種の見物ツアーがあるのだが、こちらは500円の会費を払い、お弁当を持参し、終わるのがだいたい午後の2時ごろなのでもう1日仕事になってしまうのである。

さて今回は腰越周辺がテーマということで江の電の腰越駅前に30名ほどが集合して、腰越漁港から小動神社、満福寺を訪ね、恵風園胃腸病院前で解散となったので私たち夫婦は鎌倉高校前からまた江の電に乗って帰った。

腰越には作家の舟橋聖一、田村隆一、立原正秋、田中英光などが住んでいたそうだが、漁港ではたまたま朝市が開かれており、取れたてのサザエを1個200円で売っていた。

高台にある小動神社からは右に漁港、左には昭和5年に太宰治がカフェの女給と自殺を図った大きな岩盤が見下ろせる。彼の「人間失格」などには入水自殺を試みたと書かれているが、実際はこの岩の上で服毒し、女だけが死んでしまった。彼はその5年後にも鶴岡八幡宮の裏山(小林秀雄の旧宅の辺りか)で自殺を図っているが、おそらくはその過去と減形を苦にやんで自己を清算しようとしたのだろう。

太宰が「道化の華」で青松園という名で描いた恵風園胃腸病院は今なお健在だが、この裏山から主人公の葉蔵が看護婦の真野と眺めた江の島方向には、小説と同様この日も富士山は見えなかった。


      DⅤとⅤDの違いもわからず生きており 蝶人


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鎌倉文学館で「太宰治vs津島修治展」を見て

2013-05-19 09:48:58 | Weblog


茫洋物見遊山記第123回&鎌倉ちょっと不思議な物語第283回&ふぁっちょん幻論第77回 

高橋源ちゃんの監修による特別展を、薔薇の香りが緑のそよ風に乗って漂う鎌倉文学館にて鑑賞いたしました。

まずはじめに展示されていたのが、彼の晩年のついの住処となった三鷹の住居に掲げられていた古びた標札です。そこには津島修治と書かれた左側に、括弧をつけてやや小さく太宰治と記されていましたが、楷書を少し崩したその自然な、あまりにも普通の、そしてそれゆえに非凡な彼の書跡に大きな感銘を受けました。

私はこれまで夏目漱石や森鴎外や川端康成や三島由紀夫など有名な作家の原稿や筆跡を見る機会がありましたが、いずれも個性的ながら変態的な自意識が鼻につく奇妙な癖のあるものばかりで、あまり感心したことはありませんでしたが、この明るく透明で、風のように通り抜けてゆくノンシャランな書体をいきなり目の当たりにして「ああ、これはいいものを見せてもらった、あとはもうどうでもよろし、ありがとう文学館さん」と心からのお礼を申し上げたのでした。

ところがギッチョンチョン、驚きはそれだけではありませんでした。会場の半ばに展示された彼の自作の油絵の自画像が、この間近代美術館で見たばかりのフランシス・ベーコンが描くそれに酷似していたからです。頭全体がぐちゃぐちゃに崩れ、激烈な原色で激しく塗りたくった上半身こそ、作家の自己認識と実存の生々しい証ではないでしょうか。

そして最後に私の眼を射たのは、出口に置かれた細身の万年筆の隣にさりげなく畳まれていた、なんの変哲もない小振りのネクタイでした。

おそらく素材は絹の西陣織だと思うのですが、灰色と薄茶色と黒が混合された無彩色の微妙な色合いといい、その表面を走っている(眼を凝らして見なければ気付かない)同系色の穏やかなストライプといい、これほどお洒落なネクタイを私は見たことがありません。

見た目はあくまでも普通でオーソッドクスだが、よくよく見ると驚くべき中身が凝縮されている門札とネクタイ。はしなくも展示会の序幕と終幕を飾っている2つの遺品の中に、私は太宰治と津島修治の結節点を見つけたような気がいたしました。

この特別展は偉大な昭和の大作家の「人間失格」、「右大臣実朝」などの生原稿や遺品の数々と共に来たる7月7日まで長々と開催中。いまなら薔薇園のバラもうるわしく咲き誇っておりまする。


アカルサハホロビノ姿デアラウカココヲセンドトサキホコル薔薇 蝶人

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勅使河原宏監督の「利休」を見て

2013-05-18 07:56:53 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.453

野上弥生子の原作を赤瀬川原平が脚色し、武満徹が音楽をつけ三国連太郎が主演したああ堂々の歴史絵巻だ。

勅使河原宏という人は文芸物では安部公房の原作もの、音楽では朝比奈隆のブルックナー演奏のライヴ、SMポルノではなんちゃらかんちゃらという古今未曾有の最高傑作にして幻の名作を演出しているが、いずれも重厚長大で格調高い画面をつくるのが得意技だ。

本作では信長なきあと実力と自信をつけた成り上がり者の秀吉を山崎勉が好演し、終始緊張感を盛り上げている。弟子の山上宗二(井川比佐志)が秀吉に眼鼻を削がれたうえで斬首されたというエピソードも出てくるが、利休の娘が秀吉に「めかけ」になれと強要された話は出てこず、そのかわりに利休の妻(三田佳子)との関係が哀切に描かれている。

しかし監督の「おはこ」であるはずの朝顔などの挿花は、意外なことに詰まらなかった。時代と様式が違うから草月流の家元としてはおおいに戸惑ったのであろう。


「フランシス・ベーコンです!」と画家は答へたり「ローマです!」と答へしヘプバーンのやうに 蝶人
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佐藤賢一著「小説フランス革命第10巻 粛清の嵐」を読んで

2013-05-17 09:46:54 | Weblog


照る日曇る日第594回

 1793年7月13日、ジャン=ポール・マラーはジロンド支持者のシャルロット・コルデーに暗殺されるが、この予期せぬ凶行を契機にして無風状態にあった国民公会のジャコバン党、というよりはロベスピエールを長とする公安委員会が、血が血を呼ぶ粛清の嵐を巻き起こす。

超過激派の若き革命家サン・ジュストに激しく突き上げられた日和見主義者のロベスピエールは、心乱れながらも恐怖政治を断行、元フランス王妃マリー・アントワネット、ジロンド党の議員たちやその強力な後ろ盾であったロラン夫人などを次々にギロチンの血祭りに上げてゆく。

「おお自由よ、そなたの名のもとにいかに多くの罪が犯されたことか」という彼女の遺言はあまりにも有名だが、革命の大義という美名の元に革命を肯定する多くの自由の徒も次々に殺されてゆき、それが「自由・平等・博愛」を標榜した大革命の自己崩壊という結果をもたらすのである。

しかし熱烈なカトリック教国とみえたフランスが、急速に基督教と教会から離脱して無宗教へとひた走り、「理性」の祭壇の前にぬかずくようになった時、いいしれぬ恐怖に慄いたのが他ならぬこの独裁者であったとは、まことに興味深い事実である。

キリスト教の代わりに天皇教という目に見えぬ宗教が依然として猛威をふるい、天皇元首制なる虚妄の擬制を信奉する古式豊かな人々が羽ぶりをきかせている我らが変態帝国でこそ、このような「理性教」の存在理由があるというべきだろう。


天皇を元首に祭り上げるその前によくご本人にお伺いしてご覧よ 蝶人
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