あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2010年極月茫洋狂歌三昧

2010-12-31 14:46:31 | Weblog


♪ある晴れた日に 第83回


なんだって後出しじゃんけんで偉さうに歴史を裁くなダンテ

円安の時は黙って左団扇円高になれば泣いて文句言う幼児の如き輸出企業

ひだりぎっちょなので小便も左に向かって飛んで行く

ロシアといえばイワンの馬鹿を思うロシアの馬鹿

三台のポルシェとスタインウエイ持つ青森県の山林王の奥さん

借金が税収より多き国埋蔵金を探して歩く人もなし

山の音はわが心韻にして神韻なり山の音す

横山のフクちゃん宅の桜の宴プールに飛び込みしは赤塚不二夫

そういえばそういう人もいたわねえなどいわれつつ静かに消える

介護せず介護されずに生きてあれば天国にある心地こそすれ

営業は真心に尽きるなり逗子ホームイング石田店長

なにゆえに福田の里より電話しないホームステイの息子よ元気か

いっちょ戦争でもやりたいなとアホ餓鬼ども騒ぐ

いくたりも夥しき死人出せる家並び鳶舞う鄙を鎌倉と呼ぶ

七百年あまたの死者を葬いし小さき鄙を鎌倉と呼ぶ

どうだんの躑躅の花は火と燃えてわが魂に燃ゆる修羅の炎

音楽の心も知らず音楽を製造している音楽産業

天も裂けよ地も割れよビオラを擦る一〇人の男たち

藤原義江
声美しき人心清しと刻まれて我等のテナーここに眠る 

「そして夢」と花崗岩に刻まれし私の義父を西陽照らせり

バス停で息子を殴りし「しょうじ」てふ表札尋ぬる極月の宵

貫之
「だ」で書くと男「です」で書くと女になったような気がします 

なにゆえにいま生まれしか黄色なタテハ

わが魂の奥に燃ゆるか紅蓮修羅

わらわらと松の廊下を駆けにけり

紅白のさざんかに埋もれ冬籠り

われは夫君は妻目と目の間で魔物が笑う

年賀状はださないことにしました来年は

香川逝けり子規さながらに極月十二日

星月夜鎌倉の闇の深さかな

星ノ井や君の瞳とわが瞳



鎌倉の朝日巻頭を飾りたる「鳥とりどり」の連載終わる 茫洋


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ブダペスト弦楽四重奏団の「ベートーヴェン全集」を聞いて

2010-12-30 16:55:18 | Weblog


♪音楽千夜一夜  第173夜

これも1枚200円也のソニーの廉価盤の8枚組ですが、値段と演奏はともかく録音のひどさは目に、いや耳に余ります。

同じ演奏をLPレコードで聴いてみると、かなり楽器に近接したオンではありますが、大きく生々しい音がしてそれほど悪くはない録音なのに、これではCDにした意味がない。

いやそういうレベルの話では、どんなハイテクを駆使したデジタルCDも優秀録音のアナログレコードに「音楽的音響のクオリティ」としてはかなうはずがないのですが、この商品を聴き続けると私の耳を痛めてしまう危険があるので、全部は聞かないまま栄えあるお蔵の殿堂入りとなりました。

これに似たひどい録音としては、リリー・クラウスのステレオによるモーツアルトのピアノ・ソナタがありますが、これもコロンビア・ソニーの悪質な技術者の手になるものでした。

クラシックの録音といっても、別にクラッシックのマニアが担当するわけではありません。音楽芸術とはまるで無縁な単なる工学技術者が、録音やマスターテープの作成、リマスター作業にかかわっているために、昔も今もこういうアホバカ珍現象が起こるのです。ウィルヘルム・ケンプの2度目のベートーヴェン全集を担当したドイツグラモフォンのテクノ馬鹿が、いかに天真爛漫な芸術家の心と創作意欲を傷つけたかは、そのCD録音を1回目のモノラル録音と聴きくらべてみればよく分かりますし、さきに挙げたクラウスのモーツアルトを、モノラルの韓国EMI盤と比較してもつぶさに体感できるはずです。


