内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(六)

2014-04-20 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(2)

我々は我々の生物的身体から出立して物を道具として有ち、物を技術的に自己の身体となす、そこに技術的身体が構成される(全集第八巻三五頁)。

 私たちの生物的身体が道具を介して技術的身体へと変容する、身体の技術的変容過程を通じて、「世界が自己の身体となる」(同頁)。このことは、道具が人間の身体の延長であることを含意するだけでなく、それと同時に、人間の身体それ自身が諸道具によって構成されている複雑なシステムの一部を成すということも意味している。「技術的に世界を見ると云ふことは、自己が世界の中に入つて世界を見ることである」(同巻四六八頁)。人間の身体が世界において起動的・操作的でありえ、世界の感覚的所与に基礎づけられて行動することができるのは、その身体が諸道具の機能的なネットワークに属しているかぎりにおいてである。
 道具というものは、その形がその他の諸事物の諸形態との関係においてつねに歴史的に限定されているが、その諸形態もまた、歴史の中で形成され、ある時代ある場所に一定の形をもって現れる。世界は、歴史的に相互限定的な諸事物が構成する複雑なネットワークからなっている。制作的身体あるいはポイエーシス的身体であるかぎりにおいて、人間の身体もまた、ある機能をもった道具であり、その機能が歴史的に限定された機能的一事物としてその存在論的性格が定義されうる生ける存在である。人間は、身体的存在として、歴史的世界の中で、諸々の人間身体が自らを取り巻く諸道具やその他の諸事物との間に織りなす諸関係が構成する複雑なネットワークにおいて、機能的起動点として働く。
 ところが、まさにそれと同時に、人間身体は、生命の世界において原初的な行動の意志を現実化する。自ら行動することができる身体の立ち位置から、世界に見出されるすべてのものが行為的身体との関係のもとに置かれる。世界は、行為的身体に与えられたものとして現れるが、その行為的身体は、そのようなものして、その世界そのものに与えられる。この包括的な世界の現われにおいて、世界は〈見るもの-見えるもの〉である身体を自らのうちに生み出し、行為的身体の観点は世界の観点となる。かくして、世界は自らの内部において自己自身を見る。
 そこにおいて、すべての対象は、外部から見るものなくして見えるものとして現れる。このような世界の世界自身への現われが、「見るものなくして見る」という表現によって西田が指し示そうとしている世界の現象性なのである。自らに自らを現れさせるという作用が、志向的対象の世界を私たちの身体的自己に対して構成する。世界が世界自身へ自らを現われさせる作用が、世界に現れる諸事象を志向的対象として現われさせている。それゆえに、自らに現れた世界は、私たちの身体的自己にとって意識の世界として把握されるのであって、その逆、つまり、私たちの意識によって世界が世界として現れるのではない。私たちの身体的自己は、世界が自らを自らの内にそこから映す射影点にほかならない。一言にして言えば、最後期の西田哲学は、意識の誕生を、世界が世界自身へと自らを立ち現れさせることのはじまりとして捉えているのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(五)

2014-04-19 00:00:00 | 哲学

1. 2 身体と世界との根本的関係(1)

 人間は感受能力によって自分を取り巻く事物に対して受容的な関係に置かれるが、この能力は、行為する身体に与えられた直観的な受容性からなっている。人間は、その受容的な身体と共に生きているかぎり、世界における他の諸事物との恒常的な関係に置かれる。行為的直観は、人間の身体性が備えている受容可能性と共にはじめて可能になる生の根本的な様式である。行為的直観の直観の契機によって、人間の身体は、つねに他の事物との相互的な関係の中にすでに投企されている。人間の身体は、生命の世界において行動するとき、他の諸事物がその下に現れる諸々の感覚的な形態との関係においてつねに限定されるある感覚的な形態の下に現れる。身体の受容可能性によって、人間は感覚的諸形態の世界の中に投企されている。
 そうであるとすれば、行為的直観の能動的な契機とはどのようものであるのか。行為的直観が世界への根本的な存在様式として現に働いている領野において、他の諸存在に対して人間の身体はどのように行動するのか。世界における行為する身体として、私たちは、自らにある感覚的な形を与えながら、他の諸存在にある感覚的な形を与える。私たちは、他の諸存在との相互的な関係の中で諸々の感覚的な形の弁証法的な世界を構成している。
 行為的直観の立場から、以上のようにこの世界を〈形〉の世界として捉えることができるとすれば、この世界はどのように構成されているのか。この問題が提起される論脈において、西田は、「道具」という概念を導入する。この概念の導入には、ハイデガーの『存在と時間』における道具論の影響があったかも知れない。しかし、西田がこの「道具」という語に自らの哲学に固有の意味を与えて使うときには、ハイデガーの名を引用することはない。実際、概念の見かけ上の近似性とは裏腹に、〈道具〉に対する両者の視角は大きく異なり、交叉することはない。両者の間に見られるもっとも重要な違いの一つは、ハイデガーの「道具」が日常的な関心の中で出会われる存在者のことを指すのに対して、西田の「道具」は、それを使用する行為的身体との関係において規定されることである。ハイデガーにおいては、現存在と諸道具との交渉が「配慮的気遣い Besorgen」であり、諸道具を目指す眼差しが「目配り・慎重さ Umsicht」であるのに対して、西田においては、道具の身体性と身体の道具性とに力点が置かれている。つまり、西田の哲学的思索の焦点は、行為的直観の世界における身体と道具との弁証法的な関係、言い換えれば、歴史的生命の世界に創造性をもたらす関係性にある。

