内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十七)

2014-07-22 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(5)

 自己身体の内的空間は一つの内的な広がりであり、その広がりは諸器官として自己差異化し、これらそれぞれの器官は広がりが意志の努力に対して譲歩するそれぞれに異なった仕方に対応している。意志された努力という原初的な事実のうちに主体が構成されるのは、その主体が「己の行動に抵抗する不活性な器官的端末との関係によって」(« par rapport au terme organique inerte, qui résiste à son action », Maine de Biran, Mémoire sur la décomposition de la pensée, op. cit., Vrin, tome III, p. 135, souligné dans le texte)のみ構成されているからに他ならない。
 原初的な努力によって開かれた空間は、それゆえ、主体的なものにも器官的なもののいずれにも一方的・全体的に還元され得ない。この空間は、根本的に、何か「相対的・相関的」なものであり、そこから器官的なものと主体的なものとの区別も発生してくる初元の出来事なのである。したがって、いかなる場合にも、それ自身の固有性を有ったこの空間を、ミッシェル・アンリが到底正当化しがたい仕方でそうしたように、一切の外部性を拒否する徹底的内在性と同一化することはできないのである。
 生命が身体の力に依存して己を顕現させるのではないということは、生命が身体以外の場所で己を顕現させるということを必ずしも意味するわけではない。ここで次のような問いが問われることになる。自己身体の内的空間こそが、対立する二つの経験 ― 距離なしに己自身を感受することと己の外に世界が現われること ― の起源にあり、徹底的内在性と絶対的超越性との母胎なのではないだろうか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十六)

2014-07-21 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(5)

 ミッシェル・アンリの生命の哲学の内部に立ち入るためには、内部と外部との根本的な断絶、そして不可視の生命と絶対的主体性との同一性を、どうしても不可疑な前提として受け入れなくてはならない。と同時に、徹底的な現象学的還元の名において、外的で歴史的に限定された諸事物からなる世界を、不可視な生命の王国にとって根本的に異なるものとして、決定的に排除しなくてはならない。アンリにおいては、私たちの身体は、それゆえ、その深部において二つに引き裂かれている。絶対的生命が己自身において感受されるところの見えない〈肉〉である生命そのものの内部性と、互いに他に対して異なり外なるものである諸事物の世界に投げ捨てられた身体である死そのものである外部性とにである。
 しかし、まさにここで、アンリが身体の現象学の先駆者と見なすメーヌ・ド・ビランが生涯にわたって倦むことなく繰り返し探索し続けた自己身体の内的空間を想起しなくてはならない。なぜなら、アンリの議論の中には、しかもそこにはビランへの明示的あるいは暗示的な言及が繰り返し見られるにもかかわらず、どこまでも距離なく己自身を感受する内部性と己の外にまったくの無関心とともに自己外化する外在性との間にこそ見いだされるべき、このビランの自己身体の内的空間への言及が一言も見られないからである。ところが、それ自体の固有性をもったこの空間は、純粋な内在性にも絶対的な超越性にも還元できないはずなのである。実際、この自己身体の情感的空間は、ビランにおいて、それ自体が「自己身体の直接的認識であり、この認識は、意志された努力への応答にのみ基づき、しかも意志に歩を譲るか従うかする器官的抵抗の認識でもある」(« une connaissance immédiate du corps propre, fondée uniquement sur la réplique d’un effort voulu, et d’une résistance organique qui cède ou obéit à la volonté », Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie, op. cit., Vrin, tome VII-1, p. 149)。
 この初元の本来的な認識は、感覚の自己差異化からなり、純粋な〈己自身を感じること〉によっては説明され得ない。なぜなら、この純粋な〈己自身を感じること〉にだけ基づくかぎり、どのようにして二つの感覚が「互いに区別され、場所的に限定され、互いに他方の外に位置づけられる」(ibid., p. 150)ということが起こるのか説明できないからである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十五)

2014-07-20 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(4)

