内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『文化としての経済』

2015-01-21 01:05:01 | 読游摘録

 二〇〇一年に出版された『文化としての経済』(山川出版社)は、国際交流基金の機関誌『国際交流』(季刊)第八三号(一九九九年四月一日発行)の特集「文化としての経済」を書籍として再編集したものである。
 その「はじめに」には、「«人間中心の経済 »を取り戻すために」という副題が付けられている。

 いうまでもないことだが、「グローバル・スタンダード」は、「ユニバーサル・スタンダード」と取り違えられてはならない。「グローバル」(地球を覆う)は、現実の力関係の結果だが、「ユニバーサル」(普遍的)は人間の価値観に関わるものだ。「グローバル」な力によって、「ローカル」(地方的)に追いやられたもののなかに、そこに生きる人たちが世代から世代へと培ってきた「パティキュラー」(特殊)な価値観があり、それは、「グローバル」なものに対して弱小な「ローカル」なものだからという理由で、切り捨てられるべきではない。行き詰まった人類のこれからにとっての、真に「ユニバーサル」な価値観を模索するために、積極的に再考され、再評価されるべきなのだ(ⅱ頁)。

 現実的に「グローバル」なものに「ローカル」なものが力で対抗しようとしても、たちどころに押し潰されるか、仮に対抗可能な勢力を形成し得たとしても、そこに生じるのは覇権争いであり、その結果の如何にかかわらず、「ユニバーサル」なものは忘却されたままだろう。「ユニバーサル」なものは、「ローカル」なのものにおいて、「ローカル」なものを超える価値として志向されるかぎりにおいて、「ローカル」なもの同士の間で共有可能になるのではないだろうか。

 人間が自然と共生しながら、皆でできるだけ幸せに生きるために経済行為があるのではなく、経済原則、より正確には市場原理に奉仕するために、人間があくせく生きている、もしくは死にかけている、そして人間と自然の関係も、いたるところでバランスを崩しつつある現在の世界。「はたらく」ということ「ものをつくる」ということの、単なる経済行為ではない原初的な意味を問い直してみること、そして経済行為自体をもう一度、人間が生きる営みの総体のなかに置いてみること――それも近代資本主義経済の枠をはずした、古来の交換とか贈与とか、メセナとか、統計資料では把握できないが多くの社会で根源的重要性をもっている「インフォーマル・セクター」も含めた、時間的にも空間的にも人類的視野で――が、いまほど求められているときもないといえるのではないだろうか(ⅲ-ⅳ頁)。

 近代社会の枠組みを超えた、より本源的に人間的な行為としての交換あるいは贈与を性格づけているのは、〈共約不可能なもの〉〈過剰なもの〉〈インフォーマルなもの〉が個人間、共同体間、地域間でやりとりされること、そのことから生まれる無償の「喜び」ではないだろうか。












『文化の未来』

2015-01-20 03:31:38 | 読游摘録

 K先生が日本から送ってくださった編著の残りの四冊を出版年順に列挙すると、『文化の未来』(未来社、一九九七年)、『文化としての経済』(山川出版社、二〇〇一年)、『近親性交とそのタブー』(藤原書店、二〇〇一年)、『響き合う異次元 音・図像・身体』(平凡社、二〇一〇年)となる。今日の記事では、「開発と地球化のなかで考える」という副題が付いた『文化の未来』を紹介する。
 同書の「編者あとがき」から、この本が一九七七年三月十五、十六日に東京浜離宮朝日小ホールでおこなわれた東京外国語大学主催の公開シンポジウムの記録だとわかる。本にするにあたって、一般参加者からの質問への答えも含めて、パネリストたちが加筆している。
 二十一世紀における文化の問題性がさまざまな角度から論じられているが、K先生による冒頭の問題提起の中の「文化の政治性・暴力性」と題された一節を引用する。

