遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



    その1をごらんになっていない方は どうぞ そちらからお読みください。

わかれのことば(つづき)
光藤さん(語り手たちの会)
    「わたしがおそるおそる こうしたいのですが....と持ちかけると先生は「それ やりましょう」といとも簡単におっしゃって ニック・ヘネシー、タフィー・トーマス、(ベン・ハガーティ)ベリットさんが来日されました。お三方から Mikiの冥福を祈るというメールをいただいております......」

横田さん(語り手たちの会)
     「九州には何度かお運びいただいて指導をいただきました。最初の頃は講師依頼のお手紙の書き方など一から教えていただきました。おうちに泊めていただいたときは、ほんとうに可愛いくてらして ご主人様はそれこそ日本風の男といった風情で、おうちがこうだから、語りのほうでは女王さまのようにおできになるのだと思いました」......

出版社の方
     「先生の著書 ”子どもに語りを”の改訂版を出そう出そうと相談していた矢先のことでした」......

ラジオ宅急便の方
    「先生の最後のお仕事のひとつだったのでしょうか 3月にラジオ宅急便に出演していただきました。お話してゆくうちに 早稲田放送研究会の先輩であることや おなじ慶応病院に入院していたこともわかりご縁を感じました。3月の放送は好評で5月に再放送しました。」
    「櫻井先生はご自身も花と輝きながら 苗床を育てていらしゃいました。ひとつだけ 心配があるとすれば(大きな柱をなくされた) これからの語り手たちの会のことです」.....(もしかすると出版社の方のことばからもしれません)

寺内さん(語り手たちの会)
    「桜井さんとは34年のつきあいになります。はじめて櫻井さんの家に行ったとき、大酒をのみ ”今日はここに泊まる”と宣言して応接間のソファで朝まで寝ていました。今思い出すと身の縮む思いです(爆笑)わたしが男にしか語れない話ばかり語るものですから そういうことはやめてくれということになり ”語りたい話が語れないならもうやめる”と言いました。すると櫻井さんは川崎の拙宅まで慰留にきてくれて おかげで今も語り手たちの会にいます。最後に会ったとき”寺内さん、現代の伽(とぎ)は変わったのよ”と櫻井さんは言いましたが わたしにはその意味がわかりませんでした。年上なのに教えてもらうことが多かったけれど もう教えてもらうこともできません。」

櫻井先生のご長男マリオさんのことば
    「みなさん 今日はお忙しいところ 母のためにお別れ会にきてくださってありがとうございました。 .......3月には腫瘍が再発 4/7 再入院 十二指腸の閉塞は治療しましたが 余命は長くて3ヶ月短くて1ヶ月という宣告で 治療はできないまま 緩和医療となりました。母にはそのことを告知しませんでした。4月22日モルヒネを打つことがはじまりました。そうしますと 母は入院の楽しみを一つ一つ失うことになります。最初に読書が、つぎにDVDやテレビを見ることができなくなり、携帯やメールもできなくなりました」

     「けれども 音楽をたのしむことは....最後の方までできたように思います。わたしは音楽を職業にしました。母はわたしがわたしの結婚式のために編集したカラヤンのCDが気に入ってよく聴いていました。母の楽しみ方は作曲家が好きというよりさまざまな演奏家がどのように弾くか だったように思います」

     「母とは最後の3ヶ月 幼時のときのような濃密な時間をすごしました。中学の頃から家族とはあまり深く関わらないようにしていたので 語りについてはこれといって話したことはないのですが、グレン・グールドというピアニストについて話したときのことです。 グールドはどんなピアニストかというと、それまでチェンバロで弾かれていたバッハをピアノで弾いたり 後期ロマン派が好きだったのですが 後期ロマン派にはピアノ曲が少ないものですから ピアノ用に編曲したり 記号をまったく無視したりするピアニストです。母はそれを聞くと「語りと同じじゃない! 」と言いました。 それでわたしは母の考える語りはそういうものだったのではないかと思ったのです。......」

     「語り手たちの会のみなさま そして今日おいでくださったみなさまのおかげで 母の最期の望みだったお別れ会をひらくことができました。ありがとうございました」


     わたしはしばらく呆然としていた。マリオさんのことばを聴いて ここにきてよかったと心から思った。グールドはスコアというものに頼らない、はっきり言ってスコアのない 弾くというよりピアノとひとつになるピアニストである。語りでいえば テキストのない語り 即興にちかい語り。 語り継がれたものがたりの枠組みはあっても...そこに自分をのせて無限のヴァリエーションで語る、そして壊すことを躊躇するな、自分を信じて 摩擦を恐れず先に進んでゆく.....マリオさんは先生の考える語りがそういうものだったと言ったのだ。

     会の終わりにマリオさんにお礼を伝えることができた。......「母は組織について こだわりはなかったと思います。」.....わたしは先生について誤解していたのかも知れなかった。わたしはマリオさんの静かな目を受け止めた。.....”守るひとも必要です。志を継ぐひとも必要です。ありがとうございました、これで扉をひらいて歩きだすことができます”.......先生のメッセージ マリオさんのメッセージ そして片岡輝先生のあたたかさや友人たちの心配りや そうしたものがわたしのなかをひたひたと浸し からだのなかをさらさらながれ、ときおり溢れた.......会の途中からわたしの聴力は(天音さんのセッションの時感じた)クリスタルの中にいるようにキーンと冴えて わたしは ここにいてここにいない....不思議な感覚にとらわれたまま 子どもたちの待つ家に帰った。