 もし生命が「私たちに己を与えるのに、己自身以外何も必要とはしない」(Philosophie et phénoménologie du corps, op. cit., p. VI)のならば、生命は私たちに何も与えはしない。なぜなら、生命の自己贈与において起こっていることは、もはや私たちが私たちの世界内身体を苦しむことではなく、生命が私たちにおいて己自身を苦しむことだからである。
 しかし、私たちは、ここで、こう問わなくてはならないだろう。もし生命が決して自己外化することなく、不変の永遠の現在のうちに完全に引きこもっているとすれば、いったいどのようにして、生命は、〈他なるもの〉に対して、その〈他なるもの〉がある場所で、己を表現するのか。もし生命がその内在性の内に自己充足しているとすれば、生命に関する哲学的言説に対して、いかなる価値・地位を与えるべきなのか。絶対内在的生命に対して、そもそも哲学的言説はどのように己を分節化・差異化することができるのか。
 もし「孤独が生命の本質である」(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 354)のならば、生命は、〈他なるもの〉に己を伝えることはない。異なるものに自ら近づくこともない。生命は、永遠に同語反復的な内的独白を自己享受するばかりである。しかも、それは、外部に対する完全な無関心を伴っており、異なるものとはそれが何であれまったく関係がなく、存在の歴史の外にとどまったままである。孤独で黙せる生命は、二重の排除あるいは還元からなっている。一つは、己における〈他なるもの〉の排除であり、一つには、生命に対する表現の、事後的・表層的・外在的な層への還元である。
 確かに、生命の本質還元は、生命の自己感受をそれとして顕現させる。しかし、それと同時に、この還元によって、生命は、完全にその内在性へと退却し、その結果として、世界及び〈他なるもの〉との生ける接触を失ってしまう。ところが、この接触こそ、受苦と享受とを私たちの身体においてそれぞれ異なったものとして生命に経験させる一つの生ける現実そのものではないだろうか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十四)

2014-07-19 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(3)

 私たちは、ここまで努めてアンリの意図に沿って理解を試みてきた絶対的生命の「超-受容可能性」という概念に対して、今や以下のような根本的な批判を向けなければならない。
 絶対的生命の超-受容可能性がもたらすのは、絶対的生命が己自身しか受け入れない、あるいは己に完全に従属するものしか受け入れないということである。もし「受け入れる」ということが、本質的に、他なるもの、異なるもの、知られざるものを己の内に受け入れることにほかならないとすれば、絶対的生命は何も、誰も受け入れはしないのである。絶対的生命は己自身のことしか苦しまない、ということは、何も苦しんではいないということである。なぜなら、絶対的生命は、己自身だけで常に完全に満たされており、初めから自分自身だけで充足しており、何らかけるところなき本質そのものだからである。
 絶対的生命がこの私自身として自己生成するということが仮に言えるとしても、それは絶対的生命の自己生成が私において繰り返されるかぎりのことでしかない。私が絶対的生命において生きているのではなく、絶対的生命が私において生きている、ということである。したがって、絶対的生命は、己の外に何も生成せず、何も産出せず、何も創造しない。
 絶対的生命は、その見えない王国の内に、他なるものの生誕、異なるものの来訪、未知なるものの到来を苦しみとともに受け入れることができない。絶対的生命の王国では、時間空間的に有限で、歴史的に限定され、それゆえ本質的に〈生命〉とは異なり、まったく〈生命〉とは異質な、私たちの世界内個別的身体がそこで市民権を持つことは決してない。私たちの身体が絶対的生命の王国に迎え入れられるとすれば、「主体性そのものの領域である実存の領域」(Philosophie et phénoménologie du corps, op. cit., p. 11)に私たちの身体が帰属し、外在性に曝されることの決してない「超越論的内的経験」(ibid., p. 271)を構成するかぎりのことでしかない。
 このような絶対的生命論は、以下のような帰結をもたらさざるを得ない。
 私たちの世界内身体は、空虚な屍に過ぎず、ただ朽ちてゆくほかない。たとえ世界の差異化の原理の体現であり、そのことによって世界と己自身とに或る一つの情感的で自己形成的な形を与え続けるとしても、私たちの世界内身体は、有限で死すべき存在として、物体の世界の中に投げ捨てられたままである。本質的にその世界とは異質である絶対的生命は、それゆえ、私たちの世界内身体を救いに物体の世界に来ることは決してないのである。












