内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十)

2014-04-10 00:00:00 | 哲学

3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(1)

 本節で考察の対象となるテキストは、一九三五年に執筆、発表された「行為的直観の立場」である。その当時の西田の哲学的立場がきわめて明確に示されているこのテキストを読むとき、場所の論理の確立後に、「行為的直観」という概念の創出とともに、西田哲学に今一度大きな転回が起こっていることがよくわかる。この論文においてはっきりと見て取ることができるビランの能動的習慣に対する西田の考察の深化は、最後期の西田哲学に起こったこの転回によって開かれた新しい理論的展望の方向性を鮮やかに示している。
 西田は、この論文の中で取り扱われる主題に応じて、それぞれ異なった視角からそれらについての議論が展開されていることを示すために、以下のような異なった包括的概念を提示している。すなわち、「弁証法的世界」「行為的直観の世界」「歴史的実在の世界」「歴史的生命の世界」「永遠の今の世界」である。世界における内在性と外在性の動的な関係が強調されるとき、西田は主として「弁証法的」という語を用いる。「働く」ということが認識と創造との起源にあるということを主張するときには、特に「行為的直観」という術語が用いられる。私たちがそこにおいて生き、それを生きている具体的な現実そのものを指すときには、それは「歴史的現実」と呼ばれる。人間の世界、生物の世界、自然の世界、自然の中で完全に固定された習慣として考えられる物理の世界、これらすべてを含んだ〈生命〉の創造的全体性が問題になるときには、この全体性は、「歴史的生命の世界」と呼ばれる。私たちの現実の世界の中に永遠のイデアが映され表現されるという事実が問題になるとき、それは「永遠の今の世界」の出来事として語られる。これらすべての概念は、同じ〈場所〉に異なった光を当てようとしているのである。
 「歴史的自然」は、歴史的生命の世界という西田の世界像を理解する鍵となる概念である。それによれば、自然は歴史と対立しない。自然は歴史的世界の「自己限定面」である。自然は、歴史的世界の中で限定されている私たちの行為的身体が物理的生理的身体として生まれる次元である。自然の世界は、世界の一つの限定面として、諸々の形が行為的直観の事実によって自己限定する歴史的世界の中に含まれている。行為的直観の立場からすると、歴史的実在の世界は、「創造的自然」の世界にほかならず、そこにおいて行為的直観は、世界に諸々の形を与えると同時に、世界は、その行為的直観の働き方を歴史的に限定する。この歴史的に限定された仕方で働く行為的直観が世界の創造性を現実的に構成している。この創造性に対して否定的な方向に、種的に限定された形によって特徴づけられる生物の世界が位置づけられ、その方向の極限に普遍的な法則によって支配された物理的世界が位置づけられる。反対に、この創造性の肯定的な方向に向かわせるのが、弁証法的に自己を限定する世界における「構想力」である。この肯定的な方向に現れるのが可塑的な自然の世界としての能動的習慣の世界である。この習慣の世界を現実に構成しているのは、単なる意識でもなく生物的自然でもない。自己限定的な弁証法的世界においては、習慣は、「表現作用」として私たちの生物的身体において形成される。
 西田がビランによる能動的習慣と受動的習慣との区別を再び導入し、能動的習慣の創造的側面を強調するのはまさにここにおいてである。










 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(九)

2014-04-09 00:00:00 | 哲学

2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(4)

我々の自己はメーヌ・ドゥ・ビランの云う如き能動的感覚に即して考えられるのである。習慣によって益々明となるという能動的感覚という如きものに於ては既に自己が含まれていなければならぬ。それでアリストテレスの云う如きヒポケーメノンとして判断の基礎となる感覚的なるものはメーヌ・ドゥ・ビランの所謂能動的感覚の中に含まれた自己という如きものと云うことができる。

 この一節は、西田が問題をどの次元で根本的に解決しようとしているかを明確に示している。能動的感覚に含まれている自己は、ノエシス的自己として経験されるが、このノエシス的自己は、習慣によって与えられる感覚世界において自己限定する無として現に作用している。この能動的感覚において経験される自己は、自らが無として経験されるこの世界と不可分であるが、この世界の中に対自的に現れることはないものとして自己限定する。
 このノエシス的自己は、直接的に与えられた感覚性の外にいかにして出ることができるのか。ノエシス的自己は、能動的感覚において自らをそれとして把握しつつ、習慣によって与えられた世界を内側から感じる。能動的感覚をもたらしそれを鋭敏化する習慣を媒介として、その能動的感覚によって捉えられた世界は、ノエシス的自己において内在化される。西田は、ビランの内感にこの自己と世界との弁証法的関係を可能にする契機の在所を見ようとしている。つまり、内感は、単に受動的な内在性ではなく、意志的努力にその起源があり、自らを内感する自己は、世界において意志的行為を実行するというビランのテーゼに注目するのである。しかし、西田は、ビランの内感の哲学が個別的自己によって生きられた原因を出発点とするかぎりにおいて、なお「何処までも内から見て居る」内在性の立場にとどまっていると、その限界を指摘する。西田の立場からすれば、内感の哲学は、絶対無の自覚的限定を捉えるに至っていない。ノエシス的自己によって内側から生きられた世界を、絶対無が超え包みつつ、自らをこの世界として自己限定しているということを、内観の哲学だけでは捉ええないと西田は考えるのである。
 内在性が現実的にノエシス的自己の自覚として経験されるのは、その自己が外在性によって限定されるかぎりにおいてである。ノエシス的自己の内感が成立するのは、その自己が外なる世界を内側から生きるかぎりにおいてである。では、この内在性と外在性の相互限定的な動的関係を可能にしている作用は何か。それが知覚である。知覚は、ノエシス的自己が行為することによって自己を表現する領野を開く。この知覚の領野において、ノエシス的自己の内容は、具体的個別的な仕方で表現される。西田において、絶対無の自覚的限定という基本原理がこうした内在性と外在性との動的関係を知覚世界の中に位置づけることを可能にしていると言うことができる。
 しかしながら、このような西田哲学のパースペクティヴに立っても、ビランによって記述された自己身体の内的空間、内在性と外在性との間の中間領域としてそれらいずれにも還元しがたいこの空間を、それとして判然と区別することはできない。この中間領域としての自己身体の内的空間の問題には本章最終節第四節で立ち戻ることにして、次節では、西田哲学において身体の問題が中心問題の一つとして考察される最後期の問題領野、つまり行為的身体が本質的要素として現れる歴史的生命の世界へと問題場面を移して、そこに見られる理論的転回によってもたらされる新しい観点から捉え直されたビランの能動的習慣について考察する。









