ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

戦争は人を殺し、拷問し、強奪し、実験し、犯し、その行為者を狂わせる、国家権力の暴走の最たるもの!

2013年05月14日 | 日本とわたし
祖国と女達(従軍慰安婦の歌)



祖国と女達(従軍慰安婦の歌)
作詞・作曲 美輪明宏

北は青森から 南は沖縄
売られ買われて 今日も旅行く
違うお国訛りで 慰めあいながら
捕虜の女囚も 同じ仲間さ
荒れ果てた肌に やせこけた頬
今日も覚悟の最後の化粧
バンザイ バンザイ

毎日百から二百 兵隊相手に
朝日が昇り 月が落ちるまで
いずれ死んでゆくことが 決まっている男
虚ろに空を 見つめる女
涙も渇れはて痛みもないさ
そこには 神も仏もいない
バンザイ バンザイ

誰の子かわからぬ 赤子残して
死んだ女やら 銃を片手に
愛する若い兵士と散った女やら
歌える女は 子守唄を唄う
あまりの怖さに狂った女
嫌な将校に斬られた女
バンザイ バンザイ

男はなんていいんだろう羨ましいじゃないか
勲章をもらえて 恩給もつくさ
死んだら死んだで 名誉の戦死とやらで
立派な社に奉られるんだろ
私も男に生まれていたら
今ごろきっと勲章だらけ
バンザイ バンザイ

戦に負けて帰れば 国の人たちに
勲章のかわりに 唾をかけられ
後ろ指をさされて 陰口きかれて
抱いた男たちも今は知らん顔
祖国の為だと死んだ仲間の
幻だいて 今日も街に立つ
バンザイ バンザイ
ニッポン バンザイ

大日本帝国バンザイ 
大日本帝国バンザイ
大日本帝国バンザイ
 



先日また、阿呆が阿呆な発言をした。
それに群がって非難する人や報道機関。
わたしもその中のひとり。

けど、このタイミングはなんやろう。
この大騒ぎはなんやろう。
もともと、騒ぎの渦中に身を置くのが大好きな男だけに、つい疑うてしまう。

発言について、ああやこうやと突き合いをしてるのやけど、
わたしはこの、ツィッターのまるこさんという人の言葉が、一番腑に落ちた。

『戦争は、権力者が考えつくあらゆる欲を、「国家が」理性を取っ払って満たすことを正当化させる。
拷問、強奪、強姦、殺人、人体実験。
「戦争が兵士を極限の精神状態にさせるから」ではない。
その言い方は、暗に、兵士の暴走も仕方が無い、となるんだよ。
はじめから国家権力の暴走の最たるものでしかない』


そやからここに、丸山さんの歌と一緒に、書き残させてもらいます。
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ゴーヤと湯たんぽと音つくりと

2013年05月14日 | 音楽とわたし
ゴーヤがど~や!と言わんばかりに、根を張り出した。


なんちゅうか、命の始まりというか、なんとも力強い姿。

それに比べてこのわたし……思いが音になったりならんだり、浮かんできた音を弾いては直し、書いては消しして、一進一退。

むちゃくちゃ寒いから、足元には湯たんぽ♪


バイオリニストのサラに渡した楽譜に、また変更が出てきた。

オーディション本番までの合わせって、一回できるかどうかやのに。

でもがんばる。

日本という、わたしの大切な祖国への想いを、音にしたいから。

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小泉が無駄遣いやと安全装置を撤去し、安倍が日本の原発は万全と豪語した。責任取ってもらおやないの!

2013年05月13日 | 日本とわたし
地震・原発・災害情報のまとめブログの記事を紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ

【福島事故の原因】原発の安全装置を撤去した小泉政権!福島原発の安全対策を怠った安倍首相!福島原発事故は旧自民党の「手抜き対策」が最大の原因! new!!

自民党の議員たちは、福島原発事故が民主党によって引き起こされたかのように宣伝していますが、
安全対策を怠るどころか、安全装置を撤去して、事故の一因を作り出したのは、他ならない自民党なのです。
例えば、小泉政権時代に、福島原発を始めとする原発の安全装置を撤去していた話は有名です。

☆【原口前総務相】福島第一原発の安全装置は小泉政権が撤去していた


以下は、原子力安全委員会の速記録。
蒸気凝縮系の機能を削除したことが、書かれているのが分かります。

☆第10回 原子力安全委員会定例会議
URL http://www.nsr.go.jp/archive/nsc/anzen/soki/soki2003/genan_so10.htm(まうみ注・このURLからはページが開けないようです)

引用:
それでは、2-3号に基づきまして、申請の概要につきまして、ご説明させていただきます。
申請者は、東京電力株式会社でございます。
対象となるプラントにつきましては、福島第一原子力発電所でございます。

原子炉の型式、熱出力につきましては、型式につきましては、3号がウラン・プルトニウム混合酸化物燃料、MOX燃料を使えるということで、設置許可を受けてございまして、
これ以外の、2から6号については同じでございます。
熱出力につきましては、2から5号につきまして、2380MW、6号については3300MWでございます。
 
申請年月日につきましては、昨年の7月5日に申請があったわけでございます。
それから、変更項目につきましては、2点ございます。

2号につきまして、冷却材再循環ポンプの電源装置を、従来機械式でございましたMGセットから、電子装置を用いました静止形に変更する、というものが第1点でございまして、
もう1点は、2から6号共通でございますが、残留熱除去系の蒸気凝縮系の機能を削除するものでございます。

この工事につきましては、一昨年、中部電力の浜岡1号で、余熱除去系の蒸気凝縮系配管が破断するというトラブルがございまして、この対策工事でございます。
既に浜岡1号、東海第二、女川発電所で、それぞれ許可を受けまして、工事を行っております。
:引用終了