人間は啻に物を道具として有つのみならず、自己の身体をも道具として有つ。人間は身体的存在であると共に、自己の身体を道具として有つのである(全集第八巻一四頁)。

 人間はある物を道具として使用することができ、諸々の道具によって構成されるシステムの中で生きている。このように人間にある物を道具として使用することを可能にする実践知が「技術」である。

我々が物を道具として使用し、それによって又物を作ることが技術である(同巻四四頁)。

 人間にとって、すべての存在は、道具として使用されうるか、あるいはそのように道具として使用される諸存在との関係において限定されうるものとして現れる。世界は、そのようにして技術によって把握され、自己自身を形成して行く。人間は、諸道具が形成しているネットワークの中で行動するかぎり、技術を媒介として、それら諸道具との間の動的な関係に置かれる。諸道具は、それを使用することができる行為する身体との関係においてのみ配置が限定され、機能する。行為する身体は、道具の世界の中ですでに与えられた諸形態を用い、それらの機能に従いながら、ある与えられた形を変化させ、あるいは新しい形を創造する。これがポイエーシス的な身体、つまり世界にある形を与えることができる身体であり、これが技術と道具を媒介として世界を人間の身体の延長として変容させる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四)

2014-04-18 00:00:00 | 哲学

自己身体の根源的受容可能性(2)

 我々の身体が生ける存在として行為し始めるやいなや、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉であるという二重の両義性が、我々の身体が生きる世界における現実性となる。この二重の両義性こそが、生命の世界における能動性と受動性の複雑な諸関係をもたらしているのであって、その逆ではない。言うまでもないことだが、西田はこのような二重の両義性について明示的に語ってはいない。しかし、この二重の両義性を導入することによって、西田の思考の諸ベクトルを裏切ることなしに、行為的直観の世界における〈見る〉と〈働く〉との弁証法的な諸関係を解明することができると私たちは考える。
 西田において、行為的直観は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体が、自らが生き住まう環境の中で実行する根源的な〈なす[faire]〉― この「なす」には、「成す・為す・生す」という三重の意味が込められている ― ことを意味している。行為的直観を構成する二つの契機が、直観的契機と行為的契機とに区別されるのは、第一の契機が身体の受容性に対応し、第二の契機が身体の形成的活動性に対応するという意味においてである。前者は〈見る〉ことであり、後者は〈働く〉ことである。両者は、世界における身体的存在にとって根源的な受容可能性とそこにおいて発現する能動性とをそれぞれ指し示している。〈見る〉とは、常に開かれた一領野として自らを限定しつつ、そこに諸々の形を無限に受け入れ、迎え入れることであり、〈働く〉とは、無限に新しい形を迎え入れることができる領野と自己自身とに一つの形を与えることである。前者は受容的包括的な〈場所〉を、後者は限定的な形成活動を構成する。行為的直観において、両者は不可分であり、〈一〉をなしている。〈見る〉ことは、その領野において〈働く〉ものによって能動性を与えられ、〈働く〉ことは、それを受け入れ現実化する〈見る〉ものによってその場所を与えられる。
 この〈見る〉と〈働く〉との間の根本的な弁証法的関係は、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉である我々の身体の二重の両義性の間に生じる一種の「交叉[chiasme]」として表現される。見ることによって一つの形を迎え入れることで、身体は受容することができるものとなり、働くことによって一つの形を自他に与えることで、身体は見えるものとなる。〈働くもの-受容するもの〉である身体は、諸々の形が与えられ受け入れられる可視性において具現化され、〈見るもの-見えるもの〉である身体は、能動性と受動性とが共に迎え入れられる受容可能性において自らを経験する。無限に受容的な受容可能性においてこそ、すべての限定された行為はそれとして現実化される。しかし、このような無限の受容性の原理が現実的な実効性をもつのは、我々の身体の各々が実行する〈なす〉ことによってのみである。このような根源的受容可能性は、それゆえ、「自己自身のうちに隠されままで、永久に眼差しを逃れる」本質([l’essence qui] « demeure cachée en elle-même, et échappe perpétuellement au regard », Michel Henry, L’essence de la manifestation, Paris, PUF, 1963, p. 482)のようなものではない。それは、我々の現象的身体を通じて、行為的世界において、自らをまさに〈生命〉として現象させる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三)

