
富岡製糸場創業当時の工女、(女工とは言わず工女と呼んだそうです)
和田英さんが50歳の時に綴った回想録です。
当時の英さんは17歳、信州松代の旧藩士の娘で、私たちが描く“女工”さんの暗いイメージとは、
生活ぶりもかなり異なっていた様子です。
そんな士族の娘達を含む13歳~21歳の子女たちが多い時で500~600人?
一部屋に5、6人ずつの班に分けられて寝起きしながら生活していたようで、
この「富岡日記」には、その製糸場での寮生活でのエピソードが綴られています。
製糸場での仕事は技術を身に付けるための厳しい修練も伴っていたようですが
たまに、見学に訪れるvipのために出身地の盆踊りを披露することもあったようで、(余興ですね)
最初のうち、お英さんら長野県出身者で盆踊りを披露していたそうなのですが、
途中から山口県出身者の踊りに取って代わられ、
山口県出身者の踊りはお座敷で踊るように高尚だとかで、もてはやされたらしく、
「丁度よかった、自分は踊るのは不本意なのだから…」
と、負け惜しみ?で愚痴る行もあるかと思えば、(^^;;
皇太后皇后陛下の御訪問時に
白塗りの化粧をした女官達を見た工女たちが笑を堪えられず、つい笑ってしまい、
そのことで管理者から叱責された話、
女官たちの事を「福助さんのような…」と揶揄する行もあり、
お箸が転んでも笑える年頃、さぞかし笑を堪えるのも大変だっただろうと想像できる行もありました。
また、脚気で倒れた同僚を献身的に看病する様子も具体的に書かれており、同僚を厠まで背負って行き、用を足すのまで手伝った等々、英さんが面倒見の良い性格だった事も窺えます。
フランス人技師ブリュナ夫人の美貌を憧れの思いで讃える行はいかにも女性らしく
服装などの描写も細かくて、その観察力にも驚かされるのでした。
全編に、勝気な性格が見え隠れし、またプライドの高い女性だったようで、
農村出身者を見下すような、ややもすると差別的な表現も見え隠れするのですが、
英さんが生きた明治~大正時代当時としては、それが社会通念だったのかもしれません。
朝ドラの「花子とアン」でも、
そういう場面は多々ありますものね。
富岡日記は様々な人が後に解説していますが、
著者の和田英さんが、30年前の記憶を元に記しているので
記憶違いや誤字脱字も多いようで
す。
まぁ、私だって30年前の事をblogに書いていますが、記憶がかなり曖昧になってきていますもの…
無理もありませんね。(^^;;


清水由美
