わたしの怖れるもの

2005年03月27日 | diary
T.Bしたブログの女性が怖れるものは、人形だとか…。
う~ん、なんとなくその感じよく分かる。人形やヌイグルミの視線に追いかけられているような嫌~な感じ。

実は、わたしにも怖れるものがある。
最初は、何年も前に、叔母が家に来た時に何気なく口にした言葉だった。
「靴を必ず右足から履かないと、脱ぐまで一日落ち着かなくてね…」
それが何故なのか聞かなかったが、その話しを耳にして以来、わたしも右足から始めないと落ち着かなくなっていた。
普段は忘れているが、ある日思い出してしまうともう駄目。
それに目の前の階段を右足から上り始めないと、上りきるまでなんか気持ちが悪い。
そういうのを縁起恐怖というのだそうだ。別に縁起を担いでいるわけではないが、それをしないと何だか納まりが悪いと感じるだけのことなのだが…。

母は娘時代に、ご馳走されるのが恐怖だったらしい。
ひとつも残さずきれいに食べなくてはならない事を怖れる会食恐怖。
いまではそんな面影はどこにも残っていないが…(笑)
息子は尖った物を見ると目がちかちかすると言う先端恐怖。
気になって眼科に連れて行くと、そういう子供は尖った危ないものを避けることができるので、眼のためには安全でいいんじゃないと言われた。なるほど。
検索すると、恐怖症は200種ほどあるらしい。高所恐怖症、広場恐怖、閉所恐怖、あがり症の人の赤面恐怖、出かけた後にガスの栓を締めたか気になる不完全恐怖。
恐怖なんて言葉を使うから特別のように感じるけれど、誰にもその恐怖あると思う。

これを読んでくださった方の中に、どんな恐怖が内在しているのだろう。うかがってみたいものである。
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川越に墓参に

2005年03月19日 | diary
お彼岸なので、墓参にでかける。
ちょうど一ヶ月前に、手術をしたばかりの父も一緒だ。
父の回復の早さには驚いてしまう。ほとんど歩けなかったのに、今では杖なしでも歩けるのが嬉しい。

わたしの実家の菩提寺は川越にある。
小江戸川越で有名なので、この日も観光客が多い。家から普段は車で2,30分もあれば着いてしまうのに、渋滞で1時間近くかかった。
寺は蔵造りの建物が建ち並ぶ通りに面しているが、来るたびに蔵造りの町並みがきれいになっている。景観条例なのだろうか、蔵の屋根越しに高い建物が視界に入らないのが良い。
しかし、だんだん小洒落た店舗ばかりが増え、整然としてもともとの川越の蔵造りの野暮ったい田舎独特の店が消え行くのは残念だ。穴倉のように薄暗くなんともいえず落ち着く店舗が、また1軒消えていた。
その土地特有の個性を持った観光地が消え、没個性でどこも似ている同じ匂いを持った観光地ばかりが増えていくのはつまらない。

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「平和」って

2005年03月11日 | diary
 ジョンレノンにおける平和的観念、というお題にひかれて。
「平和」っていう言葉、わたしには、8月の原爆投下の日にしか認識しない言葉だ。そして、世界のどこかで起こっている争いをニュースで観ながら「日本って平和でいいなぁ」と言いながらお茶をゴクリ。多分そういうことに無意識でいられるからこそ平和なのだと思いながら…。

 《以前、何人もの宇宙飛行士に会い、話を聞いて歩いたことがある。宇宙遊泳しているとき、地球の一角で小さな花火のように明滅する戦火が肉眼でも見えたそうだ。人びとが暮らす都市の明かりもくっきりと見え、それが人の目覚めているあかしのように思えてならなかったという。私たちはちっぽけな一千万の豆電球だ。反戦デモも、路上の声も、決してむなしくはない。世界はゆっくり変わりつづけていく。恐竜はいずれ滅びる。あきらめてはいけない。人間精神の試みはつづく。》

