音楽の喜び フルートとともに

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童謡の勃興期

2023-08-15 21:02:00 | 日本
昨夜からのリアクションボタンの不具合治ったようです。ありがとうございます。
お盆の中日。
朝、実家でグノーの「白鳥」をレッスン。
その後、「トイレのアースが切れたから、夫になおしてくれない?」
「新しいホースがくっつかないから、それも…。」
と、いうことで、夫を呼びました。
車で、20分、お盆渋滞で30分。
トイレのアース、ドライバーとハサミで

治りました。

ホースは、単に押したらカチッと入るものでした。
ご褒美は、お昼ごはんに錦糸卵ではなくてゴロゴロスクランブルエッグの冷麺いただきました。
「こっちのほうが美味しいでしょ。」っと母。
確かに…。

雨が降ってくる前に帰りました。
家では昨日のお父さんへのお供えのお下がりをいただきました。


スーパーのお菓子ですが、あなどれません。あわしま堂製作です。
京都伏見に工場があります。

近くなので、行ったことがあります。
工場なのでその日のB品とかを安く出されていて買うことができます。

お菓子はどうしても必要ってわけではないかもしれないですが、私たちを幸せな気持ちにしてくれます。特に子どもたちを。

宮城道雄(1894-1956年)

「チョコレィト」は子どものために書かれた曲です。
作詞は童謡詩人の葛原しげる作詞です。

大正6年1917年から昭和31年の間に童謡を100曲以上作っています。

大正末から昭和にかけて、児童中心主義の教育思想が広がり、童謡運動が活発になります。
そのもとに長唄では稀音家浄観と吉住慈恭が「桃太郎」「舌切雀」を書きます。箏曲では鈴木鼓村が「雁と雀」
を明治39年に書きます。

それらの運動が大正半ばに本格的に始まります。
「赤い鳥」大正7年
創刊号表紙
「金の船」大正8年

が出版されます。

宮城道雄は朝鮮から帰国。
大正6年、葛原しげる(1886-1961年)広島生まれ、東京没

に出会います。
彼は100曲近い童謡を宮城道雄と書きました。
彼は女学校で、教鞭を取っていて「童謡教育の理論と実践」
という本を書いています。そこには小学生の作った詩が掲載されていて、実際に、どのような詩を子どもがつくり、好むのかを知った上で詩を書いていたと思われます。

また、宮城道雄は慈観、鼓村と同時期に東京音楽学校の講師、教授になっています。

本居長世は野口雨情と「金の船」で童謡を何曲も書いた作曲家ですが、彼は大正8年宮城道雄の第一回作品発表会に足を運び、大正9年合同の作品発表会「新日本音楽大演奏会」を発表しています。
長唄の町田嘉章もこの演奏会に関わり以後童謡を多數作曲しています。

昭和5年にはラジオ番組「お琴のおけいこと童曲」(全12回)の放送が宮城道雄を講師に行われています。

日本の童謡の勃興期にいて、宮城道雄も生涯100曲以上の童謡を書いています。


チョコレイト 葛原しげる

ぎんぎらぎんの銀紙を
そうっとあけると でてくるは

こげ茶の色の チョコレイト
苦そな色した チョコレイト

見れば見るほど こげ茶色
見るほど苦そな チョコレイト

お口に入れると すぐとけて
ほっぺのおちそな チョコレイト






あと2回

2023-06-12 21:00:00 | 日本
日曜日はいずみホール「宮城道雄をしのぶ夕べ」コンサートに行ってきました。
母、4月23日に肩を剥離骨折してからお箏どころか食事も作れず、5月18日にギブスがとれ、リハビリ開始。

まだ、痛いそうですが、自分で置き針を打って6月11日本番。

82歳、ようやります。
そして、母の師匠中島警子先生97歳。
昨年脳梗塞で倒れられた後、復活。
心配していましたが、最後の舞台挨拶で車椅子で出てこられました。
支えられながらも立ち上がり、スピーチされました。

「新音、昔は労音と言っていましたが、およそ50年前に毎年宮城道雄先生をしのぶ夕べをと、お話しがあった時に50年くらいなら続けられるでしょうと言うことでお受けしました。みなさまにお願いです。」
「今回で第48回。48年目なのです。なので、後2年。後2年。続けさせて下さい。

