夜
木に
白い
鳥
たくさん
とまっていた
ああやって
夜を過ごし
眠っているのだ
終日
くもり
冗談みたいに
天気予報を外し
天は雨を落とさず
「たいしたものだ」
とわたし
こころの中で
感謝しかない
この時期の雨は
冷たすぎて
夜になって
雨降る
川上未映子の動画を見る
こんなに優しい人だったかな
変わったんだろうな
あの尖りぐあいから
---
給食を持ち帰った先生が
相応の金額を返済し
退職したという
そんなニュースの詳細を見
わけのわからないコメンテーターが
退職は正しい
と言う
思い出すこと
小学生の時
非常勤で国語を教えていた先生がいた
坊主頭で
初老で
小柄で
にこにこしたひとだった
黒板の文字がとても上手で
お坊さんが本職だという
給食で飲み残した
あまった牛乳を
非常勤の時
週に一度か二度の時
持ち帰っている
という噂があった
わたしたちは
その先生が
牛乳を入れたカゴを持って
河原を歩いて
帰ってゆくのを見た
そして笑った
「牛乳泥棒!」
と大声を張り上げた
先生はこっちを見た
そしてわたしたちを見て
帰路に戻った
食べ物を持ち帰る=貧しい
その構図しか
なかった
幼稚に過ぎる過去
今になって
あの先生のことを思う
仏教の教えの中から
それはおそらく
当たり前の行為であり
食べるものを粗末にしてはいけない
もったいない
という思いからに違いない
先生のご家族が飲むのだと思う
あの頃は
賞味期限などあいまいで
牛乳が腐っているかどうかは
牛乳瓶の中の牛乳が
固形化しているか否か
飲んで変な味がするか否か
そう判断していた時代
どんな食品もそうだった
食品ロス
という言葉が好きじゃない
それは発展途上の国の人の前で
使える言葉ではない
以前
北野武は言った
「地球で三分の一が飢えて
死んでるつーのに
おいらなんて
映画なんか撮ってるんだもんなあ」
その意味がわかる
世界の北野武だ
常にそういうビジョンを持った上で
映画を撮っている
今回のニュースで
給食を持ち帰ることを
禁止したのは
食中毒を起こした過去からの
教え
そういう規則を作ったため
以前
寺に生れた友人が言った
「野菜で食べられないところはないよ、keizo」
その言葉も今
わたしの中で生きている
映画『いのちの食べかた』を見た
二度か三度
もしわたしが仮に
非常勤の先生になったとする
わたしも牛乳を持ち帰る
子供に馬鹿にされても
仏教徒でないけれど
世界に
食べられずに飢えて死んでゆく人たちが
地球上で三分の一以上いる現実を
想像すると
そうするだろう
実際
インドに20歳の時
友人とフリーで旅したことがある
日本にとって常識だったことが
インドでは常識ではない
食べるものがなく
カーストが24あり
路上生活者はエナメル線を拾って
わずかなお金にして
チャパティ(ピザ生地のようなもの)を
作り
その日
一日を生きのびる
膝から足がない子供
彼は台車に乗って
手で地面を押して
前に進む
切った膝の面と
お尻を
台車にのせて
何故
膝から下が
ないのか
爆撃にでもあったのか
と思った
違った
生れた時
親に切られた
両足を
それを見世物として
バクシシー(ヒンディー語・お金や食べ物を乞う意)
をもらう
家族が生きるためだ
日本に帰って
食べるものがある
それも豊富に
そのショックは長く尾を引いて
今に至る
五百円以上する飲みものは
飲みたくない
そう言った人がいる
何千円する食事は食べたくない
わたしは食べたくても
食べられないし
お金がありあまったとしても
おそらく
食べないし飲まない
食べられるという
こと
日本を始め
ものがありあまった
先進国は
いずれ
本当に食べられなくなる
虫を食べる食育は
すでに始まっていて
その時
豊かだった時を
ふりかえる
その時
わたしたちは
何を思うのだろう
「あの時は『食品ロス』なんて言葉が流行ったんだぜ」
なんて
言っているかもしれないね
古い文献を読むことで
未来が見える
そう
学者が言った
そうだろうと思う
日本が
さつまいもしか食べられなかった時の
話を聞いておくのは貴重だ
いざとなったら
作物できる知恵があれば
まったく違う
食べるものが
ある
という