音楽の心も知らず音楽を製造している音楽産業 茫洋



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ギュンター・ヴァント指揮ケルン放響の「ブルックナー交響曲全集」を聞いて

2010-12-29 17:24:20 | Weblog


♪音楽千夜一夜  第172夜

ギュンター・ヴァントが指揮するブルックナー! こう印字しただけで、私の脳内は彼がやってのける、あの立派で、高潔で、非の打ちどころのない音楽に満たされていく快感を覚えてしまう。それは私が最も高く評価するチエリビダッケのミクロの決死圏を遊泳する極限の演奏とはまったく違うオーソドックスにして自然体の演奏であるが、1番でも6番でも、全9曲のどれをとっても変わらない彼独自の美質である。

まあ実際に聴くなら、できれば8番がいいことはいいが、でもあの小沢がそれしか振れない2番だっていいのである。そのあくまでもスコアに密着して、スコアの裏側にある作曲者の意図を、真意を、清く正しく美しい音として表出しようとする心根と、そのアウトプットの恐ろしいまでの高品質はバルリンフィルが相手だろうが、北ドイツ放送交響楽団であろうが、このケルン放送交響楽団であろうが、まったく変わらないのである。

世間では晩年のベルリンフィルとのライヴを好むひとも多いようだが、私はむしろ彼の手兵であった2つの放送交響楽団の演奏をとる。ベルリンフィルは彼を尊敬していたが、彼はそうでもなくて、その微妙な齟齬が同じブルックナーに表れている。ちょうどクライバーがバイエルンの州立オペラに感じなかった微妙なねじれがウインフィルとやるときに露頭しているような微妙な齟齬が。

昔小沢の恩師であった斎藤和英英和辞書の著者の息子が、「形より入れ、しかして形より出でよ」と、のたまわったが、その究極の理想をこれ以上にはない形で見事に実現してのけたのは、その不肖の弟子ではなくてこのヴァントだったのである。


「そして夢」と花崗岩に刻まれし私の義父を西陽照らせり 茫洋


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ベルリンフィルの「モーツアルト集」を聞く

2010-12-28 18:02:21 | Weblog

♪音楽千夜一夜  第171夜
昨日と同じソニーの超廉価盤でモーツアルトの7枚組を聴いてみました。この「聴いてみました」を私はよく「聞いてみました」と印字しているが、それで前者は少しく熱心に音声に耳を傾けるという点で後者と趣を異にするということを知らないわけではありませんが、字義としてはどちらでも間違いではなく、それに私は仕事をしながら音楽を聞いていることが多く、かてて加えていつも頭がぼんやりしているので、まあその大半が聴くではなくて聞いておるのです。

さてこのCDセットには、モーツアルトの代表的な交響曲10曲とポストホルンフォルンなどの著名なセレナード、そしてあの有名なバイオリンとビオラのためのシンフォニア・コンチエルタンテなども添えられており、それらを演奏しているのが全部ベルリンフィルなので、モ氏ファンには絶対に逸すべからざるコレクションと言えるでしょう。

バルリンフィルのいいところは、なんといっても音楽への前のめりの集中力の凄さでありましょう。彼らは常に指揮者よりも早く音楽に「熱中」し、「指揮者の棒を待たずに、自分がこうだと思う音を朗々と奏でる勇気」を持つ演奏家を数多くかかえていることで、まさにこの点において、失敗を死ぬほど恐れるかの東洋一あほばかN響はもとより欧州一のウイーンフィルよりも貴重な存在といえましょう。

死せるカラヤンに率いられた彼らが、ブラ一のコーダを全身を四方に揺らせながら忘我の恍惚状態の中で夢中になって演奏しているビデオを見て、私は彼らの音楽への献身に思わず涙した日のあったことを、いまでもよく覚えています。

それから、k550と551を見事に鳴らしている晩年のカルロ・マリア・ジュリーニとグランパルティータを振っているかの凡庸極まりないズンドコ・メータを除いて、その大半がクラウディオ・アバドの指揮であることもこのCDの商品価値を高いものにしています。