この年代の方は強いです。
終演後、出て来られて
「みんな、100歳まで元気にいましょうね。」と、みんなと握手しておられました。
きっとあと2回、いやもっと続けられるでしょう。

私も応援しています。

今日のプログラムではありませんが、

「日蓮」
昭和29年宮城道雄が7世上人佐野前光の詞に作曲しました。
日蓮の生涯を「胎動、黎明、予言、旋風、自覚、静寂」に分けて描かれています。
箏、三絃、十七弦、笙、胡弓、尺八、合唱、打物による大合奏曲です。
胎動:
御法のままに 生くべしと
御仏の道 証しゆく
若き聖の 祈りこそ
汚濁の現世 寂光(じゃっこう)の
花の香りに 包むべし

黎明:
卯月も末の 暁天(ぎょうてん)に
大日天子 おろがみて
啓(ひら)く七字の 秘密こそ
人世を救う 大真理
宇宙を照らす 大光明

予言:
迷うともがら 正法を
謗(そ)しれば招く 国難に
日輪かげり 国昏し(くらし)
ただみさとしに 還る時
天地に光 和らぎて充つ

旋風:
街に巷に 説くところ
いよよに募る 大旋風
やぶれし肌の 血潮さえ
真紅にたぎり 常しえに
聖火と燃えて 消ゆるなし

自覚:
雪に閉されし 北海の
流され人の そのかみに
御使いとして 御仏の
末法流布の みむねをば
かしこみ受けし 人ぞかし

静寂:
父母を弔う 経声に
鹿も和し啼く 山の庵
いよよに澄める 御心に
記す真理の 御さとしは
末法濁世に しみるなり




宮城道雄14歳の初作曲

2023-04-21 21:15:00 | 日本
木曜日は母を京都医療センターに連れて行く日でした。
心臓手術後の定期検診。
今日はだいぶ状態がよかったです。
病院の駐車場は山の中みたい。
1908年に設立されて、1937〜1945年まで旧陸軍病院でした。ちょっと怪しい祠もあります。

現在はサツキが咲いています。


診察してもらって帰ろうとしたら、先生に「先生、これ行かれませんか?」
と、母、先生を自分の出るコンサートにお誘いしていました。
「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」
第48回水辺の情景
6月11日(日)午後三時〜いずみホール

名曲「春の海」から「水の変態」「水三題」、「さらし風手事」「道灌」と宮城道雄の足跡をたどります。

看護師さんが「私、お琴やってたんです。」と言われて、早速彼女にもチラシを渡しました。

病院の後は、イオン久御山で買物。
ランチを食べて、駅前薬局で薬を出してもらって帰ったのは4時すぎ。
なかなかハードです。

宮城道雄(1894〜1956年)兵庫県神戸市生まれ、東京刈谷豊田総合病院没
韓国在住の頃の宮城道雄
神戸三宮、外国人居留地


1872年神戸外国人居留地
の中で生まれます。生後200日に眼病を患い、4歳の時に母と離別して祖母ミネのもとで育てられました。

7歳の頃に失明。
この失明が転機となり、音楽の道を志します。

8歳で生田流箏曲の2代菊中検校に師事します。その後、兄弟子の菊西繁樹の紹介により2代中島検校に師事しました。
2年後に師匠死没したため、以降は3代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となります。

師匠の「中」の字を貰い受け、中菅道夫と名乗りました。
13歳の夏一家の収入を支えるため、父の滞在する。
朝鮮の仁川


へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けました。
道雄は既存の曲の演奏だけでは満足せず、新しい作曲を目指し、1909年には14歳で第1作の箏曲、「水の変態」


を書き上げます。この時、伊藤博文

に評価されます。

彼は道雄を上京させて支援することを約束しましたが、同年に伊藤は暗殺されたため、叶いませんでした。

「水の変態
道雄は弟が朗読していた「高等小学読本」(小学校の教科書巻四 第十三課)