このことについては、雑誌などでも取り上げられており、当時の東電社長は、勝俣恒久氏であることなどが判明しています。
未だに、この件についての明確な責任追及が行われておらず、中途半端な状況となっています。


☆福島第1原発の命綱の冷却システム『蒸気凝縮系機能』は外されていた
URL http://geocities.yahoo.co.jp/gl/matiplanplan/view/20110609/1307583720

引用:


誰だって、危機的になれば命綱を付ける。
しかし、平時に命綱を付けておく、というのは、煩わしく、負担の重いものである。
 
今回の福島第1原発事故を振り返ると、
設計時に付いていた『蒸気凝縮系機能』(原子炉から出る蒸気を「熱交換器」で冷やして水に戻し、再び原子炉に注水する冷却システム)を外していたということが、
『週刊文春』(6/9)の上杉隆氏と、文春取材班によって明らかにされている。

「なぜあれほど簡単にメルトダウンしてしまったのか。私は福島第一原発の事故以来、ずっと不思議に思っていました」
 
こう語るのは、佐賀大学元学長の上原春夫氏である。
上原氏は、福島第一原発の、復水器の設計に携わった経験を持つ。
事故後、政府の招きで東電本店を訪れていた上原氏は、ある重大な事実に気がついたという。

福島原発の設計時には、『蒸気凝縮系機能』という、最後の砦となる冷却システムが存在していました
それはどうなったのかと東電に聞くと、『ない』というのです」
「・・・蒸気凝縮系機能は、電源がなくても作動する。
ある意味、震災などの非常時には、いちばん大事な役割を果たすはずだった冷却システムなのです」 (中略)

私は、5月18日のブログ「原発は地震にも、津波にも弱かった その2 非常冷却装置は壊れていた?」において、
地震直後に、1号機の「非常用復水器」(非常用炉心冷却装置)による炉心冷却ができなかった理由について、地震によるパイプ破損が原因ではないか、と述べた。
 
さらに、「2・3号機には、電気を必要としない蒸気タービン駆動の非常用炉心冷却装置があり、それぞれ約3日間と1.5日間、炉心に水を注入し続けたというのであるが、
それがなぜ機能しなくなり、炉心メルトダウンに至り、水素爆発を起こしたのか、その原因が明らかにされていない」ことについて疑問を述べた。
 
この「蒸気タービン駆動の非常用炉心冷却装置」なるものとは別に、「蒸気凝縮系機能という冷却システム」が備わっていたようなのであるが、
それが、福島第1原発の2~6号機では、約10億円かけて撤去されていたのである。
(第10回原子力安全委員会資料 H15・2 申請者 勝俣恒久東電社長 http://www.nsc.go.jp/anzen/shidai/genan2003/genan010/siryo6.htm
 
2006年に、京大原子核工学科出身の吉井英勝代議士(共産党)が、津波対策や全電源喪失対策について国会で質問している。
(3月31日ブログ「大津波は想定内であった その3:福島第1原発が津波に弱いことを、自民党政府は知っていた」)
ブログ「天漢日乗http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/03/2005-073-4f4d.html
 
さらに、2009年6月には、産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの岡村行信センター長は
869年の貞観津波や、1500年ころの東北から関東にかけての大地震をもとに、再びM8.4の地震(東電想定のM7.9の約6倍)と大津波が来る可能性を、経済産業省の専門家の会合で指摘している
(3月30日ブログ「大津波は想定内であった その1:巨大津波は予測されていた」)
 
2003年に「蒸気凝縮系機能」を外しながら、巨大津波対策や全電源喪失対策を何ら進めなかった、東電の責任は決定的に大きい。
 
全ての情報が開示され、東電の経営責任が明らかにされないまま、税金による東電救済はありえない。
自己責任原則が貫かれるべきである。

:引用終了


さらには、自民党の現総裁である、安倍晋三氏に関しても、過去に原発関係の対策を怠っていたことが判明しています。
当ブログでは何度か紹介しましたが、安倍晋三氏は、提言された原発事故予防対策を、拒否し続けていたのです!


☆自民党 新総裁の安倍晋三は、提言された原発事故予防対策を拒否し続けてきた男
URL http://hibi-zakkan.net/archives/18210279.html
引用:
2006年12月13日 衆議院議員 吉井英勝
巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など、原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a165256.htm

2006年12月22日 内閣総理大臣 安倍晋三
巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など、原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm

1-4
Q(吉井英勝):海外では、二重のバックアップ電源を喪失した事故もあるが、日本は大丈夫なのか?
A(安倍晋三):海外とは、原発の構造が違う。日本の原発で、同様の事態が発生するとは考えられない

1-6
Q(吉井英勝):冷却系が完全に沈黙した場合の、復旧シナリオは考えてあるのか?
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので、復旧シナリオは考えていない

1-7
Q(吉井英勝):冷却に失敗し、各燃料棒が焼損した場合の、復旧シナリオは考えてあるのか?
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので、復旧シナリオは考えていない。

2-1
Q(吉井英勝):原子炉が破壊し、放射性物質が拡散した場合の、被害予測や復旧シナリオは考えてあるのか?
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので、復旧シナリオは考えていない





:引用終了


民主党政権時代前の旧自民党政権時代を調べてみると、他にも、「世界最大級原発耐震テスト設備を売却」というような話も出てきます。


☆専門家の意見を無視し、世界最大級原発耐震テスト設備は小泉政権下で売却、スクラップにされていた
URL http://voicevoice.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-e098.html

引用:
(AERA 2011-4-4号より)

世界最大級の原発耐震テスト設備 売却され「スクラップ」に

もしかしたら、福島原発の事態は回避できたかもしれない。

そのカギを握る耐震テスト施設が小泉政権下、二束三文で売り払われていた。


瀬戸内海に面した、香川県の多度津町。
林立する緑色のクレー ンの向こう側に、上半分が青色、下半分が白色の、大きな倉庫のような建物がある。
建物の中では、所有者である今治造船(本社・愛媛県今治市)が、船体をつくっている。