 文化というものが、現代の私たちにとって問題になるのも、文化が決して平等に平和に共存しているからではなく、政治・経済を背景にした、多くの場合強弱の不均衡な力関係の中にあるからだ。人間が生きる営みの総体としては、文化はその多くが、とりたてて意識されずに生きられるはずのものだ。しかし文化のある面が、言語や宗教における抑圧や差別によって起るように、意識化され、問題化されざるをえない場合もあり、また、政治・経済上の不平等や差別に対して異議申立てをするときの自己主張のよりどころとして、文化がことさら純化された形で、「失われた美しい伝統」として、意識化されもする。民族という旗印に名をかりた運動で、文化があたかも一定の集団に固有の実体として、他の文化からは境界をひいて区別されうるものとしてあるような主張がなされるのも、こうした場合であるといえる。
 文化が、個人によって、それも一貫性なしに担われているとすると、個人の集合である社会、それ自体人間の生きる営みである文化の一部でありながら、文化が伝達され、生きられ、作られる「場」でもある社会の中で、文化は、当事者たちによっては規範として意識化されうる志向性の束として、外からの観察者にとっては、当事者たちの行動や、彼らが規範として語ることの全体の中に認められる傾向性として、それぞれあるといえるだろう。いずれにしても、それは他の文化との間にはっきりとした境界をもった、一定の人間集団に固有のものとしては決められないものだ(11-12頁)。

 現在の世界情勢の中では、宗教の政治性・暴力性がとりわけ問題にされうるだろう。広い意味での文化の一部として一つの宗教を、それが信仰として認められている社会の中に位置づけ、そこで民族・国家・地域などの概念とどのように関係づけられているかを、一方では当事者として、他方では外からの観察者として、二重の観点から意識化し考察することで相対化し、あらゆる意味での狂信から己を解放することができるかどうか。これが現在私たちに課された課題の一つであると思われる。










未開・地域・開発

2015-01-19 05:35:23 | 読游摘録

 今日の記事のタイトルに掲げた三つの言葉は、K先生が編著者として、あるいは企画委員として関わった三つのシリーズの中にそれぞれ含まれているキーワードである。
 『「未開」概念の再検討』(リブロポート、I-一九八九年、Ⅱ-一九九一年)。K先生が編者であるこの共同研究に参加されている研究者たちは実に多士済々、収められたそれぞれに刺激的な諸論考には、発表時の口語の息吹がよく残っている。しかも、それぞれの発表には、幾人かのコメンテーターからの率直な疑問や反論も付されていて、読んでいるだけでもその時の空気が感じられ、まるでそこに聴衆として参加しているような臨場感さえある。テーマとされた「未開」概念の多角的再検討が世界像の見直しを迫る。
 『地域の世界史』(山川出版社、全十二巻、K先生は企画委員の一人)のうちの第一巻『地域史とは何か』(一九九七年)と第三巻『地域の成り立ち』(二〇〇〇年)で、K先生は、それぞれの巻において、「文化と地域―歴史研究の新しい視座を求めて」、「交易圏としてのアフリカ」という論考を寄稿されている。
 同企画全体の趣旨は、現在の世界を考える上で、今もなお有効な観点を提起している。

 新しい世紀を迎えようとする今、世界各地では地域・民族紛争が相次ぎ、他方、ヨーロッパ共同体、環太平洋経済圏構想のように、地域と国家のこれまでのあり方を変えようとする努力も見られる。それは、19世紀以来各民族の熱望の的であった「国民国家」が、その矛盾を露呈させつつあることを示している。
 本シリーズは国家の視点ではなく、地域の視点から歴史全体を見直そうとする試みであり、「地域」の概念それ自体の再検討から出発するところに特色がある。地域は、東アジア、ヨーロッパ、などという形で、歴史を通して不変にあったのではなく、人々の営みや相互の交流によっていろいろにつくりかえられてきた。そのような地域の実態をさまざまな視点からとらえなおし、そこに現れた「地域」で世界史を読み解こうするものである。

