遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-96.html

以下抜粋

我が国で太古から使われていた言葉、すなわち大陸から列島に漢語の波が押し寄せてくる前のことばをやまとことばという。やまとことばからは、今を生きる我々がとうに忘れてしまった本当の祖国、それを造った先祖たちの生き方を伺い知ることができる。

やまとことばにおいてクシの音をもつものはまず「髪-クシ」、これは頭髪のみを指す。「頭-クシ」は頭部と頭髪の両方を意味する。ちなみに「頭-カシラ」は「クシ」の美称である。髪と頭は「カミ」の音も共有している。「首-クシ」というものもあるが、頸部ではなくそこから上すなわち頭部のことをいい、「頭」とほぼ同意である(すでに身体をはなれてしまった頭部を指すことが多い)。

そして今では完全に忘れ去られた言葉、「奇し-クシ」は、不思議な、霊妙な力をたたえた状態を示す形容詞である。

終わりのある「現世-ウツシヨ」、つまりこの世での命をながらえるための「器-ウツワ」である人の、その「空-ウツ」なる「「内-ウチ」側が「うつ」であると書いた。そこに霊妙なる、奇しき力を宿した人はもはや「うつくし-ウツ・クシ」さを隠すことなどできまい。

ひとのうつくしさは言葉や振舞い、そして顔に現れる。その根源はその人の内側にある魂であり、そこにやさしさや強さや厳しさが具われば口をついてよい言葉となり、よい行いとなり、いずれはよい顔をつくる。見た目の整ったうわべの麗しさとはそもそも源を異にする。奇しき力とは向こうから歩いて来はしない。櫛で梳いた髪も如く、鋤で鋤いた田の如く、つとめて整えられた心の内にこそはじめて降り立つ。

人のみにあらず、それは森羅万象すべて同じく空も、海も、草木も雪も月も花も鳥もみなうつくしい。山河はもとより路傍の石とて人がこの地を踏むはるか昔に生まれ悠久の時に形づくられた姿を呈している。裸でこの世に生まれた我々の暮らしを支える道具もまたうつくしい。日々精進し技を磨いた職人の作り出す道具は用に徹し微塵の隙もなきにしてそのうつくしさは時として人の心を奪う。一枚の画は人の目を楽しませるだけの色と形の組み合わせに非ず、画工の魂から溢れるものをその腕によって紙に写したものである。見るものの心がそれに打たれ画工の心と邂逅したときにうつくしいと思うのである。しかしそれを見る側の心が鈍っていればなにも感じることはできない。

いま、大量生産された粗悪品に囲まれる日々は我々の心を鈍らせる。経済に重きを置くあまり、ありもしない需要をひねり出しありあまる供給をなし無茶な消費を迫る。無駄が無駄を呼ぶ。ありもしなかった需要に存在の価値があるはずもなくすぐさまゴミとして彷徨うことになる。うつくしき山河は土に還らぬ骸で埋められようとしている。
音楽や絵画など凡そ芸術と呼ばれるものは全て商品化されたであろう。作家の魂には値札がつけられ見るものの心はその数字にのみ打たれる。目と舌先を喜ばせるだけの華美な食卓は病巣を育てる。いかがわしい原料から作った物の悪臭を隠すために香料を添加し、あるいは見目よく着色する。おなじく見た目の麗しさを追いかけるのみの美容は異性の目を惹きつけるか同性との競いに勝つためのものでしかない。見ばえのする姿態と見ばえのする暮らしを維持したいと願うものは子を産み育てることから逃げたがる。放射能や遺伝子組み換え食品が不妊を招くといくら喚起したところで馬耳東風、このような人たちと次世代の話する術など、どこにあろう。

日本人が目先にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのはいつからか。

原発という巨悪に対し立ち上がる動きは日に日に大きくなる。原発を擁護する世論はそれに押され弱まりつつあるかのようにも見える。

しかしここに掻き消せない一抹の不安がある。

それは危険極まりない原発も目に見える表層の現象でしかなく、その内側にははるかに大きな悪が控えていようそのことである。かりに日本から原発がなくなったとして、その後の日本をどう造るのかが如何に語られているのか。いまの生活、いや経済水準を維持するために必要な電力を何かしらの方法でひねり出すことが解決なのだろうか。原発の内側にある本当の問題に気づく者がこの先増えていくのだろうか。

