カメラを首からさげた女性
ファンタスティックロードから来
さざんかの花を撮り
さらに北上した
裸木を見ながら
鳥のさえずり
グレイの空
大きなコンクリート片を見ていると
パッと頭に浮かぶ言葉があった
閃きというかPopupともいうらしいのですけれど
『夏の遺跡』
という言葉が浮かんだ
何故
そのような言葉が浮かんだのかまったくわからない
今は夏ではないし
『夏の遺跡』という言葉は
博物館学者でありシンガーソングライターでもある
犬塚康博氏の楽曲の題の一つ
だからとて
最近
それを聞いたか
というとそうでもない
ただ
『夏の遺跡』という言葉が浮かんだ
動画でタモリが宮沢賢治について語るものを見た
『ブラタモリ』の
「何故花巻は宮沢賢治を生んだのか?」という
タイトルである
番組の最後で
タモリが言った
「何故宮沢賢治は文学の方に行ったのかね? 僕らは石とか見ても『あー凄いなあ』で終わってしまうんだけど、おそらく宮沢賢治っていう人は心に堆積していったんだろうね。だから文学の方に行ったんだと思う」
この発言にはドキッとした
そして『夏の遺跡』の作者犬塚康博氏は音楽が大好き
大好きというのは本物の音楽を愛している人の意
犬塚氏も賢治と同様
学者であると同時に文学の側
つまり考古学者としての遺跡が
タモリの言葉を真似れば
「心の遺跡となった」
それを歌にしてしまう
歌が歌詞が音が
それが文学の発生場所である
『遺跡』は学者なら『遺跡』でとどまっても良かったはずだ
ところが
『夏の』が加わり『夏の遺跡』となり
学術と文学が絡まる蔓の如く
螺旋を描いて天に向かう
『夏の遺跡』とは
そういう題である
コンクリート片を見て
『夏の遺跡』のャbプアップが起きたとほぼ同時に
何故
学者が文学に行くのかが同時に判った
それは宮沢賢治も犬塚康博氏も
音楽が大好き
二人とも演奏した歌った
という共通点に
気づいた
宮沢賢治はチェロを弾いたというし
蓄音機に頭を入れて
大音量でクラシックを聞いた
そして喜んだ
作曲作詞もしている
有名なのは
『星めぐりの歌』
あと
『花巻農学校精神歌』
それなら
音楽好きの学者はたくさんいるし
すべての学者が文学に行くとはいえない
と言われたら
確かにそうです
と
答えるしかない
ただ
その後
音楽が好きな文学者を何人も思い
文学的な音楽家がたくさんいることにも
思いをめぐらせることになった
たとえば
大江健三郎と武満徹
藤井貞和と高橋悠治
コンクリート片をあとにして
残った命題は
<文学と音楽>である
國文學(第35巻2号)に
文字通り
特集『音楽と文学』がある
平成2年だから
30年前の出版である
そこをとりあえず
テクストとする
命題は始まったばかりで
音楽と文学に
どのような連関があるのか
他とは違う
どこがどのように重なり
刺激しあうのか
DNAの二重螺旋の如く
複雑なものなのか
音楽も文学も
どちらも数学、科学のように
明確な答がない
そこに共鳴性が発生したのか
どちらも時間経過がある
ならば映画は総合件pとなるけれど
文学と音楽の命題から
映画という総合件pは
とりあえず横に置くべきだろう
しかし特別として
河瀬直美監督の『光』
という作品は
文学と音楽
言葉と音というものに
クリティックな構造を持たせた
極めて斬新な
世界が絶賛する映画であるから
横に置きつつ
チラ見するのが正しい
文学と音楽の原初だ
知りたいのは
言葉を書記する以前に
言葉は音であったとするには
あまりに安直に過ぎる
文学と音楽は
そのような凡庸なものではないはずだ
それだけは確かだ
文学と音楽
その源の
具体はどうなっているのか
いつか少しはわかるかもしれない
文学と音楽の
極めて親密な関係の
色めきが