月曜日の夜は渡辺橋近くのサロン・ド・ぷりんしぱるでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
1839年
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。
ヘブリディーズ諸島
総譜フィンガルの洞窟1832年
スターリング城
フィンガルの洞窟(海から)
定期演奏会が終わり、次の選曲入っています。
前回候補のドボルザークの「セレナーデ」は神戸で練習した時に榎田先生。
「他の楽章はうまくなる気がしねぇんだよ。だから第1楽章だけにします。」
大阪エスカルで練習した後も
「いい曲なんですよ。これはドボルザークにしては泥臭くなくて。それをこんなふうに演奏するなんて!」とお冠りですが、第1楽章はまあ練習は続けることになりました。
もう一つの候補はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」。
「この曲はね。ブラームスが聴いたときに、『僕が作ったすべての曲と交換してもいい!』と言ったぐらいの名曲なんですよ。」
初見でやってみたら、「この編曲者はフルートのことを知らないなぁ。」
これを続けるかどうか?未定になりました。
フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809- 1847年)自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没
1839年
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。
『フィンガルの洞窟』(フィンガルのどうくつ)作品26は、メンデルスゾーンが1830年に作曲した演奏会用序曲です。
原題は『ヘブリディーズ諸島』(: Die Hebriden)です。
ヘブリディーズ諸島
日本語では通称の『フィンガルの洞窟』の方が多く用いられています。
メンデルスゾーンが初めてイングランドを訪れたのは、20歳の誕生日を祝ってドイツ人貴族グリンケンの招待にされた時でした。
イングランド旅行に続いて、メンデルスゾーンはスコットランドに進み、その地で交響曲『スコットランド』を着想します。
スコットランド旅行中にメンデルスゾーンは、嵐の夜のヘブリディーズ諸島を訪ねてスタファ島
スタファ島
に辿り着き、観光客に人気のフィンガルの洞窟で霊感を受けました。
に辿り着き、観光客に人気のフィンガルの洞窟で霊感を受けました。
当時フィンガルの洞窟は35フィートの高さと200フィートの水深があり、玄武岩の色とりどりの石柱からなっていました。
メンデルスゾーンはその後直ちに序曲の創作を開始。
主題を書き下ろし、それを姉ファニーに書き送って次のように書き添えました。
「僕がヘブリディーズ諸島にどんなにひどく感銘を受けたか分かってもらえるように、頭に思い浮かんだものを姉さんに届けようと思います」
メンデルスゾーンを嫌っていたリヒャルト・ワーグナーさえもこの作品を「一流の風景画のような作品」として絶賛していました。
作品は1830年12月16日に完成されました。
当初は『孤島』(Die einsame Insel )と題されていました。
1830年
その後、メンデルスゾーンは譜面に手を入れ、1832年6月20日に改訂作業を終えると、『ヘブリディーズ諸島』と改名しました。
にもかかわらず、『フィンガルの洞窟』という通称も使われました。
パート譜には『ヘブリディーズ諸島』と題されていましたが、総譜には作曲者自身によって『フィンガルの洞窟』と題されていたためです。
総譜フィンガルの洞窟1832年
初演は1832年5月14日にロンドンで行われ、演奏会用序曲『夏の夜の夢』も併せて上演されました。
自筆譜はオックスフォード大学ボドリー図書館に保存されています。
この作品は、序曲と題されていますが、単独で完結した作品として意図されています。
物語性はなく、標題音楽に分類することはできません。この作品ではむしろ、気分やいくつかの光景を描き出しており、いわば描写的な標題音楽の先駆けに位置付けられています。
作品は2つの主題で構成されています。
冒頭の主題は、メンデルスゾーンが洞窟を訪れた後に書き付けた主題で、主にヴィオラ、チェロ、ファゴットによって呈示されます。
この情緒的な主題は、洞窟の力強さと心打つ美景を想起させつつ、侘しさや孤独感を表出することが意図されています。
一方の第2主題は、海の動きや「逆巻く波」が描写されています。
標準的なソナタ形式で作曲されており、コーダにおいて最初の主題が戻ってきて結びとなります。
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初めての一人旅でスコットランドを訪れた、メンデルスゾーン。まずエディンバラで歴史に思いを馳せ、スコットランド交響曲の冒頭を書きました。そして次に向かったのは、大自然あふれるハイランド地方でした。
中世からスコットランドの首都として栄えていたエディンバラを訪ねたメンデルスゾーンは、非常に文化的で、深い歴史をもつ都市に大きく感銘を受けました。7月31日、メンデルスゾーンはエディンバラの南部を訪ねたのち、北に向けて出発します。
