困ったときは昔の力士を思い出す、いつもの私のパターンで、元大関貴ノ浪(故人)の記憶です。貴ノ浪は青森県三沢市の出身で、普通の力士には「努力すれば強くなるよ」という藤島親方(元大関貴ノ花)が、思わず「努力すれば」を抜いてしまったというエピソードがあります。
貴ノ浪がいた頃の藤島部屋は、一学年上に元横綱若乃花、一学年下に元横綱貴乃花、兄弟子には安芸乃島や貴闘力がいた、活気のある部屋でした。当時の藤島部屋は「仕切り一回待ったなし」で稽古の番数を増やしており、一日100番などの稽古量もざらでした。当時の藤島親方が「もっと稽古量を抑えろ」と異例の指示を送ったほどです。
貴ノ浪の四股名は、本名の浪岡から取っていますが、この名前になったタイミングに妙がありました。幕下から十両に昇進するときに、成績的に昇進を意識しておらずラッキーな昇進だったので、とりあえず四股名を用意したのが「貴ノ浪」でした。三役に昇進すれば変えるつもりだったかもしれませんが、結果的にこの急造四股名が大関の名前になりました。
相撲ぶりは長い手足を生かして、はりま投げや河津掛けなど大型力士でなければできない勝ち方ができる力士でした。意外にも小兵をさばくのはうまく、当時の小兵舞の海にはほとんど負けていない相性の良さを誇っています。相手に潜られるような不利な体勢からでも、力で少しずつ優位に持ってこられました。
貴ノ浪の記録に、当時の新記録だった武蔵丸との対戦回数の多さがありました。こんな記録が実現したのは、貴ノ浪と武蔵丸がほぼ同じ時期に入幕して、大関昇進も同じ時期で、必然的に何度も対戦したからです。貴ノ浪本人はこの記録のことを「勲章」と呼び、晩年大関を陥落した後も武蔵丸と対戦できる位置を守ろうと努力していました。のちに稀勢の里と琴奨菊が更新しましたが、当時の懐かしい記憶です。
引退後は年寄「音羽山」を襲名して、貴乃花部屋の部屋付き親方をしていました。元幼稚園の先生と結婚したという知らせも聞きました。今後の人生の幸せを願っていましたが、脳梗塞で倒れ、44歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。私の青春時代の関取衆が、この世を去るニュースは悲しいですが、また新しい力士が育ってくれることを期待して、これからも大相撲を見ることでしょう。
貴ノ浪がいた頃の藤島部屋は、一学年上に元横綱若乃花、一学年下に元横綱貴乃花、兄弟子には安芸乃島や貴闘力がいた、活気のある部屋でした。当時の藤島部屋は「仕切り一回待ったなし」で稽古の番数を増やしており、一日100番などの稽古量もざらでした。当時の藤島親方が「もっと稽古量を抑えろ」と異例の指示を送ったほどです。
貴ノ浪の四股名は、本名の浪岡から取っていますが、この名前になったタイミングに妙がありました。幕下から十両に昇進するときに、成績的に昇進を意識しておらずラッキーな昇進だったので、とりあえず四股名を用意したのが「貴ノ浪」でした。三役に昇進すれば変えるつもりだったかもしれませんが、結果的にこの急造四股名が大関の名前になりました。
相撲ぶりは長い手足を生かして、はりま投げや河津掛けなど大型力士でなければできない勝ち方ができる力士でした。意外にも小兵をさばくのはうまく、当時の小兵舞の海にはほとんど負けていない相性の良さを誇っています。相手に潜られるような不利な体勢からでも、力で少しずつ優位に持ってこられました。
貴ノ浪の記録に、当時の新記録だった武蔵丸との対戦回数の多さがありました。こんな記録が実現したのは、貴ノ浪と武蔵丸がほぼ同じ時期に入幕して、大関昇進も同じ時期で、必然的に何度も対戦したからです。貴ノ浪本人はこの記録のことを「勲章」と呼び、晩年大関を陥落した後も武蔵丸と対戦できる位置を守ろうと努力していました。のちに稀勢の里と琴奨菊が更新しましたが、当時の懐かしい記憶です。
引退後は年寄「音羽山」を襲名して、貴乃花部屋の部屋付き親方をしていました。元幼稚園の先生と結婚したという知らせも聞きました。今後の人生の幸せを願っていましたが、脳梗塞で倒れ、44歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。私の青春時代の関取衆が、この世を去るニュースは悲しいですが、また新しい力士が育ってくれることを期待して、これからも大相撲を見ることでしょう。
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