 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(八)

2014-04-08 00:00:00 | 哲学

2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(3)

 本節で取り上げる第三のテキストである論文「私の絶対無の自覚的限定というもの」は、田邊元が「西田先生の教を仰ぐ」(『哲學研究』第一七〇号、1930年五月)において展開した西田哲学批判に対して応えようとして書かれたという特別な経緯をもった論文であるが、ここではどのような問題場面でメーヌ・ド・ビランが引用され、その中でビラン思想がどのような役割を果たしているかを考察し、また〈絶対無〉という原理によって開かれたパースペクティヴの中でビラン思想が果たしうる潜在的な役割に言及するにとどめる。
 西田は、この論文の中で、絶対無の自己限定を認識の根本的作用とする立場から、三次元からなる世界の認識論的構図を提示する。すなわち、外的諸対象の世界の客観的認識、判断する自己の反省的認識、認識対象世界およびそれに対する判断作用の根柢にあってそれらを可能にしている自覚的限定作用の三次元の区別と関係をこの立場から包括的かつ統一的に記述している。
 第一の次元は、知覚によって限定されたものとして現れる外的世界についての判断である。私によって経験された知覚は、世界の感覚的諸形態の一つの構成として限定されることによって表現される。この知覚は、場所の自己限定作用を具体的な仕方で表現しており、このことが知覚世界をまさにそれとして現れさせている。知覚は、絶対無の自覚的限定のある一つの感覚的様式を、一言で言えば「ノエマ的限定」を構成している。そこにおいて、世界自身の中での世界についての一つの判断が与えられる。この事実そのものの中において、判断作用は、相対無の自己限定として成立するが、相対無と言われるのは、この作用が、自らがそこにおいて現実に成立する世界に一つの形を与えつつ、作用として自らはいわばその形の中に無として隠されているからである。
 第二の認識の次元において、つまり、この判断作用そのものが反省的思考の対象となるとき、この判断作用とこの作用が現に実行される場所としての考える自己とが区別される。この考える自己が個々の具体的判断過程および認識対象世界に対して独立かつ自律した主体として限定されるかぎりにおいて、それは、「ノエシス的自己」と呼ばれうる。しかし、この自己は、その内部そのものにおいて感じられた自己、内的直接的覚知によって捉えられた自己ではない。なぜなら、この次元では、ノエシス的自己はその志向的対象と不可分だからである。
 もっとも深く包括的な第三の次元において、このノエシス的自己をまさに自己たらしめている根源的作用である本来的に表象不可能であり自己触発的な自覚的限定作用がそれとして経験される。ここで提起されるのが、次の問題である。この自覚的限定がその内部そのものにおいてまさにそれとして直接的に自らを把握するのはどのようにしてなのか。この問題が主題化される場面において西田はビランに言及する。
 自覚的限定作用そのものは本来的に対象化も表象化もできず、その根源的な内在性において覚知されるほかはない。それは距離なく自ら自己自身に現れることそのこととしての自己のことであり、感じることとして自らを自らに与えることとしての自己である。では、どこで、この感じることそのことは、自らをそれとして感じるのか。この問題を自ら問う論脈において、西田は、ビランを引用する。










 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(七)

2014-04-07 00:00:00 | 哲学

2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(2)