だが実は、この施設の中には、6年前まで、原発事故を回避するための重要な研究設備があった

大地震と大津波に襲われて、コ ントロール不能に陥った福島第一原発1号機は、営業運転を始めてからちょうど40年が経過している。
2号機、3号機を経て、4号機が32年あまり。

日本には、40年、30年を経過した、「老朽原発」が多い。
この老朽原発の設備の、耐震性の「実地テスト」が、日本で唯一可能な施設
それが、1976年に発足した財団法人原子力試験工学センター(当時)の、多度津工学試験所だった

福島原発をはじめとする軽水炉は、もともと米国で開発、生産されてきた。
このため、地震の多い日本に導入するには、実際に大きい揺れを与えてみて、その安全性を確かめる装置が必要、と考えられた。

多度津工学試験所が完成したのは82年。
阪神大震災の7倍の、6千ガルの揺れを作り出せる、15メートル四方の世界最大級の巨大な振動台設備を備え、
この上に、原発のさまざまな設備部分を乗せて、地震と同様の振動でその耐震性を調べるのが目的で、最大重量1千トンまでの設備の振動テストができた。

最初のテストは、82年から83年にかけて、110万キロワッ ト級の加圧水型炉を、3・7分の1に縮尺した格納容器。
福島原発と同じ沸騰水型炉は、86年から87年にかけて、3・2分の1の縮尺の格納容器を実験している。 以後2004年まで、国から委託され、圧力容器本体や一次冷却設備、非常用ディーゼル発電機など、
原発の中の枢要な設備25個の実物と、同じ耐性の「模型」が、次々に振動台に載ってきた。


■「無駄遣い」と……。

ところが、05年、当時の小泉政権下で、施設を引き継いだ独立行政法人、原子力安全基盤機(JNES)が、
効率化と維持費の削減のため、試験所の閉鎖を決定し、建物・敷地ごと、競争入札で、今治造船に払い下げた
。 

建設費310億円に対し、売却価格は2億7700万円。 
造船会社に、振動台は使い道がない。 

同社はすぐに、スクラップ廃棄し、先述したように、建物は現在、船体の製造施設になっている。

今後は、コンピューター解析だけで、耐性分析は十分というのが閉鎖理由だったが、
05年に、文部科学省が、兵庫県三木市に、ほぼ同規模の振動台施設を建設したことも、背景にはあった。
小泉行革のさなか、「同じような施設は二つは不要。年間10億円の維持費が無駄遣いになる」というわけだ。

だが、多度津の振動台が原発専用なのに対し、文科省の振動台は、より一般的な建築物が対象。
最大加速度も、多度津より小さい。
本当に閉鎖していいのか。 

当時、原子力安全委員会の専門委員だった柴田碧・東大名誉教授は、
「この時期に試験所がなくなるのは、大きなマイナス」と訴える意見書を委員会に提出、国会でも取り上げられた。
日本共産党の吉井英勝議員が、05年10月から06年5月まで3回、衆議院内閣委員会や予算委員会の部会で質問した
 
:引用終了

このように、自民党は過去に、福島原発事故を発生させるような要因を作り出しているのです。
自民党は、「民主党が~」とばかり述べていますが、人のせいにする前に、税金を貰っているのだから、
全国民の前で、自分の責任や問題について、しっかりと説明をするべきだと私は思います。

そして、福島原発事故の放射能で被害を受けた全ての人たちは、全力で抗議をして、彼らに責任を取ってもらうべきです。

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音にたくす

2013年05月13日 | 音楽とわたし
今年はオーディションを受けることにした。
ACMA (The Amateur Classical Musicians Association)、通称アクマ (⇒会員のみんなは、日本語で悪魔と言うっちゅうのを知って大ウケ!) の定期コンサートのオーディション。

ある日の役員会議の場で突然、会長のアルベルトが、「定期コンサートはカーネギーでしようやないか!」と明るく宣言してからの5年間、
その言葉通りに、カーネギーの小ホールで2回、その実績が認められ使用許可が下りた中ホールで2回、そして去年は出演希望が殺到し、その希望に添うべく小ホールで2回と、
今や、カーネギーホールの常連となったACMAのコンサート。

一昨年の演奏会までは毎回欠かさず、オーディションを通過して、演奏させてもろてきた。
けれども、長い間ごまかしてきた左手の小指の関節の痛みが、そのコンサートのための練習と当日の演奏で頂点に達し、もうこれはいったん休まなあかんとあきらめた。
そやから、もう一年以上、レッスンの時に生徒のために弾く以外は、まともに演奏をせんままに過ごしてる。
そのことでかなり落ち込んだ時もあったけど、長い人生、焦ってもしゃあないと、自分をなだめなだめ時間が経った。
なだめついでに、ピアノ以外でできる音楽について、いろいろと考えてみた。
若かった時代に、何度も遭遇したピアノとの別れ。
それは、落下事故であったり、親の借金であったり、後遺症であったりした。
そのたんびに、それならばクラリネット、それも無理なら歌と、必死で勉強して身につけてったやん、あんた!と。
で、始めてみた。
けど、なんでかわからんのやけど、気持ちが続かん。
よけいに苦しくなる。