それにしても確か70年代のはじめにベーム翁に連れられて初めて来日し、ウイーンフィルとまことにつまらないベートーヴェンの7番を演奏したあの痴呆馬面のミラノ男が、ベルリンフィルを弊履の如く投げ捨てたあとに、これほど素晴らしいマエストロに変身するとは、いったい誰が想像したでしょう。
 

  天も裂けよ地も割れよ死地に乗り入るビオラ一〇人衆 茫洋

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ジェームズ・レヴァインの「マーラー交響曲集」を聞いて

2010-12-27 18:01:23 | Weblog

♪音楽千夜一夜  第170夜

 豚のように太った人間はいくらその中身がよくっても、見るからに嫌なもんだが、(例えばイジュウインなんとかという豚。もっと節制せよ!)音楽関係ではパバロッティとこのレヴァインだけは例外だ。もっともっと太れ。太ってもかまわないと、と言いたくなってしまうから私もいい加減なもんだ。

私がこの太った指揮者のマーラーを聞いたのは、もう30年以上前になるだろうか。フィラデルフィア管を振った「巨人」と呼ばれているホ短調交響曲は、同じ曲のワルターの演奏と並んでいわゆるひとつのマイ・フェイバリトゥ・レコーズであった。

ショルテイやバアンスタインやバルビローリやテンシュタットなどが一時の激情に駆られてオケをあおるところを、この指揮者はかえって冷静に、そして抒情的に演奏しているのがことのほか印象に残り、これは誰の影響かと考えてみると、彼の師のジョージ・セルの教えなのだった。セルの1番や6番に耳を傾けてみると明らかにその瑞々しい幽かな源流と出会ったような思いがするのだった。

そうして魔粗の世がバアンスタイン、ゲルギエフなどの動脈派とアバド、ブーレーズ、シャイイーなぞの静脈派に大きく2分化されていく流れにあって、ラトルやヤンソンスなぞはあえてその中庸をいこうとしているかにも見ゆるのであるが、まあマーラー自体の音楽にあまり評価できない私としては、クラシカル・ミュージックの原体験ともなったこのレヴァイン盤を懐かしく聞いてみたことだった。

残念ながら2番が入っていないが、他の全曲が10枚2490円で一挙にわがものになるというのはなんといっても近来の朗報ではなかろうか。どれも素敵な演奏だが、あえて取るなら10番か。


声美しき人心清しと刻まれて我等のテナーここに眠る 茫洋


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小川国夫著「襲いかかる聖書」を読んで

2010-12-26 12:15:37 | Weblog

照る日曇る日 第396回

一瞬、彼の遺著「弱い神」以降の作品が発掘されたのかと思ったが、そうではなく、彼の昔の作品をどこかの誰かが編んだ「聖書」を軸にしたエッセイと対話集と未完の小説によるアンソロジーであった。題名にしても彼がつけたものではないだろう。誤解を招くような本を出してほしくないものである。

しかしながら、いま読み直しても80年代の終わりに埴谷雄高との間で交わされた往復書簡の彼による「妄想」の強度と深度と伸張度は異数のもので、彼の広大無辺の思索の範疇には、ゴーギャン、ドストエフスキー、カント、ロマ書、コリント後書、ダンテ、芥川、荘周、ゴッホなどが含まれ、私たちを存在と非在の彼方へと遠く連れ去っていく。

とりわけアルルで耳を切り、オーヴェル・シュル・オワーズであばら骨に銃弾を撃ち込んだゴッホと、漠然とした不安から自死した芥川とを、「準イエス」と規定し、その2人に想像力と創造力の限りを尽くして妄想対話をさせるくだりは興味深く読めた。

人間には「永遠に守らんとする者」と「不断に成りつつある者」とが存在し、おおかたは前者に属するが、パリからアルルに赴いたゴッホは「死の豊饒」に向かって熱烈に、意志して、成らんとしていた、と説く著者の妄想はけっして妄想ではない。そのことは、ゴッホが、ここカタリ派の聖地で描いた「星月夜」を見れば一目瞭然としている。


「不断に成りつつある者」を存在の根底で突き動かすのは、「永生」への希求ではない。変わらざる死への衝動であり、永遠の死、すなわち「永死」に向かって自己投棄、自己消失しようとするバニッシング・ポイントへの突進である。