現状、原発の是非の問答は経済にはじまり経済に終わる。ただでさえ不況を抱える今、原発による電気の供給がなければ経済が落ち込むという恐怖が人を捕らえて離さない。それを言い換えれば競争に負ける恐怖である。
周囲から引けをとっていないかに気を揉み、相手を出し抜く方法を教え込まれ、目の前の相手の価値を収入と肩書きで値踏みする。自らと競争相手だけで構成される集団の中で生きている。我々がこの競争に勝つことに生きる意味を求めている以上何も変わりはしないだろう。原発をなくしたところで原発よりもさらに危ういものを作り出すだろう。国とは人の集まりである。人同士の繋がりが競争でしかないのなら、それが集まった国とはいったい何なのか。国同士の繋がりが競争でしかないのなら、この世はいったい何のためにあるのか。

原発はなくすしかない。なくなるしかない。だが本当に戦う相手は原発や原子力村などではない。魔物は我々一人ひとりの内にある。それは見せ掛けの豊かさを手放せない弱さである。他人への妬みと嫉みである。飽くことのない欲である。もとより人に備わる穢れではあるが先祖たちはこれをよく戒め、手懐けて生きていた。それが近代の幕開けとともに競争原理がなだれ込み、勝ちたいがためにこの力を解き放った。鎖を解かれた獣は自由放蕩に暴れ周り我々を競い合いへと駆り立てる。

人々が常に誰かと競い、走り続けるこで経済の車輪が動く。立ち止まることは市場の持ち主たちにとって許しがたい行為である。だから脅して賺して走らせる。脱落するものは踏み潰されそして誰一人として勝者になれない。なぜなら輪を描いて走り続けるだけなのであるから。

外にとらわれ心の内側をこれほどまで置き去りにしてしまったのは、それは無理矢理に外を向かされたそのとき、近代を迎えたときからである。道を誤ったのであれば辻まで戻って行き直すしかない。

心の内側に巣食う魔物をねじ伏せることができさえすれば、原発などはその後ろ盾を失いたちまちに消えて失せる。そして心の内に奇しき力をふたたび呼び戻すことができるだろう。そしてうつくしき人に戻り、うつくしき国を立て直すことができよう。



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◎アメリカ政府は多国籍巨大企業に牛耳られている。食の場合も同様。 
フードシステムはほんのわずかな巨大企業 ほんのわずかな品種によって保っている
多様性はない → 脆弱
フードシステムは効率が大事。石油を食べるようなもの。 
巨大企業は成分表示 産地表示を好まない
アメリカには企業を守る「風評被害法」がある → (民主党はここから真似した?)

草食にすると牛の体内の8割の大腸菌は死滅する。
しかし 草食よりとうもろこしのほうが安い。
(牛は濃厚飼料より草が食べたい 牛舎の柱まで食べるそうだ かわいそうに 日本の話)
         ↓
マクドナルド 1ドル メニュー
低所得者は野菜を買うよりマックのほうが安い
高カロリーの食べ物 フライドポテト ソーダ マック
ファーストフードが食べさせるもの 油 塩 砂糖(異性化糖 日本でもほとんどの飲料に入っている)
         ↓
低所得者 二人に一人が糖尿病

アメリカの食になにかが起こっている
アメリカ人の食べ物が原因(日本の食は大丈夫!?)

工業フードシステムの求めるもの
より速く より大きく より安く

農業を決めるのは農家でなく大都会のビルの役員室

もっとも過酷な職業のひとつが食肉加工
かつてはプアホワイトと黒人の仕事
今は南米 コーン農家 の不法移民
運ぶのは食品会社の別会社
政府は食肉会社を取り締まらず 移民を取り締まる
駐車場で逮捕するが 会社と政府は暗黙の了解ができていて
生産ラインに影響を与えない範囲で取り締まる

労働者はブタと同じ扱い
快適かどうか関係ない
ファースト業界と同じ 同じ作業を繰り返しやらせる
32000頭/1日 処理 2000頭/H 内臓を出す
細菌に感染し手の爪がボロボロになりみなはがれてしまうが辞めることはできない。