の中の短歌に興味を持ち、作曲にしました。
水が霧、霰、雲、露、雨、霜、雪と姿を変える様子を七種の短歌に読まれたものです。


小山田に霧の中道踏み分けて 
人来(く)と見しは案山子(かかし)なりけり

むら雲の絶え間に星の見えながら 
夜行く袖に散る霰(あられ)かな

明け渡る高嶺の雲にたなびかれ 
光消え行く弓張りの月

白玉の秋の木の葉に宿れりと 
見ゆるは露のはかるなりけり

今日の雨に萩も尾花もうなだれて
うれひ顔なる秋の夕

朝日射すかたへは消えて軒高き
家のかげに残る霜の寒けさ

更くる夜の軒の雫(しずく)のたえゆくは 
雨もや雪に降りかはるらん

宮城道雄自身の演奏がありました。
字が間違っています。「道夫」→「道雄」
この頃は今のナイロン弦ではなく、絹の弦です。失われた音です。



曼珠沙華の季節

2022-10-02 20:40:12 | 日本
光明寺お寺ライブやってきました。
羽田住職とも3年ぶりです。
村野支援学校の生徒さんたちも元気に歌ってくれました。

次に私たち。


クラッシック音楽ばかり6曲なのに子どもたちもしっかり聴いてくれました。

ありがたいなぁ!



境内には彼岸花が咲いていました。

「曼珠沙華」(彼岸花)は
山田耕筰(1886-1965年)東京府東京市本郷生まれ、東京都成城区没

が、1911年
北原白秋(1885-1942年)
熊本県玉名郡関外目村生まれ、東京府東京市杉並区阿佐ヶ谷没

の詩に曲をつけたものです。

詩集「思ひ出」の中の1つです。
こどもを亡くした母親の歌という解釈や

思ひ出の序に

美くしい小さな Gonshan.忘れもせぬ七歳(ななつ)の日の水祭(みづまつり)に初めてその兒を見てからといふものは私の羞耻(はにかみ)に滿ちた幼い心臟は紅玉(ルビイ)入の小さな時計でも懷中(ふところ)に匿(かく)してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた。

という、文章が載っていることから、白秋の幼い初恋の思い出と
白秋から感染ったチフスで死んだ乳母の思い出が混在しているという解釈などいろいろな説があって定まっていません。

ちなみにGONSHANというのは、柳川の方言で「良家のお嬢さん」という意味だそうです。
みなさんはどの解釈が合うと思われますか?

曼珠沙華

Gonshan,Gonshan 何処へゆく
赤い お墓の曼珠沙華 曼珠沙華
けふも手折りに来たわいな

Gonshan,Gonshan 何本か
地には七本 血のやうに 血のやうに
丁度 あの児の年の数

Gonshan,Gonshan 気をつけな
ひとつ摘んでも 日は真昼 日は真昼
ひとつあとからまたひらく

Gonshan,Gonshan 何故泣くろ
何時まで取っても 曼珠沙華 曼珠沙華
恐や 赤しや まだ七つ






日本のオペラ勃興期

2022-07-25 22:10:39 | 日本
大阪 中之島の中央公会堂。
フェニックスホールの途中、淀屋橋の上から写しました。
1909年渡米した株式仲買人の岩本栄之助


が、アメリカの事業家が功成り遂げると社会に還元することから学び、株で儲けた150万円(数十億)を寄付し中央公会堂が建てられました。

その後、岩本は第一次世界大戦の暴落で事業を失敗。
莫大な負債を抱えます。
一部でも返してもらったらという周囲の勧めに「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と断固として断り、1916年ピストルで自殺します。
39歳でした。

中央公会堂のホームページを見ると年表があり、
クラッシック音楽では
1919年ロシア歌劇団来日公演で「アイーダ」を、
1922年三浦環主演プッチーニの「お蝶夫人」
1923年イタリア歌劇団によるヴェルディ「椿姫」と書いています。

他の出し物は記録されていませんが、内外の音楽家が公演し、テレビなき時代、その影響は凄まじかったと思われます。

三浦環(1884-1946年)日本東京都京橋区生まれ、東京帝国大学附属病院没。

東京音楽学校在学中の1903年、日本人歌手による初めてのオペラ公演に出演。卒業後、1911年日本初のクラッシックレコードを吹き込みます。

1913年ドイツ留学、第一次世界大戦の戦火を逃れイギリスへ、そこでプッチーニの「蝶々夫人」を演じ、成功。アメリカへ渡りボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで公演。好評を博します。