2011年の3月11日に、わたしの一日の過ごし方が一変した。
心の置き所も変わってしもた。
戸惑いと怒りと悔いと悲しみ、そして願いと祈り。
毎日毎日、パソコンの前に座る時間が増えて、家人を心配させ、淋しい思いをさせた。
もうそれが2年と2ヵ月も続いてる。
こんなとこから、あんたひとりが、なにを言うたかて、なにをしたかて、いったいそれがどうなるんや?と聞かれたら、わたしにはなんも答えられへん。
どうなって欲しいか、というビジョンは鮮明に持ってるけど、そしてそのために、毎日なんらかのメッセージを送り続けてるのやけど、
わたしひとりの伝える力など、おっきなクソ権力にとったら、握りつぶす必要すらないチビたるもんやもんね。
けどやめへん。
この世から卒業するそのちょっと前まで、気づいたこと、伝えたいことを、書いたり言うたりすること。
わたしというこの体と心は、今たまたまこの世界に生かせてもろてる。
また、自然という元々の姿に戻るまでの間に、生かせてもろてることへの感謝と仕事をちゃんとせなね。


ヤマハ音楽教室に3才から入って、幼児クラスからセコンダリークラス(当時はそう呼ばれてた)に移り、そこの先生に「相愛の子ども音楽教室の試験を受けてみたら?」と勧められた頃のある日、
アップライトピアノの楽譜立てに置かれた、音符が書き込まれてない五線譜ノートを見て、ああ、わたしも曲を創りたい!といきなりこみ上げてきた強烈な願望。
7才やった。
今からもう50年も前の、その時の景色、その時の心の熱さを、今でも覚えてる。
けれどもその時以来、途切れ途切れではあってもピアノを弾き続けてきた生活の中に、作曲という作業は加わらんかった。
それが突如、わたしの目の前に現れたのは、ヤマハ講師時代の特訓合宿での授業やった。
当時わたしが担当してた生徒の中に、特別によくできる子が数人いて、その子たちに見合う力を持つべきと、核講師という名目で全国から選ばれた講師が、ヤマハが費用を全額負担する形の合宿に参加した。
講師陣には、チェロ奏者の故ロストロポービッチ氏をはじめとする、錚々たるメンバーが揃い、厳しいけれども、滅多に受けることができない充実した内容の講義を受けさせてもろた。
その講義の中に作曲があった。
講師は中田直弘氏で、ごつごつした肌の、早口でパチパチと話す、ちょっと短気っぽい作曲家が目の前で紹介された。
「じゃ、今から二晩過ぎるまでに、曲を一曲造りなさい。以上!」
「え?」
唖然として固まってると、「何してるんだ!もう1分も過ぎてしまってる!何も音符を書かないで!」と怒鳴られ、慌てて椅子から立ち上がり、空っぽの五線譜を脇にピアノの前に走ってった。

アップライトの譜面台に置かれた五線譜を見た時、7才のわたしの、熱い願いが一気に戻ってきた。
書いて書いて、考えるよりも先に書いて、取り憑かれたみたいに書き続けているわたしのところに、中田氏が見回りに来た。
わたしの後ろに立って、しばらく譜読みをしていた彼が、「こりゃいい」と言うたかと思うといきなりわたしの右側に座り、「ピアノパートを弾きなさい」と言うて、バイオリンのパートを弾き出した。
びっくりして慌てて弾いたらつっかえた。
「自分の曲が弾けないのは何事か!」と怒鳴られた。
「1分あげるから練習しなさい」と言うて立ち上がり、せわしくたばこに火をつける中田氏。
まだ書きたてホヤホヤの、書いた音の確認もしてないままの楽譜を、焦りまくりながら練習した。
その後も、何回も怒鳴られ、呆れられしながらの短いレッスンが数回あって、三日後の晩の披露コンサートでの演奏曲として選ばれた。
パートナーを勤めてくれはったバイオリニストは、どっかのオーケストラから派遣された人で、あっという間にわたしの曲を見事に演奏してくれはった。
問題はピアノ。
中田氏のいらいらした姿が、今も目に浮かぶ。


その時の、初作の曲のテーマが、あの3.11以来、わたしの頭の中にたびたび浮かんでくるようになった。
それまでは、思い出したことすら思い出せへん。
日本への想い。日本への願い。日本への祈り。日本への怒り。日本への詫び。

この曲を、今のわたしがもういっぺん造り直そう。
そうして、今のわたしがもういっぺん演奏しよう。
そう決心した。

作曲は、作文と同じく、生みの苦しみを伴うけれども、積もり積もった想い、願い、祈り、怒り、悔いを、ひとつひとつの音にこめてみたい。
そしてそれを、もし、叶うことなら、カーネギーの舞台で表現してみたい。

オーディションは今月の25日。 
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「何してんだよ、日本!」

2013年05月12日 | 日本とわたし
わたしは、放射線の食品測定所の臨時職員です。

今日も、ある、ばあちゃんが来た。
ひと伝えに……。

とても、丁寧な、昔の方だよ。

白菜を大きく切って持ってきたんだ。

本当だったら、小さく切らなければいけないけど。

私らが、それを切っちゃダメなんで、
それを、容器に押しつぶして、
測ったよ。

ばあちゃんは、
三時間後、
頭を深々と頭を下げて、
測定所に入ってきたよ。

お世話になりますって言ってね、

幸いにも、その白菜は、
NDだった。

そう言った。

でも、
その意味がわからないんだ。

何度かここで、そのことは話したよ。

ベクレルもシーベルトも、
わからないんだ。

いつもの通りの言葉が、
口から、こぼれた……。

「食べても大丈夫ですか?」ってね。

γ線しか測れてないからさ、

ストロンチウムのこと、話そうと思ったけど、
話せんかったよ。

「おばあちゃん、低いよこの野菜!
セシウム、低い!」

ばあちゃんは、にっこり笑った。

「孫に食べさせても大丈夫ですか?」

答えられない……。

わからない……。

だから、放射線の話をした。

30分。

おそらく、意味、わかんないと思う。

でもさ、
そのばあちゃん、
泣いてたんだ。

一人暮らしで、
誰も何も教えてくれないって……。

テレビでは、大丈夫だって言ってるけど、
信用できなかったって。

でも、でも、わたしの話を聞いて、
ばあちゃん泣いてた。

こんなに、親切に教えてもらったこと無いって……。

手、合して……、
拝んでたよ。

私を……。

「長生きしなきゃ、おばあちゃん」

言葉がないよ。

泣いたよ、
ばあちゃんといっしょにさ。

何してんだよ、
<日本>



↑この言葉は、今朝、フェイスブックで見つけたものです。

ほんま、なにしてんねん日本!と、心の底の方から怒りがこみあげてきた。

『日本』という言葉の中にあるものがなんなんか、考えなあかんと思た。
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国民は、豊かになったと喜んでいるうちに戦争や大量虐殺に巻き込まれ、気付けば全て奪われていた!