 『岩波講座 開発と文化』(岩波書店、全七巻、K先生は編集委員の一人)のうち、先生がお送りくださったのは、第一巻『いま、なぜ「開発と文化」なのか』(一九九七年)と第三巻『反開発の思想』(一九九七年)。同講座の「編集にあたって」の最初の二段落を引用する。

 冷戦終結後、現代世界には歴史的な大変動が起きています。それは、市場経済のグローバルな広がりを深めただけでなく、高度に情報化された消費社会を世界各地に出現させました。その一方で、人類は資源環境問題や民族問題の深刻な挑戦に直面しています。
 人類は、その誕生このかた、環境を改変しながら存続してきました。それを広く開発と呼ぶとすれば、人類の歴史は開発と不可分の関係にあったといってよいでしょう。しかし、近代以後の開発は、人間と社会の豊かさをめざしながら、植民地主義、政治独裁、環境破壊といった負の側面もあわせ持っていました。第二次世界大戦後、植民地帝国の崩壊、第三世界の形成、冷戦の進展にともなって、開発はいっそう重要な課題となりましたが、地域間に存在する発展の不均衡はいっこうに改善されず、グローバル化する世界の中で、いま私たちに大きな問題を投げかけています。

 「開発」という概念をその最も一般的かつ基本的な意味で用いることによって、人類と環境との関係をグローバル化する世界の問題として捉え直す観点が提示されている。
 私自身は、身体・道具・技術・環境・自然という諸概念が交叉する場面で、それらの新しい分節化の原理という観点からこの問題を考えたいと思っている。












『ヨーロッパの基層文化』

2015-01-18 05:54:40 | 読游摘録

 人類学者K先生の編著『ヨーロッパの基層文化』(岩波書店、四〇八頁)は、一九九五年に出版された。文化人類学、歴史学、美術史、文学、言語学等の分野でのヨーロッパ研究者十七名が、平成三年(一九九一年)度から四年間、『ヨーロッパの基層文化の研究』というテーマで行った共同研究の成果をまとめたものである。
 この共同研究の初発の問題意識は、K先生が執筆された「あとがき」に明瞭に表明されている。

 ヨーロッパのように、その達成した「近代文明」が広く世界に影響を与えた地域を対象とするとき、非ヨーロッパの研究者が自己の文化との関係および両者の距離についての自覚に立って研究することは、単に異文化の視点からする文化研究という以上の意味を帯びてくるだろう。日本は、ヨーロッパ近代を受け入れる前にそれなりに成熟した社会組織や技術や芸術をもち、近代ヨーロッパから主体的、選択的に学びとった結果、ヨーロッパ渡来のさまざまな文化の側面においてもヨーロッパを凌ぐ成果をあげるようになった。この意味で非ヨーロッパ世界で類例のない日本の視点からヨーロッパを対象化することは、世界史の中でのヨーロッパ近代を位置づけ直すためにも大きな意味がある。それはまた、日本の近代自体を、ヨーロッパを参照点として醒めた目で再検討することにも通じる。
 [中略]だがこのようにして日本が吸収してきた「うわずみ文化」が当のヨーロッパで成立した基盤を問い、同時に、世界に強い衝撃を与えた「近代文明」が、なぜ他の地域ではなくヨーロッパで形成されたのかを問うことが、「近代」の超克を字義通りラディカル(根源的)に考えるために必要ではないかを思われる。この共同研究がヨーロッパの「基層」文化をあえて問題にしたのも、そのような観点からである。従ってこの共同研究で検討しようとする「基層」文化とは、民族文化や民衆文化だけではなく、それらも含みながら、芸術や技術における傑出した個人の仕事や、王侯貴族の文化のうちにも、それを支えるものとして見出されるはずの文化だ。そのような「基層」の発見のためにも、巨視的な比較の視野 ―― この共同研究の場合とくに日本との比較 ―― が不可欠であると思われた(401-402頁)。

