24日午後、ハープの弦が着きました。
切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
すぐに装着。
グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
魔笛1791年チラシ
は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
がモーツァルトのアリアを歌いました。
切れた弦のほか、切れそうな弦を2本加えてまとめ買い。
まとめると送料無料になるので…少しでも安く買いたい…セコい!
22日の夜営業が終わってからメールで注文して、23日の10:00に確認のメール返信。
24日午後には宅急便で着いたので早いです。
感謝です。
すぐに装着。
グランドにつけていて切れた弦をライオン&ヒーリーのレバーハープに着けて、リユース。
こちらの方が少し小型なので、短くなった弦を使えます。
ただし、都合よく同じ弦が切れるわけではないので、あまり使わないレバーハープは3本の弦が切れたまま放置されています。
いつでも使えるようにしておきたいですが…私には贅沢なようです😭💦
ヴォルフガング モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
はパリでは、稼ぎがよくなく自宅に人々を招いてコンサートを開きますが、称賛は得ますがお金を出してはくれません。
ウィーンに行きコンスタンツェ
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。
と結婚。6人のこどもをもうけます、うち4人は夭折。
コンサートは盛況ですが、あまり稼げないので
ハイドンが彼の才能を認め、ウィーンに留めるためにプラハのオペラの仕事に彼を推薦したりしていますがうまくいきません。
ウィーンでオペラフィガロの結婚を上演しますが、うまくいきません。翌年プラハで上演すると人気が出て一息つきます。
モーツァルトは品行が悪く、浪費癖があり、なかなか高給の仕事には恵まれず、収入は激減。
ピアニストとしてコンサートを開いて収入を得ていましたが、思うようにお客は増えませんでした。
シカネーダーの劇場でオペラを書いて稼ぎました。
魔笛1791年チラシ
モーツァルトは亡くなる3年前にこのような手紙を書いていました。
「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころ、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。
目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。
こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。
僕が幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。
長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人はほかには一人もいません。
有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」
天才と人々は言いますが、モーツァルトにすれば、それは長い長い毎日の練習と努力の積み重ねによるもので、人より早く初めただけのことと言いたかったのかもしれません。
そして天才と言われても生きていくために稼ぐのは大変だったのだろうと思います。
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K. 595
は、モーツァルトが1791年に作曲したピアノ協奏曲で、モーツァルトが作曲した最後のピアノ協奏曲です。
作品目録によれば、1月5日に完成したと記されています。
前作の第26番『戴冠式』(K. 537)から3年間のブランクがあります。
この頃には既にモーツァルトの人気は低迷していて、会員が集まらないために3年以上も予約演奏会を開くことが出来ない状態で、ピアノ協奏曲を作曲するチャンスには恵まれなかったためです。
1790年のフランクフルト・アム・マインへの旅行中に、ウィーンへ戻った際には再び予約演奏会を開くするつもりで、この演奏会のプログラムを飾るためにこの協奏曲を作曲しました。
しかし、実際に演奏されたのは、1791年3月4日に宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸において催された演奏会においてであり、友人であるクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアから出演依頼を受けたモーツァルトは、1788年に第1楽章を手がけていた本作を完成させて演奏を行いました。
この演奏会がモーツァルトにとって演奏者としてステージに登場した最後の機会です。
なお、この演奏会ではモーツァルトのかつての恋人で義姉のアロイジア・ランゲ
がモーツァルトのアリアを歌いました。
モーツァルトのピアノ協奏曲は第20番から27番は演奏機会が多いですね。27番もコンサートで聞いたことがあります。
CDはウルディーミル アシュケナージの演奏のを持っています。
モーツァルトのピアノ協奏曲は人気ですね!
アシュケナージ…いいですね〜✨