 本節が考察対象とする第二のテキスト「場所の自己限定としての意識作用」において、西田は、場所の論理に基いて作用としての意識を定義している。作用としての意識を対象として表象された意識から判明に区別することがそこでの問題である。いかにして作用しつつある意識は距離も遅れもなく自らをそれとして把握することができるのか。言い換えれば、現に作用しつつある意識の過程を、思考の対象としてではなく、内側から捉えることはいかにして可能なのか。西田にとって、この問題は、私たちそれぞれの自己において自覚がそれとして経験される可能性の問題、つまり個物における場所の自己限定の可能性の問題なのである。「場所の自己限定ということが最も広い意味に於て知るということ」である。この論文の主たるテーゼは、この命題の中に要約されている。場所自身の絶対無としての自己限定は、無数の存在がそれぞれの立場において具体的個別的な仕方で自己自身を限定することそのことによって各瞬間にいたるところで現実を事実構成している。それ自身において把握された意識の作用もまた、場所の自己限定であり、それが自己の内在的な知である。
 「哲学は無にして自己自身を限定する自覚そのものの事実に基いて成立するのである。」この自覚は、私たちの自己において経験される。したがって、哲学は、「自覚的人間の人間学」である。このように要約されうる立場から、西田は、ビランの人間学に論文の終わり方でアプローチしている。ここでもまた、先に見た小論文「人間学」におけるのと同様なビランの人間学の位置づけをデカルトとパスカルとの関係において提示しているが、さらにカントの意識一般、フィヒテの超越的意志、ヘーゲルの弁証法へと展開していく意識論の観点から見ても失われないビランの内感の哲学の意義を特筆する。その上で、西田は、ビランの人間学を「自覚的事実の独立性を把握しながらも、その認識論的意義が明でない」と批判する。
 この批判は、論文の最終段落に提示される私たちの精神的生の基底としての神という最後期のビランの思想に対する批判と結びついている。このビランにおける精神的生は、「自己の感情の喪失によって神のうちに吸収され、自己とその現実的絶対的な唯一の対象との同一化」(« l’absorption en Dieu par la perte du sentiment du moi, et l’identification de ce moi avec son objet réel, absolu, unique », Nouveaux essais d’anthropologie, p. 322)によって特徴づけられる。西田は、本来ノエシス的なものをノエマ化する形而上学の陥穽をそこに見ている。西田によれば、私たちの自己の根柢は、「ノエマ的神にあるのではなくノエシス的神にある」。
 このノエシス的神とは、「絶対無の自覚」であり、そこにおいて「神なき所に真の神を見る」ということが成立する。西田が「そこにすべてのものの根柢があるのである、それは我々の自覚的自己の根柢たるのみならず、神そのものの根柢となるのである」とまで言うとき、私たちは西田哲学の情感的基底に触れている。私たちの自己は、内感が内感として無基底的に自己を触発する或る一つの限定された場所として、つまり絶対無の場所の自己限定がそれとして現実化されている或る一つの限定された場所として、すなわち神を失った自覚者としてそこに生きているのである。
 西田は、この論文を、「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と締め括っている。論文の結論としてはいささか唐突とも思われるこの言明は、西田の個人的感懐の吐露に過ぎないのであろうか。むしろ、この哲学の動機としての「深い人生の悲哀」というテーゼは、それが言及される論脈を前提としつつ、哲学の根本動機の情感的基底についてのテーゼとして考察されなければならないのではないであろうか。ここでは問題の指摘にとどめ、その立ち入った考察は本論文の結論部において行うことにする。











 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(六)

2014-04-06 01:53:00 | 哲学

 

2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(1)

 西田は、一九三〇年に書かれた小論文「人間学」、同年に執筆、発表された論文「場所の自己限定としての意識作用」、そしておそらく同年末に執筆され、翌年発表された論文「私の絶対無の自覚的限定というもの」の中でメーヌ・ド・ビランを引用している。それらの中で、西田は、ビランの哲学に対して好意的な見解を述べているだけでなく、場所の論理によって開かれたパースペクティヴの中で、ビランの人間学に対して若干の批判的考察も行っている。この時期の西田のビランについての考察は、いずれも小論文「人間学」の中にフランス語でそのまま引用されているビランの Nouveaux essais d’anthropologie の中の一節をめぐって為されている。

私は動き、意志し、あるいは行動しようと考え、それゆえ私は自分が原因であると知り、それゆえ私は原因あるいは力として現実的に在るあるいは実在する。
J’agis, je veux, ou je pense l’action, donc je me sais cause, donc je suis ou j’existe réellement à titre de cause ou de force.

Nouveaux essais d’anthropologie, p. 77.

 この引用は、西田がフランスの「感情 sentiment の哲学」の中に見出されるとする「情意的自覚の事実に基いた一種の内的人間の人間学」を主題とする文脈の中に見出される。西田によれば、この人間学は、デカルトのコギトから出発して、デカルト自身が歩んだのとは異なった方向に進む哲学的探究の可能性を示している。西田は、そこで、デカルトのコギトを自覚として捉えながら、それが自覚の情意的側面を無視して知的側面にのみ偏り、その結果として、コギトが知的実体として扱われ、それが形而上学的真理として用いられていることを批判している。この観点から、西田は、コギトを出発点とするもう一つの途があることを示すのだが、それが内的直接的覚知としての自覚に含まれる情感的知見に基づく人間的諸事実の知識としての人間学なのである。西田によれば、この人間学を創始したのがパスカルであり、パスカルにおいては断片的考察の集成に過ぎなかったものを、未完成とはいえ、内的人間の人間学として構築しようと試みたのがビランなのである。西田は、ビランが内感の事実的価値を出発点としてその哲学を構築しようとしたことと、直接的に把握可能な内的生の感覚の圏域にとどまることに満足せずに内的人間と外的人間との統一を確立しよう試みていることとを高く評価している。そこでもまた、西田は、フランス語のまま Nouveaux essais d’anthropologie の別の一節を引用している。

意志することは単純、純粋かつ瞬間的なあ魂の作用であり、それにおいて、あるいはそれによって、この知的で活動的な力が外部に、そしてそれ自身の内部に顕現する。
Le vouloir est un acte simple, pur et instantané de l’âme, en qui ou par qui cette force intelligente et active se manifeste au dehors et à elle-même intérieurement.

