悪夢であってほしいと祈った日から10日が経ちました。
今も被災地の状況は目を覆うばかりで、現実に起こった悲劇は、どんなドラマよりも悲しみが深く、涙が溢れてならなかった。
家や家族を失った人たちの悲しみを察すると、本当に胸が締め付けら、被害の甚大さに言葉を失うばかりだ。
未だに、数十万人の人たちが、余震や放射能などの不安の中で過酷な避難所生活を過ごされ、1万人を超す人たちの行方が判らない。
ありきたりの言葉しか見当たらないが、被災者の方々が一日も早く平穏な暮らしを取り戻し、一人でも多くの方々が無事に救出されることを願うばかりだ。
1週間ぶりに、「飛騨の山里便り」を再開することにしました。
しばらく名古屋で過ごしていたが、街の様子も人の動きも表面的にはいつもと変わりはなく平穏に流れていることが、被災された方々に申し訳なく思えてならなかった。
多少の変化もあって、近所のスーパーで山積みされているはずのインスタント食品や飲料水、米、電池などの棚が空になっていたり、一人当たりの個数制限の掲示がされていた。
アウトドアショップも、山食や非常食の在庫が切れ、携帯用のコンロやランタン、ストーブ、ヘッドランプなども同じように無くなっていた。
業者が被災地へ優先的に出荷したり、被災家族へ送るための品切れであれば我慢しなければならないが、一時の不安解消の過剰反応であれば、困っている人たちを一層苦しめることになる。
名古屋のホテルは、海外から来る客のキャンセルが相次ぐ一方で、首都圏からの大口や長期滞在の予約が集中していると報じていた。
原発事故の影響で、外資系企業を中心に一時的に安全な場所に移して仕事をする構えとのことだ。
これも過剰反応の一つだと思うが、一人だけ生き残って、何をしようというのだろうか。
高山は観光客が激減して、宿泊施設や観光スポットは閑散としているが、町のスーパーはいつものように商品は並んでいるし、ガソリンスタンドに行列が出来ることは無い。
被災者家族が伝を求めて、市営住宅や市有施設、親戚などを頼って避難して来る人が相次いでいる。
自治体の被災者支援活動が進んでいることはとても心強い。
海外メディアは、被災者がお互いに助け合って整然と行動している姿や、幼児やお年寄りを労わる様子を驚きの目で報じている。
過酷な状況下にも拘らず、略奪とか支援物資の奪い合いや、列を乱すことも無く、じっと順番を待つ姿に感銘したとも伝えていた。
テレビのインタビューに答える被災者も、異口同音に感謝の気持ちを述べながらの支援のお願いや、もっと気の毒な人もいるので贅沢は云えないと、言う人たちの健気な姿は涙を誘う。
その一方で、石原慎太郎の我欲・天罰発言は、礼儀正しく心の美しい人たちを、どれほど傷つけたことだろう。
この驕りの発言は、震災に便乗した悪質商法や、善意を装った義捐金の振り込め詐欺と同じ罪に価する。
昼夜を問わず決死の救援活動に携わる人たちや、苦難にじっと耐える人たちがいる中で、このように心卑しい人間の存在が恥ずかしくてならない。
また、政府や役所、消防、警察、自衛隊、東電など、不眠不休で復旧や救援活動に携わる人たちの姿にも感動した。
レスキュー隊の奥さんからのメールで、「救世主になってください」に思わず涙したが、陰で支えている人たちが居ることも忘れてはならないと思う。
対応の遅れや不手際を非難する人もいるが、平穏な茶の間に居て批判をすることは出来ない。
東北関東大震災に関して思うことは多々あるが、今は非常時であることをわきまえて、復旧に取り組む人たちに心からのお礼と感謝の気持ちを送り、被災された人たちに精一杯の応援を続けたいと思う。