 やはりK先生による、四十頁を超える序「ヨーロッパ、近代、基層文化」の後、十五の論考が四部に分けて配列されており、それぞれ「ヨーロッパを位置づける」「ヨーロッパ基層文化の原理を探る」「異文化・周辺文化からヨーロッパを見る」「社会的結合の諸相」と題され、締めくくりの第五部として、K先生と二人の共同研究者による討議記録が「近代と基層への問いかけ」という題の下に収録されている。
 その「序」は、一九八〇年代にK先生が逗留したフランスの旧オルレアン地方の宏壮な邸地での想い出から始まる。その邸地の所有者はスウェーデンの名家で、その一族の中の婚姻関係によって、同家は、戦後フランスの現象学者として著名だったモーリス・メルロ=ポンティの一族とも姻戚関係にある。前者からは外交官や宗教家、後者からは学者や芸術家が輩出しており、逗留中、両家の若い作曲家、哲学者、数学者と、「知的刺激に満ちた会話を楽しんだ」と記されている。
 この想い出から、〈ヨーロッパ的なもの〉についての次のような考察が引き出される。

ヨーロッパに来ると、一人の人間の生物体としての存在自体が、異質な集団のあいだの、幾世代にもわたるはげしい交渉の結果としてあるということを感じさせられる。無論ヨーロッパでも、農村では人間の交流範囲は狭く、閉鎖的だ。世界のどの地域の社会でも、一般に社会階層が上になれば、人の交流と通婚の範囲も広くなる。とくに王族や、研究のため(そしてときに宗教上、政治上の迫害を逃れるために)遠くまで旅をした知識人は、交流と通婚の範囲が広かったといえるだろう。その際ヨーロッパに特徴的なことは、異質なものの間の比較的狭い地理的範囲内での交換と融合が、知識においても遺伝子においても、二者間ではなく多者間で、古くから広汎に行われたということだ。このことは、ヨーロッパ各地の人間が数世代にわたって融合した結果として、さまざまな分野の学者や芸術家が現にある、このモンタルジの別荘のような場に身をおいて、そこにいる人たちと言葉を交わしてみると、「ヨーロッパ的」なこととして、改めて感じられる。異質だが断絶ではない複数のものの間の対等な交わり、その中で醸成された普遍志向 ―― それは「近代」を形成し、世界進出を果たしたヨーロッパの、豊かさと力の根底にあったといえるだろう(5頁)。

 上の引用の終りの方に出てくる「異質だが断絶ではない複数のものの間の対等な交わり、その中で醸成された普遍志向」が〈ヨーロッパ的なるもの〉の本質であるとすれば、今日のヨーロッパがなおその本質に忠実であろうとするかぎり、複数の異質なものへと己を開き続けることが必然的に要請されるはずである。ところが、私たちが目の当たりにしている今のヨーロッパ社会は、まさにその逆の方向に進もうとしているように見える。それは近代社会の「普遍的」モデルを構築した一つの文明の自殺行為だとさえ言えるのではないだろうか。
 もし日本が国際社会で、単に欧米諸国に対してだけでなく、アジアにおいて、そして第三世界にも開かれた己の立場を確立することができるとすれば、それは、いかなる意味でもナショナリズムによってではなく、非ヨーロッパにおける〈ヨーロッパ的なもの〉のモデル、いわば「脱欧入〈欧〉」のモデルを構築することによってではないだろうか。