2013年05月12日 | 日本とわたし


フランク・シュナイダー教授
精神科医・DGPPN会長

「誰が生きるか、誰が死ぬかを、決定したのです」

今回は社会現象を取り上げます。


やはり、日本社会は、今までで一番、危機的な状況を迎えていると言えます。
問題は、誰も、その真の危険性について、全く気づいていない
ということです。

・憲法改正の動き
・精神病院への強制入院をしやすくする法案の提出
・ストーカー予備軍を精神科につなげる警察の動き
・TPP
・北朝鮮ミサイルの危機を煽る報道
・鳥インフルエンザ流行のパニック的報道


これらが同時に起きていることには、明確な理由があります。

少し考えてみましょう。
ヒトラーは最初から嫌われていたのではありません
世界恐慌で不安に駆られていたドイツ国民は、力強いナチス政府に希望を見出し、支持したのです。 
国民は豊かになったと喜んでいるうちに、戦争や大量虐殺に巻き込まれ、気付けば自由や権利、安全を全て奪われていました
ご存知の通り、ナチスをあそこまで破壊的に、そして巨大にすることができたのも、精神医学があったからこそなのです。 
ドイツ精神医学会は、そのことを正式に認め謝罪しているほどに、これは真実なのです。

不安⇒強いリーダーの渇望⇒見せ掛けの敵対の捏造⇒自らの権利や自由の抑制の容認⇒追従⇒隷属(⇔支配) 

このメカニズムの中に入り込んでいます。

連休明けにも、史上最悪の法案 (精神保健福祉法=・精神病院への強制入院をしやすくする法案) が、国会で可決されようとしています

これから日本に起ころうとしていることについて、真剣に考え、行動していかなくてはなりません。

精神医学というものを通してみてみると、社会の衰退や、文明の破壊の原因が、はっきりと見えてきます。

連休中ですが、 自らの生存のために、日本の発展のために、人類規模の繁栄のために、今何が求められていて、何をすべきで、どうなるべきか、
考え行動へと移すとき
ではないでしょうか。
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『母の日』

2013年05月12日 | 家族とわたし
数日前の木曜日、長男くんからメールが送られてきた。
「土曜日、昼でも夜でも、マンハッタンに出てけえへん?ごちそうしたいから」

わたしの誕生日は先月で、その時に贈り物を渡し損ねたんを気にしてる彼は、母の日で帳尻を合わせたい、ちゅうところか。
そんなん気にせんでもええのに、とか言いつつも、嬉しゅうて顔がニタニタする。

去年の誕生日に、家族そろて食事に行った時、一枚のカードをテーブルの上に置いた長男くん。
それをわたしの方にスーッと押し出し、「これ、プレゼント」と一言。
見てみると、めっちゃ大きな(はっきり言うて、わたし自身の親にはいっぺんとしてあげたことがないような)額の数字が刻まれてるギフトカードにびっくり仰天!
「あんた、なに考えてんの?」と、ありがとうの前に出てしもた言葉に、「ええから、取っといて」と素っ気なく言う息子。

なんだかなあ……と考え込んでしまう。
わたしは、成人してからも、娘として、親になんか嬉しいことしてあげられたやろかと。

母の日がやってくるたんびに、多分おんなじようなことを書いてしまう。
そやから、それを覚えてはる人は、申し訳ないけど、読み飛ばしといてください。

弟とわたしが、まだ人並み以上の暮らしを営む両親の元で暮らしてた時の『母の日』は、テレビや雑誌の世界の『母の日』と同じく、
お小遣いを寄せ合うて、気に入るやろと思う物を探し回り、お店の人が、「親孝行なお子たちやなあ」などとこそばい言葉をかけながら丁寧に包んでくれた品を、
すっかりバレバレやのに知らんふりする母に、「これ、母の日おめでとうのプレゼント」という言葉を、弟と口を揃えて言う練習したりして渡してた。

母が家を追い出された半年後に、新しい家族となった義母と義弟と義妹の3人。
なんでわたしは、あれほどに、仲良くやっていきたいと願いながら、どうしても心を開くことができんかったんか。
なんでこんなにも、楽しかったこともあったはずやのに、イヤな思いをしたことばっかりが、思い出として残ってしもてるのか。
憎みたかったんか。憎んだ方が楽やったからか。今でもふと、なんでなんやろと思う。
関係がまだ良かった最初の頃の『母の日』が、どんなやったか思い出せへん。
そやのに、関係がこじれた頃の、渡したプレゼントを目の前でゴミ箱に捨てられた『母の日』ばっかり思い出す。
それ以降も、わたしはしつっこくプレゼントを渡し、多分一回だけ、義母は「ありがとう」と言うてくれた。
弟に助けられて、あの家から夜逃げした夜中までの、たった6回の、いや、6回もあった『母の日』の思い出。

いろいろあり過ぎて『母の日』どころやなかった、と言い訳できるのかもしれんけど、
ほんで、母自身の方も、彼女が抱き続けた罪の意識が災いして、いくら子どものわたしらが、そんなこと気にしてへんと言うても受け入れんかったこともあって、
弟とわたし(特に弟)は、長い長い年月の間、『母の日』を、幼かった頃のように、祝うことができんかった。
そやから今みたいに、無邪気に、「『母の日』おめでとう!この世に産んでくれてありがとう!」などと言うて祝えるのは、奇跡のように思えたりする。