2014-04-17 00:00:00 | 哲学

自己身体の根源的受容可能性(1)

 我々の身体は、見えるものの世界において、自己自身と他の見るものらにとって見えるものであると同時に、何ものかを見るものである。それは、他の諸々の見えるものの間にある一つの見えるものであるかぎりにおいて、一つの見るものである。しかしながら、我々の身体は、単に〈見るもの-見えるもの〉であるだけではなく、行為するもの、西田の用語に従えば「働くもの」であり、むしろ、この意味で働くものであるかぎりにおいて、〈見るもの-見えるもの〉でありうる。我々の身体が見るということは、それが見るものであるということのみを意味するのではなく、それは働くものであるかぎりにおいて見るということを必然的に含意する。言い換えれば、我々の行為的身体あるいは働く身体が見られるということは、それが他の諸々の見えるものとまったく同様に見えるものであるということのみを意味するのではなく、それは働くものとして見えるものであることを必然的に含意する、ということである。
 我々の働く身体がまさにそのようなものであるのは、それが見ることと見られることとを、言い換えれば、能動性と受動性とを同時に受け入れることができるかぎりにおいてのことである。この意味において、我々の身体は、二つの対立する契機を「受容することができる [passible] 」存在である。受動性が能動性と対立するのに対して、この「受容可能性 [passibilité] 」は、あらゆる可能な行為がそこに受け入れられ、そこにおいて現実的となる根源的な受容性であり、それはまた端的に受け入れるということそのことの現実性である。
 この「受容可能性」という概念については、Jean-Luc Nancy, L’oubli de la philosophie (『哲学の忘却』), Paris, Galilée, 1986と Henri Maldiney, Penser l’homme et la folie (『人間と狂気を考える』), Grenoble, Jérôme Millon, 1991, 1997(2e éd.)とから、私たちは重要な示唆を受けた。「ここで問題となっている受動性 [passivité] は、能動性との対立によって規定されるものではない。それは『受動的 [passif]』であるということではなく、そう言って良ければ、意味を受容することができる [être passible] ということなのである。つまり、意味を受け入れ、迎え入れることができるということである。思想(考えること)とは、言説ではなく、意味という出来事を受け入れることができるという基質・活動のことであり、意味という出来事を来たらせる。つまり、思想(考えること)は、意味をそれとして到来させる、あるいは、それを書き込む、ということである」(« […] la passivité dont il est ici question ne se laisse pas déterminer par une opposition à l’activité. Elle ne consiste pas à être « passif » : elle consiste à être, si on peut le dire ainsi, passible du sens. C’est-à-dire, capable de le recevoir, susceptible de l’accueillir. La pensée, ce n’est pas un discours, c’est la disposition et l’activité passibles de l’événement du sens : elle laisse cet événement venir – ce qui veut dire qu’elle le fait advenir comme tel, ou qu’elle l’inscrit », J.-L. Nancy, op. cit., p. 105) 。「『受容できる [passible] 』とは、『耐え忍ぶ [pâtir]、被る [subir] 』ことができることを意味する。この能力 [capacité] は、試練に内在的な一つの活動 [activité] を含意し、それは自らに固有な受け入れ [réceptivité] の領野を開くことなのである」(« « Passible » signifie « capable de pâtir, de subir » ; et cette capacité implique une activité, immanente à l’épreuve, qui consiste à ouvrir son propre champ de réceptivité », Henri Maldiney, op. cit., p. 364) 。
 「受容可能性 passibilité」という言葉がその哲学において積極的な意味を込めて使用されている例としては、さらに、ミッシェル・アンリの「〈超-受容可能性 [Archi-passibilité] 〉」が想起されるかもしれない。この〈超-受容可能性〉とは、アンリにおいて、「パセティックな現象学的実践という様式において、自己を自己へと自らもたらす原初的な能力」のことである(« l’Archi-passibilité, c’est-à-dire la capacité originaire de s’apporter soi-même en soi sur le mode d’une effectuation phénoménologique pathétique », Michel Henry, Incarnation. Une philosophie de la chair, Paris, Seuil, 2000, p. 243) 。しかし、このアンリ固有の概念は、本稿で西田の哲学を読み解く鍵概念の一つとして導入される「受容可能性」とは、その哲学的志向において根本的に対立する。西田における根源的受容性とアンリにおける超-受容可能性との間に見られる根本的対立という、私たちにとって極めて重要なこの問題については、第五章で西田とアンリを対質させるときに立ち入って考察するので、ここでは問題の指摘だけにとどめる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二)