『民族とは何か』

2015-01-17 09:48:14 | 読游摘録

 人類学者のK先生が日本から送ってくださった本はすべて、先生も発表者として参加された昨年秋のアルザスでの国際シンポジウムでの私の発表内容に直接的あるいは間接的に関わるテーマを扱ったもので、具体的に言えば、地域・民族・国家・共同体等をその主たる問題としている。
 五冊の単著が二〇〇四年以降に刊行された比較的最近の著作であるのに対して、十二冊の編著の中で最も刊行年が古いものは、一九八八年の『民族とは何か』(岩波書店)である。この編著の緒言は、先生ご自身がお書きになっていて、そのタイトルは、「いまなぜまた民族を問題にするのか」。まさに今現在また問い直されなければならない問いの一つであり、それがこうして私自身にもつきつけられたかのような不思議な暗合を感じる。
 同書は、各分野の一流の研究者たちがそれぞれの問題意識に基づいて自由に議論を展開した十四の論考が、第Ⅰ部「民族への視点」・第Ⅱ部「民族の生成と動態」・第Ⅲ部「国民国家と民族」の三部に分けて配列され、巻末には、十四名の執筆者・共同研究者にさらに若い世代の第一線研究者三人が加わった総合討論が収録されている。この討論記録も三部に分かれ、それぞれ「民族はいかなる意味で共同体か」「民族と国家」「現代世界におけるエスニシティ」と題されている。丸一日かけて行われたというこの討論の記録は、膨大な量にのぼり、編者二人がそれを全体の三分の一に短縮せざるを得なかったと「緒言」に断ってある。
 緒言の第一段落には、「これまで「民族とは何か」という問いを、関連する学問領域の研究者が共同で、まともに取上げようとしたことは一度もなかった。私たちの共同研究は、確たる見通しももてないままに、ただ「民族」の正体をつきとめたいという共通の熱意に支えられて実現した、そのような学際的な試みの一つであり、この論集はその模索の跡の文字化である」(2頁)と同書の初発の動機が明示されているが、その出版から四半世紀以上の時が経った現在から見れば、研究状況には大きな展開があったとはいえ、「民族とは何か」という問いは、今日もなお、もはや解決済みの問題であるどころか、ますます「まがまがしい響きをやどしたことば」(同頁)になっていることは、先週一月七日にパリで発生したテロのことを思っただけでも認めざるをえないのではないであろうか。
 テロ発生後、政治家たちによって、あるいは市民の間でも、「表現の自由」とともに「民族の多様性」が脅かされていると叫ばれていたが、一体何をもって「多様性」とするのか、と日本でのテレビ報道を見ながら私は独り呟いていた。「民族」そのものが同定可能な実体ではなく、時代とともに変化する可塑的な概念でしかないとすれば、その「多様性」を叫ぶ人たち自身の多くが、実は自分が何を言っているのかよくわかっていないのに、「何か自分たちの大切にしてきたはずのものが脅かされている」という不安を吐露しているに過ぎないというのが私の偽らざる感想である。
 自分たちの文化の中で発生したローカルな価値を、「普遍的なもの」として、暴力・武力・権力を振り回して押し付けておきながら、そして、それが脅かされれば「正当化された」暴力で「敵」を脅かし鎮圧しようと無益な犠牲者を繰り返し生み出しておきながら、文化的価値の「多様性」を訴えるという近代に固有の病的な偽善性を欧米人たちが自覚し、それを徹底的に自己批判しない限り、同様なテロは決してなくならないであろう。
 そして、その欧米の驥尾に付すかぎり、あるいは、「ポストモダン」の賞味期限が切れた後に、「ポストコロニアル」などと呪文のように唱えて得意になっている限り、日本の未来もかぎりなく暗い。








冬の長雨の中、午後の休息

2015-01-16 13:50:31 | 雑感

 十二日夜に帰国してから、その翌々日の一昨日が後期最初の講義「中古文学史」、昨日が教員会議、そして今日金曜日午前中が「近世文学史」と、息つく日まもなく、しかも時差ぼけで、午後に抗いがたい睡魔に襲われ、そのまま寝てしまって、午前零時前後に目が覚め、そこから寝ずに朝まで講義の準備を続けていたので、少ししんどかったが、この週末は何の予定もなく、休息が取れそうで、ホッとしている。今日の午後半日だけは、ただただ、ぼんやりしていたい。
朝から小雨が音もなく降っていて、それが一層辺りを静まり返らせている。枯れ葉が落ち尽くしてむき出しになった枝のみが重なり合っている樹々の向こう側の灰色の空を眺めながら、この記事を書いている。
 水曜日の最初の講義の前に、教務事務に届いていた、人類学者のK先生が年末に日本から送ってくださった本を取りに行った。合計十八冊、その中には函入りの立派な装丁の本も何冊か含まれていて、その量と重さに驚いた。それらの本の内訳は、先生ご自身の単著が五冊、編著が十二冊、訳書が一冊であった。この三日間、それらを拾い読みしながら、先生がこれまで積み重ねてこられた業績の大きさ、広さ、そして深さに圧倒される思いである。
 単著の中では、西アフリカ・フランス・日本での数十年に及ぶフィールドワークの経験と観察に裏打ちされた「文化の三角測量」という方法の適用とその成果を基礎に据えながら、先生ご自身の思想が人類学の枠を超えて様々のテーマを巡って縦横に展開されている。編著には、それぞれの分野で一流の多彩な執筆陣が並んでおり、先生がきわめて優れた共同研究企画者でもあることがそこからわかる。これらの本を一通り読むだけでも、どれだけ多くのことが学べることかと、ワクワクしている。
 明日から、それらの本の中の何冊かを紹介しつつ、それらとの対話を通じて、私自身の考えも述べていきたい。