「準イエス」としてのゴッホや芥川が、真キリストとしてのイエスに向かうのは、イエスがすでに幾多のバニッシング・ポイントを通過してきた大経験者だからだ、と説く著者は、こうも述べている。

「この不断に成りつつある者は、すでに何回も何回も自分を消した。だから世に喧伝される復活を成し遂げる前に、すでに復活体だった。彼は普通の流れの外に出ていたんだ。創世の時から存在したというのも、その意味なんだろう」

ふむ、その言うやよしと言うべきであろう。

バス停で息子を殴りし「しょうじ」てふ表札尋ぬる極月の宵 茫洋

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メトのプッチーニ「トゥーランドット」を聴く

2010-12-25 17:03:13 | Weblog
♪音楽千夜一夜  第169夜

やはり昨年の11月7日に行われたメトロポリタン・オペラ公演のライブ収録です。

指揮者はアンドリス・ネルソンズという若い人。果物で言うと青い梅のような生硬さが随所に顔をのぞかせ、先輩のジェームズ・レバインに比べたら10年早い音楽家ですが、まだまだこれから成長するはずです。

題名役のヒロイン、マリア・ゲレギナはものすごい剛腕、じゃなくて剛音の持ち主。フォルテからピアニッシモまで広大な空間の隅々まで音が飛んでいきますが、聴き惚れるような声の質ではありません。ミグ戦闘機の爆音みたい。

トゥーランドット姫に恋するカラフ王子のマルチエロ・ジョルダーニとピンポンパンの3馬鹿大臣も健闘していましたが、3幕の例の「誰も寝てはならぬ」のアリアでは、どうしても死んだパバロッティの激唱を思い浮かべてしまいます。

リューのマリーナ・ポプラフスカヤと老王サミュエル・レイミーは、見事に観衆の涙を引き出す名唱。冷酷な女王トゥーランドットに対してリューはいつでも儲け役です。
あとは当年とって82歳のチャールズ・アンソニーがトゥーランドット姫の父親役でしぶいところを見せていますが、なんといっても最大の見どころはフランコ・ゼフィレッリの壮大な見世物美術と群衆シーンの卓越した演出ぶりでしょう。いつまでも残しておきたいセットです。

それにしてもせっかく3つの難問に、「希望、血、姫」と正答したにもかかわらず、王子との結婚を拒む姫も、それに対して「わが名を当てよ」と逆の出題をする王子も、まっこと不条理を極める中華帝国的プロットであることよ。まあオペラの脚本なんて、めちゃめちゃなほうが、ドラマがうまくいくんでしょうが。


借金が税収より多き国埋蔵金を探して歩く人もなし 茫洋
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長谷の「甘縄神明宮」を訪ねて

2010-12-24 17:18:27 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第238回&茫洋物見遊山記第51回

甘は海女、縄は漁の縄という説があるそうですが、さあどうでしょうか。この甘縄神明神社、別名甘縄神明宮は天照大御神を祀っていますが、和銅年間(708-715年)にこのあたりの豪族染谷太郎時忠が建てた鎌倉で一番古い神社といわれています。頼朝の祖父頼義、父の義家の代から源氏にゆかりのある神社です。

神社のたもとには頼朝の最有力の御家人の一人であった安達藤九郎盛長屋敷跡という鎌倉青年団が建てた立派な石碑があり、往時は神社の前が彼の広大な武家屋敷であったと推定されていましたが、最近の研究では安達一族の本拠はここ甘縄ではなく、いまの鎌倉市役所の南方にある佐助近辺の無量寺谷にあったと考えられています。

頼朝が毎日のように訪問したり、宝治合戦の折に安達景盛の軍勢が鶴岡八幡宮を突き切って三浦泰村邸に突撃するためには、安達の本拠がはるか遠方の甘縄では吾妻鏡の記述と平仄が合わないからです。ここ無量寺谷の中心に所在した無量寿院が安達家の菩提寺でありました。

