津軽という独特の地域だからこそ、生まれえたひとつの奇跡だと思う。
排他的であり、閉鎖的な土地柄が向かうパワーが時には爆発的な力に変化を起こし、作品として昇華する。
その典型が棟方志功という板画家だったのではないだろうか。
15年くらい前だったか。
渋谷のBunkamuraで棟方志功展があり、初めて作品を目の当たりしたボクは、衝撃を受けた。
土着の信仰のような、畏れ敬う不可侵の存在はまるでピンと張り詰めたような通奏低音のように、恐らく日本人の誰もが持っている、或いは刻印されているDNAのような精神性に語りかけてくる。
静かに、けれどそれは圧倒的に、訴えてくるのだ。
そうやって見る者は気づかされる。
我々が失ってきたものを。
浅虫温泉の名前は父と母から度々聞かされてきた。
もしかすると二人きりは、この温泉を訪れているのかもしれない。
本家が津軽にある父と岩手県の小さな町に生まれた母に育てられた自分は、雪深く耐え忍ぶ国の精神性を少しは理解しているつもりである。
だから、浅虫温泉の街を歩くと、どこか懐かしく、まるで母の庇護にあるような子どものように安心するのである。
浅虫温泉の椿館。
棟方志功ゆかりの宿らしい。
棟方志功らしき人のねぶたが出迎えてくれる。
歴史もあるらしく、落ち着いた宿である。
宿のロビーにはたくさんの棟方志功の作品で溢れかえっている。
美術館とは違って、ライティングなどの効果はなく、ある意味では無造作な展示ではあるが、それでも棟方の強大なパワーがロビー全体に溢れかえるようである。
その一角に喫茶コーナーがあって、ボクはコーヒーをいただいた。
どんなドリップで淹れたコーヒーかは分からないが、とにかくそんな事はいまは関係ない。
ある空間からある空間に移動することで、日常から非日常を経験することはひとつの旅である。
一方、時間という軸を利用して、歴史を遡り、一人の人間の仕事を窺い知ることも、また旅といえよう。
コーヒーをいただきながら、今ボクは、その両方の旅に出ている。
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