モンサント社には75名の農家を調査するスタッフがいる。
ほとんどが元軍人か警官で 調査したのち告訴する。

モンサントはマイクロソフトに似ている

いつのまにか種子洗浄が法律で禁止された。

かつては郡ごとに種子洗浄業者がいたが 今は州に6人(インディアナ)
洗浄 → 翌年も撒ける

モンサントが認可していない農家のリスト
モンサントの種子が買えなくなる

訴訟には多額の費用がかかる
農家が多国籍企業に勝つのはむつかしい。
モンサント社は司法関係者と深いつながりがある。
巨大企業に個人が戦いを挑めるか。

農業がしたければ モンサントと寝るしかない。

健全なよい食品を望むならある程度の値段を払うこと。
消費者はなにもできない哀れな子羊か。

システムを変えるチャンスが一日に三回ある

動物や人間を大事にする企業の食べ物を買う。
地元の食品を買う。
成分表示をよく読む。
健康な給食を教育委員会に要求する。

家族みんなで食事をつくり 家族みんなで食事を食べる

世界は変えられる 一日ずつ。



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            川上澄夫

かぜとなりたや

はつなつのかぜとなりたや

かのひとのまへにはだかり

かのひとのうしろよりふく

はつなつの はつなつの

かぜとなりたや

            伊東静雄

八月の石にすがりて、

さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。

わが運命(さだめ)を知りしのち、

たれかよくこの烈しき

夏の陽光のなかに生きむ。


沢の蛍           和泉式部


もの思えば 

    沢の蛍もわが身より

あくがれ出づる
         
       魂かとぞみる



ネロ ――― 愛された小さな犬に     谷川俊太郎

ネロ
もうじき又夏がやってくる
   お前の舌
   お前の眼
   お前の昼寝姿が
   今はっきりと僕の前によみがえる
お前はたった二回程夏を知っただけだった
僕はもう十八回の夏を知っている
そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
   メゾンラフィットの夏
   淀の夏
   ウイリアムスバーグ橋の夏
   オランの夏
そして僕は考える
   人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうかと 
   
ネロ
もうじき又夏がやってくる
   しかしそれはお前のいた夏ではない
   又別の夏
   全く別の夏なのだ
   新しい夏がやってくる
   そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく
   美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするよ
   うなこと
そして僕は質問する
   いったい何だろう
   いったい何故だろう
   いったいどうするべきなのだろうと


ネロ
お前は死んだ
誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って
   お前の声
   お前の感触
   お前の気持までもが
   今はっきりと僕の前によみがえる
しかしネロ
もうじきまた夏がやってくる
新しい無限に広い夏がやってくる

そして
僕はやっぱり歩いてゆくだろう
   新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
   春をむかえ 更に新しい夏を期待して
   すべての新しいことを知るために
そして
すべての僕の質問に自ら答えるために
                            
           『二十億光年の孤独』










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→ こちら
以下 抜粋

日に3時間以上座っていると余命は2年ほど縮む可能性がある

日に2時間以上テレビを見ていると、状況が悪化し、余命がさらに1.4年縮みかねないという。研究は、約16万7000人を対象に4~14年間にわたり実施した5つの調査を分析したもの。

日に4時間以上テレビを見ると回答した人々は、2時間以下と答えた人々より何らかの原因で死亡する確率が46%高いことを発見した。

さらに、日に4時間以上テレビを見ている人々は心疾患で死亡する確率が80%も高かった。
以上



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意識するとどう変わるか
① なにも考えないで発声
② 自分の内側とつながる
③ 遠方にターゲットを置き ターゲットを意識して発声
④ 背中を意識して発声

みなさん 実験してみてくださいな。ひとりでするときはある程度お声になかに倍音が多く含まれていないとわかりにくいかもしれません。おそらく骨の響く箇所が違うことに気づかれるでしょう。わたしの場合は ④背中を意識したときもっとも響きを感じました。ふたりですると わかりやすいですね。

声についてはさまざまな実験が可能です。次回のカタリカタリのエクササイズのひとつにこれをしてみようかな。

さて わたしはあまりいい妻ではありませんが 夫のためにしているいくつかのことがあります。そのひとつは洗濯物の手洗い.....しみじみと選択がすきなんです。もうひとつは手巻き煙草をつくること 毎晩18本巻きます。夫はタバコがやめられません。市販の紙巻は添加物が多いので手巻きだけにすると約束してもらいました。カーテンも汚れないそうです。きのうは自分のために何本かベリーの葉を巻きました。とてもよい果実の香りがします。儀式用です。

物ではなくて愛するひとにさしあげられるもの  それは手のしごと たくさんの想い ニュアンスをこめたことば そしてまなざし。



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昨日はなぜかわからないけれど ひさしぶりに感覚がひらいていました。目とか耳とかではない 見えないもの聴こえないものとつながる感覚です。reiさんと話しているうちにその感覚はますます鋭敏になってゆきました。

「声」について ちかごろ痛感するのは低音部の不安定さと低音部と高音部のつなぎです。要因になるのは二箇所 声帯の問題ではありません。ひとつは経年劣化。もう一箇所は霊的なものでおそらく王子ホールで起きたできごとによるものでしょう。