1920年ヨーロッパに戻り、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリで客演します。

1922年長崎に帰国、蝶々夫人ゆかりの土地を訪ね演奏会を開きます。
レコードは東京市だけで8万枚を売上たそうです。

1924年再び渡米。サン・カルロオペラ団に出演、その後イタリアで歌手活動を続け、

1936年シチリア島のパレルモで「蝶々夫人」出演2000回を達成します。

これを期に帰国。
リサイタルや、オペラ、レコーディングを重ねますが、1944年太平洋戦争で山中湖に疎開します。


戦後すぐにシューベルトの歌曲でリサイタルを開くなどしていましたが、1946年5月亡くなります。

トッレ デル ラーゴのプッチーニ博物館やローマ歌劇場には歴代のプリマドンナと共に三浦環の写真が今も飾られています。







さくら変奏曲

2022-04-04 22:01:29 | 日本
巨椋池は、昔琵琶湖と大阪城の間にあった大きな湖でした。

秀吉が干拓し、明治政府によっても干拓が進み
東一口(ひがしいもあらい)の水路が残っています。
干拓時にできた水路を踏み固めるために周辺に桜の並木が植えられました。

そこがなかなか見事な花見のスポットになっています。



川ではなく池だった所に地下水が湧いてくるのでそれを貯めて調整するための水路です。
なので、

流れがなく、水面が静かなのでお天気は悪かったですがきれいに映っています。

あまり知られていないので人も少なくてゆったり見られます。

宮城道雄(1894-1956年)

兵庫県神戸市三ノ宮外国人居留地生まれ、愛知県刈谷市没。
菅国治郎、アサの長男として生まれました。4歳で母と離別。
生後200日に目の病気にかかり、徐々に視力が失われ7歳で全盲になります。
しかしそのことで、菊仲検校、中島検校、二代目中島検校に箏曲を学ぶことになります。
11歳で免許皆伝となり、13歳で父の赴任地朝鮮の仁川に渡り、箏曲と尺八を教えて家計を助けました。

14歳で「水の変態」を作曲。伊藤博文に評価され上京して学ぶように言われましたが、伊藤が暗殺されたため実現しませんでした。

1913年京城に移りここで喜多仲子と結婚します。
仲子の入婿になり宮城姓を引き継ぎます。
研鑽を積み、大検校の称号を得ます。

1917年仲子が死没。
貧窮します。
帰国し、東京で1918年吉村貞子と再婚。

注目され、洋楽の作曲家や評論家に評価されるようになります。

1920年内田百閒が入門、生涯付き合います。

本居長世と演奏会を共催するなど活躍します。
1929年尺八と琴の「春の海」を作曲するとフランス人ヴァイオリニスト ルネ シュメーがヴァイオリンに編曲し宮城道雄と合奏。
世界的に評価されレコード化されます。

1930年東京音楽学校で教職につきます。琴譜面を五線紙に移して教えるなど西洋音楽を取り入れた教え方をしたそうです。

映画音楽などにも手を広げます。

1945年疎開中に牛込中町の家が爆撃で焼失。

1953年バルセロナ、ロンドン放送協会で演奏。好評を、はくします。
1956年、大阪公演に向かう列車「銀河」から刈谷駅前で転落。
その後亡くなります。

「さくら変奏曲」は
1923年琴三重奏として作曲されました。
西洋音楽は、店頭で耳コピだったそうですが、それまで日本ではなかったような変奏曲の形態。
ワルツなどを取り入れています。

音は悪いですが、宮城道雄の演奏が残っています。
ナイロン弦では無く、今はもうほとんど使われていない絹糸の弦による演奏です。









西行の影響

2022-04-01 21:40:28 | 日本
願わくば 花の下にて 春死なむ
 そのきさらぎの 望月のころ
             西行

京都の桜は特別と言われます。
そんなはずないやろ。大阪人としては言いたいところですが、こんな古いものが一緒にあったり、

鴨川と遠景の橋にかすむ桜だったり

いかにもの古木を見ると、やっぱり違うと悔しながらも言わずにはいられないのです。

西行(1118-1190年)は、

俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)と言って藤原魚名を祖とし母は源経清の娘、武門の家柄でおそらく京都で生まれたと言う説と
佐藤氏の知行地 紀伊の国 田中荘という説があります。

