内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十八)

2014-07-13 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(5)

 西田による真実在の定義を生命のそれとして読むとき、ミッシェル・アンリの生命の哲学に対して、西田の立場から次のような根本的批判が向けられることであろう。
 真実在は、己自身の自己否定によって完全に自己外化し、そうすることで、己の内に他なるものを迎え入れる。真実在においては、内部と外部との切断は、抽象的かつ二次的・副次的なものであり、内と外との矛盾的自己同一は、それ自体が本来的かつ原初的な事実として感受される。己自身において在るものは、己自身の絶対的な自己否定によって、己がそこにおいて現われる場所・己が現われる様態・己が現われるときに取る形と同一化される。そのとき、現象と実在は不二不可分である。己自身によって在るところのものは、己自身の絶対的な自己否定によって、己が現実的に存在させるすべてのものと同一化される。そのとき、原因と結果は不二不可分である。真に己自身によって在るものは、己の自己充足的な同一性を剥奪する他なるものを己の内から排除しない。真に自己自身によって在るものは、必然的に、己が現に働いているその場所に、はじめから、他なるものを受け入れるものでなくてはならない。ひとたびその内部から自己否定性が排除されれば、己自身によって在るものの真の現実性は、不可避的に失われてしまう。
 己自身によって在るところのものは、それゆえ、〈他〉へと無限に多様化しつつ、その多様化を通じてこそ〈一〉にとどまり、その無限の過程における種々の変化を己の生命・働き・到来とするものであると定義することができる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十七)

2014-07-12 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(4)

 ここでまず思い起こすべきことは、西田の真実在の定義によれば、それ自身によって在るところのものは、本質的に、己の内に他なるものをそれとして含んでいなければならないということである。もし、それ自身によって在るところものが常に単に自己同一的であり、己の内から完全に他なるものを排除することによってのみそれとして在り得るに過ぎないとすれば、十全かつ全体的にそれ自身によって在ることは不可能になってしまう。なぜなら、他なるものの不在を前提とするというまさにそのことによって、その存在は、他なるものに事実上依存しているからである。
 このような西田の真実在の立場からすれば、アンリにおいて顕著に見られる主体性あるいは生命の純粋化は、次のように批判されることになるであろう。
 主体性あるいは生命の純化は、無限に受容的かつ根源的に創造的な真実在へと私たちを導く途ではなく、まったく逆に、己自身しか生むことができず、何も創造しない貧困の極みへと導くばかりであり、そこには、有限な諸存在によって生きられている無限に多様な具体的個別性・特異性も、真実在が他なるものにおいて己自身として生まれるところの生ける普遍性も見出されることはない。主体性や生命を純粋化し、それによってそれらを絶対化することは、それらの充溢化を意味するのではなく、むしろ己自身しか受け入れることができないというそれらの空虚さをこそ露呈してしまうのである。真実在が真にそれ自身においてあり、それ自身によって在るためには、己自身の内に十全かつ全体的に他なるものを受け入れないわけにはいかないのである。
 それはどのようにしてなのか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十六)

2014-07-11 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(3)

 もし、生命が、「すべてがそれに依存し、それ自身は何ものにも依存しない」(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 816)真実在として定義されるとすれば、アンリが言うような、「自己の外」を自己から徹底的に排除することによってのみそれ自身でありうる生命は、この定義に完全には適っていないことになる。なぜなら、そのような生命は、あらゆる点において独立でありうるほど自己充足的ではないからである。つまり、その生命は、「自己の外」を、他なるもの・外なるもの・異なるもの・理解し難いものとして、自己から排除する必要があるというまさにそのことによって、「自己の外」に依存しているからである。「本質は、それ自身へと向かう思惟以外の何ものも内に含んではおらず、己とは異なったものすべてから、それらが他なるものであり、結局他性や外在性として理解される存在であるというそのことによって、必然的に乖離する」(ibid., p. 351)。アンリにおいて、この引用の中の「本質」は、「生命」に置き換えることができる。西田が真実在を「自己自身に於て他を含むもの、自己否定を含むもの」(全集第十巻一二〇頁)と定義するときに批判的に問題化しているのは、まさにこの点なのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十五)

2014-07-10 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(2)