 しかし北条家と密接な姻戚関係を取り結んだ安達家の歴史を物語るかのように、この甘縄神明宮の石段の下には小さな井戸があり、「「北条時宗公産湯の井」という札が立っています。「北条経時や時宗の母である松下禅尼は安達氏出身ですから、そういう伝説が生まれたのでしょう」と鎌倉市教育員会発行の「かまくら子ども風土記」には書かれています。甘縄神明宮のすぐ傍には川端康成邸がありますが、近所の人の話では、この辺りではいまでも時折「山の音」が聴こえるそうです。


山の音はわが心韻にして神韻なり山の音す 茫洋
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坂ノ下の「御霊神社」を訪ねて

2010-12-23 17:34:17 | Weblog

鎌倉ちょっと不思議な物語第237回&茫洋物見遊山記第50回


星ノ井の近くにある名物の力餅屋の近くにあるのがこの御霊神社で、祭神は鎌倉権五郎という勇猛な武将です。

源義家に従って「後三年の役」(1083-87)に出陣した権五郎は、秋田の金沢の柵を攻めたとき、先頭に立って大活躍をしましたが、その際敵から右目を射られました。彼はその矢をそのままにして矢をつがえ、相手を倒してしまいました。

その後味方の三浦平太という武士が毛皮のくつをはいた足で権五郎の顔を抑えて矢を抜こうとしたら、その無礼に怒った権五郎が刀を抜いて殺そうとしたので、平太は非礼を謝罪して、今度は膝で額を抑えながら矢を抜いたそうです。いずれにしても麻酔なしですから、ずいぶん痛かったことでしょうね。

社殿の前には弓立ての松が置かれていますが、これは権五郎が領内を回るときに弓を立て懸けて休んだというひとかかえもある大きな松の木をくりぬいたものです。

それから権五郎の命日である9月18日には、毎年お面をかぶった人たちが行進する「面掛け行列」が行われますが、これは神奈川県指定の無形民俗文化財となっています。


 またかつてこの御霊神社の近くには、国木田独歩が住んでおりました。  


   三台のポルシェとスタインウエイ持つ青森県の山林王の奥さん 茫洋


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秋山哲雄著「都市鎌倉の中世史」を読んで

2010-12-22 18:27:26 | Weblog


照る日曇る日 第395回&鎌倉ちょっと不思議な物語第237回


まったくなんの期待もなく読み始めた本なのに、これはびっくり驚いた。「吾妻鏡の舞台と主役たち」という副題がついた本書で、著者は、鎌倉とそこに生きた人々の生活と歴史を根本的に見直し、いくつもの目覚ましい成果を上げています。

 例えば当時の御家人たちがどこに居住していたかという問題。私は三浦、北条、小山、安達、宇都宮、千葉、和田など頼朝恩顧の宿老や一族の大半がずーっと「在鎌倉」であったとなんとなく考えていたのですが、本書によればそれはとんでもないことで、彼らの多くがその本貫地と鎌倉をその必要に応じて行き来しており、「いざ鎌倉」以外の時は年中無人の宿舎や館を他人に貸したりしていたそうです。また御家人に3人兄弟がいる場合には、在国と在京と在鎌倉で住み分けたりしていたというので驚かされました。

 もっと驚いたことは、長年にわたって私が市内をうろつきながらてんで解明できなかった北条一族の邸宅や御所の位置が、これまで私が鼻歌をうたいながら読み飛ばしてきた「吾妻鏡」の深読みを手掛かりに、まるでクロスワードパズルを解くようにものの見事に特定されていることでした。

現在の宝戒寺一帯が北条氏最後の執権高時の邸宅であるばかりか、北条義時、時房、時頼邸でもあったこと、また小町大路をはさんだその西隣が北条泰時、経時、重時邸および御所であった(現在の吉田秀和邸!)とは露知らぬことでありました。
 
義時、政子を相次いで喪った泰時は未曾有の政治的危機のさなかにあったわけですが、そのとき泰時は、電光石火の早業で「掌中の玉」である三寅を自邸近くに引っ越しさせると同時に、四大将軍に就任させ、次の段階では突貫工事で宇都宮辻子の新御所を完成、将軍と執権の一体化を果たしておのが権力をはじめて不動のものとしたわけですが、著者はこの薄氷を踏むような一連のプロセスを、これまた「吾妻鏡」の精読と鋭い考証によって見事に跡付けしています。