     ........たくさんの方にお会いしました。ことばをかけてくださった方々 ありがとう 目で想いをおくってくださった方々 ありがとう ゆっくりお話することはできませんでしたが いつかまたお会いしましょう。



グレングールドの演奏.最晩年のゴールドベルク変奏曲→コチラ
松岡正剛の千夜千冊 グレングールド→コチラ

※ メモを紛失したのでことばが語られたそのままではないかもしれません。違っていたらごめんなさい。




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   9月20日 早暁 寝付かれぬまま 櫻井先生のHPを見ていた。今日は先生のお別れ会.....友人が誘ってくれた。語り手たちの会の方だけを対象にしたのではないとのことを聞いたが、それでも躊躇いがあった。ひっそりご焼香させていただいて 感謝や覚悟やもろもろの想いは伝えさせていただいたのだしという気持ち、同情のあるいは冷ややかなあるいは詮索の目線が耐え難いという気持ち あのレインボーホールで大波のような追慕の念に押し流されてしまうのではというおそれ......それでもゆきたい気持ちが鬩ぎあっていた。 ......わたしは思わず先生にメールを書いていた.....語り祭りで試みようとしていること、今のためらいの気持ち 眠くて眠くて夢うつつだった。

   7年前のことだった、櫻井先生の70歳のお誕生日を祝う会がレインボーホールでひらかれた。70本の赤い薔薇を胸に臙脂のロングドレスの先生は微笑んでいらした。そのとき語られたのが”プシュケ”......希臘神話の妻と夫のものがたり 禁忌を犯し 愛する夫を失ったプシュケが数々の試練を 夫の力を借りて乗り越えるものがたり.....櫻井先生はたしか....ものがたりの最後にプシュケは蝶.....そして魂という意味だとおっしゃった。表面でみれば夫婦の愛のものがたり その奥にあるのは 罪と罰 試練を乗り越え 光となってゆく魂の遍歴と蘇りなのだった。

   わたしは泣いた.....というか声を上げて慟哭したのだ。やさしくたおやかに 人間の本義 この世の摂理 を語るという先生の語りに圧倒された。聴き手のその日、聴き手の人生がある、それぞれの聴き手みなさんになにもかもがつたわるとは限らない、それぞれが受け取れる範囲でしか受け取れない.....それでいいのだということ、先生の語りにはだれもがなにかを受け取れるという優しさと平易さとその底に深さもあった。

   わたしもその日 語らせていただいた。絵のない絵本から.....煙突そうじの小僧の話 前夜はじめて取り組んだフランス革命と矢車草のものがたり。語りの深さを知りながら 一晩で安易な気持ちで今日を迎えてしまった自分の心向きの低さに気づいて、そしていつか 魂について こんな風にわかりやすく 語ることができるのだろうかという絶望的な想いに駆られて わたしは帰りの電車のなかでも泣き続けたのだった。


........ホールはひとで溢れていた。そして祭壇には赤い薔薇と白百合。

ひとりひとりが1本ずつ薔薇をささげる.....ミチカさんのマリオさんの先生のご夫君の あたたかいやさしい目と目をあわせる、心をあわせる......語りかける先生の遺影.....片岡輝先生 佐藤涼子さんのまなざし。


........昨年の語り手たちの会の催し 夕顔のものがたりがビデオ上映された。いつもよりすこしくぐもった、でも華やぎのある声 懐かしい先生の声。終盤 物の怪にとりつかれ死んでしまった夕顔が淡々と語る......「.....この世に未練はありません。三歳の娘がおりますが、だれかが育ててくれるでしょう」.....それは先生ご自身の声のようにも思われ 涙を禁じえなかった。魂は身体の滅びがくるのをその前に知る、それは父のときも感じたことだった。


おわかれのことば

友人のやよひさん
「.....やよひちゃん わたし きっとハードカバーの本 出しますからね」と言っていらした......一冊どころか何冊も出されました」
「ずいぶんお話しましたけれど わたしがしゃべるのは舌で話す話.....櫻井さんのは吾が話す語りであったような気がします」(もしかしたら田中さんかもしれません)

ご近所の方
子どもが3歳から6歳になるまえまで (櫻井先生の)夕焼け文庫で読み聞かせを聞きました。よいこと、うつくしいことをたくさん教えていただいた.....その楽しさが忘れられなくて立川で文庫をひらき 34名のなかまたちと子どもたちのことでかかわっています。 教えていただいたことが人生のたいせつなことのきっかけになりました。

田中さん
「......家庭を大事にしながら 子どもたちをたいせつにできることがある.....わたしは子どもの家庭内での手伝い 櫻井さんは語り.....にとりくみました。おなべがぐつぐつ....という”ぐつぐつ”で 櫻井さんが”田中さんの”ぐつぐつ”はなにが煮えているのかどういうふうに煮えているのかしら....わたしのはどうかしら....”と言ったことが今でも台所でおなべを火にかけているとき思い出されます」

つづく










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