 生命の顕現へと至る途はどのようなものなのか。それは、端的に、生命そのものである。生命は、それ自らの内で己自身に己を顕現させる。そこにあるのは、現実への段階的な接近ではない。そうではなく、顕現そのものにおける、現われるものと純粋な〈現われること〉との絶対的な同一性の自己現出である。生命へと至る途は、生命のうちにしかなく、生命によってしか開かれることはなく、生命からしか生命へと至る途はない(voir Incarnation, op. cit., p. 123)。ミッシェル・アンリの生命の現象学は、したがって、現象を段階的に明るみにもたらす解釈学的な作業からなるのではななく、不可視の現前への直接的な参入をその根幹に据えていると言うことができる。
 このように生命は見えないもののうちで感受されるほかないとすれば、アンリ自身自らそう問うているように、思惟においていかにして生命に至り得るのか、生命の哲学はそれでもなお可能なのであろうか、と私たちは問わざるを得ない(voir ibid., p. 122)。アンリのこれらの問いに対する答えは、本質的に、いずれも自己への到来として定義される生命と主体性との同一性をその根拠としている。この初源に措定された同一性が、生命と生命の外との関係という問題を回避することをアンリに可能にしているように思われる。この同一性は、次のような仕方でアンリによって徹底化される。

いかにして私たちは生命へと至るのか。それは、私たち自身へと至る途によって、つまり、その名に相応しいかぎりの〈自己〉とその都度の特異な〈自己〉とがそこにおいて同一化されるこの自己関係においてである。しかし、この自己関係 ― 私達自身へと至る途 ― は、私たちに先立つのであり、そこから私たちは結果として生まれているのである。なぜなら、私たちが私たち自身へと到来し、私たちがそれであるところの〈自己〉になるのは、絶対的生命が己へと到来する永遠の過程においてのみだらかである。この過程においてのみ、それによって、生けるものたちは〈生命〉へと到来する。

Comment avons-nous accès à la vie ? En ayant accès à nous-même — dans ce rapport à soi en lequel s’édifie tout Soi concevable et chaque fois un Soi singulier. Mais ce rapport à soi — cet accès à nous-mêmes — nous précède, il est ce dont nous résultons : c’est le procès de notre génération, puisque nous ne sommes venus en nous-mêmes, devenant le Soi que nous sommes, que dans le procès éternel en lequel la Vie absolue vient en soi. Dans ce procès-là seulement et par lui, des vivants viennent à la Vie (ibid., p. 123. この生命へと至る途という問題については、C’est moi la vérité, Seuil, 1998, p. 132-133 に、これよりさらに入念な議論が展開されている)。

 私たちは、ここで、アンリとは異なった立場に立つ哲学者二人を召喚して、アンリと対質させよう。フッサールの高弟・私設秘書・共同研究者であり、本人自身独自の哲学を展開した現象学者でもあったオイゲン・フィンクは、アンリとはまったく対立する仕方で、次のように生命へと至る途を規定する。「生命は己自身を外化することによって、見るものの眼差しのうちで、己自身へと到来する」(Eugen FINK, Sixième Méditation cartésienne. L’idée d’une théorie transcendantale de la méthode, trad. fr. Natalie DEPRAZ, Grenoble, Éd. Jérôme Millon, 1994, p. 76)。いったいなぜ、アンリは、このフィンクのような立場を徹底的に拒否するするのだろうか。ここで召喚されるもう一人の哲学者は、言うまでもなく、西田である。西田は、生命に他ならない真実在の本性の一つを絶対的自己否定に見る。この西田の立場に対して、アンリはどのように応答するのであろうか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十四)

2014-07-09 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(1)