出家の理由も諸説ありますが、一般に言われているのは、高貴な女性に恋をしてなんとか一度だけ会いましたが、

「あこぎ」…阿漕=漁が禁じられている三重県の阿漕が浦で漁をして捕まったことから、【欲深く、しつこく、図々しい、悪質な、無慈悲な】という意味

と言われて失恋したことで出家したそうです。
相手は

鳥羽天皇の皇后 崇徳天皇、後白河天皇の母 待賢門院藤原璋子(1101-1145年)とも

鳥羽天皇の皇后 近衛天皇の母 美福門院 藤原得子(1117-1160年)とも言われています。

出家していくつかの草庵をいとなみ、30歳くらいの時に陸奥の国に旅し、高野山にも訪れています。
四国に崇徳院の白峰陵を訪ね、上田秋成の「雨月物語」の、白峰の元になっています。

その後2回目の陸奥行きで、藤原秀衡と会い帰りに鎌倉で源頼朝と会っています。
伊勢国で庵を営んだあと、南河内郡の弘川寺で亡くなりました。

西行は、歌人として生前より有名でしたが、亡くなった後は、その生き方が尊敬され、中世、近世以降の文学や、舞台に大きな影響を与えました。

松尾芭蕉(1644-1694年)

の「奥の細道」は、西行の500回忌に西行の辿った足跡を訪ねるのが1番の目的です。

また、西行桜は、室町時代世阿弥によって作られた能で、桜の和歌を詠んだ西行と桜を結びつけた創作です。



日本クラシック創成期の作曲家

2022-01-24 21:47:00 | 日本
椿の木がきれいな花をたくさん咲かせていました。



尾高尚忠(1911-1951年)

東京生まれ、名古屋没
旧制高等学校成城文科を半年で中退、1931年ウィーンに留学。ピアノと音楽理論を学んだ後、一時帰国し武蔵野音楽学校で教鞭を取ります。
1934年ウィーンに戻り、ピアノ、指揮、作曲を学び、1938年ウィーン交響楽団、ベルリン フィルハーモニー交響楽団の指揮をしたり自作を披露するなどして活躍します。

1940年帰国、41年新交響楽団を指揮。
新交響楽団が日本交響楽団に改組、山田和男とともに専任指揮者になります。

戦前、戦中、戦後と日本交響楽団の指揮を各地でふりつづけましたが1951年1月12日名古屋公演の後、倒れ、39歳で死にました。

ハードワークぶりは日響機関誌の寄稿でよく知られていて、NHKが糾弾され、その後日本交響楽団はNHK交響楽団となり、「尾高賞」がもうけられるなど楽団の待遇改善に務めました。

フルート協奏曲1949年
小編成オーケストラ版が初演され、オーケストラ版への改定がすすめられましたが、尾高の死去で未完に終わりました。

フルート奏者の森正の依頼で作曲をはじめ、助言を受けながら2ヶ月で完成。

オーケストラ版は作業がはかどらず1951年2月16日の尾高は他界します。


弟子の当時19歳の林光が完成しました。
吉田雅夫のフルートで追悼演奏会で初演されました。

後に尾高惇忠によってピアノ伴奏版も作られています。


大阪城に行ってみた。

2022-01-08 21:44:55 | 日本
夫が仕事を忘れてきたと、職場まで母と次男と私でお付き合い。
道具をまとめている間に、大阪城で散歩。

お堀には屋形船。

大きいですが、これはレプリカ。本物はもっと大きかったそうです。

散歩するだけのはずが、「せっかく来たから」と母が言い出し。

昇ってしまいました。

大学生の時以来。
早稲田マンドリンクラブの面々をご案内。
天守閣から生駒山を見て、「山が見える❗」と驚いていたのが最後の記憶です。

中には武具や屏風絵、黄金の茶室、映像展示がありましたが、撮影できるのはレプリカだけ。
縁起物の寅と天守の鯱。
キンキラキン!
秀吉らしい。

天正の少年使節とは
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父[
1582年
キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマに派遣された使節
です。