自己認識の方法としての異文化理解(八)

2015-01-15 02:56:32 | 随想

 自文化の起源・源泉は、必ずしもその文化そのもののうちにはない。そのすべてではないにしても、自文化の主要な構成要素のうちには、それらの起源が異文化のうちに見いだされるものも少なくない。この特徴は、日本文化について特によく当てはまる。現代日本の文化の中に西洋文化に由来する要素があることは言うまでもないとして、より一般的に、日本文化を構成する諸要素の起源にまで遡れば、それらのほとんどが日本の外部に由来する要素であるとさえ言えるであろう。
 そもそも、自文化から「外なるもの」を排除し、「内なるもの」だけでそれを規定しようとすること自体が方法的に妥当性を欠いているのであろう。起源が己の外部にあるものを「外来」とし、それが元々己の内に見出しうるとされるものを「土着」とする二分法自体が、自文化および異文化の理解を妨げる最大の障害になりかねない。

抑々、日本思想における外来性・土着性とは何か。仏教的・儒教的、云々的という仕方で外来性を述べたてていくとき、土着的・固有的なものとして一体何が 残り得るであろうか。なるほど、神話的・民俗的な"固有思想"や"皇室中心主義的思想"の如き幾つかのモメントが残るかもしれない。しかし、思想史的にみて、また比較文化論的にみて、真に「日本的」と形容されるに価するものは、果たしてそのような"土着的"なモメントであろうか? 鎌倉時代以降の「日本仏教」や江戸時代後半の「日本儒教」のごときは、優れて「日本的な」思想形象ではないのか? なるほど、それらは「仏教」であり、「儒教」であるというかぎりでは外来的かもしれない。しかし、そのように言うとき、西洋文化なるものも、宗教にせよ学問にせよ、西洋諸国自身にとっての外来文化、すなわちヘブライ・ギリシャ的な外来 文化と称せざるを得なくなるであろう。認定の基準を余程明確にしつつ思想的内実を詳らかに検討することなくして、安直に外来的か固有的かと劃することは、思想史的分析や思想的討究においては百害あって一益もない。
(廣松渉『〈近代の超克〉論 昭和思想史へ一視角』講談社学術文庫、1989年p. 212-214)

 この廣松渉の指摘は現在もなおその妥当性を失っていない。「自己に固有なもの」をいたずらに賞揚する自文化中心主義も、外来文化の優越性を手放しに強調する自虐的文化観も、「外来的か固有的か」という非生産的な二元論に陥っているという点においてなんら違いはない。
 それに、そもそも、なぜ、「自己に固有なもの」は「外から来る他なるもの」よりも己にとってより価値があると言えるのであろうか。この問題については、二〇一三年八月九日の記事「外なる源泉への回帰 ― ヨーロッパ文化の起源」の中で論じられているので、そちらを参照されたい。
 自文化の遙かなる外なる源泉への回帰は、異文化ならびに自文化を理解しようとする者を自ずと謙虚にする。と同時に、その源泉は「己に固有なもの」ではなく他者に対しても開かれたものであるがゆえに、その源泉を介して、自己と他者との間に共通理解の場所が開かれうる。そこにおいてはじめて成立する自己認識は、自己変容をもたらさずにはおかないであろう。異文化と自文化との間に開かれる、共通の外なる源泉についての相互理解を通じて、私たちは自己の可塑性を自覚することができるようになるだろう。


