出発の日....高崎からなんとかいう道路をしばし走ったのです。その道路はコンクリートでつくった道路 上に薄く舗装がかぶっていたりします。夫が申しますには、有事の際 この道路をとおって長野の戦車部隊が首都圏に入る、そのための道路だそうで、国が長い時間をかけ お金をかけてつくった道路なのだそうです。
わたしはこの道路に入ってから 気持ちがわるくなって (コンクリートの低い塀がつづき圧迫感があったりもして)これ以上 運転ができなくなりました。もう帰ろうかと思ったくらいです。そこで、道路を降りてコンビニで休んでいると 娘が「おかあさん 着替えたら....」とアドバイスしてくれて 息子が贈ってくれたグリーンのアリエッティのTシャツから白麻のブラウスに着替えたら 気分がぜんぜん違うのですね。
着るものでこんなに違うのかと....驚きました。630キロ 碓氷峠を皮切りに曲がりくねった峠ばかり走破できたのも 白い麻のおかげです。一枚しかないので 毎晩 ホテルで洗濯していました じつは今日 この服を売ってくださったYUZURIさんに会うことになっています。着替えが手に入ります、お会いするのもたのしみです。
最初に宿泊した松代ロイヤルホテルは、菅さんが雇用対策で言ったように大型バスに乗った団体中国人観光客も宿泊していました。長野も中国からのお客様が多いところで 生活習慣の違いからトラブルも多く 中国の方がホテルを買うケースが増えているそうです。バスの社名を見ると 中国の会社名で名古屋ナンバーでした。中国の方が経営するホテル、中国の方の観光会社、観光客が増えるのはうれしいが、この状況を喜んでばかりいていいのか悩ましいところです。
長野は蕎麦の本場です。お蕎麦は大好きなのでホテルの食事処 戸隠中社脇の春夏秋冬・そば苑 小諸の一松でいただきました。そば苑は蕎麦団子が美味しかった。お蕎麦は一松さんですね。蕎麦好きのお客様に贈ったくらい美味しかった。野菜天とお蕎麦 会いますね。
長野は埼玉・群馬・岐阜などと県境を接しています。秩父事件のとき 長野でも戦いがありました。秩父も長野の佐久地方も平地の少ないところで 農民は養蚕を主な収入源にしていたのですが、松方大臣のデフレ政策で生活に困窮します。自由民権運動や禊教に帰依したひとたちも一緒になって11月1日 蜂起、警察隊や憲兵隊と戦闘を行い 11月4日金谷での熾烈な戦闘で敗れ幹部は逃走、残った農民は上吉田村塚越の河原(実家の近く)で菊池貫平を総理として困民軍を編成して、信州への脱出を決意しました。
200~250人の困民軍は、打ち壊しを行いながら 十石峠を越えて信州へ向いました。周辺の村々へ呼びかけました。11月9日、困民軍一隊は5時頃から千曲川の棚橋の前で南進してきた軍隊(東京鎮台高崎分隊)と撃ち合いを開始しました。困民党13名が討ち死にその内4人が信州の人で、残りは秩父や上州の人達でした。警官が一名、東馬流の女性ひとり流れ弾にて死亡。ここで困民軍は壊滅しました。
残党狩りの南佐久郡の検挙者は、南相木村200人、北相木村184人、大日向村60人、高野町村44人、小海村32人、宿岩村15人、海瀬村10人、穂積村2人でした。秩父においても苛烈な報復がされました。秩父事件は民衆の側から唯一起こった革命でした。女の目から見た秩父事件を語ってみたいと思います。
群馬の御巣鷹山もそう遠くないところにありました。御巣鷹山の123号便墜落事件も奇妙な事件です。一般に報道されない真実が隠されています。日本の戦後史上最大の闇であり日本の進路を決めてしまった事件でした。
つまるところ いろいろ 考えさせられた三日間でありました。
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