2014-04-16 00:00:00 | 哲学

「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体(2)

 メルロ=ポンティにおいて重要なのは、現象的身体あるいは自己身体が自己自身に見えるものとして現れるその固有の仕方である。私の身体は、私にとって見える現象として恒常的に生きられている。ここで問題になっている恒常性とは、「眼前から姿を消すこともありうる諸対象、つまり本来の意味での対象の、相対的恒常性の基礎となる、絶対的な恒存性」(« une permanence absolue qui sert de fond à la permanence relative des objets à éclipse, des véritables objets », Merleau-Ponty, Phénoménologie de la perception, Paris, Gallimard, 1945, p.108. 邦訳、中島盛夫訳『知覚の現象学』、法政大学出版局、一九八二年、一六七頁)である。自己身体は、〈私〉でありかつ同時に〈私のもの〉である。〈私〉は、自己自身を自己身体において、一つの内在性の外在性として、或いは一つの外在性の内在性として捉える。自己身体が自己自身に現れるのは、世界を「いっさいの規定的な思惟に先だって、これもまたたえず現存している、われわれの経験のかくれた地平」(« comme horizon latent de notre expérience, présent sans cesse, lui aussi, avant toute pensée déterminante », ibid., p.109. 邦訳、一六七-一六八頁)として現れさせることによってなのである。
 ところが、西田においては、自己身体の可視性は、何よりもまず、「外から見られるもの」であるということである。これは次の二つのことを意味する。第一に、身体は、自己自身を見ることそのことによって自らに外在性を与え、しかも、この外在性の自己贈与は、自己身体の内感の事実とはまったく独立に取り扱われていることである。第二に、自己身体の客体性は、我々の身体が見えるものとしてそこに生きている空間に、別の見るものが存在することを暗黙の内に前提していることである。人間の身体が外からそれとして見られるという事実は、自己自身にとってと同様に他の諸身体にとっても、それら身体すべてに共有された空間において、見える一対象であるという自己身体の存在論的性格を含意している。
 メルロ=ポンティにおいては、自己身体は恒常的に最も近くから見られたものという特権的な場所を占めており、それゆえ、自己自身にとって見える自己身体と、他の諸身体あるいは諸々の対象物のように多かれ少なかれ距離をおいて見られる諸要素との区別と関係が問題となる。ところが、西田においては、自己身体を見るということは、ただそれが外から見られるということしか意味しないので、そのような問題は提起されることがない。行為的直観によって開かれた空間において、自己身体は、他のすべての見えるものと同様に外から見られるという点においては、何ら特権的な位置を占めるものではない。つまり、自己身体とは、自己自身によって、他の諸身体や見える諸対象と同様な見える対象として取り扱われ、他の見るものたちが見るように、自己自身を見ることができるものなのである。しかし、このことは、自己身体を任意の第三者によって見られた客観的身体として取り扱うということを意味しているのではない。ここで問題になっているのは、自ら自己自身を、他の諸対象の間に見出される一対象として、自らによって生きられている空間において見ること、すなわち自己身体による前反省的自己客体化という、あらゆる客観的認識に先立つ作用なのである。













 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(一)

2014-04-15 00:00:00 | 哲学

 今日から第四章に入る。この章では、最後期西田の身体論とメルロ=ポンティの身体の現象学とを詳細に比較検討していく。この両者の身体論には、一見して見て取りやすい類似点・親近性があるために、この問題を扱った先行研究も少なくない。それだけに、それらの成果を前提にしつつ、かつ必要に応じて、本稿の立場とそれらとの差異を際立たせることによって、また場合によっては、それらを批判することを通じて、より正確に本稿の論点を明確化することが求められているとも言える。


第四章
行為的世界における自己形成的生命
—「行為的身体」と「知覚的身体」との区別と関係 —

 西田哲学において独自の身体論が構想されるのは、歴史的生命の世界における人間の根本的な存在様式を示す概念として行為的直観が導入されて以降のことである。「身体についての西田の独特な思索は、行為的直観の構造を身体性に即してとらえるところから始まる」(湯浅泰雄『身体論』、講談社、一九九〇年、五〇頁)。本章では、西田の身体論が特に詳しく展開されている「論理と生命」(全集第八巻)に依拠しながら、行為する身体と行為的直観の関係を考察する。


