きのう イリスの竪琴第三部”風の竪琴”を読んだ。この本が絶版になってしまったのは惜しいことである。なぜ読まれないのだろうと考えるに 展開の遅さと表現の複雑さにあるのではないか。ものがたりは往きつ戻りつしつつ 細部の美を描写する.
雪と氷のエーレンスター山 のどかなヘド 恐ろしくも美しい大地のあるじたち わたしにはとても書けないイメージとことばと色彩の奔流である。ものがたりのながれを見失ってしまいそうだ。マキリップはゲド戦記を書いたル・グインを師とあおいでいたのか 風の竪琴に登場する女魔法使いナンは彼女がモデルという。けれど ふたりは決定的に違う。
文学には少なくともふたつの側面がある。たのしませることとメッセージを伝えることだ(とわたしは思う)。どちらも不可欠だが たいていどちらかに比重がかたむいている。そして ひとの心を打つメッセージ性があり そのメッセージを支えるだけの骨格とデティールのある作品が生き残る。
文学を語り部に置き換えてもよい。語り部とはストリーテラーとして聴き手をわくわくさせドキドキさせ愉しませる側面と(大いなるものの、死者の、虐げられたものの)メッセンジャーとしての側面がある。どちらも不可欠だが たいていどちらかに比重がかたむいている。しっかりした骨組み(起承転結、序破急)とデティール(ことばのうつくしさ 的確さ)それを支える 声のひびき 声を支える身体.....
マキリップのイリスの竪琴は"大いなる者"からその世継ぎへ世界が継承されることにまつわるものがたりであり、自己を知る、光と闇などのテーマを持つのだが メッセージ性も骨格もさておいてストーリーは谷間を迸り時に逆流しうたいながら大河となる。......そして デティールのうつくしさ、一滴の煌きはたとえようもない。
ル・グインのゲド戦記はハイタカやアレン(男性)テヌーやテルー(女性)の真実の自己を知るものがたりであり、先に進むものからあとにつづくものへの継承のものがたりであり 光と影 生と死 相反するものが対立し、やがてひとつにまじわり完結する 生と死 光と闇はたがいに光を与え合い奪い合い 永遠に輪廻生成するという壮大なテーマと骨格を持つ。
読者としてはどちらも捨てがたい。でも 語るとしたら ....一期一会のまたとない機会に どうしても伝えたいことがある。まずある。デティールまでとても神経が行き届かない。声のひびきもいまいち 身体はようやくひとなみになったところで 語り部として わたしが望む身体とはほど遠い。どれもこれも中途半端でまだまだ。
それでも語る。それでも語りたい。
http://koujiyama.at.webry.info/201009/article_6.html
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