Nouveaux essais d’anthropologie, p. 179.

 しかしながら、西田は、ビランの試みが内的人間の圏域を超えて外的人間の体系化された認識、とりわけ社会的歴史的人間の人間学を構築することには成功していないことを批判する。西田は、この超克の可能性を、真の自己は歴史的世界において「行為する」ということの中に見取っている。内的直接的覚知によって把握された個々の特殊な自己の還元不可能な立場をそれとして確保しながら、人間は外的世界においていかに行為し、働くことができるのか。場所の論理の発見とその直接的な展開によって特徴づけられる後期において、西田は、この問題を解くための鍵をまだ探している。その鍵はビランの哲学の中には見出しがたいと西田が考えていることは明らかである。
 ところが、その鍵は、ビランの「自己身体の内的空間」、精神の作用にも客観的空間にも還元不可能なこの延長が行為する人間の内部と外部の媒介項としての機能を果たしているということそのことのうちに隠されいると私たちは考える。しかし、ここでは、まだこの問題に立ち入らずに、ただ、ここでもまた、ビランによって発見された「自己身体の内的空間」というハイブリッドな空間が西田によって見落とされたままであることを確認するにとどめる。西田においては、先の問題を解くための鍵は、歴史的実在の世界における認識と行為との二重の原理である「行為的直観」概念の構想と共に与えられることになるのだが、私たちは、西田がこの後改めてビランの能動的習慣を取り上げ直すテキストを読むときにこの問題に立ち戻り、そこで行為的直観の世界において自己身体の内的空間がどのように位置づけられるか検討することにする。










 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(五)

2014-04-05 00:00:00 | 哲学

1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(3)

 しかしながら、ビランにおいては、この分離可能性は、能動的自己がその感受する対立項からまったく独立にただ純粋な作用として自己自身に現れるということを意味してはいない。自己は、原因である限り、意志的な努力においてのみ直接経験されるのであり、この努力は、本質的に、「超器官的な力force hyperorganique 」と「器官的な抵抗résistance organique 」との間の因果的関係からなる。「内感の原初的事実は意志された努力の事実にほかならず、この努力は器官的抵抗から、あるいは、自己が原因である筋肉的感覚から切り離すことはできない」(Essai sur les fondements de la psychologie, p. 479)。内感の原初的事実においては、それゆえ、自己はつねに身体との関係において、つまり、「運動的力が展開される直接の項」との関係において把握される。自己は、この身体から区別されるが、それから分離されれば、自己の本性は必然的に損なわれる。この身体は、なんらかの表象として外化することのできない内的延長である「自己身体の内的空間」として把握される。それゆえ、この自己身体の表象不可能な内的延長は、「偶発的な感覚可能な諸部分が互いに限定しあっている」表象可能な外的延長から明確に区別されなければならない(De l’aperception immédiate, p. 124-125)。
 能動的自己は、意志的努力の原因であるかぎり、器官的な抵抗がそこにおいて感じられる表象不可能な内的延長である自己身体から分離されることはけっしてない。能動的自己は、自己身体に対して超越的なものではないのである。自己は、「努力の中で把握された原因」(Henri GOUHIER, Les conversions de Maine de Biran, Paris, Vrin, 1948, p. 197)であり、「特殊な具体的所与」(ibid.)、あるいは、「厳密に個別的な経験」なのである(Maurice MERLEAU-PONTY, L’union de l’âme et du corps chez Malebranche, Biran et Bergson, Paris, Vrin, 1978, p. 48)。自己は、「因果性と恒常的な個別性との感情」を同時に持つ(De l’aperception immédiate, p. 124)。
 ところが、西田は、「意志の努力 l’effort volontaire というものは意識界に於ける能働我の射影でなければならぬ」と書くとき、能動的自己がそこにおいてそれとして自らに現れる意識に対して超越的な実在であると見なしているように思われる。もし能動的自己がそのようなものであるならば、その固有の内容を意識の中に対象化しながらその意識の領野から独立した自己同一的なものにとどまらなくてはならない。そうでなければ、能動的自己は、対象化と同時にその本性が損なわれ、認識対象界に吸収されてしまい、因果性の起源としての独立した地位を失ってしまうからである。しかしながら、まさにこのような超越的自己と認識対象界との二元論に陥らないために、西田は能動的習慣をことのほか重視する。西田は能動的習慣に媒介者としての役割を見、それによって能動的自己の内容が認識対象界へと転換されうると考えるのである。「すべて習慣によって現れ来るものは、一つの客観的世界である。」つまり、西田は、習慣を媒介として能動的自己の内容が対象化されたものと客観的世界を見なすことによって、客観的世界の直接的認識へと導く途を探ろうとしていると言うことができる。言い換えれば、習慣という媒介項を挿入することによって、世界から切り離された独立の自己と世界の中に完全に没入して消失してしまう自己との二者択一という問題を解消しようとしているのである。
 しかし、これはもはやビランによって提起されている問題ではない。ビランの立場からはこのような二者択一はそもそも問題にならない。西田が明らかにビランのテキストに依拠しながらこのような問題を提起するのは、意志的努力の中の原因-自己に固有な地位を完全に見落としているからである。ビランにおいては、意志的努力における内的な直接的覚知によって把握される自己が問題になるとき、この努力は、「器官的な抵抗を分離不可能な仕方で含んでおり、この抵抗は自己身体の内的空間と不可分」である(Essai sur les fondements de la psychologie, p. 506)。能動的自己によって内的空間として経験されている自己身体というメーヌ・ド・ビランの哲学において決定的に重要なこの次元が、西田においては完全に無視、あるいは見落とされているのである。それゆえ、特殊な個々の自己の還元しがたい立場も自己による自己の特殊的個別的な直接認識の根源的価値も、少なくともこの当時の西田のパースペクティヴの中には、見出しがたいのである。そして、個別的自己の還元不可能な立場についてのこのような見落としこそが、自然界を「超個人的なる」能動的自己の習慣の投射されたものとして構想することへと西田を導いているのである。つまり、当時の西田の主たる問題は、客観的作用と主観的作用との統一の明証性、現実の世界をその内側から捉えることによって得られる直接的な認識の明証性が経験される次元の探究であったのであり、その論脈では客観的身体から区別された自己身体に固有な在り方という問題も、還元不可能な個別的な自己の立場という問題も提起されようがないのである。
 しかし、ここでは、見方によっては粗忽とも言わざるをえない西田のこのようなビラン解釈を批判することが目的ではないのは言うまでもない。それはあまりにも容易なことであるし、それだけにとどまるならば、このような考察には、西田哲学研究としてもビラン哲学研究としてもほとんど生産的な意味がない。ここまで、私たちは、自己認識と世界認識との関係についての、場所の論理以前における西田による問題設定の仕方とその限界を、ビラン哲学との関係において明確化することを試みてきた。それによって明らかになった上記の二つの提起されえなかった問題が、場所の論理の展開とともにいかに提起され、西田がそれらにどのように答えていくかをこれから見てゆく。それを通じて場所の論理の問題性にも、一条の新しい光が当てられるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(四)