 さらに「鎌倉にはどうして寺院が多いのか?」と自らに問うた著者は、1)北条氏が先祖が住んでいた邸宅をその死後次々にお寺にしていった(建長寺、浄智寺、東慶寺など)、2)「東六浦、南小坪、西稲村、北山内」の鎌倉の四つの境界にそれぞれ巨大なランドマークを築こうとした。(大佛、極楽寺、大慈寺など)3)敵味方なく鎮魂する平和思想のあらわれ(円覚寺、勝長寿院、永福寺、宝戒寺など)とみて、まことに説得力のある回答をみずから引き出しているのです。

 この本は、1994年以来16年間にわたって鎌倉の遺跡発掘作業に従事し、「汗と土と泥と時折のビールにまみれた」若き学徒のたゆまぬ精進が、豊かに報われた記念碑的な鎌倉研究書といえるでしょう。



横山のフクちゃん宅の桜の宴プールに飛び込みしは赤塚不二夫 茫洋
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極楽寺坂下の「星ノ井」を訪ねて

2010-12-21 18:02:21 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第236回


鎌倉は水の悪い土地でしたが、一〇の井戸と太刀洗い水など5つの名水がありました。

平安時代の有名な歌人、藤原公任に

われひとり かまくらやまを こえゆけば 星月夜こそ うれしけれ

という和歌があり、星月夜は鎌倉の枕詞となっていますが、この「星ノ井」という名前はこの一帯を「星月夜が谷」と称したことから命名されたといわれています。

この辺りは昼なお暗いところで、昼でものぞけば星が輝いていたことが奈良時代の行基の伝説にも伝えられています。全国を行脚していた行基がこの井戸をのぞいてみると3つの明星がきらきらと輝いていたそうです。土地の人に掘らせてみると、底から珍しい石が出てきたので、行基はこの石を虚空蔵菩薩の像に刻んで、近くの山腹に安置しました。それが現在星ノ井隣の石段を上ったところにある「虚空蔵堂」です。

名水として知られる星ノ井は、昔から貴重な飲料水として販売されていたようです。小説家広津和郎の「静かな春」(昭和48年)にはその高い評判が記されていますが、彼の父柳浪は「この水は明礬が混じっているからお茶が濁ってだめだ」と排斥したので、近所の酒屋が、「これがだめならどこの水がいいんだ」と言って驚いたという話が書かれています。

太宰治の墓前で自殺した田中英光は、昭和40年の「われは海の子」で「青みどろの水を湛え底深く光る井戸は一種の鏡であった」と記していますから、まだそのころまでは清らかだったのでしょうが、現在では井戸の上に細竹を敷き並べたふたがしてあるので、中も覘けませんし水も汲めないのが残念です。

以上は、鎌倉市教育員会発行の「かまくら子ども風土記」と鎌倉文学館の資料をもとに書きました。

星月夜鎌倉の闇の深さかな 茫洋


星ノ井や君の瞳とわが瞳 茫洋

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ジョゼフ・コラネリ指揮メトで「トスカ」公演のビデオを見る

2010-12-20 17:08:15 | Weblog


♪音楽千夜一夜  第168夜


昨年10月10日に、NYのメトロポリタン・オペラハウスで行われた「トスカ」のライブ放送です。

指揮者は名前を聞いたこともない中年男でしたが、いわゆる職人肌の劇伴に徹していて、ヒロインのカリタ・マッティラやヒーローのマルセロ・アルバレス、敵役スカルピアのジョージ・ギャクニックをそれこそ思う存分のびのびと歌わせます。

最近のオペラ指揮者はウエルザー・メストなど100人が100人ことごとく神経衰弱のえせインテリばかりで、いろいろ能書きを垂れたり、棒振りの恰好をつけたり、細部を異様なまでに修飾したりすることにいそしんでいますが、んなこと誰も求めてはいないんですね。