宮内勝典さんの海亀通信の中の「戦争は止められなかったが」というエッセーの最後の一節だ。地球のどこかで戦争が続き人が死に、人々が平和への道のりを望む事は、当然のことなのだけれど、今の日本の若い人たちが、そういうことに無関心な人が多いのは何故なのだろう。子供のときは真剣に平和を願うけれど、いつしかその気持ちを失って、無関心になっていく。息子も自分の事や周囲のことにしか興味が無い。世界平和なんて人に任せるって。そんな風に育てたつもりは無かったのにぃ(笑)かつての学生のパワーは消え、若者のエネルギーは、専ら消費生活に向かっている。かくいう、若くは無いわたしさえもそうだ。お金さえあれば大抵の物は手に入り、解決できると思っている。それは錯覚なのだが。内に向かっていくエネルギーを、少しだけ外に向けていったら何かが変わり続けていくのだろうと、わたしも信じたい。

ジョンレノンミュージアムでこの春休みの3月30、31日に小学生から高校生まで無料で鑑賞できる企画がある。常に平和を望んでいたジョンが残した沢山のメッセージに、未来を託す若い人たちが触れて何かを少しでも感じてくれたら…。
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「セルラー」でキム・ベイシンガーの老け具合に・・・

2005年03月10日 | movie
 急に時間が出来た。はて、さてどうしよう。
こういう時は映画を観るに限る。ネットでMOVIXを見ると観た映画ばかり。なんだか食指の動く映画がないのだが、おお「セルラー」をやっている。よし、これしかない。

でも知り合いの男性がネットの日記の中で、彼はキム・ベイシンガーが好きなのだが、この映画の感想を書くのを忘れ、キムの老け具合ばかりを揶揄していた。

 姉と早速出かける。レディースデーなので1000円。確かにキムベイシンガーの老けようにびっくりした。姉もそう思ったらしく、見終わった後にハリウッド女優なのにコラーゲン注入や整形していないのかしらって。ほんと、そのうちに見慣れてくるが、わたしもこの女優さんのねっとりとしたセクシーさが好きだった……何だか複雑な気もちがした。女性ってやはり、なんだかんだといっても見た目なのね。
 
映画は全然期待していなかったが、飽きることなく結構面白かった。
勧善懲悪で結果はOKと分かるのだけれど、やはりドキドキヒヤヒヤ。単純に理屈ぬきでわたしは楽しめた。いくつかエエッというところはあったが、娯楽映画だもの、まいいか。携帯電話のもつ様々な面が上手く使われていた。
 
いい味を出すウィリアムメーシーが脇役で出ていた。この人のドングリマナコを見るたびに、私は何故か腹話術の人形を連想する。むかーしヒッチコック劇場でみた喋るこわーい腹話術の人形を。
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今日は“わんこ”について考えた

2005年03月07日 | diary
車で走っていると、前方の車が次々と妙な動きをしている。しばらく行くと原因が分かった。
まだ成犬には程遠い小柄の犬が、前方を歩いている。
対向車がどんどん来るので、私の車はなかなか犬を抜けない。
横をすり抜ける時にちらっと見ると、首輪をつけている。その上汚れてものすごく痩せている。
いま流行のジャックラッセルテリアのような犬種にみえた。車の通行は激しい。
バックミラーを覗くと車の間をぬって道路を横断し、その後見えなくなった。
わたしは犬好きなので、その迷い犬の寂しそうなやせた背中がいつまでも目に焼きついた。・・・飼い主さんしっかりしてネ・・・

わたしはキャバリアを育てているが、隣家でも永年犬を飼っている。
うちのキャバちゃんは庭に出ると干してある傘に吠えたり、庭に下りた小鳥なんぞを追いかけながら楽しそうに吠えている。しかし何故か隣の犬は全然吠えない。全然鳴き声を聞いた事が無いのだ。
前に飼っていた犬のときもそうだった。静かで良いけれど何か変…。
本人(?)は吠えているらしいのだけれど、その声がくぐもって呻いている様な妙な声なのだ。
近所の人曰く、「あそこの犬って声帯の手術されているから鳴かないんじゃないの」って。
そんなことってあるのだろうか。本当だとしたらすごくショック。

今、これを書きながら急に気になった。検索をしてみたら声帯除去手術というのがある。確かにこれに該当しそう。去勢をすること自体不自然だと思うが(雄なのでしましたが…)犬にとって鳴く事は、気持ちや意思を表す少ない表現方法のひとつなのに、それを奪う事は、飼う側のエゴでしかなく、これもまた悲しい。
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