2014-04-04 00:00:26 | 哲学

1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(2)

  西田がビラン固有の概念に言及しているテキストとして、次に注目されるのが、一九二四年に発表され、後に『働くものから見るものへ』(一九二七年)の前編に収録された論文「物理現象の背後にあるもの」である。この論文の中で西田はビランにおける因果性の基底としての「意志的努力」を引用しているが、それは、確信を、内的知覚と外的運動へと向かう能力の意識とを結びつける中間項として取り上げている文脈においてである。反復によって遅かれ早かれ消失していく受動的印象とそれによってより明晰になる能動的感覚とのビランによる区別を取り上げ直しながら、西田は、習慣によって獲得された確信の内容が能動的感覚の内容であると見なし、その中に確実で疑い得ない知識の起源があるとする。つまり、能動的感覚の中に、作用としてそれ自身によって直接把握される知識、能動的自己が能動的習慣を通じて明晰判明に把握しうる根源的知識を見ているのである。西田によれば、習慣は、意識の中に確実なものを現れさせる。習慣は、「自己が自己の内容を明にする一種の知的作用」である。ここでもまた、西田においては、ビランがその習慣論の初期から明示していた習慣の否定的側面への言及はいっさい見られない。ところが、ビランにおいては、原因としての自己の価値は、能動的自己が習慣から独立に働くものであることそのことよって確保されるものなのである。

習慣は、自らの産出したものを特徴づけているこの自発性の領域を絶えず自然のいたるところにおいて拡大しようとする。習慣は、自らがそれを継続する動物的本能を支配すると同時に、人間的意志をも支配し、これを不明瞭なのものとし制限する。もし意志的な運動あるいは行為、意識によって明瞭化された運動あるいは行為に最初にその意志としての特徴を刻印する意志の活動が、主導権をめぐって習慣の持つ盲目的な力と闘わなかったならば、習慣は、それらの意志的な運動あるいは行為をそれぞれの限定された形の中で自発化し盲目化することによって、それらを純粋な自動運動へと退化させてしまうであろう
L’habitude tend sans cesse et dans toutes les natures à agrandir le domaine de cette spontanéité qui caractérise ses produits. Elle domine à la fois sur l’instinct animal qu’elle continue et sur la volonté humaine qu’elle obscurcit et limite. En rendant spontanés et aveugles dans leurs déterminations les mouvements ou actes volontaires ou éclairés par la conscience, l’habitude les ferait dégénérer en un pur automatisme, si l’activité du vouloir, qui leur imprime d’abord son caractère ne luttait contre cette force aveugle qui lui dispute l’empire.
Nouveaux essais d’anthropologie ou de la science de l’homme intérieur, p. 163-164.