この絵画はグーテンベルグの活版印刷で使節の日本からの来訪をドイツのアウグスブルクで報じられたものだそうです。

印刷機を日本に持ち帰り、日本語版で出版したのでキリシタン版とも言われていたそうです。

13歳から14歳の少年で、ローマ教皇、スペイン、ポルトガルの王に日本での布教の精神的支援を求めるものだったそうです。

伊藤マンショとローマ教皇グレゴリオ13世の謁見

1590年任務を果たして、日本に帰国します。

1591年1月8日
聚楽第で豊臣秀吉の前で少年使節は、ジョスカン デ プレ(1450-1521年)
の曲を演奏します。

マンショがヴィオラ ダ ガンバ、ミゲルがチェンバロ、マルティノがハープ、ジュリアンがリュートを演奏、秀吉は3回もアンコールをするほどでした。
聚楽第、8年で秀吉によって打ち壊された。金箔の瓦、白壁の壮大美麗な建物だったとされています。

以前にも書きましたが、行って来ただけで演奏できるものか?と疑問でした。

四人はセミナリヨという、日本各地に建てられたキリシタンの教育施設で育てられました。

そこではカトリック必要なラテン語、古典、日本の古典が教えられ、音楽と体育も必須科目でした。

フルートとクラヴォ(クラヴィコード?)、オルガンを学び、グレゴリオ聖歌、多声聖歌も学びました。
ピクニックもあり、文化祭では劇や歌が披露されました。

九州のキリシタン大名の名代なので、おそらく九州南島原市のセミナリヨで教育を受けていたのではないかと思われます。
1587年バテレン追放令が出て、帰国を赦されるも、
1614年徳川家康による禁教令が出て、

伊藤マンショは1612年病死。
千々石ミゲルは棄教。
中浦ジュリアンは1633年穴吊るしの刑で殉教。
原マルチノはマカオに追放されそこで亡くなりました。

ジョスカン デ プレ






舞楽見て来ましたs。

2021-11-30 00:29:25 | 日本
大阪市役所のイルミネーション。


市庁舎も、

きれいです。

好きなのはイルミネーションの出口にある中之島中央公会堂。
1918年岩本栄之助さんの寄付によって竣工。
以来国内外のアーティストが公演しています。老朽化するも、残す形で耐震性、バリアフリーなどを加える形で修復。今は現役です。


今日は母と天王寺舞楽を見に行って来ました。





美味しい窯やきピザを頂いて、サツマイモのクリームブリュレまで食べてからフェスティバルホールの大ホールへ。








こちらもリニューアル済みできれいです。
プログラムは天王寺舞楽。
今年は聖徳太子御聖忌1400年にあたるそうです。

生没年ははっきりしていませんが、ゆかりのお寺四天王寺さんで来年4/22までを法要期間と決めて、いろいろな法要をされるそうです。

舞楽は笙、篳篥、笛、太鼓で演奏される曲に乗って舞われる舞のことです。

推古天皇(554-628年)の頃からほとんど形を変えずに伝わっています。

蘇利古
太子お目覚めの舞と言われています。

仏教を入れたい太子と反対勢力との戦いの舞。
絢爛豪華な舞楽に目が釘付けに。
今回は百済、林巴国(南ベトナム)から伝わった舞と世俗の酔っぱらいの舞、宮廷作曲家の舞などを披露されました。

4/22には四天王寺さんの法要でたくさん舞われる舞のダイジェスト版だそうです。

四天王寺には聖徳太子時代から伝わる笛が二本あるそうです。

その笛、龍笛と篠笛で、笛の吹き手のトップ奏者が吹くそうです。
聖徳太子の化身のような扱いで、必ず聖徳太子を舞って、仏様の前にその笛をお供えしてから法要を始めるそうです。

舞楽は聖徳太子の時代から仏様に捧げられるだけでなく、外国の賓客をもてなすために舞われたそうです。

国力を示し、侵略を諦めさせる意味もあったと言います。

4拍子の3拍目に、太鼓がなるリズムがおもしろかったです。