 ミッシェル・アンリによれば、それのみが現実を与える感覚への呼びかけには、それ自体のうちに、生命への呼びかけが、つまり、世界の現われとは根源的に異なった現われ方への呼びかけが隠されている。アンリにおいては、生命は、徹頭徹尾、現象学的なものである。生命は、存在者でも存在者の存在様態でもない。アンリにとって、存在あるいは主体とは、存在者にとって他なるもの、つまり、世界の中で見えるもの・接近可能なもの一切にとって他なるもので、どこまでも純粋なものでなければならないのである。
 アンリの生命の現象学における〈生命〉の本質は、次のようにまとめることができるだろう。
 ただ生命のみが存在する。超越論的な現象学的生命こそが純粋な現象性の本源的な様態を定義する。この様態が「自己顕現」(« auto-révélation »)である。生命に固有な顕現は、世界の現われとは、あらゆる点で対立する。「生命の現象学によれば、二つの根本的で相互に還元不可能な現われの様態がある。世界の現われの様態と生命の現われの様態である」(Incarnation, op. cit., p. 137)。世界は「己の外」において顕にされ、したがって、世界が顕にするものはすべて、外なるもの、他なるもの、異なるものである。それに対して、生命の顕現の第一の本性は、生命には、己の内にいかなる隔たりもなく、己と異なることはけっしてなく、己自身以外のものを顕にすることはない、ということである。
 生命は、己を顕にする。生命は、自己顕現である。この生命の自己顕現は、つまり、次の二つのことを意味している。一方では、生命こそが顕現を成就するということである。他方では、生命が顕にするものは生命自身に他ならないということである。このようにして、現われるものと純粋な〈現われること〉との対立は、生命においては本来的にあり得ない。生命が顕現するものと生命において自己顕現するもとは、唯一無二なのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十三)

2014-07-08 02:06:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(8)

 しかし、まさにそれゆえにこそ、私たちが先に立てた、主体性に対する世界の現象性の場所と様態に関する一連の問い(7月5日の記事参照)に対して、ミッシェル・アンリからまだ答えが得られないままである。しかも、表象を排除することによって得られる主体性の絶対化は、それだけでは、主体性が己自身にそれとしてどこで現われるのかという問いに対する十分な答えにはなっていない。絶対的主体性と世界の現われとが互いに他に対して限定し合い、それぞれそれとして生成するのは、本来的に、どこであり、いかにしてなのか、という根本的な問いと向き合うことなしに、これらの問いに答えることができるであろうか。主体性と世界の現われという、根本的で互いに他方には還元し得ない現われの二つの様式を徹底的に区別したとしても、そのことは、これら二つの様式の間のそれ自体還元不能な関係性についての問いを免除してくれるわけではなく、それらの間に「まったく関係はない」ということは、どこで、いかにして語りうるのかと問うことなしにすませるわけにもいかない。生命の自己顕現と生命に対して本質的に異質である世界の現われとの間に絶対的な区別を立てることによって、世界の現われには還元され得ない生命の世界において生命が己自身に己の内で現われるのはいかにしてなのかという問いを回避することはできないのである。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十二)

2014-07-07 01:32:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(7)

 昨日の記事の最後に立てた問いを解くために、ミッシェル・アンリは、カントに倣って、感覚に現実産出の役割を配当する。しかしながら、まさにこの点において、アンリがカントからどの方向へと離れていくかをよく見て取ることができる。アンリによれば、感覚は「表象とは他なるもの」である(Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 130)。感覚は、原初的な自己印象であり、そこではすべてが自己自身の刻印である。言い換えれば、感覚は、あらゆる脱自を排除するものとしての生命の根源的に内在的な本質に他ならないのである(voir ibid.)。ところが、アンリによれば、カントは、印象がそれ自身について有つ経験としての感覚の経験の可能性を見損なったばかりでなく、印象とその支えの役割を果たす純粋に情感的な要素とを、生気のない、冥闇で、盲目な、そして現象性の光を奪われ、己以外の権能である表象にその光を求めなければならない内容としてしまう。しかし、アンリは、表象には可能な感覚はないと断言する(voir ibid., p. 131)。この否定の構造は、世界の現われにおける生命の可能性を否定する構造 ― いかなる生命も世界の現われの内には現われ得ない ― とまったく同じ構成である。アンリにおいて、感覚は、このようにして、主体性の核心そのものとして位置づけられ、根本的内在において己自身に己を与えるという機能を引き受けるものとなる。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十一)

2014-07-06 02:03:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(6)

