自己身体の根源的受容可能性(1)
我々の身体は、見えるものの世界において、自己自身と他の見るものらにとって見えるものであると同時に、何ものかを見るものである。それは、他の諸々の見えるものの間にある一つの見えるものであるかぎりにおいて、一つの見るものである。しかしながら、我々の身体は、単に〈見るもの-見えるもの〉であるだけではなく、行為するもの、西田の用語に従えば「働くもの」であり、むしろ、この意味で働くものであるかぎりにおいて、〈見るもの-見えるもの〉でありうる。我々の身体が見るということは、それが見るものであるということのみを意味するのではなく、それは働くものであるかぎりにおいて見るということを必然的に含意する。言い換えれば、我々の行為的身体あるいは働く身体が見られるということは、それが他の諸々の見えるものとまったく同様に見えるものであるということのみを意味するのではなく、それは働くものとして見えるものであることを必然的に含意する、ということである。
我々の働く身体がまさにそのようなものであるのは、それが見ることと見られることとを、言い換えれば、能動性と受動性とを同時に受け入れることができるかぎりにおいてのことである。この意味において、我々の身体は、二つの対立する契機を「受容することができる [passible] 」存在である。受動性が能動性と対立するのに対して、この「受容可能性 [passibilité] 」は、あらゆる可能な行為がそこに受け入れられ、そこにおいて現実的となる根源的な受容性であり、それはまた端的に受け入れるということそのことの現実性である。
この「受容可能性」という概念については、Jean-Luc Nancy, L’oubli de la philosophie (『哲学の忘却』), Paris, Galilée, 1986と Henri Maldiney, Penser l’homme et la folie (『人間と狂気を考える』), Grenoble, Jérôme Millon, 1991, 1997(2e éd.)とから、私たちは重要な示唆を受けた。「ここで問題となっている受動性 [passivité] は、能動性との対立によって規定されるものではない。それは『受動的 [passif]』であるということではなく、そう言って良ければ、意味を受容することができる [être passible] ということなのである。つまり、意味を受け入れ、迎え入れることができるということである。思想(考えること)とは、言説ではなく、意味という出来事を受け入れることができるという基質・活動のことであり、意味という出来事を来たらせる。つまり、思想(考えること)は、意味をそれとして到来させる、あるいは、それを書き込む、ということである」(« […] la passivité dont il est ici question ne se laisse pas déterminer par une opposition à l’activité. Elle ne consiste pas à être « passif » : elle consiste à être, si on peut le dire ainsi, passible du sens. C’est-à-dire, capable de le recevoir, susceptible de l’accueillir. La pensée, ce n’est pas un discours, c’est la disposition et l’activité passibles de l’événement du sens : elle laisse cet événement venir – ce qui veut dire qu’elle le fait advenir comme tel, ou qu’elle l’inscrit », J.-L. Nancy, op. cit., p. 105) 。「『受容できる [passible] 』とは、『耐え忍ぶ [pâtir]、被る [subir] 』ことができることを意味する。この能力 [capacité] は、試練に内在的な一つの活動 [activité] を含意し、それは自らに固有な受け入れ [réceptivité] の領野を開くことなのである」(« « Passible » signifie « capable de pâtir, de subir » ; et cette capacité implique une activité, immanente à l’épreuve, qui consiste à ouvrir son propre champ de réceptivité », Henri Maldiney, op. cit., p. 364) 。
「受容可能性 passibilité」という言葉がその哲学において積極的な意味を込めて使用されている例としては、さらに、ミッシェル・アンリの「〈超-受容可能性 [Archi-passibilité] 〉」が想起されるかもしれない。この〈超-受容可能性〉とは、アンリにおいて、「パセティックな現象学的実践という様式において、自己を自己へと自らもたらす原初的な能力」のことである(« l’Archi-passibilité, c’est-à-dire la capacité originaire de s’apporter soi-même en soi sur le mode d’une effectuation phénoménologique pathétique », Michel Henry, Incarnation. Une philosophie de la chair, Paris, Seuil, 2000, p. 243) 。しかし、このアンリ固有の概念は、本稿で西田の哲学を読み解く鍵概念の一つとして導入される「受容可能性」とは、その哲学的志向において根本的に対立する。西田における根源的受容性とアンリにおける超-受容可能性との間に見られる根本的対立という、私たちにとって極めて重要なこの問題については、第五章で西田とアンリを対質させるときに立ち入って考察するので、ここでは問題の指摘だけにとどめる。