長男くんは高給取りになり、こういうお祝い事に大きな額のお金を使う。
そしてポロッと「おかあさんは、(僕ぐらいの年の時、僕ぐらいの程度の)お祝いしてたん?」などと聞いてくる。
「いや、してへん。できひんかった」と答えながら、なんでできんかったかを、多分彼は、想像することも理解することもできんのやろなと思う。
それと同時に、祝いとうなかったという複雑な思いは、もっともっと伝わりにくいんやろと。

そう考えた時のうすら淋しい思い。

『母の日』は、おかんとしてのわたしには、そやからちょびっとだけ複雑な日。
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憲法審査会をサボりまくる議員、トンデモ発言する議員、せやのに改憲改憲て……自民党ってほんまに……

2013年05月11日 | 日本とわたし
ブログを通じて知り合った、わたしの憲法の先生、じゅんこさん。
ここ数日は、憲法憲法と、憲法のことばかり記事に書いてるけど、その心の奥には、高線量の地域から避難できずにいる子どもらのこと、
汚染されたゴミを燃やし続けて、今ではそのことがニュースにもならへん毎日の中で、放射能汚染がどんどんひどなってる大きな都市のこと、
地震と津波に襲われて、命からがら逃げ出したまんま、原発事故の影響で、今だに暮らしの先行きも見えんと避難生活を強いられてる人たちのこと、
TPPのこと、モンサントのこと、沖縄の基地のこと、いや、もっともっと身近でも起こってる、なんでやねんっ!と腹立つこと、などなどが渦巻いてる。

それでもわたしの体と脳ミソは、この世でたったひとつしかないから、なにもかもに集中することはできひん。
悔しいけど、これだけはどうしようもない。
おまけにわたしは、独りで生きてるのでもなく、仕事したり家の用事したり、旦那と一緒に過ごすことも大事な時間。

などなど、別に言い訳するつもりではないのやけども、それならば、今わたしが一番声高に訴えなあかんことは何か、と考えた。
そしたら、憲法ちゃうか、という答が、自分の中から返ってきた。

今の、実際あるかないかも意識してなかった、まるで空気のような存在やった憲法。
なんでここまで意識してなかったかというと、意識せんでもええような、心地良い環境やったからや。
空気みたいな、水みたいな。
そんなこと言うたら、お水が無うて死んでいってる子らに、申し訳が無さ過ぎるのやけど、実際日本やアメリカではそうやった。
けど、そのお水が、なんかのかげんで、急に薄茶色に濁ったり、誰かが悪さして、危ないもんが加えられたりしたらどないする?
なんとかして、元の、飲んでも安全な水に戻そうと必死になるやんね。
けど、どないしてももう、元には戻らんようになってしまうこともある。
今の放射能汚染みたいに。

憲法は、人の皮かぶった権力っちゅうバケモノらを、閉じ込めてくれてる頑丈な檻。
その檻の鍵が96条。
バケモノどもは、何十年もの間、その鍵をなんとかして奪おうと、悪知恵を働かせては失敗してきた。
バケモノをいったん外に出してしもたらどないなるか。
バケモノ天国や。
ほんで、頑丈な檻に閉じ込められるのは、わたしら市民。
主権をわらしら市民から国に戻す。
国こそが、バケモノの本体やからね。
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義(戦争放棄)、象徴天皇制。
当時の首相、幣原喜重郎氏によって生まれた平和憲法。
バケモノらにはおもろないねん、そのいちいちが。
そやから、なんとしても檻から出たい。
そんな輩に、鍵渡してもええん?ほんまにええん?

↓以下、じゅんこさんが教えてくれはったことです。

「改憲をめざす第二次安倍政権下で、憲法審査会はすでに参院で二回、衆院では第一章からのレビューで五回開催され、四月は毎週開催になった。」ということで、
今、改憲に向かって、憲法審査会が開催されています。

憲法審査会を傍聴している市民の「憲法審査会傍聴備忘録」http://web-saiyuki.net/kenpou/というブログですが、憲法審査会の委員でさえこの体たらくです。

*ということで、ブログ主まうみの独断で、そのブログの中の記事の一部を紹介します。

4月25日は第8章「地方自治」で議論 空席ばかりが目立つ自民党委員席
Posted by: 高田健 2013年4月25日 13:48衆議院

本日は、市民連絡会からは、19名の仲間で傍聴した。
始まる前に、委員会室に入ってきた共産党の笠井さんに、「2日は、やりそうですか?」ときいたら、「いやいや、やはり2日は開催できませんよ」という話だった。
連休中であり、また参院選も次第に迫っているので、議員たちとしてはやりたくないのがホンネだろう。
従来、自民党は、来週2日に、9章、10章、11章を一括でやりたいと言っていたが、
問題の96条を含む9章を、それでなくとも後述するように、自民党の出席率が悪いのに、より悪くなると予想される連休中に強行することは、多くの反対でできなかったのですね。

25日、衆院憲法審査会は、第8章「地方自治」のレビュー。
いつものように、冒頭に説明聴取を受けた衆院法制局の橘幸信企画調整部長は、
最初に、明治憲法では軽視された地方自治が、現行憲法では重視されたことの確認をしたことは、大事なことであった。
この意義を、後に、みんなの党の畠中光成委員、共産党の笠井亮委員も、発言冒頭で確認したのは良かった。
橘氏は、「道州制」問題を、第8章最大の論点と言って過言でない、と発言したが、私はちょっと勇み足で、まさに「過言」のような気がするがどうだろう。