仙骨の目覚めを促すこと 骨盤のズレの解消 が 今 力をいれていることで 徐々に効果が出ることでしょう。霊的な問題は霊的に解決するしかありません。

共鳴区をひろげることについては 骨がゆるみ自由になってきて このごろ声が肩甲骨 背中に響くくすぐったいような感覚を覚えるようになりました。胸郭もひろがってきつつあるのですが もうひとつこのごろおざなりになっていたのは 意識 だということに気づきました。トマティスやRADAのあとは意識がとてもひろがり 視野もひろくなり そのことで声が遠くまで響くようになります。声とは不思議なもので 意識がかわるとかわるのです、そしていちどきにたくさんの感覚とつながり 実に多くのことをしている....この多様性も豊かな声の決め手のひとつなのでしょう。

たとえば 自分とつながり 聴き手のひとりひとりと意識でつながり ものがたりのなかの諸象と五官でつながる 季節 風物 温度の感覚 手触りなど そして 登場人物のひとり とつながる。

身体で感じる感覚と意識 それらを統合した声になるとき ものがたりは鮮やかな 色彩 匂い 手触りのあるものとなり ことばではなく 聴き手の扉をひらく......わたしはこのように考えます。目指しているけれど道ははるかに遠いです。いわゆる 文字の音声化 ではない。朗読家の友人が 行き着くところは同じじゃないかといいましたが わたしは違うと思います。身体がないとダメなのよ。それとスピリチュアルの芯。声は声帯が出すものじゃない 通り道に過ぎない 声は息吹 すなわち命 声はひかりそのものなんです。それに気づくか気づかないか....。意識できるかできないか.....。

意識したことは徐々にではあるが カタチになってゆく だから 夢はかぎりなく壮大でいい ただし具体的なイメージが大事かな。あぁ ほんとに道は遠い。だって ただきれいな声が届く 扉をひらくわけではないのだもの。


さて reiさんは最近 師を喪い わたしも二年から三年前に矢継ぎ早に師を三人 失いました。師というのはすばらしいものです。自分ひとりでは見つからないことがとつぜんわかってしまったりする。おもしろいのは 師が気がつかないまま 弟子が受け取ってしまうこともある。ということは 師をとおして天から授かったってことなんでしょうね。

その授かったものをどうするか....できたら体系化する 自分のなかで再構築する そしてつたえてゆく つたえてゆきながら再構築というミチもありますね。わたしはほとんどこれかな。

伝えるひとの胸にちいさな灯を点すように 自分のひかりをつたえてゆくのね。つたえられたひとのなかでその光があかあかと輝いたら はじめて師に恩返し 天に恩返しができるのだと思います。出し惜しみすると それ以上のことは入ってはきません。世のなかはそのようになっているようですよ。あの世にもっていってもしかたない、つたえてつたえて 人間の文化はゆたかになっていったのです。

もう朝になってしまいそうです。今日はこのあたりで.....。少女マンガ 大島 萩尾 山岸 さんのつづき 癒しと再生 も書きたいな.....



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夕べ 眠れぬままに 古本屋でみつけた 愛おしい骨 を読みました。650円と高額 古本屋にしては・・・ でしたが 面白い本は背表紙が語る 指がわかる ・・・ 思ったとおり読みごたえのある一冊でした。

20年前 ちいさな町で起きた 15歳の少年ジョシュの失踪事件。町に戻った兄オーレンの目の前に繰り広げられるのは ひとびとの愛と憎しみの織り成すタピストリ・・・

愛と愛するがゆえの疑心と錯覚の招く悪夢・・・ 家政婦ハンナが秀逸 彼女は隠れたヒロインです。わずかな瑕疵は書きすぎたこと そして降霊会・・・ミステリと小説のファンなら 堪能されるのではと思います。

しかし 考えてみれば書きすぎるというのは案外 大きな瑕疵かもしれません。作家は思いのたけを書きたいものであり 書くという誘惑から逃れるのはなかなかむつかしい。この一章がなければ このひとことがなければ この一巻がなければという作品はままあります。グレアム・グリーンにすら余分なことばがあります。

作者は登場人物に耽溺してはいけない。どんなに愛していても いや愛するがゆえに透徹した客観性が必要なのではないでしょうか。

むだなことばが無いという意味でわたしが好きなのは ジョルジュ・シムノンです。「雪が汚れていた」とアーシュラ・K・ルグインの「闇の左手」はもっともうつくしい愛のものがたり 救済のものがたりだと思っています。

歌もそう・・・・・どんなに声が出ても歌いすぎては こころを通り過ぎてしまう。語りも漫画もそう・・・・これは自分の美学かもしれないが 品が落ちてしまう。竹宮恵子が萩尾望都と根本的に違うのはそこだし 吉田秋生がよく陥るのもそこです。秘すればそこに美が生まれる ということでしょうか。

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