1— 行為的直観の世界における身体

1. 1 行為的直観の世界における身体の両義性

「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体(1)

 西田の身体論において、自己身体は、主観的なものでも客観的なものでもない。それは、それ自身によって、それ自身において、贈与と受容との二極間の弁証法的関係、すなわち「見ることと働くこととの矛盾的自己同一体系」を構成するものである。ここで「見る」とは「形」を受容することであり、「働く」とは「形」を与えることである。我々の身体は、何かを見るとき、見られた対象の形と見ている自分自身の形とを、その対象と自分自身とに与えつつ、同時にそれらを受容する。見ることによって、我々の身体は、諸対象の只中に投げ入れられ、まさにそのことによって、行為の世界がその身体に対して開かれる。行為によって、我々の身体は、諸対象が形成する構成形態の中に自らを置き、まさにそのことによって、その身体が他の見えるものとの関係において見えるものとなる視野が開かれる。このようなパースペクティヴから、西田は、同時に見るものであり見えるものであるという自己身体の根源的な存在様式を、「非連続の連続の関係」と呼ぶ。
 西田の身体論をこのように要約することができるとすれば、それは、メルロ=ポンティの身体論に極めて近い立場に立っていると言うこともできるだろう。しかし、まさにそのように両者が接近する場面においてこそ、両者の間に決定的な差異がないかどうかも問われなければならない。

身体というものなくして、我というものはない。併し我々は身体を道具として有つ。我々の身体も外から見られるものである。併し我々の身体は見られるものたると共に、見るものである。身体なくして見るということはない(新全集第八巻四九頁)。

 この一節にメルロ=ポンティ身体論の基本的テーゼの一つ「私の身体は見るものであると同時に見えるものである」(« mon corps est à la fois voyant et visible », Merleau-Ponty, L’Œil et l’esprit, Paris, Gallimard, 1964, p. 18.  邦訳、滝浦静雄・木田元訳『眼と精神』、みすず書房、一九六六年、二五八頁)との明白な類似性が認められることは論を待たない。実際、最後期西田の身体論には『知覚の現象学』と『眼と精神』におけるメルロ=ポンティの身体論のいくつかの基本的テーゼと著しく類似した論点が見出されることは、夙に指摘されているところである。例えば、野家啓一の論文「歴史の中の身体」(上田閑照編『西田哲学 没後五十年記念論文集』、創文社、一九九四年、七五-一〇〇頁)をその代表的な例として挙げることができるだろう。
 しかし、本章の目的は、西田とメルロ=ポンティの身体観が極めて接近するまさにその地点において、両者を厳密に区別するための相違点を際立たせることを通じて、行為的直観という概念によって開かれてくる西田哲学固有の地平を、生命の哲学の行為的世界の次元における展開として考察することにある。
 この相違点に関して、本稿は、湯浅泰雄『身体論』(前掲書)第一章第二節「西田幾多郎の身体観をめぐって」から重要な示唆を受けているが、以下の二点において、本稿は同書と見解を異にする。
 第一に、行為的直観の二つの構成契機の区別の仕方について。湯浅は「行為」という契機を「人間存在の主体性の側面」に、「直観」という契機をその「客体性の側面」に関係づけているが(同書五三頁)、この両契機は、このような主客の二元性には対応しない。この点については、本節で後に検討する。第二に、「日常的自己の行為的直観」と「場所的自己の行為的直観」という湯浅による区別の仕方について(同書六二頁)。西田のテクストの中に、この区別を正当化する箇所は見出しがたい。行為的直観の立場からなされた、自己の異なる諸次元の区別に関しては、「ポイエーシス的自己」と「創造的自己」との区別こそ本質的な意味を持っていると本稿では考える。この区別については、西田哲学の方法論という論脈においてすでに本稿第二章で検討したので、ここでそれを繰り返すことはしない。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十四)

2014-04-14 00:00:00 | 哲学

4 — 「自覚」と「内感」との交点、そして乖離(2)