この日の議論は、憲法問題の議論でいつも焦点となる、「地方自治の本旨」にかかわる論点、
道州制、条例制定権、地方財政、定住外国人の参政権、特別法の住民投票など、論ずべき点は少なくなかったが、
各党代表の一通りの意見表明の後は、全体として論議は低調で、12時終了の予定が11時頃には議論が「尽きて」、はやばやと終了した。

いつも書くことだが、自民党席の空きはひどく、開始1時間にもなると15人(委員数31名)ほどになり、75分頃には13人くらいになってしまった。
共産党の笠井委員が、
「きょうの審査会も、設定についてはいろいろ日程の調整の議論があった。
いま、ほかの委員会とダブっている状況ではない
一番開催しようと言われている自民党が、相当空席がある。
自民党の幹事の方も、お二人(自民党の幹事は6名)しか座っていらっしゃらない。

こういう状況で、毎回、この大事な憲法の問題について議論をやるというのがいいのか。
無理に日程設定するのをやめた方がいいと思う」と指摘した。
会長の保利氏と自民党の船田筆頭幹事は、顔を見合わせて、苦笑いした。
傍聴席からはブーイングも出たとか、出なかったとか。

この間、改憲派からは繰り返し語られてきたことだが、
この日も、自民党の土屋正忠委員や船田元幹事、維新の会の松浪健太委員、公明党の大口善徳委員、生活の党の畑浩治委員などが相次いで、
第8章は4条しかなく簡素すぎる」「地方自治の本旨とはわかりにくい」などなどと主張した。
しかし、こういうのを、「ためにする意見」というのではないか。
92条から95条にいたるこの章をあれこれいうが、「地方自治の本旨」とは、非常に重要な概念であって、
「住民自治と団体自治を、車の両輪とした意味」であり、その内容は従来から明確にされており、改憲の口実にはならない
共産党の笠井委員が、
規定が抽象的だから、地方自治がうまくいかないという声は地方の現場から聞いたことがない」と反論したのは全く同感だ。
地方自治と関連して、明文改憲による道州制導入を、維新の会やみんなの党が主張し、自民党や公明党は、改憲なしの道州制導入を主張したが、
これは、地方自治を充実することにはつながらず、議論が必要だ。
笠井委員だけが指摘したことだが、今回の東日本大震災と東電福島第一原発の事故の中で、合併による地方自治体の広域化と、新自由主義的な人員削減の結果、
現場で被災者救済に重大な支障がでた経験を顧みても、単純に道州制を賛美することなどはできない
はずだ。

また、定住外国人の地方参政権問題では、自民、維新、みんなの党が反対した。
この日の審査会の最後に、自民党の衛藤征志郎委員がトンデモ発言をして、危機感を煽ろうとしたので紹介しておく。

例えば、与那国島。
ここは、議員の数はたしか6人か7人で、150票ぐらいで当選と。
そして、先般私が行ったときには、自衛隊の、いわゆるレーダー移動基地をつくる問題が、微妙になっている。
国境の島で、日本国籍を持っていない者が150人でも200人でも移住して、そうしたら議会の、いわゆる賛成、反対はひっくり返っちゃう。
こういうことがちょっとあります
」などなど。
(高田健)



↓ここからは再び、じゅんこさんの発言。

第147回国会 参議院憲法調査会 第7号http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/keika_g/147_07g.html#wrap

これは、2000年の5月2日に開会された、参議院憲法調査会(まだ審査会になる前)の議事録です。
超長文で、遅読のわたしは1時間くらいかかってしまいましたが、参考人に、マッカーサー草案を起草した、GHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんと、リチャード・A・プール氏が出席しています。

この中で、笹野貞子議員が、
続きまして、憲法の学問的な理解度なんですが、シロタさんが憲法をつくったときに日本の社会は、大学あるいは高等学校を含めまして、このすばらしい憲法をみんな学習いたしました
ところが、昭和三十年ぐらいから、この憲法を徐々に教えなくなりました。
特に女子大では、憲法は全部選択になりました。
そして、男性の大学でも、法学部を除いて、憲法は選択制に変わっていきました。
現状ではほとんど、女子大学では、憲法を知らない学生がたくさん出てまいりました。
こんな女性の権利を保障した憲法を、今知らないで、日本の国民は改正云々を言っているということは、大変に私は不思議だと思います。
 
この、女性の大学で憲法を全部外し、選択にしたという現状、また、男性の大学でも、憲法を学ぶ機会が非常に少なくなったという、こういう現状に対しまして、シロタさんの御見解を伺いたいと思います。
 
これは、文部省の方針でやっていることですが、私は、大変危険なことだというふうに思っております
。」と語っています。

現在もいる自民党議員の名前もありますが、13年前にしっかり勉強したはずなのに、何も活かしきれていないことがよくわかります。
世耕弘成議員は、今では安倍内閣の官房副長官になっていて、電通を使ってステマを仕掛けてるチーム世耕、として有名ですね。
あとは、野党議員がどれくらい憲法を知ってるかが問題ですが、護憲の社民党は弱小政党になってしまい、審査会に委員を送れないから、しっかり理解してるのは共産党議員くらいでしょう。
生活の党も、96条改憲にははっきり反対してるから救われますが。
憲法教育をしてこなかったのは、怨念のように改憲を望んでる自民党が、長年政権を握ってきたから当然ですよね。
不勉強な国会議員も、その術中にしっかり嵌ってしまってますね。
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万歩さんぽ

2013年05月10日 | ひとりごと
なんやかんやと理由をつけて、パソコンの前に居座るわたしを、なんとかして外に出したい、運動させたい。
これが、我が家の厚生健康局長官の旦那にはイライラのもと。
今日もひとりで長い散歩に出かけてった彼は、戻ってくるなり、携帯で撮った写真をわたしに見せに来た。
「このすごさは、ぜひ、まうみのカメラで撮って欲しい」

おぉ~、なんちゅう殺し文句!
昨日、こわごわ歩いてみた、雨上がりの短い散歩で、ちょいと自信をつけたわたし。
しゃ~ないな、いっちょ、行ってみたろやないの。

道順を聞いてみた。
長っ!!