こと
木に
白い
鳥
たくさん
とまっていた
ああやって
夜を過ごし
眠っているのだ
終日
くもり
冗談みたいに
天気予報を外し
天は雨を落とさず
「たいしたものだ」
とわたし
こころの中で
感謝しかない
この時期の雨は
冷たすぎて
夜になって
雨降る
川上未映子の動画を見る
こんなに優しい人だったかな
変わったんだろうな
あの尖りぐあいから
---
給食を持ち帰った先生が
相応の金額を返済し
退職したという
そんなニュースの詳細を見
わけのわからないコメンテーターが
退職は正しい
と言う
思い出すこと
小学生の時
非常勤で国語を教えていた先生がいた
坊主頭で
初老で
小柄で
にこにこしたひとだった
黒板の文字がとても上手で
お坊さんが本職だという
給食で飲み残した
あまった牛乳を
非常勤の時
週に一度か二度の時
持ち帰っている
という噂があった
わたしたちは
その先生が
牛乳を入れたカゴを持って
河原を歩いて
帰ってゆくのを見た
そして笑った
「牛乳泥棒!」
と大声を張り上げた
先生はこっちを見た
そしてわたしたちを見て
帰路に戻った
食べ物を持ち帰る=貧しい
その構図しか
なかった
幼稚に過ぎる過去
今になって
あの先生のことを思う
仏教の教えの中から
それはおそらく
当たり前の行為であり
食べるものを粗末にしてはいけない
もったいない
という思いからに違いない
先生のご家族が飲むのだと思う
あの頃は
賞味期限などあいまいで
牛乳が腐っているかどうかは
牛乳瓶の中の牛乳が
固形化しているか否か
飲んで変な味がするか否か
そう判断していた時代
どんな食品もそうだった
食品ロス
という言葉が好きじゃない
それは発展途上の国の人の前で
使える言葉ではない
以前
北野武は言った
「地球で三分の一が飢えて
死んでるつーのに
おいらなんて
映画なんか撮ってるんだもんなあ」
その意味がわかる
世界の北野武だ
常にそういうビジョンを持った上で
映画を撮っている
今回のニュースで
給食を持ち帰ることを
禁止したのは
食中毒を起こした過去からの
教え
そういう規則を作ったため
以前
寺に生れた友人が言った
「野菜で食べられないところはないよ、keizo」
その言葉も今
わたしの中で生きている
映画『いのちの食べかた』を見た
二度か三度
もしわたしが仮に
非常勤の先生になったとする
わたしも牛乳を持ち帰る
子供に馬鹿にされても
仏教徒でないけれど
世界に
食べられずに飢えて死んでゆく人たちが
地球上で三分の一以上いる現実を
想像すると
そうするだろう
実際
インドに20歳の時
友人とフリーで旅したことがある
日本にとって常識だったことが
インドでは常識ではない
食べるものがなく
カーストが24あり
路上生活者はエナメル線を拾って
わずかなお金にして
チャパティ(ピザ生地のようなもの)を
作り
その日
一日を生きのびる
膝から足がない子供
彼は台車に乗って
手で地面を押して
前に進む
切った膝の面と
お尻を
台車にのせて
何故
膝から下が
ないのか
爆撃にでもあったのか
と思った
違った
生れた時
親に切られた
両足を
それを見世物として
バクシシー(ヒンディー語・お金や食べ物を乞う意)
をもらう
家族が生きるためだ
日本に帰って
食べるものがある
それも豊富に
そのショックは長く尾を引いて
今に至る
五百円以上する飲みものは
飲みたくない
そう言った人がいる
何千円する食事は食べたくない
わたしは食べたくても
食べられないし
お金がありあまったとしても
おそらく
食べないし飲まない
食べられるという
こと
日本を始め
ものがありあまった
先進国は
いずれ
本当に食べられなくなる
虫を食べる食育は
すでに始まっていて
その時
豊かだった時を
ふりかえる
その時
わたしたちは
何を思うのだろう
「あの時は『食品ロス』なんて言葉が流行ったんだぜ」
なんて
言っているかもしれないね
古い文献を読むことで
未来が見える
そう
学者が言った
そうだろうと思う
日本が
さつまいもしか食べられなかった時の
話を聞いておくのは貴重だ
いざとなったら
作物できる知恵があれば
まったく違う
食べるものが
ある
という
こと