 習慣は、それ自身から始まる行為ではない。意志的運動あるいは行為の始まりにおいては、習慣は、まだ形成されていない。これらの運動あるいは行為が習慣的となるためには、それらは最初に意志されたものでなければならない。ところが一度習慣化されると、それらはその原因であった最初の意志を不明瞭化してしまう。習慣は、原因の観念を形成させるどころか、その所在を隠蔽してしまう。意志の活動は、習慣によってもたらされる自動運動化に抵抗するかぎりにおいて、それとして把握される。それゆえ、それ自身からそれ自身によって始まる原因を探さなければならないのは、意志的努力の中にであって、習慣によって与えられる感情の中にではない。意志的努力がそれとして働いているかぎりにおいて、自己は、原因として自らを経験するのである。意志的努力において、自己は、自らを純粋に自発的なものとして自己自身に現し、いかなる外的原因もなしに自ら獲得されるものとして、つまり、原因として自己自身を直接把握する。ビランにおける因果性は、このように意志的活動に分かちがたく結びついており、それは作用的因果性である。
 意志的努力によって直接に把握された能動的自己の内容は、それゆえ、定義上、能動的習慣の内容から区別されなければならない。ところが、西田は、「習慣とは認識対象界に映されたる能働我の内容である」と書くとき、明らかにこの両者を同一視している。言うまでもなくこれは誤解である。しかし、まさにいささか短絡的と批判せざるをえないこの同一視こそが、ビラン哲学との関係において西田哲学のある注目すべき側面を浮き彫りにしているのであり、この側面から、西田がその当時直面していた意識の立場の超越という問題に解決を与えるのに選んだ方向を正確に把握することができるのである。
 ビランによれば、自己は、意志された努力において原因として自らを把握する。しかし、より厳密には、いかなる仕方で自己は原因なのか。「意識に関係するあらゆる現象、自己が何らかの形で関与あるいは結びついているあらゆる様式は必然的に原因の観念を内包している」(« tout phénomène relatif à la conscience, tout mode auquel le moi participe ou s’unit d’une manière quelconque, renferme nécessairement l’idée d’une cause », Essai sur les fondements de la psychologie, Œuvres de Maine de Biran, tome VII-2, p. 251. 以下、この段落でのビランからの引用は、最後のそれを除いて、すべて同書同頁から)。意識の中で自己が経験される様式にしたがって、明確に区別すべき二つの原因がある。この様式が「能動的で意志された努力の現勢的な結果として覚知される」とき、この様式の原因は自己である。自己の経験様式が「受動的な印象であり、意志的な努力に対立するものとして、あるいは意志のあらゆる実践から独立していると感じられる」とき、この印象の原因は非-自己である。自己が原因として直接覚知されるのは、「努力の中であるいは意志に伴う最初の運動の中で直接覚知あるいは感じられる因果性」(« la causalité immédiatement aperçue, ou sentie dans l’effort, ou dans les premiers mouvements accompagnés de volonté »)においてである。ところが、非-自己的原因は、それがもたらす受動的印象の中で自己によって直接的に原因として感じられることが決してない。非-自己的原因は、内感には属さず、そこからの「もっとも自然な、もっとも直接的な帰納」(« l’induction la plus naturelle, la plus immédiate »)である。自己が能動的でありそれゆえ意識に関係する諸現象の原因であるのは、自己が内感において帰納や反省を介さずに直接的に自己自身に現れるかぎりにおいてである。この意味において、「自己知は原理的に外部世界についての知識とは分離することができる」(« la connaissance de soi peut être séparée dans son principe de celle de l’univers extérieur », Essai sur les fondements de la psychologie, Œuvres de Maine de Biran, tome VII-1, p. 125)。











 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(三)

2014-04-03 00:00:00 | 哲学

1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(1)

 メーヌ・ド・ビランの名が西田のテキストの中に初めて現れるのは、『善の研究』の出版の前年一九一〇年であり、二度目に現れるのは一九一四年であるが、どちらにおいても、ベルクソンにおいて頂点に達すると西田が見なしているコンディヤックに淵源するフランス直観主義の系譜の中にその代表者の一人としてビランは位置づけられているということがわかるだけである。西田のビランに対する関心の所在がどこにあるか特定することができる最初のテキストは、一九二一年に発表され、後に『藝術と道徳』(一九二三年)に収められる論文「感情の内容と意志の内容」である。
 この論文の中で、西田は、ビランによる「能動的習慣」と「受動的習慣」との区別に言及しているが、それは、対象化不可能な作用としての意識からその内容を区別することが問題になる論脈において、言い換えれば、単に知解する我ではなくて「悲しむ我、喜ぶ我」によって生きられた意識における動的な統一性が問題となる場面においてである。つまり、意識が知性によって再構成される対象としてではなく、作用そのものとして自らに直接に経験される内的経験へと導く哲学的探究の途上において、西田はビランの哲学に出会うのである。
 ビランは、習慣が諸感覚と悟性の諸操作とにもたらす効果を分析しながら、感官への刺激に由来する諸感覚が反復によって弱まる一方、意志によって起動された悟性の諸操作は、それにつれてより容易になり、正確になり、速くなることを確認する。習慣は、反復によって自動化され、もはやそれとして感じられなくなり消失していく感覚と反復によってより速く明晰になっていく知覚とが区別されていく経験における試練の過程と見なされる。つまり、習慣の成立過程において、一方に感覚的印象の退化と消失へと至る受動性があり、他方に知覚の高速化と明晰化をもたらす能動性があるということである。言い換えれば、習慣は、一般的な生命の原理に属していて私たちの自己の権能には属さないものを退化させる一方、私たちの意志的自己の権能に属するものを強化するということである。ビランは、習慣におけるこの両過程を区別して、前者を「受動的習慣」と呼び、後者を「能動的習慣」と呼ぶ。
 西田は、このビランによる区別が意志に帰属するもの、私たちの自己の権能に属するものを明晰判明に把握することを可能にするという点において評価する。そして、能動的習慣を意志的努力において直接的に把握される意識作用と見なす。ビランによれば、習慣が私たちに与える直接的な感情と共に、受動的感覚においては、すべてが絶えず変化してゆくまさにその全過程を通じて保たれ続ける対象化不可能な自己の恒常的な統一性と同一性の内的な直接把握が私たちに与えられる。西田は、この「〈私〉の内的直接的覚知」に特に注意を集中する。つまり、対象化不可能なものとして意識の根柢において働いている能動的自己の直接把握が西田にとっての問題なのである。
 確かに、能動的習慣は、自己の統一なしにはありえない。しかし、このことは、習慣と〈私〉の内的直接的覚知とが直ちに同一視されうるということを意味しない。というのも、習慣には、それが知解作業をより容易にするにつれて、意志的なものと非意志的なものとの区別を消失させ、主体からその意志的な行為を奪い去り、その活動意識を奪い取って感覚の受動性へと知覚をほぼ還元してしまい、果ては原初の意志的活動から切り離された知覚的な結果しか残らないという否定的な側面がいつも含まれているからである。