では出発。
うちの前の坂道をぐんぐん上る。

どこのおうちにも一本はある花水木。ここには連ちゃん。


ツツジは真っ白がいっちゃん好き!


ロビンちゃん。


おっきなコブがある、うちのカエデ爺さんと同い年ぐらいの木。


こちらは、おっきな穴蔵がある、これまたうちのカエデ爺さんと同い年ぐらいの木。


桜のじゅうたんが芝生にも。


この紅葉の巨大さと渋さが伝えられんのが残念っ!


ぐんぐん坂道の上ってったところのおうちに、旦那が言うてたツツジ発見!
これまた残念なことに、この大きさと、奥の濃い紫の色が伝えられへん。およよ。


などとのんきにブラブラ歩いてたら、いつまで経っても戻ってこん部下を心配してか、ママチャリに乗った長官がやって来た。


そんなこともおかまいなしに、なおもブラブラするわたし。
信号待ち。


おぉ~、懐かしいなケムシくん!
桜のトンネルが上から下までずっと続く、坂道のてっぺんに住んでた子ども時代。
花の終わりになると必ず、このケムシくんがポトポト落ちてきて、膝やら腕やらをチクッと刺した。


ビーチツリーという名前の、枝がぶわ~っと横に広がるでっかい木に、タイヤのブランコ♪


たんぽぽとハチ。


車がついついスピードを出してしまう通りには、時々こんな、スピード落とさんかいオラオラ~!バンプがある。


車で過ぎるとめちゃ短いように思うけど、歩きながら見てみるとけっこう幅広っ!


長官はとうとうあきれて帰ってしもた。
あ、きれいな藤棚と牡丹の花が♪


さらに絨毯がのびてた。


ここのおうちにもぎっしり。


あ~よう歩いた!
肋骨も痛まんかった。
お陽さんが、暖かいのん通り越して暑かった。
これも今日だけらしい。
また明日から、夜は4℃とかになるらしい……5月やというのに。
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病み上がりの長雨に思うこと

2013年05月10日 | ひとりごと
今回、丸三日間襲われた肋骨のあたりの痛みは大したもので、しかも息がちゃんと吸い込めず、
ちょっとした動きにも、三秒ほどぐうーっと掴まれるような強烈な痛みの発作があったので、さすがに滅入ったし、深刻な病気の心配もした。
三日目の夜、とうとう横になることもできんようになり、座ったまんま寝るんかと覚悟した。
けれどもかというて、椅子の背にもたれることもできんのやから、背筋を伸ばしたまんまどうやって寝るかと思案してるうちに、痛みの発作が連続して起こるようになり、
さすがのわたしも涙目になって、それを見た旦那が、夜中近くやというのに、近所のCVSに行って、強力な睡眠と鎮痛の効き目がある薬を買うてきてくれた。

体には、旦那が貼ってくれた短い鍼とマグネット。
サロンパスやシップ薬は、貼ったとたんに肌が荒れて湿疹が出るので没。

とにかく疲れたし、痛みが続いて気持ちが滅入ってたから、普段は滅多に口にせん薬を、ありがたくいただいた。

こわいくらいに痛みが消えてって、まずは横になり、恐々と仰向けになってみても発作も出ず、気がついたら眠ってた。

週明けの月曜日、薬の影響からか、どないしても眠い。
というか、起きてる感じがせえへん。
それでもやっぱり日本のことが気になって、まぶたを指で上に引っ張り上げながら、調べものをしたりした。

雨がずっと続いてた。
外に出て散歩する、というとこまでまだ勇気が出ず、家の中で少しずつ、元の自分に戻してった。
昨日の木曜日に、やっとやっと雨が上がり、散歩に行ってた旦那が、「まうみ、この桜は絶対に自分の目で見なあかん」とメールが送られてきて……。

ぐわぁ~ん……野菜さんの芽が……。


もひとつぐわぁ~ん……桃子ちゃんの葉っぱが……。


気を取り直して、出かけてみる。


桜の終わりに満開を迎える、日本花水木。


ええとこれは……。


お隣やというのに、こんな可憐な花が咲いてるとは知らず……。


旦那が言うてた場所とはちゃうけど、ここにも桜の絨毯が。


あ~美しい……。


あ、ここにも!


旦那が絶対に見なあかん言うてたとこに到着。


牡丹桜の花びらの数言うたら……。


花の色をちゃんと出すのは難しい……。


お水をたっぷり飲んだ春のみどり。



いっつも、とことん困ったことが起こった時に思うこと。

わたしがどんな思いしてても、どんなことに雁字搦めになってても、自然はいつもとかわりなく、時間は知らんぷりして過ぎていく。

母が家から出てった時も、上階から落ちて大けがした時も、後遺症で医者からあと一年とか言われた時も、やくざに追いかけ回されてた時も、危うく胎児もろとも死にかけた時も、離婚を決心したことで人を悲しませる自分を責めて毎晩吐いた時も、息子らが事故や病気で重篤に陥った時も、貧乏で物乞いしてた時も、
いつかて、朝になると、太陽は当たり前のように昇り、また沈んでった。

自然は、人間のことなんかおかまいなしに、あるがままに、無常に、すぐそこに存在する。

その、あまりにもあっけらかんとした、情け容赦のないきっぱりさが、弱りきってる時には腹立たしい。
自分だけ見捨てられたような気分にもなる。
けども、結局それもこれもみな、わたしの心の移ろいが生んだもので、元気さえ戻ってきたらまた、こんなふうに、ああきれい!などと言うて眺められるようになる。

感情のない、ただあるがままの自然に、心がいやされる。
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