オペラの本質は歌の爆発ですから、どんどん歌手に自由に歌わせてやっていただきたい。交響曲とオペラを勘違いして歌手の声をぶち殺すような大音響を鳴らしたり、歌手に呼吸させなかったりする似非マエストロばかりが世界中のオペラハウスで稼ぎまくっているのは、それをやたらと有り難がってブラボ、ブラボと絶叫しているあほばか観衆にすべての責任があるのです。

それはともかくこの演奏、歌唱も劇伴の琴瑟相和して丁々発止、さしつさされつボルテージが次第に上昇し、自然な感興がときに爆発して聴衆の涙をさそいます。
このオペラに出演中のカリタ・マッティラが、「今夜は恥骨にジンジン来るわ」なぞとじつにとたまげた感想を、幕間のインタビュアーに口走っておりましたが、まことにその通りの音と歌の饗宴となりました。

リュック・ボンディの演出もなかなかのもので、最近のふざけたあほばか演出家と違って、音楽をぶち壊しにしないヨーロッパ的な知性がことのほか気に入りました。

そこで私もこの際珍しくブラボー三唱。ブラボー!メト。ブラボー!プッチーニ。ブラボー!カリタ。


年賀状はださないことにしました来年は 茫洋
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五味文彦編「現代語訳吾妻鏡9執権政治」を読んで

2010-12-19 17:14:17 | Weblog

照る日曇る日 第394回&鎌倉ちょっと不思議な物語第235回

私の偏愛する3大将軍が北条家の陰謀で暗殺されたあとは、もう悪辣非道な北条一族が頼朝ゆかりの宿老たちをまるで鶯をなぶり殺しにするタイワンリスのように血祭りに上げるだけの陰惨な悲劇の連続と相場が決まっているので、ほとんど関心がない吾妻鏡であるが、それでも読んでいるといくつかの発見がある。

時政の後を継いだ諸悪の根源北条義時は元仁元年1224年に62歳で急死し、弟の泰時が京から呼び寄せたれて弟の時房と共に執権の座につくが、当初のその権力基盤ははなはだあやういものであったことが彼らの姉の政子の動静を追っているとよくわかる。

わが子源家ゆかりの頼家、実朝の2人のわが子を見捨てて北条一族のお家大事に原点回帰したこのけなげな女は、御家人の離反をなんとしてもさけようと昼夜をわかたず懸命に奔走している。当時の最強の後家人はもちろん相模の国の半島に磐居する三浦一族の長義村であるが、閏7月1日の条では、泰時・時房の傍らで4代将軍頼経をひしと抱いた政子は義村を帰すまいと朝まで身をもって引きとめているのである。

その後も鎌倉の騒乱は収まらず、その都度北条は三浦一族の反乱を死ぬほど恐れていたことがうかがえるのであるが、捨て身ともいうべき政子の懐柔が乾坤一擲見事に成功したために、お人好しの義村は蜂起の決定的なチャンスを失い、この希代の女性政治家は嘉禄元年1225年7月、精魂尽き果てたように69歳で卒した。

北条家最大の危機を政子の最後の、命懸けの政治活動でしのぎ切った北条氏は、その22年後の宝治合戦で、関東最強武士団三浦氏を完膚なきまでに殲滅したのである。

もうひとつの発見は、この時代の寺社仏閣の創建がいとも短期に果たされていること。
例えば泰時による若宮御所の宇津宮辻子への移転は、わずか1月足らずで実施されているし、わが家の近所の大慈寺の丈六阿弥陀堂などは3月29日に審議がまとまって4月2日に上棟されている。

幕府は工事の場所や日時については京からやって来た陰陽師の安倍一族に何度も何度も占わせて慎重を期しているが、いざ決定すると猛烈なスピードで完成させていたようだ。ちなみにこのお堂の丈六の仏頭は塩嘗地蔵で知られる光蝕寺の本堂に安置してある。飛鳥大佛を想起させる縄文風のアルカイックな風貌がユニークである。