「ストラスブールからの最初の記事」

2014-07-18 00:55:42 | 番外編

 六月四日の記事でも触れたことだが、いつも日本時間で午前零時に投稿することを習慣としているので、日本とは七時間の時差(夏時間の間)があるフランスでは、日本のその時刻は前日の午後五時である。だから、今日の連載記事も日付上は十八日になっているけれど、実際に書いていたのは前日十七日の午後五時少し前のことであった。
 その十七日に実際は書いた連載記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)」は、私にとって、記念すべきストラスブールで書く第一号記事となった。今日(十七日)の昼過ぎにストラスブールの新しいアパートへの引越し荷物の搬入が済み、今、まだ本がぎっしり詰まった段ボール箱が山積みにされた書斎の中にようやく机を置くだけのスペースを確保して、そこでこの記事も書いている。二十一日には日本に発つので、この数日間は荷物整理、特に本の整理に追われるだけで終わってしまいそうである。
 引っ越しのときに一番うんざりするのが、本の詰まった段ボールの数とその重さである。引っ越し業者には荷物の搬出・搬入だけを頼んだので、箱詰めは自分の作業。ここ一週間あまりはその作業に忙しかった。日本にいる時から自分の引っ越しばかりでなく、友人の引っ越しを手伝った経験がかなりあるので、荷造りは得意な方であるが、それにしても、詰めても詰めてもまだこんなに残っているのかと、本棚の本を眺めては、何度も溜息をつきながらの作業であった。それに、段ボール箱の数が増えるにしたがって、それでなくても狭いパリのアパートの居住空間がますます狭くなり、引っ越し前日など、山積みされた段ボール箱の谷間に寝ていたようなものである。
 十七日付の記事は、だから、パリのアパートから投稿した最後の記事になった。それにも感慨を覚えないわけにはいかなかった。荷物が全部搬出された後の空っぽのアパートに一人残り、八年間暮らしたそのアパートでの最後の夜を、荷造りの後の重い疲労を感じながら、ワイン片手に過ごした。この八年間のあれこれの出来事を思い出しては、もうここに戻って来ることは二度とないのだと、いささか感傷的にもなったが、明日からはいよいよ自分の人生の新たなステージが始まるのだという新鮮な思いがそれに取ってかわるのにさほど時間はかからなかった。
 今度のアパートは、居住面積だけでもパリのアパートのほぼ二倍、それにそこで十分三四人で食事ができるほどの広さのベランダ、地下の物置、さらにはシャッター付き地下個別ガレージもすべて込みで、家賃はパリのアパートより二五%も安い。周りは溢れんばかりの緑に囲まれていて、書斎の正面には樹々が生い茂り、その木の間から日中柔らかな陽射しが差し込む。アパートの敷地を囲む蒼々と茂るポプラと糸杉の巨木が風に吹かれて葉を翻す音が聞こえてくる。大学までも徒歩と路面電車一本を合わせて三十分ほど。それに、このアパートを借りる決め手の一つにもなったのだが、新装オープンしてまだ二年ほどの市営プールまで徒歩五分なのである。買い物にちょっと不便なのが難点だが、商店街までの道も緑に恵まれた閑静な住宅街なので、散歩がてら買い物にでも行こうかという気分にもなる。
 現在連載中の記事「生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学」は、七月三十一日をもって終了予定。そのときは東京の大学で集中講義の最中ということになる。八月十七日にフランスに戻る。すぐにはストラスブールに戻らず、翌日パリに到着する娘のアパート入居を二三日手伝ってから戻る。
 娘は来年の五月末までパリ政治学院で勉強する。先日DALFのC2に合格したと連絡があったから、学業の方の準備は順調のようだが、アパート探しに関してはちょっと私に頼りがちだったので、一昨日少しきつい調子のメールを送ったら、返事が来ない。手数料や前金など支払いは私がこっちで代行したよう結果になり、留学生のくせに少し甘ったれているんじゃないかと言っただけなのだが。もちろんこれは立て替えただけで、後で返してもらうことになっている。











生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)

2014-07-18 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(2)

 身体の現われが世界の現われに準ずる現われとして理解されるのではなく、まさに生命の現われの一つの発現として自覚されるとき、私たちの身体についての考え方に転換が起こる。この転換は、私たちの自己身体が世界を満たしている他の諸物体とはまったく異なっており、もはや見える身体ではなく、一つの「肉」、「見えない肉」であることの自覚によって引き起こされる(voir Incarnation, op. cit., p. 8-9, 369)。
 この〈肉〉としての身体の現象学的基底は生命の内に見出され、〈肉〉としての身体は生命からその現象学的諸属性のすべてを受け取っている。このように〈肉〉としての身体が生命にその一切を負っているという関係は、生命の自己顕現には〈自己〉が必然的に内含されているという本質的な理由に拠る。身体は生命とともに〈肉〉として生まれる。あらゆる点において生命に委ねられている〈肉〉は、その生命から己の現実そのもの、「自己印象」という「純粋な現象学的質料」を贈与されており、この質料が「情動的な自己触発の質料」に他ならない(ibid., p. 241-243)。
 〈肉〉がその可能性の一切を生命の自己触発から受け取っている現象学的質料であるからこそ、その〈肉〉は、私たちの身体に刻印される諸々の印象に、生ける現実性を与えることができる。あらゆる〈肉〉は、絶対的生命の「超-受容可能性」(« Archi-passibilité »)、つまり、「情感的な現象学的現実化様態に基いて己を己の内で己自身へともたらす本源的な能力」(« la capacité originaire de s’apporter soi-même en soi sur le mode d’une effectuation phénoménologique pathétique », ibid., p. 243)を前提としている。この超-受容可能性の懐に抱かれているからこそ、私たちの身体は受容するものと成ることができる。私たち有限な生命は、その受容可能性を、無限の生命の超-受容可能性から生誕時に無償で贈与されているのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十二)