 しかし、また、西田の「自覚」とビランの「内感」とが最も接近するまさにその点において、両者の間の決定的の相違点も明らかになる。
 「自覚」と「内感」とは、いずれも内在的自己経験に与えられた名であり、徹底した内在の圏域で実現されるような「生きられるものの自己自身への根源的な顕示」(Michel HENRY, Philosophie et phénoménologie du corps, p. 21, n. 3.邦訳『身体の哲学と現象学』、三三二頁)のことである。それを、西田は、「自己が自己を見る」と言い、ビランは、「自己が自己を感じる」と言う。この「見る自己」も「感じる自己」も、けっして表象化されることのない内的直接的自己知として経験されるというところまでは両者は一致する。しかし、ビランの「感じる」と西田の「見る」は相互に置き換え不可能なのである。なぜなら、ビランの身体の現象学においては、意志的努力において内側から感じられる主観的身体が明白に主題化されているのに対して、西田における内在的同一性として自覚の哲学には、それに対応するものを見出すことができないからである。
 さらに重要なことは、すでに本章で繰り返し述べてきたことだが、自己が感じる不可避の直接的抵抗によって限界づけられ、その感じる自己と不可分・不可同でありかつ非表象的な「自己身体の内的空間」が、西田においてはまったく問題にされることがないことである。というのも、この内在性にも外在性にも、主観性にも客観性にも還元不可能な、我々の自己身体に固有な、いわば両義的な空間性の問題は、おそらくビランが提起した最も重要な哲学的問題の一つだからである。
 西田とビランとのこの相違点、別の言い方をすれば、西田におけるこの「欠落」は、どう説明すればよいのか。それは、ビランが、とりわけ触覚を範例に取り、あらゆる感覚の原初的な次元、つまり自己身体が直接的な抵抗として内側から感じられる次元における経験として、内感を記述しているのに対して、西田は、対象に対して距離を取るのに最も適した感覚、ビランによれば「軽い感覚」(Essai sur les fondements de la psychologie, p. 312)である視覚を範例として、非表象的な内的経験である自覚を定式化しようとしていることに由来すると私たちは考える。
 自覚の第三の契機「自己に於て」によってはじめて、その都度の表象作用を現実化しつつそれ自身は非表象的な自己の審級、つまり内在的同一性の審級を超えて、この同一性がそこにおいて成立する審級、つまり超越的同一性の審級が問題化される。ところが、西田哲学において、この審級は、「自己身体の内的空間」のような具体的現実的限定性を持っていない。しかしまさにそれゆえにこそ、この超越的同一性の問題は、そのような中間性の空間を媒介としないで、内的経験の次元の問題から、それを超え包み、それを可能にする次元の問題へと一挙に変換される。この変換を通じて、自己の内的経験を非人称的な〈場所〉の自己限定として捉える立場、すなわち「場所の論理」の立場が拓かれたのである。
 かくして、西田哲学は、自覚論の問題構成の中で、内在性に徹するビラン哲学と交叉し、その内的生命の哲学をそれなりの仕方で取り込みつつ、しかし「自己身体の内的空間」というその決定的に重要な一論点を見落としたまま、内的生命の可能性の条件が問われうる場所論の次元へとその地平を拡張する。
 しかし、場所の論理の形成・確立期においても、内的生命が自らをそこにおいて内感する自己身体と、それがそこにおいて生きられる世界とが、それとして問題化されることはない。西田哲学において、この生ける身体の問題が主題化されるのは、行為の世界、さらには歴史的実在の世界における問題としてであり、つまり「行為的直観」と「歴史的身体」とが枢軸概念をなす最後期西田哲学の問題圏においてである。この問題圏へと探究の歩を進めるために、私たちは今やビラン哲学と西田哲学との共通の問題地平から離脱しなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十三)

2014-04-13 00:00:00 | 哲学

4 — 「自覚」と「内感」との交点、そして乖離(1)

