
金曜日上野公園、東京文化会館前でサックスカルテットを聞いた後、東京都美術館で「エゴン・シーレ展」を観ました。

16歳のシーレ

しました。


と同棲を始めます。

シーレとエーディト


シーレといえば絵画から、なんとなく破滅的で、孤独で、奇矯な人物というイメージでしたが、なかなかしたたかで、計算も働き、クリムト亡き後は自分が画壇をリードするという自覚もあったようです。

グスタフ・マーラーの妻、マーラーとの結婚生活は、彼が借金を抱えて年齢差も大きく、またマーラー自身がアルマに献身的であることを求め、婚約時から彼女自身が作曲することを禁止するなど、命令的な態度を取りました。
予約無しだったので、どうかと思いましたが、

「平日だから、ワンチャンあるんじゃないか?」…と


行ってみると、15:00〜には空きがあると言うのですぐ入れました。

「平日だから、ワンチャンあるんじゃないか?」…と


行ってみると、15:00〜には空きがあると言うのですぐ入れました。
結構人がいっぱい。空いてはいませんでしたが…。
エゴン・シーレ(1890年-1918年
)オーストリア・ハンガリー トゥルン アン ディア ドナウ生まれオーストリア・ハンガリー ウィーン没

16歳のシーレ
帝国鉄道の鉄道員の父、チェコ系オーストリア人の母

マリア シーレ1907年
の間に生まれます。
の間に生まれます。
ルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系です。初頭教育を受けるためにクロスターノイブルク市へ移住し、そこで、教師から美術に対する才能を評価されます。
15歳の時に父親が梅毒で亡くなります。
叔父のレオポルドはシーレを引き取り学業を進めますが、シーレは学業に励みません。6年にはシーレはギムナジウムでなく、職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時にグスタフ クリムトと同じウィーン工芸学校で学びました。
その後、ウィーン美術アカデミーへ進学

しました。
翌年アドルフ ヒトラーも同じアカデミーを受験して不合格になっています。
しかし、シーレは保守的で古典主義のアカデミーに失望し、クリムトに弟子入りしました。
しかし、シーレは保守的で古典主義のアカデミーに失望し、クリムトに弟子入りしました。

クリムト
クリムトは熱意ある。後輩を可愛がり援助を惜しみませんでした。
新しい作品を模索する作家たちが組織したウィーン工房にシーレも入会し、アカデミーを退会します。
新しい仲間たちとノイクンストグルッペ(新たな芸術の集い)を設立します。
1911年21歳のとき裸体のモデルを務めていた17歳のヴァリ ノイチェル

と同棲を始めます。
シーレは14歳の少女をモデルにしていたことで投獄されます。家出少女を泊めていただけだと主張しますが、大量の裸体の絵画が出たことで逮捕されました。
この時彼を支えていたのはヴァリだけでした。ヴァリはシーレの有名な作品のモデルを何点も勤めています。
訴えは取り下げられ、シーレは解放されます。
1914年ウィーンに戻ったシーレは迎いに住んでいたエーディトとアデーレ姉妹と知り合い、どちらとも性的関係を持ち、モデルもしています。
結局妹のエーディトと結婚することにします。

シーレとエーディト
シーレは、エーディトとヴァリの両方を繋ぎとめたいと考え、年に1回それぞれと2人でバカンスに行く、という案を2人に提示しましたが、ヴァリは去り二度と会いませんでした。
おなじ中産階級で結婚することは、資金的な打算もあると友だちに手紙で打ち明けています。
その後ヴァリは従軍看護士になり、1917年クロアチアで猩紅熱で病死しています。

結婚の3日後第1次世界大戦が勃発すると、24歳のシーレはオーストリアハンガリー帝国に招集されました。
しかし、軍の上層部に画家として活動していることを説明すると、軍は芸術家を尊重してシーレを前線に着かせませんでした。スケッチや作品の構想も続けることができました。
さらに1917年ウィーンに転属すると作品制作を再開するようになり、温めていたアイデアの制作に打ち込みました。
1918年第一次世界大戦も終わりに近づいた時、クリムトによる第49回分離派展に50点以上の新作を一挙に公開。シーレの作品群は一躍注目を集め、絵の価格は上昇しました。
高級住宅街ウィーンの13区ヒーチングに新アトリエを構えました。
しかし、妻エーディトがスペイン風邪にかかり、子どもを宿したまま10月28日に死去。
シーレは妻を看病しましたが、妻の死から3日後、自らも感染し、28歳でスペイン風邪で亡くなりました。

シーレといえば絵画から、なんとなく破滅的で、孤独で、奇矯な人物というイメージでしたが、なかなかしたたかで、計算も働き、クリムト亡き後は自分が画壇をリードするという自覚もあったようです。
早逝しなければ、画壇を束ね、国家的な大きなプロジェクトを行っていたかもしれないなんて妄想も湧いてきました。
アルマ マーラー(1879ー1964年
)オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没

グスタフ・マーラーの妻、マーラーとの結婚生活は、彼が借金を抱えて年齢差も大きく、またマーラー自身がアルマに献身的であることを求め、婚約時から彼女自身が作曲することを禁止するなど、命令的な態度を取りました。
芸術家を支えることに愛を見出したアルマでしたが、育児や互いの交友関係が合わないこと、などから心労を重ねます。
さらにマーラーの楽譜の清書を始め、夫の仕事を手伝いを買って出ましたが、マーラーは彼女をあまり尊重しませんでした。
夫婦仲が冷え切っていた時、建築家のヴァルター グロピウスに出会い求愛されます。マーラーはアルマとの関係修復を望んでフロイトの診察を受けていたというエピソードは有名です。
1911年マーラーは亡くなります。
ココシュカと関係を深めながら、グロピウスと結婚し、娘マノンを産みます。
マノンは、夭逝し、グロピウスとの結婚も破綻します。
その頃作曲の勉強をツェムリンスキーに師事し再開します。
1915年
ソプラノのための4つの歌を作曲します。
アルマはこの後ヴェルフェルと結婚しますが、その時まで作曲します。
その後2回結婚します。
夜に光を
森の孤独
激情
収穫の歌
この展覧会は関西には巡回してこないんですね。
痛ましいですね。あの時代の空気でしょうか?死の匂いを感じてしまう。クリムトには爛熟を感じてしまう。
クリムトは、胸が痛くなります。
残念ながら、関西には来ないみたいですよ。
エゴン・シーレ、やはりあの若さで亡くなるなんて本当に痛ましいですね。
あまり歴史には書かれていませんが、第一次世界大戦も酷かったですが、スペイン風邪は戦争で亡くなる人よりはるかに多くの人の生命を奪いました。
アルマの子どもたちも2人夭逝しています。その時代の空気ってあるのかもしれませんね。