次の目的地、スターリング(Stirling)では、具体的にどこへ立ち寄ったのかは語られていませんが、スコットランドの歴史において重要な位置を占めるスターリング城に立ち寄ったのではないかと言われています。
スターリング城
丘の上に建てられており、13世紀からの歴史をもちます。
翌8月1日には、スコットランド高地へ向かい、自然にあふれた森へ足を踏み入れます。ここでは大雨に見舞われながらも、シェイクスピア『マクベス』でも言及されている「バーナムの森」を含むさまざまな場所でスケッチを楽しみました。
バーナムの森(メンデルスゾーン作、1829年8月2日)
船酔いに苦しみながらたどり着いたフィンガルの洞窟
8月6日まで、ハイランドの険しい自然を体感したのち、8月7日にスコットランドの港町オーバン(Oban)へ到着します。この地は、1794年に開業したウィスキー蒸留所によって発展した小さな港町です。
到着した日に早速、オーバンの古城であるドゥノリー城をスケッチし、そのまま船に乗って隣のマル島(Isle of Mull)へ向かいます。
ドゥノリー城(メンデルスゾーン作、1829年8月7日)©︎Mendelssohn in Scotland
ドゥノリー城
スコットランド西部のヘブリディーズ諸島の中でも、かなりの規模を誇るマル島ですが、いくつかの港町は栄え、それ以外の地はほとんど手付かずの荒れた自然が広がっていました。
8月7日、蒸気船でマル島のトバモリー港に到着したメンデルスゾーンは、家族へ次のように宛てています。
「小さい頃から、ヘブリディーズ諸島とヘスペリデス諸島を混同していたよ。
この島には、果実が実っている木なんてどこにもないし、もしオレンジがあったとしても、ホット・ウィスキー・トディ(スパイス入りのホットウィスキー)の中にしか入っていないよ!(中略)
しかし、ヘブリディーズ諸島は本当に素晴らしいところだ。そこで浮かんできた音楽を送るから、ここがどれだけ素晴らしくて、僕がどんな印象を抱いているのかをぜひわかってほしい。」
ヘスペリデス諸島とは、ギリシア神話内に登場する、女神たちが住む世界の西の果てにある島で、オレンジや黄金のリンゴなどの果物が育つ果樹園があるとされています。
スペインのカナリア諸島がモデルになったと言われていますが、メンデルスゾーンはこの島とヘブリディーズ諸島を昏倒していました。
そしてこのときに、両親に宛てた手紙の中で書いた音楽が、まさに演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》冒頭のスケッチでした。
実はこの曲の冒頭は、洞窟とは関係がありませんでした。
演奏会用序曲《ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)》のスケッチ
当初は《孤島》というタイトルが付けられていましたが、のちに作曲者自身によって《ヘブリディーズ諸島》や《フィンガルの洞窟》と改名されました。
港町で1泊し、一行はさらに離れた無人島のスタッファ島(Isle of Staffa)へ行きます。
スタッファ島こそ、フィンガルの洞窟のある場所でした。
無人島のため桟橋がなく、メンデルスゾーンは、島の近くまでは蒸気船で向かい、そのあとは手漕ぎボートで島へ向かいました。
フィンガルの洞窟は、波の侵食によって削られてできた洞窟で、火山のマグマが急激に冷えることでできる六角形の柱によって形成されています。
メンデルスゾーンは、フィンガルの洞窟から戻ってきてから、
「前回の手紙からどれだけのことがあったか! ひどい船酔い、スタッファ島への旅、見事な風景……クリンゲマンがすべて説明してくれていると思うので、短いメモ程度にとどめておきますが、これだけは言っておかなければいけません」と両親に送り、手紙を書く気にもなれなかったことがわかります……。
フィンガルの洞窟(海から)
洞窟内から
スタッファ島周辺の海域は、メンデルスゾーンの時代からすでに野生のツノメドリやアザラシが生息していました。
ハイランドや湖沼地帯を巡ったあと、
8月15日、グラスゴーに戻ったメンデルスゾーンは、両親へスコットランドからの最後の手紙を送ります。
「スコットランドの自然はとても厳しかった。
木々が倒れ、岩が崩れるほどの大雨が突然降り、現地の新聞では毎日そのことばかりが取り上げられている。
田舎の惨めさや孤独さをここに書いても、絶対に時間が足りない。
そして10日間、旅行者が絶対に足を踏み入れないような大自然を歩き続けた。
現地に住む人間は非常に排他的で、何を質問しても「ノー」としか返答がなく、よそ者扱いされ、冷たくあしらわれる。
飲み物はどこに行ってもウィスキーしかない。教会も大通りも庭園もない。多くの建物が廃墟になっている。
この地が憂鬱な場所だと言われるのは、当然のことでしょう。
それでも、私たち二人は本当に楽しい時間を過ごした。笑い合い、スケッチし、食べられるものはすべて食べ、大自然に向かって大声で叫び、毎日12時間泥のように眠りました。
この日々の思い出は、死ぬまで決して忘れることはないでしょう。」、
(ontomo 大井駿より抜粋)
フィンガルの洞窟は柱状節理になっているから、火山活動の跡ですね。福岡県糸島市に芥屋の大門があり、これに似ています。私、数年前に行ったことがあります。
↓ 参考
https://tanoshika.net/keyanooto/