 すでに繰り返し指摘したように、ビランによって明るみにもたらされ、精細に記述された「自己身体の内的空間」は、西田の注意をまったく引いていない。この西田の「無関心」から帰結として引き出せそうなのは、両者の立場の間には理論的に和解させがたい溝があるということだけのようにも見える。しかし、この両者の隔たりは、西田哲学に付き纏う不明瞭な問題領域を照らし出す問いかけの可能性がビラン哲学の中に含まれているということを意味していると私たちは考える。このことを明らかにするために、私たちは、両哲学が交差する地点、すなわち両者の親近性がもっともよく明らかにされると思われる内感の原初的事実へと、今一度立ち返ることにしよう。
 自覚の基本構造は、「自己が自己に於て自己を見る」という定式に要約されることは本稿の第一章で見たとおりである。自覚とは、まず、「自己が自己を見る」こと、つまり、その都度の考える自己と考えられた自己との相互限定的同一性、より一般的には、作用とその対象との現象面における同一性の経験である。この同一性の経験がそれとして成り立つのが「自己に於て」である。この第三の自己は、自己を無化することそのことであり、そのことの〈形〉として、見る自己と見られる自己との同一性がそれとして経験されることが、「自己が自己に於て自己を見る」ことである。
 自覚は、場所の論理以降の西田哲学においては、意識の事実には還元されず、逆に意識の事実は自覚の一つの現実性として捉えられなければならなくなる。とりわけ、最後期の西田においては、世界における出来事としての「世界の自覚」と「自己の自覚」との弁証法的同一性が問題とされるに至る。論文「自覚について」の次のよく知られた一節は、両者の関係の最も凝縮された表現の一つである。「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である」(新全集第九巻五二八頁)。
 しかし、自覚の現実性が自覚するものその者によってそれとして直接把握されるのは、我々の自己意識においてであるという一点においては、西田の自覚概念は終始一貫している。自覚とは、客体としての自己でもなく、主体としての自己でもなく、主客未分の純粋経験という初源の可能態でもなく、主客合一の直接経験が〈私〉において現実態として生きられること、言い換えれば、形が形自身を限定することとして現象する〈生命〉が、この〈私〉のこととして内的に直接経験されることにほかならない。
 西田哲学における自覚については、次の二つの同一性が厳密に区別されなくてはならない。すなわち、「見る自己」と「見られる自己」との同一性と、この作用的自己と対象的自己との関係性とそれがそこにおいて成り立つ場所としての自己との同一性である。言い換えれば、「ノエシス的自己」と「ノエマ的自己」との同一性と、この意識構造を決定している両項の関係性とそれがそこにおいて可能になる場所としての自己との同一性である。以下、前者を内在的同一性、後者を超越的同一性と呼ぶことにする。
 後者をひとまず括弧に入れ、前者をメーヌ・ド・ビランの内感の原初的事実によって開かれる問題場面へと近づけてみよう。自覚における内在的同一性とは、非表象的なものと表象的なものとの同一性、より正確には、あらゆる表象可能性を逃れつつ、自らを絶えず対象化し続ける作用的自己とそれによって対象化された自己との現実的同一性である。ビランの内感において経験されるのは、非表象的な原初的意志としての自己とその志向的対象である主観的身体との現実的同一性である。内感とは、自己身体という直接的関係項とともに現実化される原初的な力である意志の直接経験である。〈私〉において生きられたこの意志は、自己身体の運動へと自らを対象化しつつ、その身体へと働く力として現実化されることで直接内感される。意志とその作用対象である自己身体とは還元しがたい二元性を構成しながら、意志は自己身体に自己を対象化するかぎりにおいて直接的に経験されるという意味において、ここで生きられているのは自己矛盾的な現実的同一性だと言うことができる。この同一性は、構造上、西田における内在的同一性と一致する。矛盾的自己同一性を自ら引き受ける意志的自己を根柢に置くという点において、両者が主意主義的傾向を共有していることも明らかである。したがって、後者を自己において経験される原初的意志の矛盾的同一性と見なすことができる。

 

 

 

 

 

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十二)

2014-04-12 00:00:00 | 哲学

3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(3)

 ここで一言補足しておく。論文「行為的直観の立場」の第四節最後の数頁に展開されている習慣論は、ビランのそれによりもラヴェッソンのそれに近い。事実、西田は、同節の末尾の補足で、ラヴェッソンの『習慣論』を同論文執筆後に読んだことを注記しながら、「習慣について洞察に富んだ美しい考」と評価している。西田は、最晩年にラヴェッソンの習慣論に強い関心を示しており、西田が生前最後に発表し、未完に終わった論文「生命」の第三節の最後の部分を、ラヴェッソンの『習慣論』の忠実な紹介に充てていることにもここで注意を促しておきたい。このことは、西田が最後期においてラヴェッソンの習慣論をきわめて高く評価していたばかりでなく、ラヴェッソン固有の「習慣」概念の中に、自身の「種」の概念が孕んでいた重大な理論的欠陥、すなわち生物学的次元から社会的次元への無媒介の移行・拡張という欠陥を克服する契機を探ろうとしていたことを意味している。この問題については本稿の第五章で詳しく考察する。

