金曜日の夜は「米久」本店、浅草で牛鍋を食べました。創業100年以上の老舗だそうです。
来店者の数だけ太鼓が打たれます。
赤絨毯に椅子。
お肉とおネギ、春菊、お豆腐、シラタキを行儀よく小さな鍋の中に並べて
割り下を入れて煮るスタイル。
白ごはんにタレを染ませて頂きました。
が蒲生氏郷と細川忠興に振る舞った記録があるそうです。
薬用だったそうです。
仮名垣魯文「安愚楽鍋」
のバレエ音楽「屋根の上の牛」は
の台本とラウル デュフィの舞台装置にギイ=ピエール フォコネの衣装によるバレエにされるにあたって、ミヨーはシネマ幻想曲をバレエ音楽に編曲しました。
来店者の数だけ太鼓が打たれます。
ドンドンと二人分。
赤絨毯に椅子。
お肉とおネギ、春菊、お豆腐、シラタキを行儀よく小さな鍋の中に並べて
割り下を入れて煮るスタイル。
最後は
白ごはんにタレを染ませて頂きました。
歴史を感じるゆかしい味でした。
3世紀頃の日本では牛肉は食べられていて「魏志倭人伝」には、誰かが亡くなった時には喪主は肉食を禁じられると「物忌み」の習慣に触れられています。
魏志倭人伝
6世紀仏教の普及とともに牛肉は食べられなくなりした。
天正7年(1590年)高山右近
が蒲生氏郷と細川忠興に振る舞った記録があるそうです。
近江牛を井伊家の彦根藩から運んだそうです。
1687年には「本草綱目」に味噌漬けが考案されています。
薬用だったそうです。
「干牛肉」も大名や将軍家だけで食べられていました。
欧米人が日本に滞在するようになり、明治2年(1889年)肉牛を卸す業者が現れます。
滋賀県から横浜の居留地まで牛を歩かせて運び17日-18日かかったそうです。
仮名垣魯文「安愚楽鍋」
明治4年「士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」
明治12年(1899年)牛肉卸し売り業「米久」が東京で開業します。
1日に40頭の牛が捌かれるようになります。
大正10年刊行の「近郊名所名物案内」には「東京のもので米久の名前を知らないものはいない」と書いていて数年で26店舗を数えるまでになりした。
この「米久」と現代の「米久本店」との関わりはわかりませんでした。
ダリウス ミヨー(1892ー1974年)
フランス共和国エクス=アン=プロヴァンス生まれ、スイスジュネーブ没
のバレエ音楽「屋根の上の牛」は
チャールズ チャップリンの無声映画のために作曲され「バイオリンとピアノのためのシネマ幻想曲」という名前でした。
ジャン コクトー
の台本とラウル デュフィの舞台装置にギイ=ピエール フォコネの衣装によるバレエにされるにあたって、ミヨーはシネマ幻想曲をバレエ音楽に編曲しました。
第1次世界大戦中にブラジルで2年を過ごしていた間に知った音楽に基づいて一連の場面が設定されています。
ストーリーはなく、舞台は「屋根の上の牛」という酒場にダフ屋、ボクサー、男装の麗人、頭上の換気扇のファンに首を切り落とされたのに生き返った警官、その他大勢がこの酒場に入り浸っているというものです。
1920年シャンゼリゼ劇場において初演されました。
写真に太鼓が写っていたので。
昔、子供の頃に爺さんに連れられて行ったすき焼きのお店は、入口に太鼓がおいてあり、入店があると店員さんが、叩いて何名様御来店。といって席まで、案内してくれました。
魚や野菜は食べるの禁止というところは少ないですが、牛肉、豚肉などは世界中で食べるの禁止というのがありますね。たぶん、人に近いところにいる動物なので、憐れんで、食べるの禁止にしようと思ったのでしょう、と私は思っています。いろいろ理由はあると思いますが。
夫は浅草生まれで、やはり父親に連れて行ってもらったすき焼きの店があったそう。この店かな?と思って連れて行ってくれたみたいです。
もう義父も亡くなってどこかはわからないでしょう。
でも太鼓とすき焼きと父との思い出、ずっと心に残っているんですね。
昔は食卓と原材料の距離が近いし、より生き物を頂いている感覚があったのでしょうね。育てた牛や豚、鶏を殺して頂いていた人も多かったでしょうから。
憐れみの心大切ですね。