サリームの家はゲストハウスからそれほど遠くないところにあるらしく、徒歩にて我々は彼の家へ向かった。
街灯はなく、月明りだけの路地は寂しかった。人影はなく、時折、野良犬が歩いていく。
わたしの耳元で鳴っていたブザー音はもう収まっていたが、酩酊感はまだあった。
サリームとマルコも恐らく気分がよかったのだろう。マルコはカンツォーネを口笛で吹いていた。
前を歩いていたサリームが振り返ってボクに言った。
あまりにも唐突なことに、ボクは少し驚くふりをした。だが、サリームはお構いなしに話を始めた。
「熊猫、アジェイのクルマに乗ってやれよ。お前はだいぶお世話になったのだから」。
「アジェイ?」
「アジェイはお前を病院に連れて行ってくれたリキシャーワーラーだよ」。
そうか、すっかり忘れていた。
彼にはだいぶ世話になった。なにしろ、病院の行き帰りにオートリキシャーを出してもらい、その代金すらわたしは支払っていなかった。
「もちろん。明日にでも、タージマハルに連れていってもらおうかな」。
わたしは、ひとりごとのようにサリームに言った。
「ところで、サリーム」。
わたしは話題を変えて、サリームに話しかけた。
「わたしが君に貸したサングラスを返してくれないか」。
すると、サリームは言いにくそうなそぶりをみせながら、こう言った。
「あのな、熊猫。よく聞いてくれ。あのサングラスは猿に盗られた」。
そう聞いて、納得する日本人はどれだけいるだろうか。
「シリアス?」
「いや、ほんとなんだ。ごめん」
わたしはしばらく絶句した。
決して安くはなかったわたしのレイバンがよりによって、猿が盗っていったとは。もう少しましな嘘ならあきらめもついたかもしれない。もしかすると笑ってやり過ごす場面だったのかもしれない。だが、わたしはただただ沈黙した。もっとも、皮肉を込めた気の利いた英語が見つからなかったのである。
少し歩くと鬱蒼とする林の入口に辿り着き、そこからはサリームが先頭になって歩いた。
やがて、サリームが立ち止ると、マルコは「ようやく着いたか」と呟いた。
家などどこにも見えない。真っ暗な樹木の影が見えるだけである。正面には崖のような土の壁が立ちはだかっている。
とにかく、心細い場所だった。
彼らが信用の置けない人物だったら、わたしは林の入口で逃げ出していたことだろう。
だが、マルコが「着いた」というサリームの家はどこにあるのだろうか。
サリームは崖の方へと歩き出し、暗がりの中でごそごそと動いていると、崖の一部が明るくなった。
わたしは驚いた。
崖の中に家があった。
いや、崖が家だった。
「早く来いよ」。
サリームはボクに促した。マルコはすでに家に入っている。
わたしが恐る恐る家に近づくと、確かにそこは家の入口で、中はずっと奥まで続いている様子だった。
サリームの家は洞窟だった。
入口を抜けるとリビングがあり、更に奥に進むと寝室があった。
そこには、年老いた男女がいて、更に乳飲み子を抱いた女性がいた。
サリームの家族だった。
マルコはすでに何度もここを訪れたことがあるらしく、サリームの奥さんと親しく話をしている。
サリームはひととおり、わたしを紹介してくれたが、話しの輪に入っていけなかった。
サングラスを失った釈然としない気持ちも影響していただろう。サリーム家の雰囲気にどうも馴染めなかった。
洞窟の中はひんやりと涼しかった。
壁は四方が布で覆われていたが、地面は土のままで、まさに洞窟だった。
サリームの乳飲み子はようやく1歳になったばかりで、サリームにそっくりだった。
マルコは家族との談笑の中心にいる一方、私は完全に蚊帳の外になり、手持無沙汰から、サリームの家の外に出た。
少しずつ暗闇に目が慣れてくると、辺りの様子が分かってきた。
少し離れた崖からも灯が漏れてくる。ほら穴の家はまだ連なっているようだった。
林の樹々からは鳥なのか、他の獣なのか、得体の知れない嬌声が聞こえてくる。
彼が言い訳した猿は実在するかもなとわたしは少しだけ納得した。
しかし、猿が盗ったとは・・・。インドだと、実はない話しではないけれど、(実際、ヴァラナシでは宿に猿が入ってお菓子などを取られてた奴が居た。)まあ多分この場合は、嘘なんだろうなあ。
それにしてもインド人の嘘って、結構分かりやすいよね。あれは一種の「嘘つく時のインドでのマナー」なんじゃないかとも思ったよ。(苦笑)
海外で嘘つかれたなと思った時、俺の英語力では上手いこと返せなかったことや、激しい怒りを上手く表現することも出来なかったことを、師の文章を読んでまざまざと思い出したよ。あれはホント悔しかったなあ・・・。
しかし洞窟の家とは・・・。カッパドキアかと・・・。師はかなりレアな体験をアジア旅行でしてるねえ。
その真意は分からないけど、少なくとも日本人のメンタリティとは違う認知プロセスがあるのではないかと思ったりする。
もうアーグラー編だけで、9回になっていて、読むのもだらけ気味じゃないかと思っているよ。