2014-07-17 00:00:00 | 哲学

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(1)

 身体は、それが私たち自身の身体であれ、他者の身体であれ、世界の中で私たちにその姿を現す。その世界に現われる身体は、己自身の現象学的諸性格の所有者、世界の現象学的諸属性を把持する主体、そして何よりもまず己の外在性の保有者である。しかしながら、この世界内身体は、外在的であるばかりでなく、多数の感覚的性質を有ってもいる。つまり、この世界内身体は、見られ、触れられ、聞かれるなど、感覚される身体であり、第二の身体 ― アンリの言葉では「超越論的身体」(« corps transcendantal », C’est moi la vérité, op. cit., p. 159)― を前提とする。この超越論的身体が諸感覚器官によって、感じ、見、触れ、聞くのである。
 フッサール現象学においては、これらの感覚的諸能力はそれぞれ異なった志向性として理解され、世界を構成する超越論的身体は志向的身体とされる。この意味において、私たちの身体は、世界の身体であり、世界へと私たちを開く。世界への開けがそれに基づくところの〈現われること〉は、対象としての身体がそれによって私たちに姿を現すところの〈現われること〉と同一である。
 ところが、見えるものをそれとして現われさせる志向性は、現象性において己を己自身へともたらすことができない。フッサール現象学が突き当たらざるを得ない解決困難な難問は、志向的身体へと還元された身体について提起されざるを得ない。アンリは次のように問う。「もし私たちの身体が近代哲学の意味において実存するならば、もし身体が私たちを世界へと開き、私たちが世界について持つ初元の知をその身体が規定するのならば、そのとき次のような問いが提起される。この世界を知っている身体は、いかにして己自身を知るのか」(« Le concept d’âme a-t-il un sens ? » dans Revue philosophique de Louvain, tome 64, 1966, p. 23)。
 アンリによれば、超越論的身体によって実行される各々の行為が、その行為によって与え得るものを私たちに現実に与えることができるのは、その贈与行為が実行される中でその行為自体の自己贈与が実行されているかぎりにおいてである。このような内在的な自己贈与は、生命においてしか到来しない。超越論的な現象学的生命は、情感的な自己顕現においてしか成就しない(voir Incarnation, op. cit., p. 189)。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十一)

2014-07-16 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(3)

 ミッシェル・アンリにおける受苦は、私たちの個別的な生命の一切の具体的内容とまったく独立に生きられる。互いに異なり、互いに対立し合い、しかも次から次へと移りゆき揺れ動く諸々の感情の底で、受苦は、ただ己自身において自己成就するものである。受苦は、それゆえ、私たちの生命のある特定の側面に限局されるものではなく、私たちの生命全体の隅々にまでいわば浸透している。受苦は、純粋な現象性が本来的に自己現象化するところの「現象学的質料」(« matière phénoménologique »)を私たちにおいて顕にするのである。
 受苦が私たちに感受させてくれるのは、「〈超-受容可能性〉」(« Archi-passibilité)であり、ただこれによってのみ、一切の自己による自己の感受が可能になるとアンリは言う(voir Incarnation, op. cit., p. 175)。生きることの本質は、情動的な自己触発の内在性における自己感受であり、そこには自己に対するいかなる隔たりも距離もない。そうであるかぎり、生命は、自己自身に対する根源的な受容性をその本性としており、本質的に、己自身を苦しむこと、己自身を受け入れることにほかならない。この原初的な受苦がすべての具体的自己受容経験の底に働いているからこそ、ある一つの苦しみがまさに苦しみとして私たちに与えられるのである。
 しかしながら、私たちは、ここで、アンリに以下のように問いかけなくてはならない。
 この原初的な受苦は、私たちにおいて感受される出来事としての受苦の必要条件しか与えないのではないか。この原初的な受苦という条件だけからでは、なぜある感情がある一つの調性を有っているのかという問いに対する答えを引き出すことはできないであろう。この諸感情間の差異は、それがもし世界の出来事からのみ結果するのではなく、その根本条件を私たち自身の内に探さなければならないとすれば、どのように説明されるべきなのか。ここにおいて、身体の問題が問われることになる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十)

2014-07-15 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(2)