なにゆえ、習慣は、思考に翼を与えておきながら、その思考に自らおもむくままに飛翔させず、それを執拗に同じ方向に縛り付けるのか。
Pourquoi, après avoir rattaché des ailes à la pensée, l’habitude ne lui permet-elle pas de se diriger elle-même dans son vol, au lieu de la retenir opiniâtrement fixée dans la même direction ?

Influence de l’habitude sur la faculté de penser, p. 270.

 西田は、この習慣の否定的側面をまったく無視、あるいは見落としているように思われる。ところが、まさにこの点において、習慣と自己の内的直接的覚知とは区別されるのである。事柄の順序からして、後者は前者の形成に先立つ。習慣は、それ自身がその形成の起動因ではありえず、したがって、それに先立つ作用因を必要とする。この原因 ― ビランが「原因-自己 cause moi」(「原因としてしか存在せず、感覚されえない原因-自己」« cause moi qui n’existe et ne peut se sentir que comme cause » (Nouveaux essais d’anthropologie ou de la science de l’homme intérieur, p. 244) )と呼ぶもの ― は、習慣の成立の手前でそれとして把握されなければならない。ビランによれば、「原因-自己」とそれが生じさせる運動との区別は、習慣の形成過程の内的観察によって要請されるものである。ビランにおいては決定的な重要性を持っているこの区別を無視、あるいは見落とすことによって、西田は、能動的習慣と直接的内的覚知を同一視してしまう。この同一視は、当然のことながら、ビランの習慣論の解釈としては正当化されえない。しかし、少なくとも、私たちは、西田のビランに対する関心が意志的活動の第一原因である能動的自己に照準を合わせたものであったことをそこから読み取ることができる。













 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(二)

2014-04-02 00:00:00 | 哲学

 本章で、私たちは、デカルト、パスカル、ベルクソンそれぞれの哲学とはまた違ったフランス哲学のパースペクティヴから西田哲学の根本問題の在り処への接近を試みる。そのために、まず、西田が、パスカルによってその基礎が置かれたと考える「フランス哲学独特な内感的哲学」に、ドイツ哲学にも英米哲学にも見出しがたいフランス哲学の固有性を見出し、それに対して青年期から最晩年まで深い共感を覚えつづけていたという事実を思い起こすことから始めよう。というのも、このフランス哲学への西田の恒常的な関心の中に、彼を飽くなき哲学探究へと駆り立てている情熱の情感的基底への扉を開く鍵の一つが隠されていると思われるからである。
 このフランス哲学への深い共感について語っている「フランス哲学についての感想」という全集版で四頁ほどの短いエッセーの中で、西田は、特にメーヌ・ド・ビランへの若い頃からの興味を思い起こしているが、このメーヌ・ド・ビランこそは、西田が『善の研究』に集約されてゆく思想の形成期からすでに関心を持ち、場所の論理の形成期にも言及しつづけ、「歴史的生命」の論理が展開される最後期まで親近感を持ち続けた数少ない哲学者の一人なのである。さらに重要なことは、両者の思考には、それぞれの哲学の根本問題が提起される次元において、明らかに互いに共鳴し合う深い親近性があることである。それゆえ、その親近性が明らかになる問題場面を通じて、西田の哲学的思考をフランス現象学の系譜の淵源と見なされうるメーヌ・ド・ビランによって開かれる思考空間の原点において捉え、そこからその射程を見定めることは、少なくとも西田哲学に対する一つの観点としては、成り立つと思われる。
 その場面とは、西田の「自覚」とビランの「内感 sens intime 」とが交叉する場面である。このそれぞれに固有な概念をめぐる両者の議論をつぶさにつき合せるとき、いわば合わせ鏡のように、それらが互いの思考空間の中に映し出され、そして、その過程を通じて、両者の言語空間の間に、新たな哲学的対話の空間が開かれてくる。一方では、内感についてビランが倦むことなく繰り返す精細な現象学的記述を通じて、〈私〉における自覚の内部構造へと導かれ、他方では、根源的自己の存在構造としての自覚の構造について、その定式を徹底的に先鋭化させようとする西田の論述を介して、ビランの内感の存在論的次元へと導かれる。
 ところが、このように両概念が交叉し、共鳴し合い、両者の親近性が明らかになるまさにその問題場面において、両概念の差異、それぞれの限界もまた照らし出され、それらの限界を乗り越えていくべき方向も示されることに私たちは気づく。自己の内的直接経験としての自覚あるいは内感という問題圏内にとどまる限り、それらの経験の主観的内在性を超えることはできず、世界に対する自己身体の関係を世界の側から捉えることもできず、したがって、自覚あるいは内感を世界における出来事として問題化できないことは明らかである。
 私たちは、これから西田とビランとの間に開かれる哲学的対話の言語空間を、ビランへの言及が見られる西田のテキストに即しながらつぶさに探査してゆく。それらのテキストを、(1)論文「場所」(一九二六年)以前、(2)場所の論理の成立とその展開期である後期、(3)「行為的直観」概念が創出される最後期の三期に分けて、それぞれのテキスト群の中での西田の問題の立て方をビラン哲学の根本問題との関係において考察していく。そうすることで、西田哲学の基本的な問題設定の仕方が場所の論理成立以前と以後でどのように転回するか、そして行為的直観論によってもたらされる最後の理論的転回がどのようなパースペクティヴを開いているか、それらの転回の過程をビランによって記述された内的経験の領野において的確に捉えることができるからである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(一)