七百年あまたの死者を葬いし小さき鄙を鎌倉と呼ぶ 茫洋

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林望訳「源氏物語四」を読んで

2010-12-18 16:40:16 | Weblog


照る日曇る日 第393回

身から出た錆びの性欲肥大の罪障によって配流された明石から見事京に帰還した源氏は、その後いかなる運命のいたずらか、とんとん拍子に位階人臣を極め、六条の広大な敷地に泉水、庭園、美女、下人、牛馬を備えた大邸宅を構えて、東西南北の要所要所におのれの女を住まわせます。源氏時に三六歳、思えばこの時がかれの生涯の絶頂期だったのではないでしょうか。

東南の春の御殿には正妻の紫上、西北には配流の地で調子よくモノにしたちょっとローカルな味がイケてる明石の姫君、夏の屋方には酸いも甘いも嚙み分けた浮かれ者の超ベテラン熟女花散里、(私はこのひと大好き!)、西の御殿には宿命のライバルである権中納言(ほら昔雨夜の品定めに興じていた頭中将ですよ!)が夕顔に生ませた鄙育ちの美女、玉鬘、そして西南に位置する秋の御殿にはなんと冷泉帝の中宮にして六条御息所の娘である貴婦人、梅壺までもがどういう風の吹きまわしだか拉致されて侍っており、われらが主人公の夜の訪れを心待ちにしているというのですから、こりゃたまりません。いくつ身体があってもタラない、というまことに男冥利に尽きる話です。

かててくわえてそれまで源氏が棲息して夜間活動を享楽していた二条邸の拠点には、これまでもいろいろ出入りのあった空蝉や末摘花選手など、いまや天然記念物、絶滅動物並みの遭遇となった源氏との逢瀬を、今か今かと待つ望んでいるというありさまなのです。

しかし蝶と花の命はあまりにも短かくて、その得意の絶頂も長くは続きません。うららかな春夏の後には、心さびしい人生の秋冬が、ほれ、もうすぐそこまで忍びこもうとしているのでした。

この世の権力と快楽のすべてを味わい尽くした色男の頂点を、これ以上ない華やかさで描き尽くしておいて、やがてガツンと地獄へ突き落す。世界最高の小説家、紫式部の剛筆が、残酷なまでに鮮やかに冴えわたるのです。


   紅白のさざんかに埋もれ冬籠り 茫洋



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フラバル著「わたしは英国王に給仕した」を読んで

2010-12-17 17:19:00 | Weblog


照る日曇る日 第392回

現在のチェコに生まれ、1997年の2月3日に病院の5階から鳩に餌をやろうとして82歳で転落死した作家が、ある夏の日に激しい日差しにさらされながら3週間で一気阿成に「アクアション・ライティンング」したカタリが本書です。

 主人公はナチ侵攻中のプラハでホテルの給仕をする小男なのですが、読めばわかるように別に給仕でなくとも成立する話、いな小噺です。ホテル・パリの名物給仕長は英国王に給仕したのですが、この小説の主人公はエチオピア王に給仕する栄誉と勲章に輝く。

しかしだからどうってこたあないのです。チェコ人でありながら、憎き仇敵であるドイツ娘と愛しあって、その所産としてあらゆるものに釘を打つしか能のない障碍児ができたり、その絶世の美人が爆弾でぶっ飛ばされて首だけがどこかへ消えてなくなったりする。

この地球のどこか遠いところに隠れ住んで、犬や猫やヤギやポニーたちと仲良く暮らす主人公は、私のような田舎者には理想に近い生き方とうつります。

死んじまったら小さな丘に埋めて欲しい。時と共に地面に溶け込んだ残余物がほうぼうの小川から流れ流れて黒海と北海に流れ込み、その2つの流れがそれぞれ大西洋に注ぐようにしてもらいたい、とモノガタリの主人公に語らせる著者を私は嫌いではありません。

ある夏のひと月、サルバドール・ダリの「作られた記憶」とフロイトの「挟みつけられて動きがなくなっていく情動を、カタリりで流出させていく」精神で、頭に浮かぶ由なしこと、根も葉もないことどもを、これでもか、これでもかと描き続けていった誇大妄想狂の記録を、あなたにもぜひ手にとっていただきたいものです。


そういえばそういう人もいたわねえなどいわれつつ静かに消えたし 茫洋


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