 生きること、それは「己自身を苦しむ」ことである(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 590)。受苦こそ生命の本質である。こうミッシェル・アンリは主張する。
 この主張に対して、私たちは次のようにアンリに問わなくてはならないだろう。生命の生きるものに対する関係とはいかなるものか。それなしには私たち生きるものが何であるか理解することができないこの関係とはいかなるものか。
 この問いに答えるためには、己自身へ己をもたらすことができる絶対的生命にまで遡行しなければならない。しかし、その答えとして、生命の生きるものに対する関係は、絶対的内在性の関係であると言うだけでは十分ではない。なぜなら、それだけでは、歴史的生命の世界において生きる有限存在である私たちによって生きられている具体的個別性と、私たちの行為的・受容的身体においてそれとして己自身を生成する真実在であるところの生ける普遍性とがなぜ同時的で有り得るのかという問いに対する答えとしては、十分ではないからである。
 この問いに対して、〈自己固有性〉(Ipséité)あるいは〈単一の自己〉(Soi singulier)を持ち出して来ても、やはり十分な答えを構成するには至らない。アンリによれば、私たちの現実的生命が己自身を感受することによって己へと到来することである〈自己固有性〉は、現実的な〈自己〉(Soi)であり、この〈自己〉において、〈生命〉(Vie)は、己自身を感受することによって、己自身に己を顕にする。かくして、〈生命〉の自己生成の過程が自己顕現の過程として成就される。この〈生命〉においてはじめて〈自己〉は己自身に与えられるのだから、〈生命〉なしには〈自己〉は在り得ない。
 このようにして、アンリにおいては、私たちの個別的自己は、唯一の〈自己〉として、〈生命〉の中に完全に没入してしまい、その結果として、私たちの生命の特殊性・固有性・単独性等は、〈生命〉において意味を失う。私たちの個別的自己は、有限の生命であり、己自身において己を己自身にもたらすことはできない。私たちが〈生命〉へと到来するのは、〈生命〉が己自身へと到来するかぎりにおいてであり、その到来の仕方にしたがってなのである。絶対的生命が「〈第一の生けるもの〉」(« le Premier vivant », C’est moi la vérité, op. cit., p. 76)の自己固有性において己自身を感受することによって己へと到来するからこそ、この生命の自己固有性において自己を与えらた人間存在は、超越論的な生ける〈自己〉として己へと到来する。私たちの生命の個別的な特殊性は、それゆえ、絶対的生命とは何ら関わりのないものでしかない。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十九)

2014-07-14 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(1)

 昨日の記事で見たような西田からミッシェル・アンリへ向けられるであろうその生命概念と主体性概念とに対する仮想的な批判は、それが身体の問題に適用されるとき、両者の哲学にとって決定的に重要な点の一つに触れることになる。
 アンリ固有の身体概念は、受苦(souffrance)という根源的次元において明瞭な形で現われる。私たちは、それゆえ、アンリにおける身体問題の核心へと直ちにまっすぐに切り込むために、この受苦という次元へと立ち入る。
 痛みを例に取ろう。アンリは、痛みについて、その痛みという本性のみ、あるがままの痛みのみを苦痛の純粋に情感的な要素として捉える現象学的還元を行う。痛みそのものを把握するためにこのような還元が必要とされるのは、通常の苦痛の把握の仕方では、痛みはまずもって身体のある部分に結び付けられた物理的に特定可能な苦痛と見なされてしまうからである。物理的に局所化される一切の身体的要素を排除する還元によって、純粋な受苦は己自身にそれとして現われる。つまり、受苦のみがそれが何であるかを私たちに分らせるのであり、受苦という事実の顕示において顕示されるのは、まさに受苦以外の何ものでもないということである。「痛みこそが私に痛みについて教えるのであって、痛みを現前するもの、今ここにあるものとして志向する何かしら意識のようなものがそれについて私に教えるのではない」(Michel Henry, Phénoménologie matérielle, Paris, PUF, 1990, p. 36)。
 この痛みという経験において世界での「己の外」という在り方はあり得ないことは、受苦には己自身から己を分かついかなる隔たりもないということから分かる。己自身に分かちがたく結ばれている受苦は、己に対して何らかの距離を取ることはできない。苦しみを与える己自身から逃れることは決してできないのである。受苦の受苦に対するいかなる内的隔たりさえもあり得ないということは、それに対する眼差しを向けることができないということでもある。誰一人として、己の受苦、苦悩、あるいは喜びを「見た」ことがある人はいない。受苦は、生命の様態として、不可視なのである(voir L’essence de la manifestation, op. cit., p. 680)。情感の純粋な現象性は、見られることはなく、姿を現すことはない。