自己認識の方法としての異文化理解(七)

2015-01-14 06:32:42 | 随想

 異文化理解が自己認識の方法であるための手続きの一つとして、歴史の中に自分を「書き込む」という作業が要請される。この作業は、対象である異文化に対する自文化の時空の隔たりを自覚的に計測し、己の立ち位置を両文化との関係において限定することからなる。この自覚的限定作業を経てはじめて、異文化は、単に知的に理解されて終わる対象としてではなく、その構成要素が、歴史の中の現在において、己の立つ場所で、批判的に摂取・継承・展開させうるものとして受容される。
 したがって、歴史の中のこの自覚的限定作業は、それを行うものに自己変容をもたらさずにおかない。なぜなら、この作業を通じて、異文化の構成要素は、たとえそのごく一部であれ、自文化との時空の隔たりを超えて、歴史的関係性を有するものとして己に開かれ、時間的持続性の中で己において生きられるものとなるからである。
 この「歴史の中に自分を書き込む」という作業については、二〇一三年八月十七日十八日の記事でさらに詳しく述べているので、そちらを参照されたい。


自己認識の方法としての異文化理解(六)

2015-01-13 13:18:32 | 随想

 異文化の理解の仕方は、様々でありうる。しかし、それらを自明性の相対化を介した自己認識の方法として自覚的に実行するためには、それらを類型化しておくことも無駄ではないであろう。ここでは三つの類型を提示する。
 第一類型と第二類型とについては、このブログでも度々取り上げている Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge を参照しつつ述べる。
 西欧中世における理解の二つのスタイルは、〈言い換え(paraphrase)〉と〈注釈(commentaire)〉である。理解の対象となっている文化事象を読解すべきテキストと捉えるならば、前者は、原テキストの表現形式を自文化の表現形式に変換することであり、後者は、原テキストはそのまま尊重し、それを理解するために必要な注意・解説・情報を加えることである。前者は、異文化を自文化の中に〈消化・同化・統合〉する過程に対応し、後者は、異文化と自文化とを交わらせず、異文化をそれとして〈封入・保存・隔離〉する過程に対応する。
 両者の間に見出しうる第三の異文化理解の方法が〈受容(réception)〉である。外なるもの・異なるもの・未知なるものを、受け入れ、用い、それらに対して己の身を位置づけ、それらとの関係において働く。この理解の方法としての〈受容〉の三つの構成要素は、他なるものの尊重・自己の固有性と限界の自覚・受け入れ方の柔軟性と可塑性である。
 異文化理解の方法のこれら三つの類型については、すでに二〇一三年八月七日八日の記事で取り上げて、かなり詳しく論じているのでそちらを参照されたい。













搭乗便を待ちながら

2015-01-12 08:49:00 | 雑感

 早朝、妹夫婦に渋谷まで車で送ってもらって、そこから羽田空港行のリムジンバスに乗った。七時前だったこともあり、首都高もよく流れていて、僅か三十分程で国際線ターミナルに着いた。先程搭乗手続きを終え、荷物も預け、搭乗ゲート前で十時五十分の出発を待っているところである。
 滞在中は、母の病床の側でその生涯の最後の五日間を一緒に過ごせたことは、本当に幸いなことだった。そして、その死の前後に、母を見舞いに来てくださった方々、お別れを言いに来てくださった方々と親しく話す時間を恵まれたことは、私にとって掛け替えのない心の宝となっている。それらすべての方々に言葉に尽くせない感謝の気持ちを抱いている。
 八時間の時差のお陰で、同日十二日夜にはストラスブールに帰りつける。翌日からは、待ったなしで仕事が始まる。