 最後期の西田哲学において、能動的習慣は行為的直観と重ね合わされ、歴史的生命の立場から位置づけ直されている。この新たに導入された観点は、単に能動的習慣という一概念についての解釈の修正を意味しているだけではなく、行為的直観という概念の導入とともに生じた西田哲学の立場の転回の方向性をよく示している。
 場所の論理に至るまでの西田は、能動的自己の内的経験から、いかにして自然的世界を含めた現実的世界の認識へ到達するかという問題を、自覚概念を深化、拡張する方向で探究し、その途上でビランの能動的習慣を能動的自己の自己超越の契機として取り込もうとしたことは先に見た通りである。この方向性は、場所の論理によって主観主義の立場が決定的に克服されて以降、批判的に検討し直され、ビランの「内的人間」もまたその論脈において俎上に載せられたが、後期においてはまだ、この内から外へという方向性が充分に克服されているとは言いがたい。
 ところが、先の引用から明らかなように、最後期において、能動的習慣は、能動的自己が世界へと自己超越する契機としてではなく、まったく反対に、「世界の自己限定」として定義される。この転回を可能にしているのが行為的直観という概念にほかならない。この理論的にきわめて生産性のある概念によって開かれたパースペクティヴの中で、能動的習慣は、行為的直観を原理とする世界の自己形成過程における世界の自己認識の一形式として捉え直される一方、その形式の固定化は、世界に自己認識をもたらした原初的能動性の顕現を阻害するという否定面を併せ持つことが明らかにされるようになったのである。しかし、行為的直観は、能動的習慣に還元されるものではなく、習慣の確立とともに失われざるをえない原初的能動性の表現の可能性の条件なのである。最後期の西田哲学は、このようにして、内在性に徹底するビラン哲学の論点を取り込みつつ、その限界点を超えて展開されてゆく。
 では、習慣の世界の知覚的中心として行動する自己身体は、歴史的自然の世界においてどのように自らを表現するのか。自己身体を表現的世界の中に位置づけるのに、その対立的で不可分な両側面を考察するだけで十分なのであろうか。これらの問題については、メルロ=ポンティの現象学的存在論の光の下に最後期西田哲学における自己身体の問題を取り上げる次章において詳しく検討することにして、次節では、その予備的考察として、ビランの内感の哲学と西田の自覚の哲学が交差する地平に今しばらくとどまりつつ、そのハイブリッドな性格と複合的な機能がそれを内在性にも外在性にも還元することを許さず、それゆえ一つの固有の空間として取り扱われることを要求する「自己身体の内的空間」が西田哲学では問題とされえない理由をより精確に捉えておこう。

 


生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第三章(十一)

2014-04-11 00:12:37 | 哲学

3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(2)

メーヌ・ド・ビランは習慣を能動的と受動的とに区別して居るが、行為的直観によって一つの世界が自己自身を構成すると考えられるかぎり、それは永遠の今の自己限定として、そこに永遠なるものの内容が映され、イデヤ的なるものが見られると云うことができる。能動的習慣というのは、歴史的世界の自己限定の立場から云えば、行為的直観と考うべきものである。それは歴史的生命の発展と考えられるものである。併し能動的習慣というのも、歴史的には畢竟受動的となって行くものである。そして却って我々の生命の発展を抑制するものである、その極、我々を物質化するものである。

 能動的習慣を行為的直観として捉え直しながら、西田は、それを歴史的生命の世界の自己表現であると考える。そこにおいて能動的習慣は「永遠の現在」に属するものを、つまり永遠に働きつづけるものを反映している。習慣は、「実体的に無なるものの自己限定」なのである。習慣のこの肯定的な側面は、自己に先立ついかなる実体も前提せず、自ら自己限定するという生命の本質に対応する。
 しかし、このテキストで特に注目すべきことは、これまで私たちが見てきたビランの能動的習慣に言及している西田のテキストではまったく問題とされることがなかった、能動的習慣にも必然的に含まれているその否定的な側面がきわめて明確に指摘されていることである。一つのスタイル、あるいは一つの慣習的な所作となることで、習慣は、歴史的現実の世界の中でその「歴史的生命」を失っていく。習慣において、歴史的生命の世界の対立的でありかつ不可分な両側面、限定されたものであるということと自己自身を限定するものであるということとが、つまり受動性と能動性とが同時に顕現するのである。まさにこの対立しかつ不可分の二側面を同時に考えうる次元として、西田は、行為的直観の世界を構想している。そこでは自己身体がこの両側面の結節点として行動する。
 このように習慣の世界を歴史的自然の世界の只中に位置づけたうえで、西田は、見方を百八十度転回させる。つまり、今度は、習慣概念から歴史的自然の世界の成立を捉えようとし、私たちの行為的身体において顕現する習慣の原理を歴史的自然の世界の構成に適用するのである。「歴史的世界の自己限定は習慣的構成として、一つの歴史的自然として、自己自身を限定する。」この立場から、一方で、自然の世界は恒常的に一定の仕方で限定され、可変軸である時間性が極小化された習慣からなる世界と捉えられ、他方で、表現的身体としての私たちの行為的身体は、能動的習慣によってイデアを見ることができる身体として捉えられるが、それは、能動的習慣が永遠に非実体的に作用し続けるものに時間的に限定された形態を与えることからなるからである。能動的習慣は、実体を前提することなしにある形を自らに与える作用として、表象化を必然的に逃れるものを、今、ここで、表現する。能動的習慣が「永遠の今の世界」をもたらすのであり、この世界は、「習慣的存在として、習慣的に自己自身を限定する」。