眠い目をこすりこすり書いたら、だいぶ文章が荒れており、誤字もあり、以下少し修正整理しました。(5/28)
1970年代、私は沖縄闘争の真っただ中にいた。
1971年3月、地元の高校を卒業した後半年後に上京。
足立区に居を定め、認可外保育所(保護者と保育者の共同で運営する)に勤務。
当時、沖縄の返還闘争が主流であった。
私は、奄美で育った。
10歳のとき、奄美大島復帰10周年の提灯デモが故郷で行われ、参加したのが「祖国復帰」と言う言葉に接した始めであった。
当時は、伯父が町議であったが
右も左も 一緒になって祖国復帰を成し遂げたと聞かされた。
、
沖縄の占領政策はその後も続き
基地の建設のための土地の強制収用や人権無視の信託統治が行われ、
沖縄の人々の祖国復帰への願いが日々大きくなり
全国的にも沖縄を返せという運動が高まっていった。
当時、北緯27度線
つまり 鹿児島県与論島沖と沖縄本島との間の27度線上で
沖縄の人々と本土の人々のチャーター船が海上に集まり返還運動を共に進める決意を表す会場集会が行われていた。(サンフランシスコ条約が結ばれた日の4/28日実施)
私も、高校時代参加していた。
上京後、毎日のように行われる沖縄全面返還を求める集会や国会へのデモに行っていた。
当時、核兵器が持ち込まれているとの情報に
核もない基地の全面撤去での返還を求める運動であった。
国会では、日本共産党や人民党など沖縄選出の議員たちが
核もない基地もない沖縄の返還を米国政府に求めるよう要求していたが、
当時の自民党政府は
何の条件も付けずに返還協定に調印したのである。
つい先日起こった女性殺害事件や繰り返される米軍関係者の犯罪の根源は、
あの基地付返還にあると改めて当時のことが想起された。
私は、我が故郷奄美大島の返還運動を改めて学ぶと共に
沖縄の 基地を作るにあたっての土地収用の強権的発動
民主主義を標榜していたはずのアメリカの占領政策の非情さを
故瀬長亀次郎氏の『回顧録』に学んでいる。
読み進むにつけ
終戦から27年に及ぶ占領下で
一切の人権を蹂躙された占領政策の非情さを目の当たりにする。
そしてそれが、72年の返還以後も変わっていないのである。
米軍関係者による凶悪犯罪が起こるたびに
米軍の偉い人が 遺憾の意を表明し
日本政府が 再発防止を求め
でも 何の効果もなく犯罪が繰り返される。
伊勢サミットで オバマ大統領が 遺憾の意を表した?
しかし、
基地を米国本国に引き上げます
と言わない限り
遺憾の意を実現する方策は無い。
そこまで求めてこその日本の政府の沖縄の人々への責任の取り方だと思うのだが
その度胸は安倍首相にはない。
沖縄の人々の命の保障に日本政府は責任を負わないのだと
考えるしかない。
1945年の終戦直前における沖縄戦
その後の
サンフランシスコ平和条約
日米安全保障条約
1972年の返還協定
いずれも
沖縄の人々のことより
自民党政府とアメリカ政府の関係が優先された結果が
今日の事態を招いているということ
瀬長亀次郎さんの手記は克明に記している。
神奈川県議会の議員が
基地に反対している人は「基地外(きちがい)の」であるという発言が
何を意味しているかは明らかであるが、
自国の国民の利益の上に他国の利益、国益を置くことが
戦後の日本国憲法下における民主主義国家にそぐわないことは明らかである。
どの地域に住もうとも 国民の人権は平等である。
為政者たるものその思想無くして
政治にかかわる資格なしと私は思う。
そして、今こそ、
基地は移転ではなく撤去を
と、オール沖縄で闘う人々の願いを実現させる時だと思う。
1970年代、私は沖縄闘争の真っただ中にいた。
1971年3月、地元の高校を卒業した後半年後に上京。
足立区に居を定め、認可外保育所(保護者と保育者の共同で運営する)に勤務。
当時、沖縄の返還闘争が主流であった。
私は、奄美で育った。
10歳のとき、奄美大島復帰10周年の提灯デモが故郷で行われ、参加したのが「祖国復帰」と言う言葉に接した始めであった。
当時は、伯父が町議であったが
右も左も 一緒になって祖国復帰を成し遂げたと聞かされた。
、
沖縄の占領政策はその後も続き
基地の建設のための土地の強制収用や人権無視の信託統治が行われ、
沖縄の人々の祖国復帰への願いが日々大きくなり
全国的にも沖縄を返せという運動が高まっていった。
当時、北緯27度線
つまり 鹿児島県与論島沖と沖縄本島との間の27度線上で
沖縄の人々と本土の人々のチャーター船が海上に集まり返還運動を共に進める決意を表す会場集会が行われていた。(サンフランシスコ条約が結ばれた日の4/28日実施)
私も、高校時代参加していた。
上京後、毎日のように行われる沖縄全面返還を求める集会や国会へのデモに行っていた。
当時、核兵器が持ち込まれているとの情報に
核もない基地の全面撤去での返還を求める運動であった。
国会では、日本共産党や人民党など沖縄選出の議員たちが
核もない基地もない沖縄の返還を米国政府に求めるよう要求していたが、
当時の自民党政府は
何の条件も付けずに返還協定に調印したのである。
つい先日起こった女性殺害事件や繰り返される米軍関係者の犯罪の根源は、
あの基地付返還にあると改めて当時のことが想起された。
私は、我が故郷奄美大島の返還運動を改めて学ぶと共に
沖縄の 基地を作るにあたっての土地収用の強権的発動
民主主義を標榜していたはずのアメリカの占領政策の非情さを
故瀬長亀次郎氏の『回顧録』に学んでいる。
読み進むにつけ
終戦から27年に及ぶ占領下で
一切の人権を蹂躙された占領政策の非情さを目の当たりにする。
そしてそれが、72年の返還以後も変わっていないのである。
米軍関係者による凶悪犯罪が起こるたびに
米軍の偉い人が 遺憾の意を表明し
日本政府が 再発防止を求め
でも 何の効果もなく犯罪が繰り返される。
伊勢サミットで オバマ大統領が 遺憾の意を表した?
しかし、
基地を米国本国に引き上げます
と言わない限り
遺憾の意を実現する方策は無い。
そこまで求めてこその日本の政府の沖縄の人々への責任の取り方だと思うのだが
その度胸は安倍首相にはない。
沖縄の人々の命の保障に日本政府は責任を負わないのだと
考えるしかない。
1945年の終戦直前における沖縄戦
その後の
サンフランシスコ平和条約
日米安全保障条約
1972年の返還協定
いずれも
沖縄の人々のことより
自民党政府とアメリカ政府の関係が優先された結果が
今日の事態を招いているということ
瀬長亀次郎さんの手記は克明に記している。
神奈川県議会の議員が
基地に反対している人は「基地外(きちがい)の」であるという発言が
何を意味しているかは明らかであるが、
自国の国民の利益の上に他国の利益、国益を置くことが
戦後の日本国憲法下における民主主義国家にそぐわないことは明らかである。
どの地域に住もうとも 国民の人権は平等である。
為政者たるものその思想無くして
政治にかかわる資格なしと私は思う。
そして、今こそ、
基地は移転ではなく撤去を
と、オール沖縄で闘う人々の願いを実現させる時だと思う。