2014-04-01 00:00:00 | 哲学

 昨日まで約一ヶ月間に渡って、第一章と第二章とを連載してきた。第一章では、西田哲学の全展開過程をある一つのパースペクティヴの中で捉えることを試み、第二章では、西田哲学の方法論を西田自身のテキストから引き出すことを試みた。この二つの章は論文の主題に対して予備的考察に相当し、今日から連載する第三章から第五章までが論文の主要部分をなす。この三つの章は、西田哲学をフランス現象学と対決させながら、その言語空間の中で西田哲学の核心的問題を読み解き、その検討作業の結果として得られた観点から、今度はフランス現象学への一視角を開こうという、双方向的な二重のアプローチをその課題としている。つまり、この部分において、論文の副題「フランス現象学の鏡に映された西田哲学」が示している対象への接近方法が詳細に展開されていく。


第三章
直接的自己経験としての内的生命
— 「自覚」と「内感」との交差する場所 —

 西田哲学が、その全過程を通じて、主にドイツ哲学、とりわけカント、フィヒテ、ヘーゲルによって代表されるドイツ観念論や新カント主義あるいはフッサール現象学からの批判的摂取とそれらとの対決を通じて形成されていったことは論を待たない。西田哲学の研究史において、これらドイツ哲学の諸流派との比較研究が盛んなのもそれゆえ当然のことである。それに対して、西田哲学とフランス哲学との関係はより狭く限定されたものであり、西田がフランスの哲学者たちから大きな影響を受けたとは考えにくい。それゆえ、西田哲学とフランス哲学との比較研究、とりわけ西田がフランスの哲学者たちを直接どう読んでいたかをその哲学形成の諸契機との関係の中で綿密に考察した研究はきわめて乏しい。
 『善の研究』前後の初期の西田は、ベルクソンの哲学的方法に深い共感を示し、それをきわめて高く評価し、『自覚における直観と反省』の中ではベルクソンの持続概念に頻繁に言及するばかりでなく、それに対する批判的見解も示し、以後ベルクソン哲学に対しては、とりわけその持続の概念に対しては、つねに一定の批判的距離を取りながら,持続・時間・直観・生命等が主題とされる場面で繰り返しベルクソンの主張を引用している。
 晩年には、近代哲学の限界を乗り越えるためにデカルト哲学へ今一度立ち戻ることの必要性を訴えながら、自らの哲学的立場からデカルトのコギトへの接近しようとしていたことは、第一章ですでに見たところである。それは、西田固有の仕方でデカルトの立場をさらに徹底化させようとする試みであった。
 西田は、また、折に触れ、パスカルの『パンセ』を引用している。西田がとりわけ好んで引用するのが「考える葦」と「人間の不均衡」というよく知られた二つの断章である。前者の中に私たちの自己と世界との矛盾的自己同一と西田が呼ぶものの見事なまでに簡潔な表現を見、後者の中に見られる「その中心がいたるところにあり、その円周がどこにもない無限な球」という表現を西田の言う歴史的実在の世界の適切な表象として捉えている。
 デカルトのコギト、パスカルの人間学、ベルクソンにおける持続概念との関係において西田哲学を考察することには、それぞれ西田哲学のある一つの根本概念に接近する途としての意味があると思われる。それゆえ、本書第一章の中でベルクソンの純粋持続と西田の純粋経験との差異に言及し、デカルトのコギトとの関係において西田の自覚について若干考察した。しかし、この三者との関係において西田哲学を読むことには、それ相当の準備が必要であり、少なくともそれぞれに一章を割いて検討するに値するテーマであり、それは本稿の企図を越え出ることなので、この三者についてはこれ以上本稿では言及しない(ただし、パスカルの人間学については、本章の中でメーヌ・ド・ビランの内的人間の人間学との系譜的関係が問題になる場面において若干言及する)。