 ミッシェル・アンリは、昨日の記事の最後に立てられた問いに対して、カントによって入念に規定された感覚の審級に言及しつつ、自身の哲学に引きつけた解答を提出している。アンリによれば、世界の現われの存在論的な貧しさは、ハイデガーに固有なテーゼから結果するものではなく、すでにカントの『純粋理性批判』の中に見出される。『純粋理性批判』は、世界の問題を現象学的なものとして把握する。それゆえ、そこでの批判は、世界の現象学的構造の極めて厳密な記述から成っている。世界の現象学的構造は、空間と時間との純粋な直観の先験的諸形式と悟性の諸々の範疇との両者から構成されている。純粋な直観の形式とは、この形式がその都度見えるものとして現われさせる「経験的」と呼ばれる特定の偶発的な内容とは独立に、それとして捉えられた、見ること・現われることを成り立たせる純粋な形式のことである(voir Incarnation, op. cit., p. 68)。
 ところが、このように様々な形で見えるものをそれとして現われさせる連関し一貫した作用を通じての世界の現象学的形成は、それ自体によっては、この世界の具体的な内容を構成する現実を措定することは決してできない(voir ibid.)。ここにおいて、世界の現われのその内に現われるものに対しての無力さは、世界の現象学的形成がそれ自体によっては世界の現実を措定できないという無能さとまさに同一化されている。アンリによるこのような現われの諸形式批判は、その表象批判と不可分の関係にある。なぜなら、表象は、それが空虚な形式であるかぎり、それ自体によって現実的経験へと到達することも、それ自体によって現実を露呈することも不可能だからである(voir Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 129)。
ここで問われなければならないのは、次のような問いである。どこで、またどのようにして、世界の具体的な内容は、己に己自身を与える自己贈与という形で、存在が具体的に置かれる場所となることができるのか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十)

2014-07-05 00:00:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(5)

 昨日までの三日間、一日一つずつ見てきた世界の現われの三つの特質 ― 絶対的外在性・全体的無関心・根源的貧しさ ― は、明らかに、ミッシェル・アンリが内在と超越との間に見ている断絶を前提とし、そこから導き出されている。アンリにおいて、内在は、一切の世界の現われに先立って私たちの自己に与えられており、超越は、根源的な内在においてしか己を己として感じることができない私たちの自己には、それに至る途は完全に絶たれている。
 私たちは、ここで、アンリによって主張されるこの内在と超越との間の断絶に関して、次のような批判をアンリに向けなくてはならない。アンリの主張において、世界の現われの無力さは、そこに現実的に現われるものを直接の原因とするものではなく、世界の現われに固有な現実性を予め剥奪するという、世界の現われの外から何らの根拠づけもなしに課された前提から導き出されている。しかしながら、内在と超越とのこのような断絶の絶対性を主張するかぎり、まさにそれゆえにこそ、世界の現われについての基本的認識、つまり、〈現われ〉のそれ自身への現われの内在性において感受される確実性と同じだけの実効性を有った確実性を有ってこの断絶に根拠を与える認識が必要とされるはずである。たとえ生命の王国から世界の現われを追放するためだけであったとしても、その世界の現われを生命との対比においてそれとして確実性を有って識別することができなくてはならないはずである。さもなければ、それこそ生命の本質から程遠い、硬直化した教条的な言説に陥る他はないであろう。
 世界の現われそのものにおいての外、いったいどこで私たちは世界の現われの確実性をいささかでも感受することができるのだろうか。もし世界の現われが己自身をそれとして受け入れるということが私たちの自己において可能でないならば、世界の現われの構造をそれ自体において分析することがいかにしてできるのであろうか。












生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十九)

2014-07-04 01:00:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(4)

 世界の現われの第三の特質は、次のように規定される。自己外在化として展開される世界の現われにおいては、何ものによってもそれ自身から引き離されることの決してない超越的生命のようなものが原理的に不可能になる(voir Incarnation, op. cit., p. 120)。この世界の現われがその自己差異化の内で中立的な明るみの中に現われさせるものへの無関心は、それに本質的に内含されたより根本的な「貧しさ」をよく隠し果せない。世界の現われは、それが現われさせるものに対して無関心であるばかりでなく、それに対して実在性を与えることもできない。この世界の現われにおいて見られる、己の内に現われるものに対しての為すすべのない無力さが、その無関心の理由であろう。世界の現われの無関心や中立性とは、ここで、その無力さの表現である。世界を純粋な現われというその現象学的に本源的な意味において最初に考えた哲学者であるハイデガーは、この世界の無関心や無力さ(すべてが無関係になる不安)を見逃しはしなかった。世界の〈現われ〉つまり〈開き示しめすこと〉は、覆いを取り除き、顕にし、開けをもたらす。しかし、何も創りはしない(voir ibid.)。かくして、己自身で現実性を措定できない世界の現われの存在論的な貧しさが顕となる。